Αιτειτε, και δοθησεται υμιν, ζητειτε, και ευρησετε, κρουετε, και ανοιγησεται υμιν·
ふたつの文を比べてみますと、命令法、未来形、代名詞の使用などはぴったり一致しています。統語的問題はギリシア語のそれの影響を強く受けているのかもしれませんが、それは聖書特有のいいまわしとか、聖書のそれ以降のドイツ語に及ぼした影響を精査しないとわかりません。
ところで注目されるの次頁に与えられる文例は三つともことわざだということです。ことわざにはAであればBであるという命題を述べて、要するにAをしろという命令・勧誘の型であるものがあるということですね。便宜のために三つの例文を書き抜いておきます。
Sei reich, und du hast in allem Recht. 金差へあれば言ひ分は通る。
Sage mir, mit wem du umgehst, und ich will dir sagen, wer du bist. 汝何人と交際せるやを告げよ、さらば我汝が何人なるやを告げん。
Den Kopf halt kalt, die Füße warm, das macht den besten Doktor arm. 頭寒足熱は名医の食ひ上げ。
悪人たとへ如何なる害を為さんとも、善人の害こそは是れ最も有害なる害なり。
Und was für Schaden auch die Bösen tun mögen: der Schaden der Guten ist der schädlichste Schaden.
(Nietzsche, Also sprach Zarathustra.)
学習のポイントとは、疑問詞で始まる定型後置文に auch が挿入される点である。この文はなんとなくことわざっぽい感じがするが、どうしてだろうと考えた。通常の基準だと<悪人=悪い、善人=良い>だけど、ここでは<善人=最悪>となっている。日常の論理を超えた命題となっている点で、読む者におやおやっと思わせる力が働いている。
『歎異抄』第三段の
関口には独作文の教本がいくつかあるが、ドイツ語文章論といってもよいくらいのものである。この分野には相良守峯の基本的著作があるが、どっかへいってしまったので、今は両者のつきあわせができないので残念である。
さて関口『和文独訳の実際』=『著作集』4, 113 の範例に
樹が多すぎて森が見えぬ。
Man sieht den Wald vor Bäumen nicht.
とあるが、初め日本語に「木を見て森を見ず」という熟した言い方があるのにどうしてそう言わなかったのかなと思った。しかしこの章を読み進めて納得がいった。そもそもここの章題は【30】「... ... の余り」といふ vor. というのである。この vor の用例として vor Freude(悦びの余り) vor Ärger(腹立ちまぎれに)・・・等々の熟語的句が沢山列挙されているが、いずれも心理的な原因を示しているものばかりである。だから範例も 木の余り > 木が沢山あることに惑わされて という心理的な原因と見抜いているわけである(これは慧眼だと思う)。森は眼前にあるのだけれど、部分にとらわれて全体を見ることができないということである。物理的に見ることができないのではなく、心理的に見ることができないということわざ的成句の意味が、この解説でよくわかる。
ところで『故事俗信ことわざ大辞典』306c には「木を見て森を見ない」という見出しになっており、出典・用例が示されていないので、元来の日本語でなく外来のものであることが示唆される(とは明示的には述べられてはいないのだが)。英語ことわざにも You cannot see the wood for trees. というのがあるので汎ヨーロッパ的なことわざなのかもしれない。
なお英語の for にも上の vor によく対応する用法がある。He jumped for joy. Cf. "Other prepositions of cause are for (mainly with nouns of feeling) and .....(Geoffrey Leech and Jan Svartvik, A Communicative Grammar of English, 2nd ed. [Longman, 1994], p.104 =§200).
関口の書にはユニークな文法用語が多い。今日必ずしも継承されて広く使われているものばかりではない。また関口が創始した用語かどうかは、我が国のドイツ語教育史に暗いので判定ができないのが残念である。
それはともかくとして、関口の命名にはなるほどと思わせるものも多いので、関口の文法用語小辞典のようなものができたら便利だろうなと思う。関口の学会(冠詞研究会)あたりで考えてもらえたらよいのだが。
関口の書で知った用語に「冠飾句」というのがある。形容詞は名詞に前置するのと(格語尾付)、sein 動詞を挟んで後ろに置く場合(格語尾無し)がある。普通は前者を付加語的用法、後者を述語的用法と呼び、これは英文法でも同じ呼び方をしているのでよさそうである。形容詞はそれにいくつかの単語をくっつけて形容詞句としていくらでも長くすることができる。これは形容詞句であるが、この長い句の置き方には三通りがある。
【1】名詞の前に置く。
【2】関係代名詞を使って sein の述語にする。
【3】コンマを挟んで名詞に後置する。
英語の場合は長い形容句は名詞に前置することはできず、後置するか関係節に回すことになる。つまり【2】【3】だけであるので、【1】はドイツ語独特のものと言える。だから関口がこれを冠飾句と特別の命名をしたのは十分に理由のあることである。これの例文を『和文独訳の実際』9=『著作集』4, 147 から借りて示そう。
Der [sowohl für uns als auch für die Welt verhängnisvoll]-e Zweite Weltkrieg kam im Jahre 1945 zum Schluss.
我々にとつても世界にとつても共に禍なる第二次世界大戦は千九百四十五年に終結した。
角括弧で包んだ部分が冠飾句であり、格語尾は外側に付けてみた。(このヘンな表記法は関口のものでなくぷりんすのもの)
冠飾句の基本部分には形容詞ばかりでなく、現在分詞・過去分詞・未来受動分詞があり、その場合は更に難しいので、別の機会に学習してみたい。
「冠飾句」という用語は関口以外にも用いている人がいました。三好助三郎『独英比較文法』(東京:郁文堂, 1968), 105, 238 です。前者の頁には「英語では形容詞が無変化のためこの用法はなく、長い形容句は名詞の後に置かれる」という説明もあります。例文もひとつ転記しておきますと、
Sie ist eine [in jeder Hinsicht lobenswert]-e Frau.
She is a woman, in every respect, worthy of praise.
どの点からも感心な女だ。
英語に冠飾句がないという説明はいいのですが、その理由が「形容詞が無変化のため」というのには疑問が残ります。フランス語では形容詞は名詞の性数に一致した語尾が付きますが、原則として名詞に後置されます。形容詞後置型と他の文法事象の何が同時にあらわれているかという観察は言語類型論でなされていますが、その相関性はとりあえずは偶然ということにしてあって、因果関係をそこに求めるといったことはしていないようです。
関口存男が折に触れてことわざに言及したことは既に述べましたが、『改訂標準初等ドイツ語講座』=『著作集』IX, 364 にも囲み記事で触れています(原本の書誌事項についてはよくわかりません)。そこでは Irren ist menschlich.(迷うは人の常なり)と Eile mit Weile.(ゆるゆる急げ)が挙げられています。どちらにも関口のコメントが付いています。後者はラテン語の Festina lente. に由来することは明らかです。これをドイツに導入した人の手腕には並々ならぬものがあります。アイレ-アイレの押韻を入れてより口調のいいものにしたのですから。関口がこの点に言及しなかったのは誠に残念でした。なおこの汎ヨーロッパ的ことわざのその他の言語での言い方は、ことわざ掲示板081312=過去ログ集 II, 31-32 に列挙されています。
関口の展開する様々な議論は豊富な文例により裏打ちされている。膨大な読書量から規則が帰納され、その規則を演繹的に適用してさらなるテクストの読解に進んでいった過程が推測される。こうした文例はどのようにして蒐集されていったのであろうか。
有田潤「「意味形態」批判」『ドイツ語学講座』II (東京:南江堂, 1987), 48 に関口が『新ドイツ語文法教程』に引いた小咄が引かれている。
„Könnte ich wohl mal den blau-weiß gemusterten Badeanzug im Schaufenster anprobieren?“
„Im Schaufenster? Nicht möglich, gnädige Frau! Da müste ich Sie schon bitten, sich in unseren Umkleideraum zu bemühen.“
「ショーウィンドーの水着を試着してよいか」を「ショーウィンドーで水着を試着してよいか」と取り違えたという笑い話になっている。つまり im Schaufenster が名詞付加的 (
adnoinal) にも動詞付加的 (adverbal) にもなり得るということで、このふたつの規定の仕方が意味形態の問題となるということだ。ここでは意味形態のことを話題にするのではなく、上の文例がどこからきたのかということである。
同じ有田潤氏は2000年6月11日に都立大だ開催された冠詞研究会で「関口ノートをめぐって」というハンドアウトを配布された。その2頁目にノートの一部が複写されている。
[6] 附加語を述語(消してある)と誤解した際の Unsinn (及び umgekehrt)
という見出しの下に手書きで(フラクトゥアの筆記体)ごちゃごちゃと書いてあって、下に切り抜きが貼り付けてある。但しIm Schaufenster? Nicht möglich, のところは Beim besten Willen nicht möglich, となっている(学習者用に書き替えて使用に及んでいる)。切り抜きの右側には大きめの字で adnominal adverbal と書き付けている。そしてその下には 誤譯例 としてタイプライターで打った長めの文例が貼り付けてある。
関口はノートに書き記した未完の文法記述の関連する文例を各所に求め、タイプで打ち、あるいは切り抜きなどして、随時該当箇所に差し挟んでいった。膨大な文例の個々の出所まではいちいちメモされていないので、もとの書籍・雑誌・新聞などを同定することはもはや不可能に近い。
関口先生の跡を継いだ真鍋良一先生に「二大語学者」というエッセイがあります(『真鍋ドイツ語の世界』初出は多分 Mein Deutsch誌)。関口先生と英語の斎藤秀三郎を対比させて論じたものです。それぞれの分野での巨峰ともいえる存在です。そこでは it の議論と es の議論が並行的であるようなことが紹介されていました。
關口存男『例題本位 和文獨譯の實際』東京:日光書院, 1932.
を入手しました。『独作文教程』よりずっと小型ですが、精神には通じるものがあります。
88頁には「あいつには癪に触る点が多々ある」が例で、独文は Es ist vieles an ihm, was mich aergert. です。私などは Es gibt ... とやってしまい、Es ist はなかなか書けません。この項目は an の練習が主眼です。「私が彼の性質として感心るるのは」というのも、Eigenschaft などといった名詞をつい使ってしまいますが、Was ich an ihm bewundern muss と an を用いるところがポイントになっています。こうしたことには背景に膨大な例文収集があるからなのかと想像しています。
原文はそんな意味ではなくて、現世を嘆いた、多少宿命論的な考へを發展させた第十章の終りに、我々の運命を如何にすべきかは神々が最もよく之れを知つてゐる。我々の望みを以て神意を操らんとするが如きは益なき業である、といつたやうな事を述べたのち、けれども若しユピテルに祈を捧げるとすれば........
Orandum est ut sit mens sana in corpore sano.
健康なる肉體に健康なる精神の宿らんことを祈れ.
と云つたので、mens sana in corpore sano だけを切り離して別意を含ませたのは後世の仕業である。 (pp.123-124)