1990年10月28日に神奈川県の某病院で命を授かる。
無事に保育園に入園するも、先天的(アプリオリ)な暴力意識が騒いだのかは不明だが、建物の2階から優雅に遊ぶ友達に積み木を投げて襲撃。
若干5、6歳の若さにして過激派の影を見せる。
その後、年を経て県内の小学校に進む。
高学年の時であるが、休み時間に友達に挑発され、我を失い「挑発をするな!」という捨てゼリフを吐き捨て筆箱(ドラえもん柄)を投げつけガラスを粉砕。
この時期が一番彼の人生で荒れていた時期であろう。
中学では、その風貌がTVに出演していた"ジョン・レノソ"に酷似していると俄かに騒がれるようになり、この安易な理由で"ジョン"と呼ばれるようになる。(今後、この愛称で世間に名を轟かせて行くことになるのだが)
中学生の彼は、学問に対する意思が欠如していた為か学業成績は芳しくはなかった。
尚、環境に適応できなかったのか自分の殻に篭り、一握りの人間としか交流を持たなかった様子。
そこで、音楽ゲーム(通称:音ゲー)に出会うことになる。
本人は、このゲームで人生が変わったと語る。
だが、己の中学時代は黒歴史と認識している。
高校は学業成績が揮わなかったため、それ相応に私立に通うことを決意。(これが彼の人生を後々大々的に変える出来事になる)
ここで一切の情報が途絶え死亡説も流れた。
しかし、周りのやる気の無さに呆れ、学問に精を出し大学受験を決意。
日々の経過はまるで鳥が空を飛ぶかのごとく早く経過し、あっという間に受験本番を迎えた。
第一志望は惜しくも不合格になってしまったものの、"浪人生顔負けの日本史力"を引っさげ、早稲田大学政治経済学部に合格。(センター日本史満点の学力には完敗である)
大学では、アンチDQNの精神を基本とし日々を暮らしている。