「もう二度と中国に行って演奏するなんてことは考えたくもない。彼らの嫌悪すべき行いは、人間性そのものに対する攻撃だ」
夕方に流れたテレビのニュースを見たポール・マッカートニー氏が、「北京オリンピックのボイコット」を訴えました。ニュースがスペシャル・リポートとして流した映像は中国で行われている「夥しい数の犬や猫をコンクリートに叩きつけて弱らせ、皮を剥ぐ」という、恐ろしい商業行為でした。
http://
マッカートニー氏の主張は必ずしも、他国の文化や特有の価値観をはなから認めぬ、というような浮薄なものではないと思います。彼がベジタリアンであることはよく知られていますが、同時に彼は若い頃から伝統的な価値観を大切にする保守的な人物でした―近代に入ってからの、氏の母国である英国における保守的な価値観の特徴は、自国の伝統的な価値観を「叡智の蓄積」として保守することと異文化の個性を尊重することを同質のこととしてとらえていることです。ビートルズ来日の際、マッカートニー氏は「どうしても皇居が見たくて」滞在先のヒルトンホテルから「脱出」をはかりました(成功して、二重橋のあたりで撮影した得意気な面持ちのスナップ写真が残っています)。
この件で彼が抱いた嫌悪感や戦慄はごく素直なもの、子供たちに同じものを見せればきっと同様の反応を示すであろう、ごく自然な反応であろうと思うのです。
ここにはやはり「残酷な一面があるけれど、異国の文化なのだから尊重すべきでる」と、単純に言えるのかどうか、という拭い去れない疑問が潜在しています。そこには、決して寛容ではなかった中国の政治が、四書に代表される伝統的な価値観や宗教を懐疑した結果として、人心から健全な倫理観が損なわれたのではないか、という現実が浮かび上がっているのです。
我々は中国のオリンピック選手たちが、鍛えられた肉体と精神をもった強靭で卓越されたアスリートであることを知っています。いかなる世界大会においても彼らは金メダルを狙って王手をかけてきますし、それを奪取することができる実力をもっています。しかし、彼ら選手たちがどれほどの犠牲を強いられているかについては、我々は多くを知りません。彼らのあのような活躍をみて、あるいは疑問に感じたことがあるひともいるかもしれませんが。
最近、新聞の国際面にこんな記事が出ていました。
【生活苦でメダル売却、ホルモン剤で後遺症…中国人選手、悲惨な末路】
国家のために戦った中国人アスリートの多くが引退後、苦しい生活を強いられている。コーチらによる賞金の搾取、ハードなトレーニングがもたらす重度のスポーツ障害。そして学歴がないため仕事が見つからない。元長距離選手が生活のため栄光のメダルを売り出したことから、北京五輪を来年に控え、中国選手の悲惨な人生が改めて注目を集めている―
http://
産経新聞 2007/04/16
また、競技場建設のために農民が耕作地を強制的に奪われて乞食になるというはなしもザラにあります。
「オリンピック」というとどうしても「お祭ムード」にとらわれてしまうのですが、オリンピックを現在の中国で開催するということを、冷静になって考えてみると、これは極端な選択でもなんでもなく、敢然と自らの良心と向かい合って「ボイコット」を主張すること以外に適当な選択はないと思います。
しかし、こうして「ボイコット」を主張することは、決して「中国人」に対して敵対的な態度をとることにはなりません。それは中国が、日本や英国のような「国民国家」ではないからです。それは支配する階級と搾取される階級によって成り立っている国なのです。中国はあらゆる意味で、我々日本人がもっている国家という概念では説明のつかない国です。同じように考えては間違いを起こしてしまいます。まずは、皆がそれについて研究してみることを薦めたいと思います。