「考える人が集まるコミュ」では、物事について考えます
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善悪は相対的な概念である。善という概念によって、悪という概念があり、悪という概念によって、善という概念がある。善と悪とは相互に依存し合って存在している。善が存在するためには悪が存在しなければならないが、そもそも悪が存在するためには善が存在しなければならない。善と悪。どちらが先に存在するのか、という問いは、鶏が先か卵が先か、という問いと同じように答えることができない。
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客観的現象はそれだけでは善でも悪でもない。人間という主体と関わることによって初めて、善や悪といった価値を獲得する。善悪は人間という主体が価値評価することによって生まれる。
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感情のプログラム
戦いで傷ついた原始人は生き延びるために感情のプログラムを生み出した。 (参考文献は「うつからの脱出」)
悲しみのプログラム。戦いで傷ついた原始人には休息が必要である。敵に見つからない洞窟内などでじっとしている必要がある。悲しみで興味が湧かないのたはじっとしている必要があるからだ。興味が湧いて好奇心旺盛では、じっとしていられず、休息が取れない。泣き声は仲間へのSOSのサイン。
怒りのプログラム。群れの中では、優秀な者から順に食糧が回ってくる。戦いで傷ついた原始人の食糧が回ってくる優先度は低い。そこで、仲間を威嚇し、怒り、食糧を得る権利を主張した。
不安のプログラム。戦いで傷ついた原始人は敵の格好の餌食である。原始人は不安になり、最悪のケースを想定し、生き延びることにした。迂闊な行動は命取りになる。不安になり、敵のことがBGMのように頭から離れない。記憶力の低い原始人は不安になることで、敵の存在を忘れないようにし、最悪のケースを想定して、行動するようにした。
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YUJIさんの投稿
トピ主さんは、
「自我が実在でなく概念だというけど自我という機能は間違いなく存在している」
と思われてますね。
僕は、「自我という機能は間違いなく存在している」けど「自我は実在ではない=空」だと思っています。
トピの見出しより
<10年前の私と今の私は別の私である。>
<1秒前の私と今の私は違う私である。>
<私は瞬間瞬間、変化している。 >
これは事実だけど、「私」という同一概念で括っています。
現象の正体は、ただそこに変化(無常)があるだけです。
なのに「私」という同一性があるということは、変化(無常)をより高次に統合している情報処理が存在するということです。
同一性は変化より高次の概念なのです。
変化(無常)と同一性との間には階層性があります。
下位層(低次概念)← 変化(無常)<同一性 →上位層(高次概念)
同一性とは、変化(無常)を抽象度の高いところから見て整合性(つじつま合わせ)をとる高次な情報処理なのです。
自我は存在しません。変化を一括りに統合する高次の情報処理があるだけです。
困ったときには