小説　空の高さから海の深さまでコミュの空の高さ⑦

　　　　　　　　　　　　　　★　

　僕は猛と同じバイトをしている。バイトと言っても知り合いの経営している喫茶店で調理をし自分でそれを運び暇な時間はテレビを見たり学校のレポートなどをしている楽な仕事だ。ここにいると社会に出たときに大丈夫なのかと不安になることもある。
　まぁ、時給もそれに見合って他の大学生では絶対しないほどの額だけど。
　１５分ほど遅れていくとモーニングの戦争が始まっていた。猛がキッチンで手馴れた手つきで調理をしている。
「あぁ、色男。早くはいって。取りあえず提供ね」
　僕に気づいた３４歳独身の店長が言う。
「ありゃ、マサキちゃん。ちゃーんと来たね。でさでさ、「こらっ、猛。仕事がさーき。話は俺も後で聞く」
店長の顔に不敵な笑みがうつる。
　楽しそうに目玉焼きを焼いている猛の横顔を見た。この野郎、言いやがったな。と心の中で思いながらエプロンを這おい仕事についた。

　モーニングも一段落して店内にはまったりとした空気が流れる。この店は決して流行ってるわけでもなく、かといって潰れるほど流行っていないわけでもない。
　というのも店長の人の良さと何処に座っても海が見える店の作りが売りで近所の主婦やサラリーマンがリピーターとなっており、経営が成り立っているのである。
　しかしランチまでの時間やそれ以降はかなり暇である。僕と猛はカウンターに座り店長が淹れてくれるコーヒーをすすりながら他愛のない話をしている。でも今日は二人の目が違っていた。
　食器を洗っていた僕は半ば強引に二人にカウンターに座らされた。
「で、マサキちゃん。なんで連絡もなしにどっか行っちゃうかなぁ」
　少しも心配していないくせに猛は遠回りに話をすすめる。
「ごめん」
「まぁ、それはいいとしてマサキちゃん。おーめーでーとー」
　何故か2人は拍手をする。近くに座っているじいさんも新聞を読むのをやめて何故か一緒に拍手をしている。
「なにが？」
「なにがって、この色男。やだねぇ、もったいぶっちゃって。やっちゃったんでしょこのこの」
今度は店長がおどけて言う。
「おじさーん、やっちゃうなんて下品な」
「こりゃ失礼」
こいつら楽しんでる。僕は2人に呆れて洗い物をしようと席を立った。
「あ、逃げるのか。こいつ」
店長が何処の流派かわからない構えを取って言う。
「残念ながら2人が思っているようなことはありません」
　そういってキッチンに入った。
後ろから二人が「つまんねぇ」と言ってる声が聞こえた。
「ふんふふーん」
僕はそれをさえぎるように鼻歌でリズムをとった。
　　　　　　　　　　　　　
　バイトが終わるのはいつも9時頃で猛に家まで送ってもらうことが多い。
　車中でも猛は昨日のことを聞きだそうと必死だったが僕が「なんにもない」を連呼していたらその内、興味がなくなったのか別の話題になった。
「じゃね。マサキちゃん。俺今からバイトだから行くわ」
　クラクションを2度鳴らし猛は夜のバイトへ行った。あいつの夜のバイトはなんなのか？本人曰く24時間営業の大人のおもちゃ屋らしいがほんとかどうか行ったことがないので分からない。
　自分の部屋へ行きベッドに腰を下ろすとやっと慌しかった時間が終わった気がした。
　それにしても夢のような時間だった。今覚えば本当に昨日の晩、会ったばかりの子と一緒にいたのだろうか？と考えてしまう。
　沙耶がいなくなってから僕は毎日彼女のことを思い、なにができるかを考え楽しかった過去、彼女のいなくなった世界の虚しさを感じて生きてきた。
　僕の考えることはいつも同じところに行き着き、僕を苦しめ、それに答えなどあるわけないと知りながらもずっと探し続けてしまう。
　だから他の事を考え受け入れる余裕など僕の小さな心にはなく、人と接することや思い出以外の過去に接することを極力避け続けてきた。壊れてしまいそうになるから。
　毎日をただ時間だけがすぎていった。僕は呼吸さえすればよかったのだ。
　だからこそ昨日のような出来事が認識できずちょっとしたパニック状態になってしまったのだろう。
「高島美優」
　もう2度と会うことはないかもしれない。会えば沙耶をより鮮明に思い出してしまうから。
　「美優」という名前はもし僕と沙耶の間に子供ができたのならつけようとしていた名前。
　僕は美しい夕日と書く「美夕」がよかったのだが沙耶が絶対に譲らなかった。
　結局は僕も気に入り美しい優しさに決まった。この討論をしたのが、たしか電車の中だった気がする。熱くなった僕らは帰宅のラッシュの電車の中で声をあげながら話してしまい周りから冷たい目で見られた覚えがある。
　沙耶を思えば思うほど、それに比例して辛くなるし忘れてしまいたくなる。しかし耳に残る幼さの残る声、掌には赤ん坊のような火照った温もり、体には強く抱きしめると壊れてしまいそうな感触、重ねた唇の感触。
ほかにも様々な場所に彼女が残っている。それが忘れることを許してくれない。
　昨日彼女に会ってより強く、いや無理矢理押し殺していた感触が蘇ってしまった。
　それは徐々に大きくなって心を埋め尽くしていく。そして沙耶に会いたい気持ちが募り僕はやりようのない不安、絶望感に息がつまりはじめる。別れてから過去や僕の適応の範囲を超えたものに会ったりすると何度かこの感じを味わったことがある。
　一度感じるとそれはしばらく消えることがない。誰かに助けを求めたいのにその誰かが分からない。僕の心の真横には今誰もいないから。
　そして僕は声にならない声で叫ぶ、「今も愛している……」と。