・゚ ゜ ・゚** ゜*。*:.。少女隊.:*・゚** ゜*・゚* ゜・゚
1983年にオーディションでミホ、レイコ、チーコの3人が選ばれ、少女隊結成。翌年の1984年8月28日に「FOREVER」でデビューする。そのプロモーションには総額30億円(一般的には40億円)をかけたとも言われ、当時マスコミを中心に大きな話題となった。CMでの「一心同体少女隊。」のコピーも話題を呼んだ。
デビュー1周年の1985年8月、メンバーの一人であるチーコが椎間板ヘルニアにより脱退し、新メンバー・トモが加入する。初代引田天功の娘であったことから話題となった。
デビューアルバム「少女隊Phoon」は山口百恵、ピンクレディを手がけた都倉俊一がプロデューサーを担当、アメリカの一流ミュージシャンが参加してL.Aのスタジオでレコーディングしたもので、オール・アメリカロケのビデオ、写真集を同時に発売するなど、既存のアイドルとは一線を画した野心的な企画であったが、TVに露出しないという戦略が時期尚早だったのか、ブレイクまでには至らなかった(「少年隊」を擁していた芸能事務所から各種メディアへの圧力がかかり、活動がままならなかったという説もある)。少女隊の出演したグリコのCMがグリコ・森永事件の影響で1週間で打ち切りになるなどの不運もあった[1]。
1985年からおニャン子クラブの仕掛け人、秋元康と手を組んでプロモーションの方向を大幅に変更。3枚目のシングル「素直になってダーリン」で「ザ・トップテン」に初ランクイン、TBSのドラマ「夏・体験物語」の挿入曲「Bye-Byeガール」でザ・ベストテンにランクインするなど、7枚目のシングル「もっとチャールストン」までヒット曲を連発した。1986年には代々木第一体育館と大阪城ホールを含むツアーを開催。親衛隊もいたほどで知名度もあった。
当時としては異例のアジア向けのマーケティングをデビュー初期から展開し、後期には日本よりアジア各国での人気が高かった。1985年に香港の映画にも出演、1986年と1987年には東南アジアツアーを成功させるなど、香港、タイ、シンガポール、マレーシアなどのアジア各国で人気を誇った。1988年にはソウルオリンピックのイメージソング「KOREA」を歌い、韓国でも大ブレイク。1988年8月18日には日本語の曲が禁止されていた韓国で、戦後初めて放送で日本語で歌い、話題にもなった。その後、韓国の若者の間にJ-POPが流行る引き金になり、日本文化開放の流れに大きな影響を与えた。
1989年に解散。3メンバーはそれぞれソロで活動していくことになった。
所属事務所のボンド企画は、岡田奈々・松本伊代・本田美奈子・大場久美子・高岡早紀らが所属する、女性アイドル中心の芸能プロダクションであったが、少女隊への多額投資が一因となり後に倒産した。
1999年にレイコ、チーコ、トモの3人で1999少女隊として再結成し、デビュー曲「Forever」をセルフカバーした。当初はミホも参加して4人で歌うことが企画されたが、妊娠していたため不参加となったという。
『画像集』
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『シングル』ディスコグラフィ
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『アルバム』ディスコグラフィ
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『その他活動』
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『アジアでの人気』
80年代その当時はアジアでJ-POPブームが起こっていて、タイ人DJによる『J-pop Radio FM.88』というラジオ番組も人気でした。
少女隊の曲はバックグラウンドミュージックが素晴らしいです。バックミュージシャンの演奏のレベルが高いので、少女隊のボーカルも生きたのだと思います。
アジア各国ではツアーを行い特に韓国での人気はマドンナをしのぐ程で韓国映画にも出演していました。
少女隊は日本ではあまり有名では無いのは知っています。『Bye Bye Girl』が週間チャートがトップ10に入ったくらいだったと記憶しています。ですが、その頃、韓国やタイ、シンガポールでは熱狂的な少女隊ファンが多数存在していました。日本では、松田聖子、少年隊、中森明菜、南野陽子などには敵いませんでしたが、アジアで日本のアイドルと言えば少女隊をあげる人が多かった程の人気でした。
この文章を書いていて、80年代後半の『あの頃』が蘇ってきました。今でも少女隊のCDを聞きながら、しばしの時間旅行を楽しんでおります。
タイやシンガポールでの少女隊の人気には毎度ビックリさせられます。インターネットも無かったあの時代に、これほどまでに外国人に愛されたアイドルは他にいないのではないでしょうか?少女隊の曲は今聞いてもキャッチーで、楽しい気持ちになるナンバーが多く、逆に日本でどうして大ブレイクしなかったのかが不思議なくらいです。
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