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正史三国志 周瑜公瑾

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詳細 2023年11月20日 16:56更新

 周瑜 字は公瑾(シュウユ-コウキン 175年 - 210年)

 中国の後漢末に、孫策、孫権に仕えた名門出身の武将。大都督にまで就任し、孫呉に大きく影響を与えた人物。
 廬江舒の人。従祖父の周景、周景の子周忠はいずれも漢の太尉となった。周瑜の父周異は洛陽の県令。
 妻に小橋がいる(『演義』では小喬)



 曹操は官渡の役において河北の袁紹を破り、袁家を滅ぼし中原を掌握する。さらに、劉?(劉表の跡継ぎ。『演義』では子妻もろとも干禁に斬られているが、本来は長生きをし、青州刺史を就任、さらに後諌議大夫・参同軍事と昇進をしている)を降伏させ荊州を手に入れる。この頃曹操は丞相(今の日本で言う総理大臣なようなもの)となる。
 劉表の持っていた水軍を吸収し、勢いに乗り、江東平定に向けて長江からの南下を開始する。(水軍を得意とした軍師荀攸が主に指揮をとった。曹操が水軍に不慣れという認識は間違え)

 迫る圧倒的な兵力を前に孫権陣営内では降伏色が強まるも、魯粛と周瑜の説得により孫権は開戦を決意する。こうして、208年に長江中域において、国の存亡をかけた戦いが始まった。この戦いは後に赤壁の役と呼ばれることになる。
 風土病と長い渡航の疲労で、曹操軍の士気が落ちていると読んでいた公瑾は全面指揮を行い、3万近くの軍を率いて、およそ20万の曹操軍と激突。そして、烏林の地にて、季節風を利用した火攻めにより曹操軍を破った。
 この戦いの後、曹操が敗走し、天下三分を唱えていた魯粛が、その頃同盟関係だった劉備に荊州の領土の一部を貸し出したことで、三国鼎立の形勢がほぼ定まる。

 その後、蜀と漢中を併合し、孫呉の天下統一を目指す天下二分の策を立案するも、行動を起こした矢先の210年に病により36歳の若さでこの世を去った。
 この死により、大計天下二分の策は頓挫してしまう。

 後に孫権は、公瑾が卒去した際「公瑾は王佐の資質を持っていたのに、いま忽然と命が尽きた。虎は何を頼りにすればよいのか。」と嘆き、尊号を称した際には「虎は周公瑾がおらねば、帝王になりえなかったな。」という言葉を残したとされている。(周瑜伝)

 『三国志演義』では狭量な人物像で描かれ、諸葛亮の引き立て役としての存在であったが、本来は誰からも慕われ、軍事においても諸葛亮に引けを取らない人物だったとされ、近年その評価が高まってきている。


 ここは正史の周瑜公瑾専用コミュニティです。
 メイン写真は、天下分け目の『赤壁の役』が展開されたとされる赤壁です。(とされる、というのは実際はこの位置とは違っていたり……)
 ちなみにこの文字、周瑜自身が彫ったものとして今に残ってます(これに関しては色々ツッコミ所はありますが、ロマンということで)



             ※  ※  ※   


■プチ辞典(随時更新)■

【呉(ゴ 222年 - 280年)】
 中国三国時代、長江流域に成立した王朝の一つ。首都は建業(現在の南京付近)。孫呉とも呼ばれる。
 孫堅、孫策時代を経て、魏に対して称臣していた孫権が、夷陵の役で蜀軍に大勝したのち、222年に独立を宣言。229年に孫権が皇帝に即位した。
 その後、孫権の長男である孫登の突然の病死により、呉内が激しい後継者争いに巻き込まれる。(この騒動に巻き込まれ、陸遜が亡くなっている)さらに、孫権が跡継ぎをはっきり決定しないまま亡くなったため、この後継者争いは長くまで続くことになる。

 孫権が没し、孫亮、孫休の時代を経て、孫晧の時代。手腕に期待がされていた孫晧は乱政を布き、国を荒らす。
 それを見た司馬炎率いる晋は、30万にも及ぶ軍勢を使い呉を侵略。国力が弱まった呉ではそれを止められず、翌の280年3月に呉は降伏、滅亡し、その歴史に幕を下ろした。
 こうして晋は国を統一し、三国の時代は終焉を迎えた。しかし新たな時代の波はもうそこまで迫っていた……。
 


【孫策-白符(ソンサク-ハクフ 175年 - 200年)】
 孫策 字は白符。呉郡富春の人で、孫堅の長男であり孫権の兄。孫呉の礎を築いた。周瑜とは義兄弟。
 妻に大橋が有名だが、孫策の正妻であったかは不明である。
 袁術の配下であった父である孫堅が、劉表との戦いで死去した後、そのまま袁術の配下となる。与えられた千人あまりの軍勢から、的確な人材雇用を行い、着実に力と軍勢を伸ばし、197年に袁術から独立を宣言。
 江東を平定し『江東の小覇王』と呼ばれるようになった。
 200年に曹操と袁紹とのにらみ合いの隙をつき、許都攻略を計画する。しかし、そのさなか、許貢の食客に襲撃され重傷を負い、それが原因で26歳の若さでこの世を去った。
 晩年は、魔がさした行動が目立った。

 周瑜とは幼少の頃からの付き合いで、その友情は、孫策が死ぬまで続いたと言われている。『断金の交』という言葉は、ここからきている。


【孫権-仲謀(ソンケン-チュウボウ 182年 - 252年)】
 呉の初代皇帝。父に孫堅、兄に孫策をもつ。三国時代の君主の中で最も長生きをした人物。妻には、孫権の最愛の歩夫人(皇后)が有名。※
 周瑜とは義兄弟。
 時に魏と同盟を結び、時に蜀と同盟を結ぶなど、三国を上手く利用した政治をとった。魏の初代皇帝曹丕とはライバルとしてお互いを認め合っていた。

 孫堅と孫策の死後、その後を引き継ぎ、わずか19歳で盟主となる。父や兄のような、目立ったカリスマ性は無かったが、政治手腕に優れ、優秀な部下と共に、呉を導いていった。
 夷陵の役での勝利の後、独立し皇帝となった。
 晩年は悪政が目立ち、また後継者争いでも国を荒らした。

※【歩夫人】孫権が最も愛した女性。つつましく優しい性格のため、幅広い層の人々から慕われていた。しかし、自らの身分の低さを考え、権力争いが起きぬようにと、死ぬまで皇后になることを拒否し続けた。
 歩夫人が死去すると孫権は深く悲しみ、彼女を『皇后』と称して手厚く葬った。


【小橋(ショウキョウ】
 橋公の娘で周瑜の妻。       
 正史で小橋についての記述はほとんど無く、人物像は謎が多い。



※注)ここは知識があるなし関係ない、情報共有の場とします。

 トッピックス立ては基本的に自由ですよー。

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