★トップ画像:山吉豊守宛北条氏康書状(山吉文書)
★背景画像 :山吉氏の居城だった三条島ノ城址(新潟県三条市)
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山吉 豊守(やまよし とよもり)
山吉氏はその姓から蒲原郡山吉が名字の地といい、現在の見附市山吉町を本拠にしていたと考えられる。越後守護代長尾氏の配下として、三条城によって勢力を築き、蒲原郡代として活躍した。
生誕:大永5年(1525年)
死没:天正3年(1575年)または天正5年(1577年)
別名:豊盛、孫次郎、孫二郎
官位:丹波守?
主君:上杉謙信
氏族:桓武平氏頼盛流山吉氏
父母:父:山吉政応または山吉政久
母 :高梨頼宗娘
兄弟:直江景綱継室、豊守
妻 :正室:本庄実乃娘
子 :盛信、景長(景盛)
15世紀に成立したといわれる「蒲原郡段銭帳」に長尾氏の被官として山吉氏の名が見える。蒲原郡司で三条城主の三条長尾家の長尾高景は、府中(府内)の春日山城(新潟県上越市)へ移り、越後守護代の地位を世襲する越後長尾家の本家の地位を獲得し、これにより府中(府内)長尾家とも呼ばれるようになったされる。
長尾氏との主従関係の発端は明らかにされていないものの、三条長尾家の下で、被官山吉氏が越後蒲原郡の統治権を得、三条城主となり、蒲原郡司の代わりを勤めるようになったと考えられている。永正の乱や享禄・天文の乱では山吉能盛や山吉政久が長尾為景について活躍している。
大永5年(1525年)豊守は山吉政応あるいは山吉政久の子として誕生。「山吉家家譜」によれば天文21年(1552年)4月、父政久の隠居により家督を継いだとされる。
永禄2年(1559年)長尾景虎(上杉謙信)が上洛して帰国したとき、越後の諸将が太刀を献じてこれを祝した。この時の侍の序列は、「直太刀の衆」として上杉・長尾氏の一門、続いて「披露太刀ノ衆」とされる外様・譜代の国人、最後に「御馬廻年寄分ノ衆」とされる旗本幹部の順が付けられていた。そして「御馬廻年寄分ノ衆」のなかに「山吉方」と記されている。「上杉御年譜」では、この「山吉方」を山吉豊守だとしている。
豊守の記録上の確実な初出は永禄9年(1566年)のことである。豊守は謙信に仕えて奏者を務め、信濃や関東地方の諸大名との外交に骨身を削った。当時、甲斐・武田氏、駿河・今川氏、会津・葦名氏、相模・後北条氏など有力な戦国大名がいた。油断のならない状況のなかで、豊守は諸大名との外交戦略に尽力した。
永禄11年(1568年)信州口・越中口が緊張すると謙信は麾下の諸将を両地に派遣し、手薄になった春日山城へは山吉豊守・斎藤朝信・本庄実乃らのの家臣団を呼び寄せた。山吉氏・斎藤氏・本庄氏らは謙信から最も信頼の篤い諸将であり、かれらの家臣は謙信から旗本同様の信任を受けていたことが知られる。
永禄12年(1569年)から13年(1570年)には、小田原北条氏との同盟実現のために奔走し、越相同盟の締結を実現した。ついで元亀2年(1571年)から天正元年(1573)にかけては、常陸・下野の諸大名間の調停、越中の防衛をめぐって越中に派遣された諸将との連絡や飛騨の江馬輝盛との交渉などに走り回った。
その一方で、国内では揚北衆の中条氏と黒川氏との境界紛争の調停に活躍し、謙信の奉行人として、触れ書きや禁制の制定にもあたっていた。まさに豊守は、謙信の側近中の側近であった。
豊守が謙信の側近として活躍していた頃、三条城の留守を守っていたのは叔父の景久で、豊守に代わって万事を取り仕切っていた。この頃の山吉氏の軍事力を知るものとして、天正3年(1575年)の「上杉家軍役帳」があるが、豊守は譜代・旗本として、鑓235・手明40・鉄砲20・大小旗30・騎馬52の軍役を担い、有力国人である色部顕長の鑓160・手明20・鉄砲12・大小旗15・騎馬20と比べるまでもなく謙信麾下の諸将のなかで最大の軍役を担っていた。
このように豊守は謙信の篤い信頼を受けて、軍政ともに活躍を示したが、天正5年(1577年)35歳の働き盛りで病死した。没年は天正3年(1575年)という説もある。
嫡男・盛信が家督を継ぐが間もなく急死。盛信の弟・景長(景盛)が13歳で跡を継ぐが、上杉氏の家法によって領地は半分に減らされ、三条城から木場城(新潟県新潟市西区木場)へ移されることになった。三条城へは代わって神余親綱が城主として入った。領地が半減したとはいえ、家法によれば成人(15歳)するまでは没収というのが定法であったものを、代々の長尾氏に対する忠節と豊守の功によって半減という処置に止められた。
それでも、先祖以来の三条城を失ったことは山吉氏にとっては痛恨時であったと言われる。なお、三条城の別名は三条嶋城、三条島之城、三条島ノ城があり、川と川に挟まれた中州に城があったと思われる。
天正6年(1578年)謙信が没して越後国内では内乱が続いたが、山吉氏は一貫して上杉景勝方として行動し、上杉氏が会津を経て、出羽国米沢に移封されるとそれに従い、以後江戸時代は出羽米沢藩士として連綿と続いた。
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