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関口存男コミュの周辺 雑談

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 意味形態とか冠詞論とかむづかしいものでなく、肩のはらない自由なトピックを立ててみました。

ドイツ語学習の目的

 今日はこのコミュニティが同じMIXIにある英語関係のそれとは全く違った点をいおうと思います。関口先生はドイツへいったことがありませんでしたが、その話すドイツ語は声だけ聴いているとドイツ人と区別のつかないほど達者であったといいます。これには複数の証言があるので本当のことでしょう。それだけでも私たち凡人はひたすら感心してしまいますが、関口自身はそうしたことにあまり価値を置いていませんでした。ドイツ語を学ぶ目的については関口の「わたしはどういう風にして獨逸語をやってきたか?」という文に記されています[初め『月刊ドイツ語』昭和24年に一年間連載。『趣味のドイツ語』『関口存男(の生涯と業績)』に再録]。そこではドイツ語学習の目的を Philologie と Linguistik に分けて、ぺらぺらしゃべくるのは(それはそれでいいことと認めながらも)薄っぺらな実用語学の範疇にいれています。そしてそれは Linguistik に配当されています。ここにはもう少し程度の高い実用語学も含まれるのですがそれは省略するとして、関口は実用語学を重んじつつも文化語学に傾斜していると言っています。西洋人と話しができたり缶詰のレッテルが読めたりすることではなく、ちゃんとした書物がきちんと読めるということが究極なようです。ここで書物といっているのは哲学の本も含まれている筈です。関口のエッセイにはドイツ哲学の思想に基づいた人生論がここかしこにみられます。だから本当はぺらぺら語学も達人なのにわざと、むつかしい事はよく知っているくせに、会話や聞き取りとなるとまごつく学者の陣営に属するのですと言っています。これは謙遜でも卑下でもなく、ドイツ=フィロローグとしての矜持でしょう。
 こういう意見は英語コミュニティでは全然通用しません。あちらでは小学生に英語を教えるのは、早すぎる、いや早い方がよりよい、と喧々囂々ですが、関口先生がこれを聞いたらきっと、そんなこと議論している間があったら、御自分が英語のくそ勉強したらどうですか、というだろうなあと想像して思わずニヤリとしてしまいます。(ぷりんすはくそはしますが、ドイツ語のくそ勉強は怠っているので恥ずかしい限りですが)
 こんなエピソードもありました。ある人が関口先生はドイツへ行ったことがないのですかと言ったら、御自分のドイツ書のぎっしりつまった書架を指して、ここにドイツがある、と言ったとか。連想したことがあります。トマス・マンはナチに反抗してアメリカに亡命しましたが、最後まで節を曲げずに
  Wo ich bin, ist Deutschland. (私のいるところにドイツがある)
と誇りを失わなかったそうです。関口の言葉というか精神とつながるものがあると思いました。

コメント(34)

聖書の句について

 上の書き込みについて、聖書のどの句なのですかと、質問を受けました。マタイによる福音書7章7節です。新共同訳を見ますと、

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。

とあります。ところでこの文は関口の『独作文教程』=『著作集』2, S.277 に範例として使われています。

Bittet, so wird euch gegeben; suchet, so werdet ihr finden; klopfet an, so wird euch aufgetan.

範例の主旨は、命令文または要求話法が先に置かれる仮定部分になるという文型の練習でした。仮定部分の次は上の文の他には und+正置文でもいいという。ギリシア語原文はこの形になっています。

Αιτειτε, και δοθησεται υμιν, ζητειτε, και ευρησετε, κρουετε, και ανοιγησεται υμιν·

ふたつの文を比べてみますと、命令法、未来形、代名詞の使用などはぴったり一致しています。統語的問題はギリシア語のそれの影響を強く受けているのかもしれませんが、それは聖書特有のいいまわしとか、聖書のそれ以降のドイツ語に及ぼした影響を精査しないとわかりません。
 ところで注目されるの次頁に与えられる文例は三つともことわざだということです。ことわざにはAであればBであるという命題を述べて、要するにAをしろという命令・勧誘の型であるものがあるということですね。便宜のために三つの例文を書き抜いておきます。
Sei reich, und du hast in allem Recht. 金差へあれば言ひ分は通る。
Sage mir, mit wem du umgehst, und ich will dir sagen, wer du bist. 汝何人と交際せるやを告げよ、さらば我汝が何人なるやを告げん。
Den Kopf halt kalt, die Füße warm, das macht den besten Doktor arm. 頭寒足熱は名医の食ひ上げ。

 なお求めよ・・・の文は『故事俗信ことわざ大辞典』1144b に見出しとして立てられているので、ことわざとみなされることもあるわけです。

 「ことわざ掲示板」(http://8728.teacup.com/pinetreeyummy1105/bbs)にも関連投稿がありますので、ごらん頂けたら幸いです。
孤高の関口文法

>Auty さん
 ドイツ車はやっぱりあこがれのマトですね。エンジンや馬力が違いますから。でも日本の高速はあちらのアウトバーンと違うから、仮に宝くじにでも当たって購入したとしても、宝のもちぐされみたいになるでしょう。
 それにしてもすごい先輩をお持ちなのですね。『冠詞論』は究極の業績です。正直に言うと、ぷりんすには難し過ぎてわかりません。とても有益だという臭いは感じるのですが・・・
 Auty さんは実用翻訳の方面かと思いましたが、聖書とかヘッセとかお読みで、結構文学志向なのですね。関口文法とは関係なくとも、ドイツ文学や語学一般のことで面白いことがあったら、お知らせ下さい。関口の Philologie 志向については以前書きましたが、ドイツ文化に幅広く触れるということは関口先生の意向にも合致することだと思っています。

ここから今日のかきこみ分です。(標題は一番上に)

 関口に対する批判の理由のひとつに、論文中に先行研究がきちんと挙げられていないということがあります。たしかにドイツ語学の書籍や論文が引かれていることは皆無といっていいでしょう。これは関口がわざとやっていることだと思う。あれだけの読書量であるから、自分が専攻する分野のドイツ語学の研究書を読んでいないわけがない。
 これについて古典ギリシア語のサイトをアップしている近藤司明さんが次の様な言葉を書いておられます。

60 一般的な著作でも学問的な著作でも,固有名詞の使用が少なければ少ないほど作者の考えは深く成熟しており,逆に固有名詞が多ければ多いほど,言いかえれば,知識の量に頼れば頼るほど,その著作は生煮えで,考えは浅いものだ.
   (http://home.highway.ne.jp/skondoh/GreekTips.html)

この点からすると関口の行き方に賛同する人もあるというわけです。ドイツ語の研究史よりもドイツ語そのものに関心があれば、文献目録よりも、ドイツ語の例文で埋まった論文の方が価値が高いということです。
 しかし関口の価値を研究史の中に位置付けてみようとすれば、後代の(関口の)研究者が、通常の論文の様に同じテーマで先行する研究業績を補って、関口の著作を読み進めないといけないわけですから、これは相当にしんどい作業になるでしょう。
ぷりんすさん
ちょっと変な方向の話ですが、ギリシア語のサイトを作っている近藤司明さんとはどういった方ですか。
ぼくはちょっとギリシア語もやってたことがありまして、そのサイトは知っておりよく見ていましたが、どういう人が作っているのか不思議に思っていました。
 名前書き間違えました。近藤司朗さんが正しいみたいです。
古典研究家です。聖書関係は教文館からも業績を出版されています。ルキアノスの翻訳は連載のかたちでネット上にアップされていました。メールのやりとりをしたこともあったのですが、サイトにもありますように今はメールは停止しています。ネットでは時々いやなことが起こるみたいです。サイトのページに自己紹介があったかもしれませんが、今もあるかどうかは確認していません。ここのところ更新も頻繁ではないようです。ホメーロスの朗読については音源情報は使わせて頂いたことがありました。
 近藤さんも関口に通じるような考えをお持ちかもしれませんね。直に会ったことはありませんが・・・
ドイツへ行かなかった関口

 関口は生涯をかけて研究したドイツ語の国へはついに足を踏み入れなかった。これについてはいろいろといわれているが、それほど大きな問題なのかどうかわからない。関口の若いころは外国に行くというのは大変であった。一般人が渡航するのは殆ど不可能であった。ぷりんすも子供の頃は自分が一生のうちに外国にゆけるなどとは思ってもみなかった。確かにその国にゆけるのは勉強のためには大いに有利であろうが、別にドイツに行かなくてもドイツ語ができるようになる人もいるし、ドイツに行ったからといってドイツ語ができるようになるわけでもない。

 不出戸、知天下。不窺牑、見天道。其出弥遠、其知弥少。是以聖人、不行而知、不見而名、不為而成。
   (『老子』第四十七章)
戸外へ出ずに、天下を知る。窓からのぞかずに、天道を見る。出てゆくことが遠ければ遠いほど、知ることは益々少なくなる。それだから聖人は行かずに知り、見ずして名付け、為さずして成る。

この中国の古典文の真意を把握することは難しいが、関口のドイツへ行かなくても、ドイツ語の深奥に到達したことと大いに連関しているような気がしてならない。『源氏物語』を英語に訳したアーサー・ウェイリーはついに日本には来なかった。かといって彼の日本理解を疑う人はいないだろう。インドに一度も行かなかったが、古代インドの祭式の研究に大いなる成果を挙げたオランダの学者もある。英語の斎藤秀三郎も英米に行ったことはなかったそうだ。関口にとって空間的にドイツを訪れることはそれほど重要ではなかったのかもしれない。
ことわざのライセンス

>Auty さん
プロシア王姫の写真ありがとうございました。あちらの肖像画の伝統には素晴らしいものがありますね。
 ZOP は Oberstufe の修了試験ですか?だとしたらすごくむずかしいんですよね。
Siebenmal fallen, achtmal aufstehen.
で頑張ってください。(ことわざ辞典にでていた七転び八起きの独訳です)
ぷりんすは ZDF しか持っていません。独検うけても2級も怪しいでしょう。でもドイツ歌曲聴くのは好きです。Max Weber 読むのは好きではありません。なにしろ一文が半ページくらい延々と続きますから。(><;

さて今日の本題です。

関口存男の『独作文教程』は難しい。それもそのはず範例の文はニーチェのものだったりする。仮定の認容(2)の章の枠囲みの範例は次の通り(著作集 2, 233)。

悪人たとへ如何なる害を為さんとも、善人の害こそは是れ最も有害なる害なり。
Und was für Schaden auch die Bösen tun mögen: der Schaden der Guten ist der schädlichste Schaden.
         (Nietzsche, Also sprach Zarathustra.)

学習のポイントとは、疑問詞で始まる定型後置文に auch が挿入される点である。この文はなんとなくことわざっぽい感じがするが、どうしてだろうと考えた。通常の基準だと<悪人=悪い、善人=良い>だけど、ここでは<善人=最悪>となっている。日常の論理を超えた命題となっている点で、読む者におやおやっと思わせる力が働いている。
 『歎異抄』第三段の

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
(『しんらん全集』3 [東京:普通社 1958], 188)

というのも逆転の論理で、善人<悪人 という関係である。
 こうしたテクニックは修辞法でなんと呼ぶのか識者に教えて頂かないといけないが、ことわざたる要件のひとつであると思う。善人は良い、悪人は悪い、という日常論理の基づいた命題ではことわざにはならないから。
 ちなみに、善人なをもて・・・ は『故事俗信ことわざ大辞典』に収録されている。
 関口の文章論

 関口には独作文の教本がいくつかあるが、ドイツ語文章論といってもよいくらいのものである。この分野には相良守峯の基本的著作があるが、どっかへいってしまったので、今は両者のつきあわせができないので残念である。
 さて関口『和文独訳の実際』=『著作集』4, 113 の範例に
  樹が多すぎて森が見えぬ。
  Man sieht den Wald vor Bäumen nicht.
とあるが、初め日本語に「木を見て森を見ず」という熟した言い方があるのにどうしてそう言わなかったのかなと思った。しかしこの章を読み進めて納得がいった。そもそもここの章題は【30】「... ... の余り」といふ vor. というのである。この vor の用例として vor Freude(悦びの余り) vor Ärger(腹立ちまぎれに)・・・等々の熟語的句が沢山列挙されているが、いずれも心理的な原因を示しているものばかりである。だから範例も 木の余り > 木が沢山あることに惑わされて という心理的な原因と見抜いているわけである(これは慧眼だと思う)。森は眼前にあるのだけれど、部分にとらわれて全体を見ることができないということである。物理的に見ることができないのではなく、心理的に見ることができないということわざ的成句の意味が、この解説でよくわかる。
 ところで『故事俗信ことわざ大辞典』306c には「木を見て森を見ない」という見出しになっており、出典・用例が示されていないので、元来の日本語でなく外来のものであることが示唆される(とは明示的には述べられてはいないのだが)。英語ことわざにも You cannot see the wood for trees. というのがあるので汎ヨーロッパ的なことわざなのかもしれない。
 なお英語の for にも上の vor によく対応する用法がある。He jumped for joy. Cf. "Other prepositions of cause are for (mainly with nouns of feeling) and .....(Geoffrey Leech and Jan Svartvik, A Communicative Grammar of English, 2nd ed. [Longman, 1994], p.104 =§200).
関口の文法用語

 関口の書にはユニークな文法用語が多い。今日必ずしも継承されて広く使われているものばかりではない。また関口が創始した用語かどうかは、我が国のドイツ語教育史に暗いので判定ができないのが残念である。
 それはともかくとして、関口の命名にはなるほどと思わせるものも多いので、関口の文法用語小辞典のようなものができたら便利だろうなと思う。関口の学会(冠詞研究会)あたりで考えてもらえたらよいのだが。
 関口の書で知った用語に「冠飾句」というのがある。形容詞は名詞に前置するのと(格語尾付)、sein 動詞を挟んで後ろに置く場合(格語尾無し)がある。普通は前者を付加語的用法、後者を述語的用法と呼び、これは英文法でも同じ呼び方をしているのでよさそうである。形容詞はそれにいくつかの単語をくっつけて形容詞句としていくらでも長くすることができる。これは形容詞句であるが、この長い句の置き方には三通りがある。
 【1】名詞の前に置く。
 【2】関係代名詞を使って sein の述語にする。
 【3】コンマを挟んで名詞に後置する。
英語の場合は長い形容句は名詞に前置することはできず、後置するか関係節に回すことになる。つまり【2】【3】だけであるので、【1】はドイツ語独特のものと言える。だから関口がこれを冠飾句と特別の命名をしたのは十分に理由のあることである。これの例文を『和文独訳の実際』9=『著作集』4, 147 から借りて示そう。
Der [sowohl für uns als auch für die Welt verhängnisvoll]-e Zweite Weltkrieg kam im Jahre 1945 zum Schluss.
我々にとつても世界にとつても共に禍なる第二次世界大戦は千九百四十五年に終結した。
角括弧で包んだ部分が冠飾句であり、格語尾は外側に付けてみた。(このヘンな表記法は関口のものでなくぷりんすのもの)
 冠飾句の基本部分には形容詞ばかりでなく、現在分詞・過去分詞・未来受動分詞があり、その場合は更に難しいので、別の機会に学習してみたい。
冠飾句

 「冠飾句」という用語は関口以外にも用いている人がいました。三好助三郎『独英比較文法』(東京:郁文堂, 1968), 105, 238 です。前者の頁には「英語では形容詞が無変化のためこの用法はなく、長い形容句は名詞の後に置かれる」という説明もあります。例文もひとつ転記しておきますと、
 Sie ist eine [in jeder Hinsicht lobenswert]-e Frau.
 She is a woman, in every respect, worthy of praise.
 どの点からも感心な女だ。
英語に冠飾句がないという説明はいいのですが、その理由が「形容詞が無変化のため」というのには疑問が残ります。フランス語では形容詞は名詞の性数に一致した語尾が付きますが、原則として名詞に後置されます。形容詞後置型と他の文法事象の何が同時にあらわれているかという観察は言語類型論でなされていますが、その相関性はとりあえずは偶然ということにしてあって、因果関係をそこに求めるといったことはしていないようです。
諺パロディ

 関口のドイツ語学習書には文法解説や読本の合間合間によくシナリオ形式の問答がさしこまれている。
   〜〜〜〜〜〜〜
先生: ・・・・事実は事実です。事実は子供の如く無邪気で、泣く児と事実には勝たれぬといふ諺があります。
生徒: 地頭じやありませんか?
先生: まあ大体同じやうなものです。
         (『獨逸語大講座』3 [Tokio: Gaikokugo Kenkiuscha, 1931], 189=『著作集』ドイツ語学篇6 [東京:三修社, 1994], 189)
   〜〜〜〜〜〜〜
関口先生は諺がお好きな様で、諺への言及がしばしばです。ただしここでは「泣く児と児童には勝たれぬ」としたら、パロディとしてもっとよかったかも。
逐語訳と漢文訓読

 関口が翻訳の名手であったことは『ファオスト抄』などをちょっと開いてみればわかることであるが、学習者にそうした和訳文を作ることを求めるのは教育的ではない。学習書の場合には関口は<逐語訳>というのを多用する。ドイツ語本文の一定の部分を取りだしてその直後に直訳的日本語を添えてゆく。従ってその部分部分の順序はドイツご原文の順序ではなく、直訳的日本語をそのままつないでゆくと、まあ和訳文らしきものになる、すなわち日本語的順序に並べかえてあるということである。従って統語論的規則を学ぶ場合にはあまりよくないかもしれないが(定型倒置や定型後置などはこれではわからない)、日本語を介在させて学ぶ以上もうこれは避けられないものであろうし、もっともよい工夫であろう。関口自身は『新ドイツ語大講座』訳読編の序で、この逐語訳を漢文訓読になぞらえている。この喩えは当を得ている。漢文訓読は中国文語文の受容を容易にした偉大な便法であったが、学習のある段階ではこの逐語訳も威力を発揮すると思う。前置詞句や副詞句、不定詞句といったものがひとかたまりとして把握されるようになっているので、文の構成要素を単語ごとでなく一括して把握する練習の手引きになる。英語と違ってドイツ語では不定詞の目的語は前置されるので初学のうちはどこまでが不定詞句なのかわかりにくいが、逐語訳を介在させて理解に資するというのは関口の教育面での発案の大きなひとつとして認識しておいていいと思う
関口と読本

 関口の学習指導書はその文法説明と例文に他の追随を許さないものがあり、そこに目を奪われがちだが、読本部 Lesestuecke にも注目すべきものがある。逐語訳と文法解説は周到であるが、選ばれている文章も多岐にわたり、長年にわたり蒐集した材料には関口の広い視野が反映している。このことは『新ドイツ語大講座』=『著作集』8 の序にも「またあらゆる知識・文化・思想・情操の問題に対して深き関心と野心を抱いている学徒を眼中において編した」とし、「語学力以外に、人生・社会・人心に関するある種の深い物の感じ方を刺戟するように内容を説くに吟味して編纂した」とある。この方針は関口の Linguistik と Philologie の違いについて述べた文章の内容とも呼応するもので、薄っぺらな実用語学を念頭には置いていないことの宣言とも受け取れる。そう思って読本部を眺めると、どれもあだやおろそかに扱えないなあという思いに至る。
 ところで『獨逸語大講座』第二巻=『著作集』5の巻末には W. Schmidtbonn の「木製の乙女」が収録されている(初学者用に関口が書き直している)。木製の少女像に生命が吹き込まれるお話であるが、オウィディウスの『変身物語』が想起される。もうひとつ連想するのは、ラフカディオ・ハーン『遺文学異聞』中の「ライオン」である。これはハーンの創作でなく、インドの古典寓話集『パンチャタントラ』の一話を基に再話したものである。関口は逐語訳と文法註を付けているだけであるが、この物語の寓意について語ったならば、彼の博識を縦横に駆使してその意味の深奥にまで到達したことであろう。
デンマーク???

 関口の教科書には、段落の初めに枠囲みでその内容に対する小見出しが付くことが多い。記憶の助け、あとからの参照の便、のための関口の工夫である。
 『入門科学者のドイツ語』(1943; Neuausg. 三修社, 1960), 162=『著作集』XII, 334 にある小見出しには、
「デンマーク、ギリシャ系統の男性弱変化名詞に関する注意」
とある。デンマークというのがヘンな感じがする。その段落の内容は -et -at -it .... などアクセントを有する語尾に終わる男性名詞はたいてい弱変化であると教えている。だからデンマークはラテンの書き間違いであろう。しかしラテン、ギリシャの順序はおかしい。ギリシャ、ラテンの順序の方がすわりがよい。段落中にはたくさんの単語例が列挙されていて、クルーゲの語源辞典を見ればそれらがギリシャ・ラテン語起源かどうかがわかるだろうが、今は調べるゆとりが全くない。
 こうしたことは版元で正誤表などを末尾につけて欲しいものだ。
ゆるゆる急げ

 関口存男が折に触れてことわざに言及したことは既に述べましたが、『改訂標準初等ドイツ語講座』=『著作集』IX, 364 にも囲み記事で触れています(原本の書誌事項についてはよくわかりません)。そこでは Irren ist menschlich.(迷うは人の常なり)と Eile mit Weile.(ゆるゆる急げ)が挙げられています。どちらにも関口のコメントが付いています。後者はラテン語の Festina lente. に由来することは明らかです。これをドイツに導入した人の手腕には並々ならぬものがあります。アイレ-アイレの押韻を入れてより口調のいいものにしたのですから。関口がこの点に言及しなかったのは誠に残念でした。なおこの汎ヨーロッパ的ことわざのその他の言語での言い方は、ことわざ掲示板081312=過去ログ集 II, 31-32 に列挙されています。
初等ドイツ語講座

 数々ある関口のドイツ語入門書の中でもこれは決定版ではないかと思う。関口のもののみならず、他者執筆のドイツ語入門書を含めても、指が一番に折られるものではないかとすら感じている。全部で600頁を超える分量であるが、読本部や試験問題をもすべてあげてしまえば、今日の大学での教養のドイツ語としては十分過ぎるくらいであろう。これは初め上中下の三巻本として出た。ある時期に中味はそのままで一冊に合冊したものが出た。『著作集』IX巻には一冊本として再刊されている。この再刊には『改訂標準初等ドイツ語講座』とある。ということは改訂前の版があったことを想像させる。また当初から標準が付いていたのかどうか記憶が定かでない。奥付には、「原本:改訂標準初等ドイツ語講座/1981.4.1. 第12版」とあるばかりである。版元は初版や、改訂版、刷と版を区別した書誌事項をきちんと記しておくべきであった。人権侵害表現や複写についての注意書きはあるが、こちらの方がもっと重要であろう。
 以下は個人的なことがら。高校生のときこの講座の上巻を古本屋で150円で見つけた。わりと短期間で読み終え、次に下巻を150円で買った。中巻はその値段で見つからなかったからである。下巻も読み終えたが、クロスレファレンスで中巻の記載が参照されることがあるので、やむを得ず中巻を250円で買った。従って上巻→下巻→中巻という変則的順序で読んだわけである。カバーのブルーの色はみな違っている不揃いの取り揃え本になった。段ボールに詰めて物置のどこかにある筈である。
 これにはお孫さんの故関口一郎教授に手になる改訂新版があるが、関口の個性が薄まったような気がする。表記法を今風にしたり、人権侵害表現を手直ししたりしたのであろうか。細かく比較したわけではないので、わからないが。
日本的笑い

 関口存男の文法書は文法事象の細かい説明があったあと、それを裏打ちする豊富な文例があるのが特長である。更にはまとまった内容の文章も挟まれ、読本も兼ねるようになっていることが殆どである。読むことの重要性を常に意識した結果である。内容も多岐にわたり、どこにこうした材料のストックがあるのだろうと感心することしきりである。関口自身が書き下ろしてあるものも多い筈だ。というのも直前に説明してある文法事項と呼応していることがあるからだ。
 さて『やさしいドイツ語』(三修社, 1951), 77-86=『著作集』XII, 85-94 に "Das japanische Lachen"(日本的笑い)という文章がある。不可解とされる日本人の笑いを分析したもので、ちょっとした日本文化論になっている。これから想起されるのが、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の「日本人の微笑」という文である。私はこの論文は秀逸なものと評価している。現今の社会言語学でいう丁寧さのストラテジーを先取りしているからである。上の読本を、もし関口が書いたのだとしたら、きっとハーンの文章を読んでいたのではないかと想像される。今は想像にとどまり論証することができないが、もし関口がハーンを読んでいたとしたら痛快このうえない。
糞のことわざ  ぷりんす

 関口にはコラム欄というか枠囲みの小記事が多い。多分雑誌の埋め草としたものを、後生大事に再録しているからかもしれない。その話題には諺がでてくることもしばしばです。連載的になっているものもあるので、それは一度整理して索引でも作ったおくといいかなあと思う。ただし諺研究に資することはない。思い付きを述べているからだけである。だが逆に関口の人となるを知る格好の材料になるやうだ。
 『中級講話 趣味のドイツ語』(東京:三修社, 1954), 327=『著作集』X, 327 の囲み記事に「諺にいわく:女の一心は岩をも貫く。さて其の次が面白い:男の一心は寝床に糞をたれる・・・・・・」とある。初めて読んだときにはことわざについて何にも知らなかったので、後半は関口の付加かと思った。なにしるなにかというと糞を話題にするセンセだから。その後ことわざの勉強を始めたので、この句の後半部も由緒あるものであることを知った。例えば『譬喩尽』四に「女の一念岩をも透す、男の一念寝間に糞たれる」とある。後半のヴァリエイションには「男の我には居糞を垂れる」「男の性は閨に糞する」というのがある。男が一旦発心したら、便所に行く間も惜しんで熱中することをいうらしい。関口の真意はドイツ語学習を始めたならば、初志を貫けということである。岩を貫くのは女が感情的だからであるというコメントがあるが、よくわからない。
伝統的学習の効用

 英語に関しては、オーラル(あるいは実践的英語)主導か、従来の伝統的訳読方式(並びに文法学習)でよろぴい、という論争が永遠に続いています。ひところ話題となったのが
  平泉渉/渡部昇一『英語教育大論争』(東京:文藝春秋, 1975)
ですが、その184頁に伝統擁護派の渡部教授が

以前、私はドイツ留学を志す人を何人か個人的に指導をしたことがある。私は常に関口存男のドイツ文法を与えて先ずこれをマスターすることを要求した。

と書いておられます。具体的にどの本であるか記されていないのが残念ですが、多分『ドイツ語文法教程』ではないかと想像します。たしかにこの書をしっかりとあげれば、ドイツへ行く前の国内での学習では充分でしょう。さらに文章はこう続いています。

それで私は基本的な文章を正しく朗読して暗記し、文法の概要を簡単な応用作文のできるまで徹底的にやることだけを要求した。

これは関口が主張している学習法の基本です。ドイツ留学後に PND(Abitur相当試験)にパスしたのはこれをちゃんとやった人だとの効能書きも付いていました。渡部教授は関口と上智の同窓生ということもあり、特に親しみを感じたということもありましょうが(渡部教授は他の箇所でも関口を引き合いに出しています)、関口のいう Philologie に共鳴していることもあるでしょう。
 なお英語論争の方はオーラル主導の方が優勢になり、ALTの導入、文法を教えない、時間数を減らす(ゆとり教育)といった<改革>が進行しましたが、その結果は惨憺たるものです。現在分詞と動名詞の区別がつかない女子大生を輩出させました。関口先生のことばを借りれば、ああ、めでたかりけり、めでたかりけり、ですね。
渡部昇一のドイツ語学習について、ご存知かもしれませんが、『知的生活の方法』の次のような文は、プリンスさんが書いておられることと関係があるように思います。「語学の規則や、基本文例を繰り返して覚えるのはむしろ半端な時間に限る。大人になってからも、私は関口存男の『独作文教程』の例文全部を−中には十数行にわたる長いものもある―自宅から通勤時間の中で覚えた。」

なかなかまねできないけれど、すごくよい方法なんだろうなと思います。
イクブンドクオさん

ちょお亀レスになってしまいました。ごめんなさい。
渡部昇一教授は平泉渉氏との英語教育論争で、とても伝統的立場を擁護しておられました。関口式の語学学習は近年の英語教育者の提唱するものとは対極にありますが、結局ドイツ文化に踏み込むために書籍を読み込んでいこうとするのであれば、むかしながらのやり方につきるみたいです。関口研究の有力者有田潤教授も、テープ・CDなどの音声教材が開発されても耳からわかるゲーテやトマス・マンなんかあり得ませんよね、と書いておられます。
 渡部教授自身も、ドイツへ留学希望する学生には関口の教本をしっかりやるように勧めているともいっておられます。
 こうした人たちには共通した糸が一本通っているようです。
関口の文例蒐集

 関口の展開する様々な議論は豊富な文例により裏打ちされている。膨大な読書量から規則が帰納され、その規則を演繹的に適用してさらなるテクストの読解に進んでいった過程が推測される。こうした文例はどのようにして蒐集されていったのであろうか。
 有田潤「「意味形態」批判」『ドイツ語学講座』II (東京:南江堂, 1987), 48 に関口が『新ドイツ語文法教程』に引いた小咄が引かれている。
„Könnte ich wohl mal den blau-weiß gemusterten Badeanzug im Schaufenster anprobieren?“
„Im Schaufenster? Nicht möglich, gnädige Frau! Da müste ich Sie schon bitten, sich in unseren Umkleideraum zu bemühen.“
「ショーウィンドーの水着を試着してよいか」を「ショーウィンドーで水着を試着してよいか」と取り違えたという笑い話になっている。つまり im Schaufenster が名詞付加的 (
adnoinal) にも動詞付加的 (adverbal) にもなり得るということで、このふたつの規定の仕方が意味形態の問題となるということだ。ここでは意味形態のことを話題にするのではなく、上の文例がどこからきたのかということである。
 同じ有田潤氏は2000年6月11日に都立大だ開催された冠詞研究会で「関口ノートをめぐって」というハンドアウトを配布された。その2頁目にノートの一部が複写されている。
[6] 附加語を述語(消してある)と誤解した際の Unsinn (及び umgekehrt)
という見出しの下に手書きで(フラクトゥアの筆記体)ごちゃごちゃと書いてあって、下に切り抜きが貼り付けてある。但しIm Schaufenster? Nicht möglich, のところは Beim besten Willen nicht möglich, となっている(学習者用に書き替えて使用に及んでいる)。切り抜きの右側には大きめの字で adnominal adverbal と書き付けている。そしてその下には 誤譯例 としてタイプライターで打った長めの文例が貼り付けてある。
 関口はノートに書き記した未完の文法記述の関連する文例を各所に求め、タイプで打ち、あるいは切り抜きなどして、随時該当箇所に差し挟んでいった。膨大な文例の個々の出所まではいちいちメモされていないので、もとの書籍・雑誌・新聞などを同定することはもはや不可能に近い。 
2009年念頭のご挨拶

みなさま あけましておめでとうございます。Glueckliches Neues Jahr!

勉強していないので、書き込みがあまりできませんでしたが、コミュメンバーの数が増えているので、何か入れないといけないかなあと思っています。

関口先生の跡を継いだ真鍋良一先生に「二大語学者」というエッセイがあります(『真鍋ドイツ語の世界』初出は多分 Mein Deutsch誌)。関口先生と英語の斎藤秀三郎を対比させて論じたものです。それぞれの分野での巨峰ともいえる存在です。そこでは it の議論と es の議論が並行的であるようなことが紹介されていました。

私は実は外国語のことわざに興味をもっていますが、ことわざ関連の言及もありました。『独作文教程』の課題例から、ことわざを訳す場合に、外国語の対応することわざを充てるか、原ことわざの雰囲気をうまく伝える訳文を作るか、といったことが書かれていました。

私の年来の主張は、対応することわざはしばしば微細な差違があるので、それをそのまま訳の替わりに充てることには反対です。関口先生も同様なお考えをお持ちであることがわかり、我が意を得たりの思いです。今年は具体例を挙げて、皆様と一緒に考えるよすがにしたいと思います。
独作文

 関口はひとつの日本文に対応する独文をいくつもいくつも示しました。まさに変幻自在にことばをあやつるといった感じです。
 一方で関口の独作文には双方向というのが言われます。独文→日文→独文 といったコースで最初と最後の独文が同じになっている、すなわち独文の日文の間には双方向の矢印が置かれるということです。
 上のふたつの事象は相反することのようですが、二番目のことがらは学習途上でのことがら、一番めは初級中級を終了した自在の境地といったことを表しているのだと思いますが、いかがでしょうか。
 關口存男『例題本位 和文獨譯の實際』東京:日光書院, 1932.
を入手しました。『独作文教程』よりずっと小型ですが、精神には通じるものがあります。
 88頁には「あいつには癪に触る点が多々ある」が例で、独文は Es ist vieles an ihm, was mich aergert. です。私などは Es gibt ... とやってしまい、Es ist はなかなか書けません。この項目は an の練習が主眼です。「私が彼の性質として感心るるのは」というのも、Eigenschaft などといった名詞をつい使ってしまいますが、Was ich an ihm bewundern muss と an を用いるところがポイントになっています。こうしたことには背景に膨大な例文収集があるからなのかと想像しています。
ドイツ語だけではない関口

 昭和の初めにプラトン=アリストテレス學會により編纂されたギリシア=ラテン講座にはたしか三木清も関わっていたと記憶する。この講座の第二部がラテンであるが、各巻は呉茂一による文法解説を冒頭に配し、残りは様々な執筆者によるラテン語・ラテン文学についての啓蒙的エッセイで埋められている。その中で眼を惹かれたのが関口存男である。関口はドイツ語の他にも様々な言語に通じていたと言われ(ラ・フォンテーヌの抄訳もある)、自伝によればラテン語は学習を開始した翌年には講師になったとのすごい逸話がある(従ってもし関口を超えようと思うなら、当該言語の学習を開始する前に講師になる必要がある)。しかし専門家に並んで毎回寄稿していたとは知らなかった。もちろんこれらの記事は著作集にも収められていないので記憶に留めておく必要がある。さて今回読んだのは次のものである。

關口存男「ユウェナリス」プラトン=アリストテレス學會編輯『ギリシア=ラテン講座(第二部)ラテン』II (東京:鐵塔書院, 1931), 113-124.

先ずはユウェナーリスについての基礎的知識を提供し、『諷刺詩』の中から数行ずつ選んでは和訳を添え、そのあとは関口のコメントである。初等文法的な解説ではなく、内容についての論評である。120頁以下には Satira を諷刺詩と訳すのが当たっているかどうかの議論がありこれは重要である。さてことわざにもよく言及していた関口であるから、「健全なる精神・・・」が含まれる箇所に言及されるのは予想されることであった。関口の文をそのまま引用しよう。

原文はそんな意味ではなくて、現世を嘆いた、多少宿命論的な考へを發展させた第十章の終りに、我々の運命を如何にすべきかは神々が最もよく之れを知つてゐる。我々の望みを以て神意を操らんとするが如きは益なき業である、といつたやうな事を述べたのち、けれども若しユピテルに祈を捧げるとすれば........
  Orandum est ut sit mens sana in corpore sano.
  健康なる肉體に健康なる精神の宿らんことを祈れ.
と云つたので、mens sana in corpore sano だけを切り離して別意を含ませたのは後世の仕業である。  (pp.123-124)

要点はこれで尽きている。健全な精神は健全な肉体に宿る、といった間違った成句が世に膾炙しているが、これが誤りであるというのがぷりんすの年来の主張であった。しかし昭和の初めに既にその誤りを看破し、しかもヒューマニスティクな立場で論評をしていた関口は流石である。
関口の後継者

 日本のドイツ語界には関口の影響を受けた人が多かったが、だんだんとその数は少なくなっていくような気がして寂しい。浜松医科大学の佐藤清昭教授は直接の弟子ではないかもしれないが、関口の研究家であり、その成果もハンパではない。関口の未刊遺稿も視野にいれて、相当につっこんだ研究をされている。その先生も学習書を出している。

佐藤清昭『中級へのドイツ語:小説を読むーーベル:気まぐれな客たち』東京:三修社, 2000

姉妹篇もあり、体裁を変えたものもあるようであるが、ぷりんすが見たのは上の一冊だけである。「はじめに」に「関口存男氏の考えから大きな影響を受けました。その意味でこの本は、関口氏の言語学、あるいは言語哲学の入門書と言うこともできます」と明言されている。
 確かに関口のドイツ語本を彷彿とさせる部分はある。120-121頁の「再帰代名詞は主語と同じもの?」という記事は、<現実の自我>と<理想の自我>を対峙させて説くというもので、関口以外のドイツ文法の書にはでてこない論法である(説明中に関口の書が参照させられているのはこの項だけである)。
 しかし全般的には関口のあのアクのつよい議論の進め方はなく(それが人気の的になっているのだろうが)、ずっとスマートになっている。関口ファンとしてはそれが物足りない。仮名書きは関口式だが der はデールでなくデーアになっていて、やはり佐藤式である。101-102頁の「文法形態の上」と「意味の上」というのは明らかに関口の<意味形態>が念頭にあったに違いない。
 いつか関口のわかりにくい説明を解説するような形で、関口入門を書くとしたら、佐藤教授を措いて他にはないだろうから、是非お願いしたいものだ。

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