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スピリチュアリティーの学際研究コミュの非人称の科学

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1.問題・目的・方法

心理学方法論においては、主観的視点と客観的視点、質的アプローチと量的アプローチとの対立など、哲学的な認識問題に由来する難問がいまだ解決されていない。そのために、スピリチュアリティを実証科学的な研究対象として扱うことを困難にしている。この問題に対する一つの解消法として、Wilberによるインテグラルアプローチが提示された1)が、科学的文脈におけるスピリチュアリティの扱いに関しては未だに議論が続けられている。
本研究の目的は、スピリチュアリティを科学的に記述する一つのメタ方法論として非人称の視点を提唱することである。さらに、それを基礎としてポジティブ心理学の方法論を活用し、スピリチュアリティ3因子論をインテグラル・ポジティビティとしてモデル化することである。
そのためにまず、非人称的視点に関する哲学的な議論を概観する。つまり、Wilber理論における一人称・二人称・三人称的視点という四象限の分析を、現象学を補助線として批判的に検討する。その上で一人称・二人称・三人称的視点を基礎づける方法論的視座として、非人称の科学を定式化する。その後、心理学方法論をそれぞれの視点により整理する。その際、尾崎の提唱するスピリチュアリティ3因子論を材料に非人称的視点での記述を試みる。具体的には、実証科学であるポジティブ心理学の枠で、スピリチュアリティ3因子論をインテグラル・ポジティビティと言い換え、これまでの科学で扱いきれない超越的概念も含んだ仮説モデルを形成する。
 


2.非人称的視点:哲学的議論

Wilberは統合的アプローチという独自の哲学的立場から、一人称(主観・私)・二人称(間主観・私たち)・三人称(それ・それら・客観/間客観)を 提示している。 その一方で、意識こそが、それらの現象が生起する開けであるとも述べている。つまり、視点によって捉えられるのが現象であり、一人称・二人称・三人称的視点とは、現象を分節する個別の方法論的視座であると言う。しかし、このような個別の方法論を基礎づけるメタ視座を「意識」としてしまうことは、それが主観性、私、そして独我論との連想を招きやすいため、可疑性が高い。Wilberはこうした自身の立場を巨大現象学(mega-phenomenology)と呼んでいる1)が、現象学として特定の前提に依拠するのは背理であろう。つまり、Wilberのいう意識やスピリットも、言葉で表現され、構造化されたという意味で、「現象」に対するひとつの解釈である。とすれば、「意識」も含めた全ての「現象」が立ち現れる「場」について考える必要がある。
現象学においては、この現象が保持される場は超越論的領野と言われている2)。斎藤によれば、超越論的領野はそこにおいて世界の全てが現象する最終的基盤であり、「誰のものでもない」という意味で非人称である。そもそもHusserlは研究を遂行する「私」も現象の中に含めていた3)。SartreはHusserlのこうした試みを受けて、超越論的領野が非人称的−前個体的であり、「私」や「自我」はこの領野において構成されると考えたが4)、この非人称的であるはずの領野を意識と規定したために、Deleuzeからの批判5)を招いている。また森岡は、非人称的世界を仮定し、そこから人称的世界の構造解明を行うという方法を用いており、そこではHusserlの仕事も留意されている6)。
非人称的視点とは、「私」の実在を自明の前提とする主観の立場でも「物」の実在を自明とする客観的立場とも異なることが導かれる。なぜなら、「私」も「物」も、そしてスピリットでさえ、この非人称的視座において現象し構成されるものだからである。
この非人称的視座は、実体論的立場ではなく、方法論的立場であることに留意しなければならない。西条によると、方法論は、その目的と照らし合わせて妥当性が検討される7)ものである。スピリチュアリティという可疑性の高い研究対象に対して科学性を担保した研究を行うためには、仮説性の高い立場や現象説明のための理論に依拠することはできず、メタ方法論・メタ視座が必要となってくる。図1に示したように、非人称の視座とは、主観ではなく全観としてすべての視点を超えたメタ視座である。
 以上のことから、非人称の科学を次のように定式化できる。つまり、「非人称的視座とは、一人称・二人称・三人称的な個々の方法論を基礎づけるメタ方法論的視座であり、このメタ視点を基礎として個々の方法論を具体的な研究目的と照らして柔軟に選択・統合する科学的研究法」である。

3.心理学方法論の4視点

Maslowは心理学体系を支える方法論に挑戦し、1950年代半ばにおいてすでに画期的な問題提起を行っている。彼は、人間の可能性や健康を科学的に追及することを課題とし、自己実現概念を発表し、人間を究極的に支えているものを探ろうとした8)。つまり、それまでの心理学に欠けていた、病理だけではなく健康を、勤労だけではなく遊びを、実態だけではなく可能性をも含めた全体的な心理学を提唱したのである。その過程で、それまでの心理学方法論を大きく精神分析的力動論と行動主義的方法論の二つに分類し、それらを統合していく視点として第三の人間性心理学、さらに人間を超えた第四の心理学としてトランスパーソナル心理学を提唱した。
この節ではMaslow分類に従い、これら四勢力における方法論の特徴と限界を、一人称、三人称、二人称、非人称の視点から整理することとする。 概要を表で示した。表1では、精神分析・行動主義・人間性心理学・トランスパーソナル心理学、そして非人称の科学における主要な研究対象と目的を示した。その際、Wilberの4象限モデルに対応するそれぞれの象限も考察した。表2では、それぞれの研究方法における強みと限界を示した。



Figure 1.非人称的視点(全観)と他の視点との関係

Table 1.心理学方法論の視点による研究対象と目的


Table 2. 心理学方法論それぞれの強みと限界

 精神分析学の力動的方法論においては、個人の無意識を探り現象をそのまま記述していくことが目的とされる。したがって語りは「私」を主語とした一人称であり、記述されるのは個人の主観的な領域であり、4象限モデルでは、個人の内面として左上象限で表わされる。これによって実存的記述が可能になるものの、客観性には欠けるという限界を持つ。
それに対し、行動主義で代表される機械論的方法論では、個人・集団の観察される意識のみが研究対象となりやすい。そのため客観的記述が可能で法則性発見・モデル化という強みを持つ。しかしながら、観察対象の変数コントロールなど実験的統制が厳しく、限定されることによる個人差や深みの切り捨てという還元主義は否めない。
その両者を克服し、より人間的で了解可能な方法を目指して生まれてきた人間性心理学やナラティブアプローチによって重視されるのは、間主観性という関係性によって構築された文脈や言語である。個別性を重視しつつ同時に証拠に基づく方法論が開発されつつあるが、基本的には内面領域を主観的に記述する方法であるために、定式化が困難であることに加え、価値観や理想の反映という非科学性が指摘されることがある。
 これらの方法を統合し、人間性を超えた視点で宇宙に中心をおくことを目指したトランスパーソナル心理学は、確かに非人称の視点を志向してきた。そして自己超越した視点を持ち、意識の拡大を超意識9)・ノンローカルな意識10)などとして記述してきた。しかし、研究・観察を行う自己の意識を現象としてではなく、暗黙のうちに実体として扱う傾向があるために疑似科学性が問われているのも事実である。非人称的視点からは、意識そのものも現象として扱い、すべての方法論をその目的によって自由に選択していくという態度が現れる。それにより主観・客観・間主観や、定性的・定量的といった実証的方法論や観念論までも統合していくことが可能となる。

4.インテグラル・ポジティビティ

この節では、非人称の視点を基礎としてスピリチュアリティ三因子論を発展解釈する枠組みとしてポジティブ心理学を採用し、インテグラル・ポジティビティの仮説的モデルを形成する。

Figure 2.インテグラル・ポジティビティ3因子モデル

インテグラル・ポジティビティとは、筆者がこれまでスピリチュアリティあるいはスピリチュアルヘルスとして記述してきた11)概念である。概略を図2で示した。インテグラル・ポジティビティと言い換えた理由のひとつは、スピリチュアリティの定義困難さにある。それをスピリチュアルヘルスと言い換えることにより限定されたが、スピリチュアルヘルスは代替医療の分野に焦点化される傾向があり、筆者の意図する喜びを中心とする概念を部分的にしか説明できなかった。
一方、幸福を科学するポジティブ心理学で扱われるスピリチュアリティ概念は、望ましい人格特性のひとつとして観察測定され、個人がそれを獲得し高めていくことが目標とされる12)。しかし、スピリチュアリティは、伝統的な心理学理論で記述される他の人格特徴のように単純に測定できない面を持つ。つまり、高いスピリチュアリティとは、自我優位に能力増大に努力することではなくむしろ自我を放棄することであり、自己の無力感を克服しようとせずむしろひたりきることであり、むしろ自己の限界を強く認識するという側面も持つ。しかし、これをあきらめや敗北としてではなく、あるがままに受容し自らゆだねていくような態度が、逆説的に最強の人間性を表現することは、さまざまな伝統的宗教や思想体系で強調されてきたことである。
これが、いわゆる科学の外側でのスピリチュアリティ認識であろう。非人称の視点から理解すると、科学の内外双方のスピリチュアリティを統合して測定・観察可能なスピリチュアリティ3因子(科学内)の性質が反転した次のような様相も現れてくる。
つまり、意志は「大いなる意志に従う」つまり受動性を逆説的に含み、喜びは、「自ら決して喜べないような困難さを法悦として味わう」ことも含み、気づきは、「気づく以前の当たり前の前提として無意識的な」、無や空としても現れてくるのである。すなわち、インテグラル・ポジティビティは、非人称の視点を通して解釈された、反転する前も後も含んだ包括的なスピリチュアリティである。さらに、健康や可能性を志向するという研究目的に沿って、ポジティビティに焦点化している点が特徴的であると言えよう。

5.まとめ:非人称の視点による統合

Wilber理論と現象学を参照しながら、哲学的立場から非人称の科学論を定式化し、心理学の立場から主にMaslowの理論により、一人称・二人称・三人称的アプローチの意義と限界について分析した。さらに、スピリチュアリティ三因子論を非人称的視点から統合的に解釈するインテグラル・ポジティビティのモデルを提示した。
 ここで注意しておくべき点は、非人称の科学的視点から考えれば、個人におけるスピリチュアリティの発現をモデル化するために、個人意識に焦点化するポジティブ心理学の方法論があえて選択されていることが可視化されている点である。心理学は今まで、自身のアプローチが根本的に依拠している認識論的前提を可視化していなかったため、方法論的対立を生んできた。トランスパーソナル心理学や統合的アプローチは、そうした難問に挑んできたが、可疑性の高い前提に無自覚的に依拠していたために、十分解決できていなかった。
 非人称の科学的視点をメタ方法論とすることによって、一人称・二人称・三人称の視点を柔軟に活用することができる。それによって、このような信念対立を回避すると同時に、インテグラル・ポジティビティも超越概念を大胆に記述しながら、一つの構造化された仮説として、科学性を担保した研究の対象となるのである。

6.結語

本稿では、非人称の科学論の定式化と、それにもとづいたインテグラル・ポジティビティのモデル化を課題とした。そのため、従来の科学論との詳細な比較検討や、構造構成主義・社会的構築主義といったさまざまな思潮との差異化は、哲学上の課題として残された。また、哲学者・心理学者・スピリチュアリティ探求者によるアプローチを組み合わせた個別研究や協同研究プログラムの提示も、今後必要となってくるであろう。
最後に、本論考もまたひとつの仮説であり、検証や継承を通した乗り越えへと開かれていることを強調しておきたい。



文献

1) Wilber K.: Integral Spirituality: A Startling New Role for Religion in the Modern and Postmodern World, Integral Books, Boston&London, 2006.
2) Saito Y,: Shikou no Rinnkai, Keisou Shobo, Tokyo, 2000.
3) Fusserl E,: Crisis of Europian Science and Transcendental Phenomenology, Northwestern University Press, Evanston, 1970.
4) Sartre J. P,: The Transcendence of the Ego: An Existentialist Theory of Consciousness, Hill and Wang, New York, 1991.
5) Deleuze G,: The Logic of Sense, Columbia University Press, New York,1990.
6) Morioka M,: Ninnshou no Sonnzai shinai Sekai: Shukyaku Mibunn Saikou, Kikan Bukkyo, 8: 119-126, 1989.
7) Saijo T,: Kouzou Kousei Shugi towa nanika, Kitaoji Shobo, 2005.
8) Maslow A. H.: Toward a Psychology of Being, Van Nost, Reinhold, New York, 1968.
9) Assagioli R.: Psychosynthesis, Psychosynthesis Research Foundation, New York, 1965.
10) Dossey L.: Healing Beyond the Body: Medicine and the Infinite Reach of the Mind, Shambhala, Boston, 2001.
11) Ozaki M: Spiritual Health Education: Joy of Being through Restoration of Connectedness with the Transcendent, Record of Clinical-Philosophical Pedagogy, (9), 170-176, 2009.
12) Peterson C. and Seligman P. : Character Strengths and Virtue: A Handbook and Classification, Oxford University Press, New York, 2004.

コメント(17)

3月出版予定ですが、引用される場合はISLIS学会本部の許可を得てください。
 このコミュに参加したばかりで、あまり空気が読めておりませんが、失礼があったらお許し下さい。
 基本的な質問をさせて下さい。もし場違いであれば、そのようにおっしゃって頂ければ引き下がります。

> 心理学方法論においては、主観的視点と客観的視点、質的アプローチと量的アプローチとの対立など、哲学的な認識問題に由来する難問がいまだ解決されていない。

 私は、これらを対立とは考えておりません。

 主観的視点と客観的視点は、究極的には主観的視点に収束すると思われます。私たちには、それしか認識能力がないからです。客観的視点は、そうしたことが可能であるという仮定の下に、主に量的アプローチを試みているということではないでしょうか。

 質的アプローチと量的アプローチは、内的観点からの実感・体験という面(主に質的アプローチ)と、客観的視点が可能であると仮定した場合の外的観点からの観察的記述という面(主に量的アプローチ)、つまり物事の表裏を表しているのであって、対立ということはないと考えております。

 いかがでしょうか。
 抱石さま

 興味深いコメントをありがとうございます。
 この論文の共著者の一人として、私は比較思想プロパーの人間ですが、あくまでその立場から、お答えさせていただきます。

 「主観的視点と客観的視点は、究極的には主観的視点に収束される」ということが、ご質問の前提になっていると思われます。
 しかし、私見では、この考え方をとるかぎり、哲学的な認識問題における主客対立の問題に回収されてしまうのではないでしょうか。主客問題というのは、構造構成主義が解き明かしているように、「外部実在の客観性」を前提としています。そしてこれが「対立」の意味ですが、この対立は主客いずれかを土台・前提とした上では、解きほぐしようがないのです。

 抱石さんまは「対立ではない」とおっしゃられています。そこまで諸学問の内/外が良い意味で開明的となっているのであるならば、こうした問題意識はもはや旧套的なものかもしれません。けれども、とりわけ、「スピリチュアリティ」の問題をあつかう場合、致命的な問題を引き起こしてしまいます。なぜなら、そもそも、たとえば瞑想や祈りというアプローチと、脳波計測やインタビューというアプローチは、異なる側面を持つからです。、

 そうしたことを回避するためには、主観的・客観的というアプローチを、権利上、同等に方法論として用いるためのメタ方法論が必要になります。
 「非人称」の方法論のひとつの継承元は、ウィルバーの「巨大現象学」ですが、ウィルバーは主観・客観を前提にしてはいません。超越論的な方法を用いる以上、それは妥当なことだと思われます。

 ただし、言われる中で、同意できる側面もあります。
 客観的視点が可能であるというのは、ひとつの「仮定」だという点です。
 もちろん、内的実感・体験も「仮定」だと、非人称の方法論からは考えます。それはまさに、抱石さまの言われる「表裏」の妥当性を、担保するためなのです。
 たとえば、ヴェーダーンタ哲学者ならば、「内的体験と言っている、お前は誰だ?」と問うことでしょう。それに対して、古典的な実証科学者は、「それは客観的ではない」と非難することでしょう。これが認識問題です。「主観的」「客観的」とは、、研究者・実践者の関心におうじた切り分けで、絶対的なものではありません。それは、あくまで「そのように確信されている」という意味で、ひとつの構造なのです。ですから、「主観的視点に収束する」とは、言えないのではないかと思われます。特定の可疑性の高いアプローチから出発することは、できないのではないでしょうか。

 「主観」も「客観」も、そしてまた、ここでは話題とならなかった「間主観」も、超越論的な被構成体だとしたときに、はじめて、これら全ての方法論を、特定の目的や関心にそくして柔軟に用いられるのだと思いますが、いかがでしょう。

 私は、抱石さんのコメントには啓発されましたし、そう見解として遠いところにいるとも考えておりません。ありがとうございました。

 心理学により内在した立場からは、アンナ氏の応答もあるかもしれません。それを待って、また考えを進めていければと愚考しております。
> 甲田 烈さま

 丁寧なコメントをありがとうございます。

> 主客問題というのは、構造構成主義が解き明かしているように、「外部実在の客観性」を前提としています。そしてこれが「対立」の意味ですが、この対立は主客いずれかを土台・前提とした上では、解きほぐしようがないのです。

 確かに「外部実在の客観性」ということを前提として認めてしまえば、「この対立は解きほぐしようがない」かもしれませんが、そもそも私たちは、認識能力として主観を離れる能力がありません。
「外部実在の客観性」を前提としたいと思われる方の論拠は、結局主観を土台とするしかないと思います。

 構造構成主義は、出発点は独我論であっても、相対的な世界の認識を「なるべく合意のできるところから先に進めよう」とする「主義」であると思います。その趣旨に反対するつもりはありませんし、むしろ大いに賛成です。なぜなら、様々な意見をもっている人に、一つのテーブルに着いてもらい、話を先に進めることができるからです。

 私がここで主張しているのは、主客対立の問題を横に置いて、合意のできたところから先に話を進めることではなく、主客の問題を解決してしまおうということです。
「外部実在の客観性を私は知っている」という人を、そこから出発させるのではなく、「あなたは、なぜそのことを知っているのですか」と問いただすことです。「知っているから知っているのだ」といった論客は別として、冷静に自分の認識を分析すれば、それは主観の中に生まれた認識であることは自明になるでしょう。

 一旦、切ります。

 続けます

> とりわけ、「スピリチュアリティ」の問題をあつかう場合、致命的な問題を引き起こしてしまいます。なぜなら、そもそも、たとえば瞑想や祈りというアプローチと、脳波計測やインタビューというアプローチは、異なる側面を持つからです。

 このことは、致命的な問題にはならないと思います。「あらゆる認識は、まず主観があり、その中のある領域は他者と合意を形成しやすく「客観的事実」という名称で扱うことが可能である」という共通の認識があれば、全体は一つの認識世界にまとめられるからです。

 科学的思考、或いは合理的思考は、「同等の尤もらしさをもって物事を説明できるなら、可能な限り単純な理路を使う」ことを是とするはずです。従って、難しいメタ方法論や超越論的方法を使う必然性があるのか、疑問に思う次第です。

> 。「主観的」「客観的」とは、、研究者・実践者の関心におうじた切り分けで、絶対的なものではありません。

 そのように切り分けてしまえば、そうなるかもしれません。しかし、明らかに

主観的認識 ⊃ 客観的認識

 であるとするなら、そうした「切り分け」をすること自体が、この式に反した「これらが同等である意味」を前提条件として内包しており、議論として成り立たない理路であると思われます。

 いかがでしょうか。
 素人が、闇雲に議論を始めてしまい、申し訳ありません。
 うーん。
 議論の目的として、なにを望んでおられるのかがわかりません。
 たとえば、明確に共同研究を立ち上げる目的であれば、より前提を詳細につめ、議論を進めて行くのは賛成ですが、私も時間が限られていますので。

 端的に、無前提に主観を最終的な認識の根拠とするとき、やはり主客対立の難問は惹起すると思います。主観・客観という、お前は誰だ?という、たとえば禅のような問いかけは可能ですし、その場合の認識根拠は「主観」ではないからです。また、また、合意を形成しやすい領域と、しにくい領域というのは、その対話の対象である「他者」が属する論理空間によって異なるのではないでしょうか。たとえば、東洋的アプローチを所与の前提とした帰属集団ならば、「諸仏」という存在のリアリティを諒解するでしょうが、合理的思考を所与の前提とした集団なら、「それはありえない」というかもしれません。その場合、東洋的アプローチも合理的思考もともに所与の前提ではなく「仮定」としてみなすのが妥当ではないかと思われます。
 主観・客観というのは、世界の領域を、どのような側面からみるかという差異の問題です。こうしたことを言うためには、主観でも、客観でもなく、権利上同等にその位置を担保するメタ視点に、「方法論的に」あえて身をおく必要があるのではないでしょうか。

 

 そして、超越論的方法というのは、こうしたパラダイムを異にした人々が同じテーブルにつくために、効力を発揮するのだと思います。

 しかしながら、それは主観を起点とした方法論をさまたげるものではありません。それが「絶対」ではなく、あくまで「学問的仮定」であるという前提のもとでならば、抱石さまの研究目的と相関して、「あえて主観を認識の最終根拠とする」というおきかたは、可能だと思います。

 そちらのmixiを少し見させていただきました。統一場心理学という構想をお持ちなのですね。そこからの見識を示されているのだと思います。ありがとうございます。

 今日、心理学においても、現代のスピリチュアリティといったことは問題となっています。宗教者と心理学者の協力や、自ら瞑想を実践しつつも、「科学」的観察を同時に行うという研究者もあらわれてきています。けれどもその一方で、認識論的問題に起因する対立も、あるわけです。そのさい、可能なかぎり可疑的な前提(例・・無、神、主観、客観など)を排したアプローチが必要なのではないかと愚考しています。超越論的方法論をあえてとるというのも、こうした問題意識と相関しているわけです。合理的思考のみを基準とするのであれば、その限定された認識論・方法論の領域においては、無用のことです。
 議論にお付き合い頂き、ありがとうございます。
 ずっと気になっていたことですので、お答え頂けるととても助かります。この問題は、まさに「私とは何か」とか「認識とは何か」という問いかけに対する答えにつながるものだと思いますし、そのことは直接に心を扱う方法を飛躍的に前進させる契機になると考えております。

 そこで、また質問させて頂きたいのですが、

 甲田 烈さんが、なぜ超越論的方法にこだわるのかが、私には不明なのです。
 そして、私がなぜそこにこだわるのかと言えば、全体が主観の世界の中のできごとであることが明確になると、私たちの認識論がとても簡潔明瞭になり、飛躍的に普遍的な合意を形成しやすくなるからです。

> 主観・客観という、お前は誰だ?という、たとえば禅のような問いかけは可能ですし、その場合の認識根拠は「主観」ではないからです。

 主観以外の何でしょうか。私は、主観だと思います。というよりも、主観以外の認識は、存在するのでしょうか。

>  主観・客観というのは、世界の領域を、どのような側面からみるかという差異の問題です。

 ですから、先に示しましたように

主観的認識 ⊃ 客観的認識

 なのであって、主観的認識のどの領域を自分として「当然に思える領域」(=客観)であるとして囲っているかの違いになると思います。それは、甲田さんの言われるように、その人の文化などで違ってくるかもしれません。実際には、五感で感じられる質感の世界とそこから推論される認識世界が、多くの場合、客観的世界であると思われているとは思いますが。

 私たちは、何人と言えども、主観的な認識の外に出ることはできないのであって、そこから色々と推論し、仮説を立てていると言えるのではないでしょうか。
 認識論的問題に起因する対立は、そこに何か欠けている他の因子があるのであって、主観的認識が全ての元になっているとする認識論の根本を疑わせるものではないと思います。

 もし甲田さんがお忙しくて、これ以上時間をとることが難しいのであれば、いつでもそのようにおっしゃって下さい。
 どうも、そもそもの問題関心が食い違っている気がしますね。

 ご質問にお答えさせていただくと、私が超越論的方法を妥当と考えるのは、トランスパーソナル心理学のような、意識の超越的領域を扱うと考えられている領域も含めて、心理学において、客観科学を自明の前提とする立場と、「霊的」領域を前提とする立場の、信念対立をみてきて、これらを調停する方法を模索したからです。そのヒントとなるのが、現象学系統の「思考法」だったわけです。

 ですから、もし、「日常的意識」を前提として、その領域で認識の最終根拠を「主観」に設定し、普遍的な合意を形成されるのであれば、それで問題はないと思います。そもそも、目的と関心が異なるからです。

 しかしながら、「日常的意識」を必ずしも前提としない立場も考慮するとき、非人称的方法論は、これのみでないとしても、ひとつの方法論として、妥当すると思われます。「非人称」であれ、「あえて主観/客観/間主観を「構成」できる視座」ということであって、方法論でしかないのですから。

 抱石さんは、あえてした私の「禅」的問いかけに対し、「主観だ」と答えられました。そう言っている、あなたは、誰ですか? たとえば、禅をひとつのアプローチとした場合、それは「無」を仮定したひとつの探求領域となるでしょう。「無」は、彼らの証言によれば、主客以前、もしくはそれを超越しています。

 ただし、非人称的方法論を採用した場合、「無」や「超越」はあくまで、構成されたひとつの立場=仮定ということになりますが。

 私は、比較哲学出身の人間として、禅のテキストは読んできました。禅堂や週末出家といった形で継続的実践のない場合、とりわけ、「そんなことはありえない」という偏見をさけるためには、これらを一つの探求のデータとして、受け取る必要があると思います。

 しかしながら、、抱石さんのように、あえてそれにふれないということも、方法論としては、ありうる立場だと思います。これは、明確にたとえば東西にわたるスピリチュアルなアプローチの妥当性について触れられていないので、そう推測するだけですが。

 また、禅そうした、ひとつの例でしか、ありません。
 さらに、坐禅をしたからといって、脳波や脈拍といった「客観的」データについて、所見を得られるわけではないことが、ポイントです。アプローチ方法が、異なるのですから。

 「主観的認識が全ての元になっているという認識論の根本」は、あくまで西洋近代哲学の限定された「認識論」です。「主客合一」という「」方法」もまた、あるのですから。これは批判しているわけではなく、それもまたひとつの「方法論」であるということは、これまでの議論からご了解いただけると思います。けれども、たしかに、「他の因子」も考えてみる必要があるかもしれませんね。

 議論を打ち切るようで心苦しいのですが、私が議論に時間がさけないといった意味は、まず人生の時間が有限だからです。したがって、することに優先順位があり、そうするとこうした討議にさく時間は、その低いほうにせざるをえないからです。
 そして、もうひとつの理由。こうした議論は、研究会や学会といった公開討論の場と異なり、「言葉」だけとなるので、互いの関心や目的の詳細なディテールが見えにくいために、紛糾しがちという難点があります。また、これまでメールや日記のコメントなどで、いわゆる「不毛な討論」をいくどか経験し、徒労感も覚えるようになってしまいました。
 ただ、だからといって、抱石さんがそうであると、言いたいわけではありません。これ以上、進めようとした場合、確約はできかねますが、なにかの研究会の機会を借りて続行するほうが、たがいにとって生産的である気がします。

 とりいそぎ、失礼いたします。
うわ〜どうもどうも
おふたりともありがとうございます。

ざっと読んだところ,食い違いはここでしょうか?


> 主観・客観という、お前は誰だ?という、たとえば禅のような問いかけは可能ですし、その場合の認識根拠は「主観」ではないからです。

 主観以外の何でしょうか。私は、主観だと思います。というよりも、主観以外の認識は、存在するのでしょうか。

主観と呼びたければ呼んだらいいと思います。
私たちはそれを非人称と呼びます。
なぜならもはや自分ではない別次元のあちらからの眼差しであり,日常的な意識や自我ではないからです。
烈くん、これでいいかな?
> 甲田 烈さま

 アンナ=アリエルさんが的を突いたコメントを下さっていますが、とりあえず甲田さんのコメントに直接お答えしたいと思います。(お忙しい中、ありがとうございました)

> 非人称的方法論を採用した場合、「無」や「超越」はあくまで、構成されたひとつの立場=仮定ということになりますが。

 それは、全体が主観であると表現しても、まったく同じことになると思います。

 禅について触れることがある意味でフェアーかなと思いますので、一応コメントさせて頂きます。私の「抱石」というハンドル名は、臨済宗の高僧から頂いた法号で、私はある程度(あくまでもある程度ですが)禅をかじってはいます。
 その上で、そうした内的観点からの実感・体験が、特別な感じがするからという理由だけで、主観以外の「超越的」なものとして命名することは、事態を不必要に複雑にしていると考えております。

> 「主観的認識が全ての元になっているという認識論の根本」は、あくまで西洋近代哲学の限定された「認識論」です。「主客合一」という「」方法」もまた、あるのですから。

 私は、西洋哲学に限定した「認識論」を展開しているつもりはありません。むしろ、「主客合一」モデルを採用しております。そのモデル以外に、意識現象を説明できる仮説がないと思うからです。

 こうした哲学的な議論は、歴史的な経緯から「意見の違う人がいて、このままでは拉致があかないので、構造構成主義的な方法で先に進む」ということは、大いに意味のあることだと思います。しかし、本当に冷静になって考えてみれば、実は結論が出る可能性もあると思うのです。たとえそれが、様々な立場の人の同意を得られるものではなかったとしても、本当に冷静に考えた人の間では、同意し得る(ある種の)結論があると考えております。

> アンナ=アリエルさま

> 主観と呼びたければ呼んだらいいと思います。
> ちはそれを非人称と呼びます。

 とても明解なコメントをありがとうございます。甲田さんとの話し合いを通じて、私もそうかなと感じておりました。
 そこで私が問題にしているのは、必要性がない新たな概念は、使わない方が便利だということです。特に「特別」というニュアンスが含まれる概念は、他の概念との整合性を考慮することが、とても困難になりやすい性質があると思いますので、慎重に扱うべきだと考えているのです。

> なぜならもはや自分ではない別次元のあちらからの眼差しであり,日常的な意識や自我ではないからです。

 「私」とか「自分」という概念は、幼少期から使っているために「当たり前」という感覚を伴いやすいと思いますが、そもそもそれらは膨大な経験から得られる極めて複雑な情報の合成物であり、そこに何かしらの根源的な本質があるとは考えにくいと思います。ですので、そこから離れたという理由から「特別な」或いは「超越的な」意味の概念を使う必要はないと考えております。

 未熟者が色々とうるさいことを書きまして、大変失礼しました。私なりに、どういうところに見解の相違を生み出す元があるか、かなり明確になりました。お付き合い頂き、本当にありがとうございます。
 アンナさん、議論の交通整理していただき、ありがとうございます。
 そして抱石さま、丁寧なコメントとご質問いただき、ありがとうございました。

 抱石さま
 論点がおかげさまで明確になりました。主客合一モデルもふくんだうえでの「主観」ということであれば、もはやなんの問題もありません。
 前言を撤回いたします。
 主観から開始する、それでも、よろしいと思います。ただ、非人称の方法論を考えたときは、認識論に起因する信念対立の極端なケースを想定していたわけです。
 また、他ならぬ非人称の方法論に照らして、私が抱石さんに対して反論することは、妥当ではありません。主観から始めようというご提案も、世界を説明するためのひとつの方法であるからこそ、ここにあるわけですから。

 現象学的方法が難しいのは、あたりまえ(自然的態度)ではないからです。つまり、ややこしいそんな手続きいらないよとか、もうすでにわかっているよという場合は不要です。それぞれが、それぞれの場所で無自覚に「あたりまえ」だと思っていることを疑うことができれば、冷静な思考のもと、たしかに合意に達する可能性が開けますね。

 そのご見識は、学会などに発表される価値があると思いますし、この抱石さんのご提案もふまえた上で、私も再考してみたいと思います。

 ひとつだけ、気になったところを指摘させていただきます。
 私は、「超越」的立場に、いかなる優先権も与えていません。逆に、いかに「超越」的立場であったとしても、それも構成されたひとつの立場だということを明確にするために、あえて「超越論的」方法をとっていたわけです。

 どうもありがとうございました。

 アンナさん
 自説、というか、共同作業ですが、見事な切り返しのしかたに脱帽しました。
 たとかに、そうですね。
 こうした脱同一化の言説のしかたは、非人称の方法論に照らしても妥当と思われます。
> 甲田 烈さま

 とても理知的で冷静な考察をありがとうございます。
 表現の違いと本質的な共通点、感性の個人的な差異などを明確にして頂いたと思います。
 多くのところで少しずつ持論を展開しておりますが、始めに違っていた立場の方とこうした生産的な語り合いができる例は、極めて少なかったと記憶しております。

 ありがとうございました。
犯罪者の真奈美尾崎先生はテツガケシャ甲田劣とオセッコソしてました。3/20非人称の会場にて終わらせませんよ(*^m^*) ムフッ
>>[012]
佐々岡潔には母親がいますが、糞を食わされます。君には騙されましたが、いつまでも勝てる分けもなく勝てなくなれば気に入らないよねぇ

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