金山巨石群の古代太陽暦
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コミュニティ「縄文族ネットワーク [太陽の道]」と「飛騨*美濃*尾張∞火と水の調和」のトピックから、コミュとして独立してみました。
まだ実験中ですが、mixiページ「金山巨石群」やFacebookページ「金山巨石群」とも連携していく予定です。
岐阜県下呂市金山町に、「金山巨石群」と呼ばれる日本を代表する遺跡があります。
巨石の石組みは調査により、 イギリスのストーンヘンジのように太陽暦として機能するように設計され建設されたと推定されています。
世界中には他にも、地平線での日の出・日の入りを観測したと思われる古代巨石建造物が数多くあります。
金山町の巨石群は山中にあるため、地平線上で太陽を観測することはできません。
しかし太陽が通る道筋、つまり太陽軌跡の観測(例えば山から昇る太陽の光が巨石間のどの位置に射込むかの把握)によって、夏至や冬至、春分や秋分など1年の節目の日を知ることができます。
金山町の3ヶ所にある巨石群(岩屋岩蔭遺跡巨石群、線刻石のある巨石群、東の山巨石群)は、いずれもこのような節目の日を読み取ることによって、1年間の周期を知ることができます。
特定の期間に日の光が、巨石と巨石の隙間や空洞へ射込む、またはその頃だけは射込まないといった仕組みになっています。
◆縄文時代の気候と中部山岳地域の遺跡について
縄文時代早期前半(9000年前頃)
年平均気温が現在より2-3℃低い状態
晩氷期が去った日本列島に温帯落葉樹林が拡大する
縄文時代前期(6000年前頃)
年平均気温が現在より2-3℃高い状態
照葉樹林が拡大し、温帯落葉樹林は後退
そして5000〜4000年前、西日本の照葉樹林帯の遺跡数は減少するのに対して、同じ時期、中部山岳の八ヶ岳のような地域では遺跡が一挙に4倍近く増加。
照葉樹林を捨てて、ナラ・クリ林が多い地方へ人口が移動。
この時代の中部山岳の遺跡数の増加率は、自然増加とは考えられないほど高い。
そして縄文中期を通して気温は少しずつ下がっていく。
それが急激に落ち込むのは4100年ほど前、エジプトではナイル川の水位が低下し古王国時代が終焉する時期にあたる。
中部山岳でも急激な気候変動に耐えることができず、遺跡数は激減し、その一部は西日本に移動したと考えられています。
◆エジプト遺跡との共通性
エジプト遺跡にも、金山巨石群と同じように遺跡内に射し込む太陽光で冬至(夏至)をはさんだ約120日間を知ることができます。
◆ストーンヘンジ(紀元前2000年頃)と天体運行について
恒星が徐々にその位置を変えるのに対して、黄道の傾き約24度は、ほぼ一定している。
つまり、太陽の南北の動きも年々歳々、何千年経過しようと変化しない。
4000余年も前に建てられて、主軸が日出の北限の方向を示すように定められたストーンヘンジが、今もって北限の方向を示すのはこのためです。
実は黄道の傾きもゆっくりとではあるが変化しているのに、太陽が今でもストーンヘンジと整列線をなすのは、ヒール・ストーンがちょうど具合のいい方向にかしぐ傾向を見せているためです。
◆巨石群と北極星との関係
世界中には星の動きによって1年を測ったと言われる例がいくつかあります。
古代バビロニアは太陰太陽暦を用いながら春分の頃のカペラ(ぎょしゃ座のα星)が現れる時期によって1年の長さを測っていました。
また、エジプトでは古王国時代(B.C.2900〜B.C.2200頃)、シリウス(おおいぬ座のα星)が、太陽が東から昇る直前に現れる時期を正確に測ることによって、1年が365.25日であることまでも知っていました。
現在の北極星はポラリス(こぐま座のα星)ですが、地球の歳差運動により北極星は時代と共に変わっていきます。
コンピュータのシミュレーションで古代に遡ってみたところ、紀元前2800年頃にトゥバーン(りゅう座のα星)が北極星の位置にありました。
日本では縄文時代中期です。
古代エジプトでは、ギザのピラミッド内の通気孔がこのトゥバーンの位置を定めていたことはよく知られています。
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