原 虎胤の個人が無いので、作りました。
自由にやって下さい。
★家臣団随一の豪将。鬼美濃。夜叉美濃。
初め千葉氏家臣。
後に武田信虎、武田信玄の2代に仕える。
受領名は美濃守。
後に剃髪して清岩と号す。
子に横田康景・原盛胤・原重胤・初鹿野忠次妻。
武田氏家臣として
元は下総国千葉氏の重臣(一門)である原氏の一族で、1517年、足利義明に居城である小弓城を奪われ、父・友胤とともに甲斐国に落ち延びて武田信虎に仕えたことで武田氏の家臣となる。
友胤は信虎の元で功績を挙げ、虎胤も主君・信虎から虎の一字を貰い受けて部隊長として活躍した。
大永元年(1521年)の甲斐飯田河原戦では今川軍の福島正成(北条綱成の実父、但し別人説あり)を討ち取る功績を挙げる。
信虎追放後は信玄に仕える。
武勇名高い猛将で鬼美濃、夜叉美濃と評されて畏怖されたが、戦場で負傷した敵将を敵陣まで肩を貸して送り届けたと言う逸話も残る情け深い大将でもあった。
攻城戦の名手としても名高く虎胤の落とした城は補修が最低限で済んだと言われる。
一般には武田24将の中に数えられる事も多く、また甲陽五名臣としても名があげられていることからすると、当代きっての優れた人物であることがうかがえる(なお、彼の子の康景は甲陽五名臣の一人横田高松の養子となっている)。
追放と帰参
小笠原氏との戦いで活躍し平瀬城の城代を任されるなど重用されていたが、1553年、宗旨問題で一時期甲斐国を追放されて相模国北条氏に身を寄せたが4年余りで帰参し、以後引き続き武田氏の勇将として活躍する。
帰参の際も、北条氏康は虎胤に対し惜別の念を表したという。
永禄4年(1561年)信濃国割ヶ巌城攻略で負傷し、同年に行われた第4次川中島の戦いには参戦せず以後は第一線を退いている。
永禄7年1月28日(1564年)に病死。
享年68。
没後、虎胤が称した通称美濃守を信玄死後の武田家を支えた馬場信春が引き継ぐように用いたことも知られている。
「鬼美濃に肖るべし」という意味もあった。
☆徳川十六将
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