僕は昨今あることを思いついた。
僕がするべきことは雑誌の創刊であると。
これは安直なアイデアのようでありながら、実は長年の僕の
行動をまとめあげるほどの説得力を持った結論であったのだ。
実は僕は、闇雲にNYでパンクバンドを結成し叫びまくっていたわけではなかった。ロンドンで演劇にのめり込んで不条理な小説を書き始めたわけでもなかったのだ。全てがこの結論に結びつくと納得がいく。
バンド時代の叫びは反体制へのエネルギーであり
それがより客観的にそして表現力を増して小説という
形に変化を遂げたのだ。
そして、雑誌創刊の考えは着想とともに一気に加速度で進み始めると、一気に暴走を始めもう止まらない。
ああ、アンチテーゼとはこんなに魅力的なものだったのか。
今僕は実感する。我々若者のエネルギーは健康的にそこに費やされる
べきだ。そこでこそクリエーターはより独創的で斬新な作品を生み出し、労働者は不揃いで獰猛な雄叫びを挙げる快感を味わうことが
できるのだ。
今さら、団塊世代のゾンビのようなしぶとさに苦しめられている
場合ではない。彼らの価値観に沿っていたら何も創造できない。
エネルギーの無駄というやつだ。引きこもっていたっていい。社会に出られなくたってかまわない。ただ、臆病から一歩踏み出そうという気構えは必要だ。その手段を提示できるのは奴らではない。我々自身である。人に頼るのはもうやめにしよう。誰かの提示を待つのは卑怯者だ。民主主義とはそうではない。いや、この際民主主義なんてどうだっていい。今の我々は団塊世代に対する明確なアンチテーゼを提示し、彼らを安らかに引退させてあげることが僕らと彼らと日本のためでもある。このままずるずるといけば、怠惰な親子関係のように永遠面向って喧嘩することもなく、後味の悪い嫌悪感で別れの時を迎えてしまうだろう。
僕は自分を愛するからこそ、家族を愛し、日本という国を愛する。だからこそ、片思いの恋人と同じで一度気にかかり始めたら、日本という国についても妄想やら思案が尽きることはない。片思いの思い入れは質の悪いものかもしれないが、執念深く一途である。そして、それは苦悩を伴いながらも新芽の清々しさと躍動感を僕に予感させてくれるのだ。
新芽は土から顔を出して初めて外気の寒さにおののくものなのかもしれない。けれど、それは顔を出してみなければわからない。僕はその清々しさと躍動感に賭けてみたい。それには、雑誌の創刊が最もそれに近い手段であった。
なぜにそんな面倒くさいことをしないといけないのか。
面倒くさいと思うなら、参加してくれるな。
そんなことしたって、無理ではないか?
物事を無理から考える人は、参加してくれるな。
じゃ、具体的にどうすればいいのか教えてくれよ。
考えることを自ら放棄するようなやつは、参加してくれるな。
要するに解決だの、答えだのはない世界だ。
僕は反体制の魅力に取り憑かれた病人みたいなものだ。
病が治れば、ここを去る。
困ったときには