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2015年08月03日23:07

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彼らの声を聞け(29)

 百鬼園先生思えらく、恒債無ければ、恒心なからん。お金に窮して、他人に頭を下げ、越し難き閾を跨ぎ、いやな顔をする相手に枉げてもと頼み込んで、やっと所要の借金をする。或は所要の半分しか貸してくれなくても不足らしい顔をすれば、引込めるかも知れないから、大いに有り難く拝借し、全額に相当する感謝を致して、引下がる。何と云う心的鍛錬、何と云う天の与え給いし卓越せる道徳的伏線だろう。宜なる哉、月月の出入りを細かく勘定し、余裕とてはなけれども、憚り乍ら借金は致しませぬ事を自慢している手合に君子はいないのである。君子たらんとするもこの手合には、修養の機縁が恵まれていないのである。お金を持つという事は、その人間を卑小にし、排他的ならしめ、また独善的にする。厭うべきはお金である。お金があっては、道を修め、徳を養うことは出来ない。就中やっと、どうにか間に合うと云う程度に、お金を所有するという事が、最も恐ろしい。そう云うお金は、いちばん身に沁みて有り難いから、従って、お金の力が一倍強く、故に一層修養の妨げとなる。しかし、そう云うお金の力と云うものは、実は、真実の力ではないのである。人はよく、お金の有り難味と云う事を申すけれど、お金の有り難味の、その本来の妙諦は借金したお金の中にのみ存するのである。汗水たらして儲けたお金と云うのも、ただそれだけでは、お金は粗である。自分が汗水たらして、儲からず、乃ち他人の汗水たらして儲けたお金を借金する。その時、始めて、お金の有り難味に味到する。だから願わくは、同じ借金するにしても、お金持からではなく、仲間の貧乏人から拝借したいものである。なお慾を申せば、その貧乏仲間から借りてきた仲間から、更にその中を貸して貰うと云う所に即ち借金の極致は存するのである。
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