嘉吉三(1443)年、皇位が旧南朝の系統に譲られない事を不服として、南朝残党(後南朝)は禁裏を襲撃。三種の神器のうち神剣と神璽を奪い叡山に立て籠もった。首謀者は鳥羽尊秀。南朝皇胤金蔵主・通蔵主兄弟を大将とし、公家の日野有光も参加した。
南朝残党は敗北。金蔵主、日野有光は討死。通蔵主も捕らえられ、配流の途中斬首。鳥羽尊秀も行方不明となった(討ち取られたとも)。また、この事件で、勧修寺門跡に入っていた小倉宮皇子教尊は事件に関与したとして隠岐に配流となった。
この事件で三種の神器のうち神璽は行方不明となった。(禁闕の変)
奥吉野に、事件で奪われた神璽を奉じる南朝皇胤兄弟がいた。
朝廷・幕府は、嘉吉の乱で没落した赤松遺臣と、南帝の殺害と神璽奪回と引き換えに赤松再興を密約。赤松遺臣は南朝側を装い南朝に近づいた。
当時一宮は北山郷・二宮は河野郷に御所を構えていた。
長禄元年(1457)12月2日、赤松遺臣は兄弟宮の御所を同時に襲撃。兄弟宮の首と神璽を奪ったが、郷民に奪い返された。
その後、東吉野の小川弘光によって神璽は京都に帰還した。また、これにより赤松氏は再興した。(長禄の変)
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