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仏教が好きコミュの南無について

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「南無」について


南無は、古代インドのサンスクリット語のnahm(ナーム)の音訳。


意味としては、

「心から尊敬する」「おまかせします」

というようなことになると思う。


漢訳すると、「帰命」。

まあ、帰命というと、

「本源のいのちに帰る 」
「おおもとのいのちにもとづく 」

というような意味合いも、出てくるように思う。



「南無妙法蓮華経」

というと、

「妙法蓮華経」に、心から帰依します。
「妙法蓮華経」に、おまかせします。

ということになるだろうか。


「妙法蓮華経」とは、

白い蓮のようなすばらしい教え、という意味。



わたしは、だから、「南無妙法蓮華経」とは、

白い蓮のようなありかた 

白い蓮に象徴される生き方

──それを心から尊敬します。
──そういう生き方でいこうと思います。

というようなイメージをもっている。


この「白い蓮」というのは、

他を拒絶した純白という白ではない。

憎しみ、恨み、怒り、苦しみに満ちた泥にしかと根を張って、そこから茎を出して花を咲かす。

この泥が無ければ、純白の花は咲かない。

泥を否定したら、花はない。

泥のなかにある根っ子も、水中の茎も、空中に浮かんだ華も、みいんな蓮の花。トータルの存在。


〜〜兄弟コミュの「ブッダのことば」で、南無妙法蓮華経についてのトピが立てられました。
あちらは、原始経典をもとにしたブッダのことばによる気づきを語り合うというものです。

こちらのコミュのほうが大乗的な展開ができるので適当かと思い、トピを立ててみました。

コメント(13)

こちらの別トピで、村上光照さんという禅僧に、わたしが聞き書きしたものを投稿しています。
そのなかで、南無妙法蓮華経について、村上さんが述べられているところがありますので、再度、ご紹介します。

村上さんは、禅僧として道元禅師の教えを学んでおられます。
村上さんの南無妙法蓮華経のとらえかたは、村上さんが深い坐禅からつかんだものと思います。

そうしてまた、道元の『正法眼蔵』にある「法華転法華」を軸にした展開になっていると思います。

お話はすこし、表現はいちりんなりに変えてあります。

─────────────────────────

「南無」とは、仏さんの力に全部おまかせして、一生を預けきってゆくことをいう。

自分を仏さんに全部差し上げてしまうという。

そうすると、仏さんのほうから、自分を通して働いてくださる。



「蓮華」とは、純白の中の純白の光明。

穢れのない、己れのない、澄みきった世界。

一筋に自分をむなしくして、仏さんにゆだねきった境地。



大悟とは、心が澄みきって己れがなくて、仏さんのほうから照らしていただくことをいう。

自分の愚かしさ、人間世界の愚かしさに気づかせていただく。



己れの力ではないということを、はっきりと受け取らせてもらう。その途端に、ぐぐっと大安心の世界に入る。

すると、大悟徹底して過去世、現在世、未来世の三際をいっぺんに断ち切る、つまり輪廻を断ち切ることになる。

「一超直入如来智」

といって、凡夫のままに、いっぺんに仏さんの位に飛び込むことができる。



そういう坐禅が、妙法蓮華である。

そうなると、妙法蓮華を軸にして、すべてが回転していく。そういう生活の筋道、真理の道行きを「経」という。



仏法は、自分をみることに尽きる。

人を責めたりする暇なんてない。自分をよくみたら、むさぼる、腹たてるという煩悩ばかり。自分みたいなつまらん者に、いったいなにかできるかってことに、やっと気づく。



自分が人を助けるんじゃない、助けさせて頂ける。

ああ、ありがたい。そうして、南無妙法蓮華経と口に出るのが、ほんとの南無である。


どうしようもない自分が妙法蓮華経さまに照らされ、生かされ、なにかさせて頂ける。

それが、南無妙法蓮華経ということ。

─────────────────────────
なんとなく、上のお話は「南無妙法蓮華経」を「南無阿弥陀仏」に変えると親鸞さんみたいな感じですね。
自力が無くなって他力(仏力、本願力)みたいな感じで・・・。
「南無妙法蓮華経」も「南無阿弥陀仏」も「南無大師遍照金剛」も、

まあ、おんなじということもできますよね。

自分のはからいを越えた大いなるもの、それにおまかせする、という意味で。

もちろん、いろいろと理屈的には、ちがいはたくさんありますけど。


なにかレストランのメニューから、一品を選んで帰依するというんじゃなくて、

もう、ほんとうにそれしかない、もうくーまったくおまかせします、という心

そこに立つとき、おまかせした世界から、こちらが照らさせていくんでしょうかね。



道元の坐禅は、自力の代表のようでありますが、『正法眼蔵』の生死の巻など読むと、自力も他力もないんだなあと思います。

─────────────────────────

 ただわが身をも心をもはなちわすれて、
 仏のいえになげいれて、
 
 仏のかたよりおこなはれて、
 これにしたがひもてゆくとき、
 
 ちからをもいれず、
 こころをもつひやさずして、
 
 生死をはなれ、
 仏となる。
         
─────────────────────────
初カキコです!!どうぞよろしくお願いします。。

なんかすごく感動しました!!

人生の苦しみやいろんな感情があって今の自分の生き方や根のはり方があるんだって感じですね。。。

これからもっと厳しいこともあると思うけど、こういう言葉の意味を知っているだけでなんだか今の自分頑張れそうです☆

素敵な言葉をありがとうございます☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆
誤字脱字が多くてすいません。もすこし見直してからアップしないと。

もうくーまったく→もう、まったく
こちらが照らさせていく→こちらが照らされていく
経典にあるとか、ないとか。
あるのが正しくて、ないのが間違っているとか。これが正解だとか。

そんなことは、どうでもいいんですね。そんなことはないんですね。

また、南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏を唱えるのがいいとか、そんな話をしているんじゃないんですね。

南無とは、なんだろうか、と。
自分なに感じたこと、実感したこと、考えたことをやりとりして、学んでいけばいいんですね。

正しいとか、間違っているというような、そういう世界を論議しようというわけじゃありません。



南無とは、古代インドのサンスクリット語が語源ですから、

帰命、帰依、おまかせ、深く信ずる……というような、意味合いがあるのは、たしかです。


インドでは、あいさつは

「ナマステー」です。


ナマス=nahmです。テーは、あなたです。

あなたを信頼します、あなたを深く敬います、というような意味合いですね。

そうして、

インド人は、よく

「オーム・ナマ・シヴァーヤ」

などと唱えます。

これは、シヴァ神を赤く信じます、シヴァ神におまかせします、というような意味合いで、唱えているんですね。


まあ、そういうところから、

nahmを、

おまかせする、はからいを越えて没入する、というような意味合いととらえてもいいんだろうと思います。


ま、ここでは議論なしでいきましょう。
自分の感じたところを、あらわしていけばいい、というところで。
とよC・D・Bさん


>曹洞の立場でいう「仏の家に自己を投げ込む」「お任せする」といったこと,それらが「南無」という言葉に込められ,同時に我々はそのように仏法に「お任せ」して歩んでいくべきなんでしょうね…
>「お任せ」,頭では分かっていても,私は心の深いところでは全然実践できず感情に流されてしまいます。そう考えると,「南無」という言葉の重みを実感します。


わたしなど、なかなか、おまかせできないですよね。
まだまだ、自分でなんとかなると思っているし。ても、なんともならないんだけれども。

あるいは、なんとかしてもらおうと思って、仏さんにおまかせしようとか。そんなはからいが出てくる。



ところで、道元と同時代の、親鸞などは、最終的には「自然法爾」というようなことをいいますね。
これも、おまかせ、という境地かなあと思いますが。

──「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。──

親鸞の八十六歳のときのお手紙です。

「自然法爾」──おのずからしからしむる
これって、わたしには老子の「道(TAO)」のようにも感じられます。
はじめまして。
日蓮正宗の法華経信仰しております。

法華経は諸経の王といわれ
唯一の成仏の種があります。

南無妙法蓮華経が救われる道です。

本源的に、
全てのあらゆる有情非情のものが
「妙」の字に帰るということです。

南無阿弥陀仏は
仏様(釈尊)の説かれた、
方便(嘘→衆生を法華経にみちびくための喩え話)
にでてくる
架空の仏です。
これを、拝むと
心も自然(じねん)に仮想世界、
あるいは、死後の世界にいき、
結局、現実逃避するおそれがでてきます。

ゆえに
南無するなら

南無妙法蓮華経しかないのです。

妙法→生きているときの仏

蓮華→死んでからの仏


たとえば、
小学生には足し算引き算
中学生には因数分解
高校・大学と微分積分と
高度になっていきます。

それと同じで
なぜ方便を用いたかというと
いきなり
我々には微分積分は解けない
それ以上高度のことは解けないからです。

もっぱら、
数学を例にしたのも方便で、
仏教は我々本未有善の荒凡夫の
頭では理解できません。
釈尊の智恵第一の弟子も
最後は「信」で成仏したとされています。

我々はともすると
「慢」になりがちですね。

「慢」だから人より優れようと思い、
さらにさらにと金もビルも
多く高くと思いがちになる。
そして、ブランド品も新築ホームも
自慢したがる。

我々は正しい縁に触れることで
精進修行して、心の財について学ぶ必要がありますね。

因果だけではただ機械論的に死ぬとき
が決まってしまいますが、
正しい善智識にあえば、
宿業転換することができるのですね。

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