このコミュは『醍醐寺』をテーマにしています。
・貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子であり
修験道中興の祖『理源大師 聖宝』により開基された名刹。
・当山派修験道の総本山『三宝院』を擁する真言宗醍醐派総本山。
・秀吉の「醍醐の花見」でも知られる観光名所でもあります。
☆醍醐寺ホームページ☆ http://
皆様、どうぞ、気軽に御参加ください。
但し、下記の方の登録をお断りする場合(度を越えた場合)が
ありますので、ご承知ください。
1)特定教団への勧誘を目的とする方やその行為を
された方
(仏教各派や異宗教の方の参加も歓迎致します )
2)誹謗中傷など、荒らし行為や苦情などが寄せられる方
(宗教宗派についての批判も度を超えないように
お願い致します)
3)秘密事相の公開(破戒)を目的とされる方
4)醍醐寺の嫌いな方
☆はじめましてのご挨拶はコチラへお願い致します。
http://
☆「教えてください」等の質問や雑談はコチラへお願い致します。
http://
☆トピの乱立を避ける為、「教えて下さい」及びそれに
類したトピ・ 勧誘宣伝等のトピ・ コミュの内容とは
無関係なトピ・あるいは長期間コメントの無いトピ・
その他、管理人が不適切と判断したものは、予告なく
削除させて頂く場合がありますので、 悪しからず
ご了解願います。
詳しくは↓下記↓をご参照下さい。
http://
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
醍醐寺(だいごじ)は、京都府京都市伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派総本山の寺院。山号を醍醐山(深雪山とも)と称する。本尊は薬師如来、開基(創立者)は理源大師聖宝(しょうぼう)である。古都京都の文化財の一部として世界遺産に登録されている。伏見区東方に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内をもつ寺院である。豊臣秀吉による「醍醐の花見」の行われた地としても知られる。
【歴史】
醍醐寺の創建は貞観16年(874年)、空海の孫弟子にあたる理源大師聖宝が准胝観音(じゅんていかんのん)並びに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と名付けた。醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯を中心に、多くの修験者の霊場として発展した後(この場所を「上醍醐」と呼称する)、醍醐天皇は醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を掛け、その圧倒的な財力によって醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が発展することになる。その後応仁の乱など相次ぐ戦争で下醍醐は荒廃し、五重塔しか残らないありさまであった。しかし豊臣秀吉による「醍醐の花見」をきっかけに紀州などからの寺院建築の移築や三宝院の建設などにより今日見るような姿となっている。1939年夏、上醍醐を襲った山火事で短時間の間に、経蔵、清滝宮本殿、西国三十三所第11番札所の准胝堂(じゅんていどう)が焼失した。1995年1月17日に発生した兵庫県南部地震の影響で、五重塔、金堂などの漆喰がはがれた。2008年8月24日の火災により、上醍醐の准胝堂(1968年再建)がほぼ全焼した。
【伽藍】
上醍醐と下醍醐は険しい山道で隔てられ、徒歩で1時間は要する。
『下醍醐』
本尊薬師如来を安置する「金堂」、「三宝院」などを中心に、上醍醐とは対照的に絢爛な大伽藍が広がる。応仁の乱によってほぼ全焼し、その後も幾度の火災によって焼失・再建を繰り返しているが、護摩道場前に建つ五重塔は創建当時のまま現在に残る。また五重塔内部に描かれた壁画も国宝に指定されており、中でも空海の肖像画は現存する最古のものである。
金堂(国宝):
入母屋造本瓦葺き。正面7間、側面5間。平安時代後期建立。豊臣秀吉の発願により紀州から移築したもので、慶長3年(1598年)から移築を開始し、秀吉没後の慶長5年(1600年)に落慶している。『紀伊名所図会』等によると、当初は紀州湯浅(和歌山県湯浅町)の満願寺(12世紀後半に建立された後白河法皇の御願寺)本堂であったという。部材には平安時代のものが残るが、堂が湯浅にあった鎌倉時代に改修を受けており、移築時の桃山時代の手法も混在する。立ちの高い入母屋屋根は近世風で、移築時の改修である。内部には本尊薬師三尊像(重要文化財)を安置する。堂内は内陣と外陣(礼堂)の境に結界や間仕切りがなく、一体の空間とする点に特色がある。
五重塔(国宝):
天暦5年(951年)建立。承平元年(931年)、その前年に亡くなった醍醐天皇の冥福を祈るために第三皇子の代明親王(よしあきらしんのう)が発願し、穏子皇太后の令旨で建立が計画された。しかし、代明親王の死去(937年)などがあって工事は停滞し、完成したのは発願の20年後であった。総高38メートル。うち相輪部が12.8メートルで、全体の3割以上を占める。屋根の逓減率が大きく[1]、塔身の立ちが低いため、後世の塔のような細長いプロポーションにはならない。創建以来たびたび修理を経ているが、中でも天正13年(1585年)の地震では一部の軒が垂れ下がるなどの甚大な被害を受け、豊臣秀吉の援助で慶長3年(1597年)に修理が完成している。昭和25年(1950年)の台風でも被害を受け、同35年(1960年)に修理が完成した。京都に残る数少ない平安時代建築として貴重であるとともに、初重内部の両界曼荼羅と真言八祖を表した壁画も平安絵画の遺品として重要であり、塔本体とは別に「絵画」としても国宝に指定されている。
西大門:
清瀧宮本殿(重要文化財): 慶長4年(1599年)建立。
弁天堂: 昭和5年(1930年)に林泉の北東岸に建立された建物。
大講堂:昭和5年(1930年)建立。
女人堂
『上醍醐』
西国三十三箇所第11番札所であり、西国一険しい札所として知られる。上り口にはかつて女人結界があったことから、女人堂がおかれ、そこから険しい山あいに、平安時代のままに残る国宝の薬師堂、醍醐寺の鎮守神である清瀧権現(せいりゅうごんげん)拝殿(国宝)、准胝堂、五大堂などが立ち並ぶ。上醍醐には有名な「醍醐水」が今も湧き出ているほか、醍醐山頂(標高450m)には、如意輪堂(重文)と開山堂(重文)と白山大権現が並ぶ。山頂から笠取山に向かう途中に奥の院がある。
薬師堂(国宝):
醍醐天皇の勅願により延喜7年(907年)頃に聖宝(理源大師)により創建。現存の堂は保安2年(1121年)の建立。入母屋造、檜皮葺き。正面5間、側面4間。側面の柱間4間のうち、中央の2間が狭く、前寄りと後寄りの各1間が広いのは珍しい。内部には薬師三尊像(国宝)、閻魔天像、帝釈天像、千手観音像(以上重要文化財)などを安置していたが、現在はすべて下醍醐の霊宝館に移されている。
清滝宮拝殿(国宝):
永享6年(1434年)に再建、清滝宮は弘法大師(空海)が唐・長安の青龍寺から勧請した密教の守護神を祀った醍醐寺の鎮守社。
醍醐水:聖宝が感得し、醍醐寺の名前の由来となったといわれる霊泉。
准胝堂:聖宝が如意輪堂とともに建立、西国三十三所観音霊場第十一番札所。2008年8月24日焼失。
五大堂:聖宝が開いた国家鎮護の祈願道場。
如意輪堂(上醍醐):慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、理源大師(聖宝)により准胝堂とともに建立されたと伝わる
開山堂(上醍醐):如意輪堂ともに慶長11年(1606年)に豊臣秀頼により再建、内陣の厨子には理源大師(聖宝)坐像など安置
【年中行事】
醍醐寺の主な行事としては、醍醐派が本家である壮大な屋外大護摩柴燈護摩(さいとうごま)を中心とした施餓鬼法要が8月に厳修されるほか、2月には同様に柴燈護摩を炊き上げて五大明王の功徳を讚える「五大力尊仁王会」(ごだいりきそんにんのうえ)が厳修され併せて150キロ近い巨大な鏡餅を持ち上げる力比べが行われることで有名。また4月には豊臣秀吉の「醍醐の花見」にちなんで現在も全山を揚げての花見会が開催される。
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
検索用:
大日、如来、観音、地蔵、菩薩、密教、仏教、真言、即身成仏、空海、弘法大師、役小角、役行者、聖宝、理源大師、東密、当山派、修験道、印契、梵字、九字、曼荼羅、明王、五大明王、五大力、不動明王、降三世夜叉明王、軍荼利明王、大威徳夜叉明王、金剛夜叉明王、大元帥明王、愛染明王、孔雀明王、烏枢沙摩明王、馬頭明王、明王部、天部、四天王、毘沙門天、摩利支天、仏像、護摩、修法、般若、法具、数珠、念珠、独鈷杵、三鈷杵、五鈷杵、羯磨、高野山、東寺、大峰山、霊場、修行、行者、修験者、山伏、遍路、京都