野津 道貫(のづ みちつら / どうがん)
1841年12月17日(天保12年11月5日)
〜1908年(明治41)10月18日
日露戦争開戦後、大本営を統括する大山巌が満洲軍総司令官に就任することになり、山縣有朋が「出先(満洲)は野津(道貫)に任せればよいのに」といったところ、大山は「そりゃあ戦なら七次どん(野津道貫)のほうがいいでしょう」と答えたという。大本営首脳部では、黒木(第一軍)・奥(第二軍)・乃木(第三軍)・野津(第四軍)の軍司令官の中で野津を筆頭格とみていたようである。
※背景画像:
日露戦争における二元帥六大将(左から2人目が野津道貫)
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鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の三男として生まれる。早くして両親を亡くし、次兄(後の陸軍中将・野津鎮雄)とともに叔父の折田氏に育てられた(長兄は折田家の養子となっていたが夭折)。兄鎮雄と同じく薬丸兼義に薬丸自顕流を学ぶ。戊辰戦争に6番小隊長として参加。その活躍はめざましく、鳥羽・伏見の戦いから会津戦争、二本松の戦い、次いで箱館戦争に参戦した。
1871年(明治4)3月、藩兵3番大隊付教頭として上京し御親兵となる。1877年(明治10)1月に西南戦争が勃発すると、同年2月には政府軍第2旅団参謀長として出征、同年5月から8月まで豊後国指揮官を務めた。その後、日本陸軍上層部の一人となる。1880年(明治13)7月、兄の野津鎮雄中将が急死(44歳)。鎮雄に一女があったが夭折したため、道貫が養嗣子となる。
1884年(明治17)2月から翌年1月まで陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。1885年(明治18)2月から4月まで清国に出張した。同年5月、陸軍中将に進み広島鎮台司令官に就任。1888年(明治21)5月、第5師団長に親補される。
1894年(明治27)8月、日清戦争に出征。さらに第1軍司令官に転じた。1895年(明治28)3月、陸軍大将に昇任。同年11月、近衛師団長に親補され教育総監、軍事参議など官を歴任。
1904年(明治37)6月、第4軍司令官に就任。日露戦争に参戦した。1906年(明治39)1月、元帥。1907年(明治40)9月21日、侯爵に陞爵して貴族院侯爵議員に就任。同年10月18日薨去。兄鎮雄と同じ青山霊園の墓所に葬られた。
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