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橋川文三を考えるコミュのアジア解放の夢

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「雑談コーナー4」938から派生したトピックです。以下コピペします。やっぱり最重要の過大だと考える所以です。

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nosさん
かまいちさん、パトリさんにハッパをかけられたので、最近の自分のつぶやきを転載します。中国の反日デモを受けてか、9月19日、神戸中華同文学校の校門が放火されるという事件がありました。言うまでもありませんが、同校は辛亥革命志士ゆかりの学校です。


・昨日の神戸中華同文学校への放火について、犬養毅が名誉校長を務めた同校の歴史を振り返り、卑劣な犯人に憤らないような右翼はゴミだろう。ところで、孫文が犬養と頭山満に呼びかけた大正13年の会見は、アジア主義における重要な結節点と観るが、どうか。

・大正13年の秋、第一次国共合作の直後である。孫文は神戸へとやってきた。犬養は大臣としての政務を理由に断ったが、頭山満は会見に応じた。藤本尚則『巨人頭山満翁』によれば、二人の対話は、中国における日本の権益をめぐる、きわめてセンシティブなものだった。

・この時の孫文の心中を忖度すれば、新生中国にあたり、欧米そして日本との不平等な関係をいかに是正できるか、この際に日本はどれだけ協調するのか、探っておく必要があった。具体的には日本の侵略および袁世凱との「二十一か条」問題の行く末である。孫文はこれを頭山に問うた。

・頭山は孫文におよそこう応えた。日本が取得した「満蒙地方」や権益は、中国が諸外国から侵害される恐れがなくばれば当然返すべきものである。しかし今は国民が承知しない、と。分かる通り、重要なのは、満蒙を返すべきものと認めたこと、しかし今は無理だと突っぱねたこと、である。

・この時、孫文は悟ったと思われる。目下、新生中国に際し、日本は欧米諸国に対して中国の側に立つことはありえない、と。むろん、満蒙は中国に返すべきもの、という認識を共有している点で、頭山らの勢力はいまだ盟友ではある。しかし、共に戦う戦友ではないのだ。それが、判明した。

・ここがアジア主義のひとつの分岐点だった。この時、友情と拒絶があった。それらを飲み込み、あえて孫文はこの直後、神戸にて有名な「大アジア主義」の講演を行う。そしてその翌年没する。孫文の、頭山の想いは、日本と中国の関係はどうなったのか。我々の知る通りだ。そして今がある。

/転載ここまで。マックスさんが鋭いコメントをくださいました。お許しいただければ、引き続きマックスさんのコメントも転載したく存じます。
返信
9392012年09月23日 11:48
マックス nos さんのアジア主義に関するご見解、特にその「分岐点」に関するお考えは、論議の価値のあるものではないでしょうか。

私のコメントなどほとんど価値のないものですが、転載はむしろ光栄です。どうぞ、ご自由にお使いください。
返信
9402012年09月24日 10:09
nos マックスさん、ご許諾ありがとうございます。

マックスさんのコメントを抜粋/

・なるほど。政治的「分岐点」は納得しました。その歴史的検証、評価については様々なものがあるでしょうね。実に興味深いものです。それにしても、孫文や頭山の思いというのは、今われわれにどう連なっているのでしょうか。石原のようなクズは議論の価値もありませんが、おそらく政治的右翼にもその連なりはないでしょう。

・鳩山政権が打ち出した「東アジア共同体」はその残滓を引き継ぐものでしょう。鳩山個人というのではなく、この考えに結集した人たちという意味です。先日、NHKクローズアップ現代で、反日デモに参加した中国人学生が「国がバカにされるのは我慢できない」という心情を吐露していました。この心情はよく理解できます。

・この心情を理解できるのかどうか。そして、これまでの中国の現代史をどこまで共感をもって振り返ることができるのか。そのあたりが、現在のアジア主義の理解をはかる尺度になるのではないでしょうか。政治的なレベルにおいても、この胸の木槌の響く音によって見極めたい、という思いがあります。
返信
9412012年09月24日 10:11
nos 昨晩、竹内好を読み返していたのですが、やはりと言うべきか、あの一節に目が釘付けになりました。

「…もし思想に創造性を回復する試みを打ち出そうとするならば、この凍結を解き、もう一度アポリアを課題にすえ直さなければならない。そのためには少なくとも大川周明の絶句した地点まで引き返して、解決不能の「日華事変」を今日からでも解決しなければならない。」(竹内好『近代の超克』)
返信
9422012年09月25日 19:45
かまいち >大川周明の絶句した地点まで引き返して

ここ、数十年前からこだわってます。「イスラム」の問題でしょうかね?

井筒さんとのかんけいも気になります。あと「アジア経済研究所」?

竹内さんは罪な人です。「暗示」しか残さない。
橋川さんもそういうところはありました。特に晩年は。
余命からいって自分では論理的な説明が出来ないとさとったときからある種の「韜晦」や「ほのめかし」が生じる、これはいいこととは思えないのですがね。皆さん。

バカな発言、こころより陳謝します。
9432012年09月25日 22:04
マックス
かまいちさん。それはちがいます。それじゃだめだ。ちゃんと竹内の『近代の超克』を読み返さなくちゃ。大川の絶句した地点というのは、イスラムは関係ないです。絶句した地点を、竹内の文章で引用すると次のとおりです。


−−大川の嘆きは、1941年における日華事変の解決不能に対して発せられたものであるが、それは1945年にも解決されず、1959年の現在もまだ解決されていないのは周知のとおりである。なぜ解決されないか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治44年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治9年に朝鮮に不平等条約を押し付けている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。この伝統から形成されたのが「東亜共栄圏」のユートピア思想であり、そのために「大東亜戦争」は不可欠の条件であった。しかし、京都学派の「総力戦の哲学」が「絶対無」の無内容に行きつくと同時に、「東亜共栄圏」もまた「大東亜共同宣言」(1943年11月)の無内容な美辞麗句に行きついた。


竹内は、「暗示」なんかしていません。明確です。上記の構造は、1959年どころか、2012年の現在も克服されていません。このアポリアを何とかせよ、と竹内は言っているのです。
返信
9442012年09月25日 22:29
かまいち マックスさんごしてきありがとうございます。

うーむ。そこで大川はほんとに「絶句」したのでしょうか?
竹内の言う「大川」というのはたんなる引用ではない「思想的な」おおきさをもっていると愚行します。
9452012年09月26日 03:05
nos 大川の嘆き、絶句は、欺瞞となったアジア主義の最後の真実の欠片だと思います。

結局、アジア主義も京都学派もそして何より竹内好自身が、日米開戦の瞬間、日華事変に集約される日本のいっさいの欺瞞の昇華を感じてしまった訳でしょう。マックスさんが引用された「太平洋戦争の二重構造」はそのまばゆい光にかき消されてしまった。竹内は、だから他人事ではなく、自らの問題として『近代の超克』を書いたと思います。その彼が見いだしたアジア主義の絶望、アジア主義を取り戻すために必要な絶望の象徴が、大川の絶句だった。
(ただ、彼にとってのイスラムが、その「絶句した地点」に立ち戻り何事かをやり直す契機だったという可能性はなくはないでしょう。)

いま、私たちが別のまばゆい光に一丸となって目を閉ざしてしまわないと、誰が言えるでしょう。むしろ、その光に目を閉じたくて閉じたくて仕方がないという欲望の昇華をしきりに(僕自身も含めて)感じる日々です。だからこそ、いまアジア主義を再考したい。

・玄洋社〜黒龍会、孫文と交流した日本人のライン
・孫文晩年の大アジア主義
・竹内好

この辺りを皆さんと考えてみたいのですが、どうでしょうか。
返信
9462012年09月26日 06:19
パトリ >>[945] nosさん
『竹内好「日本のアジア主義」精読』(岩波現代文庫)が参考になるかもしれません。私はこれを読んだとき、はっと思いました。それはアジア対西洋という対立軸のなかで考えていたからでしょう。

しかし今、アジアは経済力において、西洋と並び、とりわけ中国の膨張が脅威にさえなっています。いま読むと、ちょっと生ぬるいような気がします。

それはともかく、贔屓目にはなるでしょうが、一読をおすすめします。
返信
9492012年09月27日 22:41
マックス 尖閣問題などを考える上で、まず思想的なアプローチを残しておこう。「橋川文三を考える」コミュでヒントをいただいた竹内好のエッセー『近代の超克』から、その要約と引用を基礎に考えてみる。このエッセーは、竹内自身が編集した『日本とアジア』(ちくま学芸文庫)に入っている。主著の『魯迅』は入っていないが、竹内の「アジア」観を探るには好個の本である。(なお、この文章は、日記にも掲載した)

「近代の超克」というのは太平洋戦争開戦の翌年、1942年に雑誌「文学界」に掲載された、当時の知識人たちによる座談会の名称である。主催者の河上徹太郎の言葉で言えば、開戦による「知的戦慄」を克服すべく開いたもので、その「知的戦慄」の中身は「西欧知性」と「日本人の血」の間の「相克」だという。もとよりこの説明は抽象的なもので、さらに雑駁なイメージで言えば、「西欧=近代」を何らかの形で「超克」すべく、当時の日本人知識人の考えを述べ合おうというものである。

座談会の狙いが曖昧であるから、集まった知識人の発言も混沌としている。私も過去に一読したが、ほとんど記憶していない。竹内も、この座談会自体には議論の価値を見出していない。竹内が見ているのは、この座談会を構成している知識人たちの大きい思潮の構造である。

その大きい思潮の構造を見る中で、竹内は、日本の知識人あるいは日本人自身の中に「アジア」を見る上でのあるアポリアを抽出する。そのアポリアは、解決不能の泥沼のようになった「日華事変」(日中戦争)を前にした大川周明の「絶句」、「嘆き」によく出ている。相手が清朝末期や軍閥時代の中国であったならば、日本の武力の前にすぐに屈服したものを、1930年代、40年代の中国はどんな窮境にあってもまったく屈する気配がない。大川はこう嘆く。


−−日支両国は何時まで戦い続けねばならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。
−−日本は、味方たるべき支那と戦い乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦わねばならぬ羽目になって居る。


この大川の絶句の根因は、竹内によれば、次のような「二重構造」にある。


−−大川の嘆きは、1941年における日華事変の解決不能に対して発せられたものであるが、それは1945年にも解決されず、1959年の現在もまだ解決されていないのは周知のとおりである。なぜ解決されないか。太平洋戦争の二重構造が認識されないままに忘れられようとしているからであり、さかのぼっていえば、明治国家の二重構造が認識の対象にされないからである。明治時代を一貫する日本の基本国策は、完全独立の実現にあった。開国に際しての安政の不平等条約の最終廃棄(関税自主権)は明治44年まで持ち越された。しかし一方、日本は早くも明治9年に朝鮮に不平等条約を押し付けている。朝鮮や中国への不平等条約の強要が日本自身の不平等条約からの脱却と相関的であった。この伝統から形成されたのが「東亜共栄圏」のユートピア思想であり、そのために「大東亜戦争」は不可欠の条件であった。しかし、京都学派の「総力戦の哲学」が「絶対無」の無内容に行きつくと同時に、「東亜共栄圏」もまた「大東亜共同宣言」(1943年11月)の無内容な美辞麗句に行きついた。(この引用部分、「橋川」コミュでは再掲)


不平等条約から脱却するために、日本は西欧と肩を並べる必要がある。そのために中国などを踏みつけにして、「どうだ。ぼくも西欧のあなた方と同じように武力で中国を屈服させることができるんだ。これで対等だろう」と空威張りしている。これが、満州事変からさらに日中戦争に進んできた日本の姿である。
返信
9502012年09月27日 22:44
マックス 空威張りしたまま泥沼のような日中戦争に足を取られ、さらに1941年12月8日の太平洋戦争開戦を迎える。そして、真珠湾攻撃の電撃的成功、翌日の英国艦船プリンス・オブ・ウエールズの撃沈速報。打ち続く戦勝報道に沸く国民。溜飲を下げる知識人。

なぜ国民は沸き、知識人は溜飲を下げたのか。「太平洋戦争の二重構造」のうち、欧米への挑戦者としての日本の勝利に酔うことができたからである。しかし、その一方で、もうひとつの構造、「踏みつけにしているアジア」が忘れ去られていく。「(太平洋)戦争そのものが「侵略的性格をおおいかくす」ものとしてはじまったのである」とまで竹内は断じている。竹内はこう言う。


−−もう一度アポリアを課題にすえ直さなければならない。そのためには少なくとも大川周明の絶句した地点まで引き返して、解決不能の「日華事変」を今日からでも解決しなければならない。


この「今日」というのはいつか。竹内がこれを書いた1959年でもあり、実は2012年でもあるだろう。われわれ日本人が本当にその胸の奥底に聴いてみなければならないのは、この「二重構造」の響きであり、「アポリア」の響きだろう。本当にこれは解決されたのか。ここでひとつ、思惟はアジア主義に向かわなければならないところだが、そこまでいくとエッセーの主題から少しく外れるため、そこには向かっていない。代わりというわけではないが、竹内が考えるのは、やはり「近代の超克」座談会の思想構造を構成している有力な一派「日本ロマン派」である。その中の傑出したイデオローグ、保田与重郎である。


−−保田の果した思想的役割は、あらゆるカテゴリイを破壊することによって思想を絶滅
することにあった。−−彼は文明開化の全否定を唱えたが、彼のいう文明開化は、−−つまり近代日本の全部であった。


竹内は、この保田の果たした「思想的役割」について、彼の文章自体から分析していく。誰でもそうだと思うが、保田の文章を読む者は、その晦渋、難解、曲折に驚くだろう。竹内は、その文章についてこう解説する。


−−彼の文章には主語がない。主語に見えるものは、彼の思惟内部の別の自己である。
−−これは天の声か地の声であるかもしれないが、人間のことばではない。まさしく「皇祖皇宗の神霊」の告げである。「朕」でさえもない。巫(ふ)である。そして巫こそ、「壮大なる喜劇の主役」として、最後に登場することが「待望されていた」取っておきの役柄であった。保田はその役を見事に果した。彼はあらゆる思想のカテゴリイを破壊し、価値を破壊することによって、一切の思想主体の責任を解除したのである。思想の大政翼賛会化のための地らなしをしたのである。
−−保田は思想における近衛文麿であった。


ロマン派に対するこの位置づけは、カール・シュミットによる「ドイツ・ロマン派」の分析と符合するものがあるが、竹内は、明らかに保田の方向に、「二重構造」に対する何らの解決の道筋を見出していない。

竹内は、日本から「アジア」を脱落させたあるフォーラムの偏頗な思潮を取り上げ、こう批判する。


−−アジアに指導権を主張することと、西欧近代を「超克」するという原理的に背反する国民的使命観が、ここでは日本イコール西欧という観念の操作によって、単純明快に前者だけを生かして後者を捨てる形で解決されており、それは伝統からの逸脱であって、真の解決ではないからである。彼らにはアポリアは存在しない。「我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(福沢諭吉「脱亜論」)。福沢は事実認識を誤ったのであって、日本はそもそもアジアではなかったのだ、というのがこの派の新文明開化論者の主張である。したがって当然、ここでは福沢の心肝をくだいた「国の独立」も無意味になるわけであり、ひいては明治維新以後の歴史はなかったことになる。


この言葉が、竹内のエッセーを締めるほとんど最後の言葉である。この先に竹内のどのような思索を見るか。竹内が「アジア」を考える際に出発点としたものは、処女作『魯迅』における「掙扎」概念である。この概念を大きいヒントにして、日本の絶対者を探求すべく旅に出た丸山眞男のことは以前、日記に書いた。
http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1311255551&owner_id=19663839

竹内や丸山が探求した「アジア」の様々な形が、ヨーロッパの様々な形と押し引きする。ここに竹内の見るアジアとヨーロッパの真の関係がある。われわれが中国を見る時、あるいはアジアを見る時、その目の奥に偽ヨーロッパが光ってはいないだろうか。
返信
9512012年09月27日 22:46
マックス 上記、nos さんからヒントをいただいて、竹内のエッセーを再読しながら考えたものを書いてみました。

nos さん。これにこだわらず、お考えを展開してください。
返信
9522012年09月28日 20:03
かまいち これ新トピ建てましょう!
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皆様の積極的な御議論を期待申し上げます。あ、「かず色」さんにも復帰してもらいたいですねぇ…。

コメント(18)

よろしいんじゃないでしょうか。

タイトルもいいですねw
「アジア解放の夢」と言えば、宮崎滔天の『三十三年の夢』、それから孫文の『三民主義』。改造か何か知らんが、今のノダイコ内閣のだれか一人でも読んでいるのだろうか。最低限の教養もなさそうな顔ぶれを眺めて、苦笑せざるをえないですね。

現実の国際政治の渦中にいるこの国の内閣。もとより言うまでもないことですが、心もとないこと極まれりですね。
マックスさん、かまいちさん、パトリさん、ご教授ありがとうございます。

竹内を少しずつ読み返しているのですが、竹内は、『近代の超克』にしても『日本のアジア主義』にしても他人事で書いていないのですね。なぜかというと、ご存知のように、1942年元旦発行の『中國文学』第80号の巻頭に、彼は『大東亜戦争と吾等の決意(宣言)』を無署名で書いた。それはその前年の暮れ12月8日の開戦を受けてのものでした。以下、部分を抜粋します。

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸うちにこみ上げてくる、名伏しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。」
「東亜から侵略者を追いはらうことに、われらはいささかの道義的な反省も必要としない。敵は一刀両断に切って捨てるべきである。われらは祖国を愛し、祖国に次いで隣邦を愛するものである。われらは正しきを信じ、また力を信ずるものである。
大東亜戦争は見事に支那事変を完遂し、これを世界史上に復活せしめた。今や大東亜戦争を完遂するものこそ、われらである。」
「われらは支那を愛し、支那と共に歩むものである。われらは召されて兵士たるとき、勇敢に敵と戦うであろう。」
「間もなく夜は明けるのであろう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦おう。諸君、共にいざ戦おう。」

竹内のこの言葉は、近代の超克座談会と、また京都学派の世界史の哲学と、明確に交差しています。「二重構造」が、大川の絶句が、彼自身この時まばゆい感激のなかで霧散してしまった体験がある。だから、マックスさんが引用された竹内の戦後の言葉は、骨がらみ・肉を断つような想いで書かれたものだと思います。ここを基点に考えてみたい。

―ところで、『中國文学』の盟友・武田泰淳の代表作『司馬遷』にも、『大東亜戦争と吾等の決意(宣言)』に一見とてもよく似た文章が含まれています。それは戦後の復刊において泰淳の合意のもと削除された、という問題があります。竹内は中野重治の指摘によって削除に気づきたいそう慌てます。しかしながら、この泰淳の削除された文章は、その実、『大東亜戦争と吾等の決意(宣言)』と似て非なるものであります。時節におもねっているかのようで、けっしてそうではない。僕はここに竹内になく泰淳にあったものに瞠目します。両者の差異はなぜ生まれたのか。
(泰淳の文章削除騒動については加地伸行『「史記」再読』(中公文庫)あとがきに詳しいです。この著者は問題の本質がまるっきり分かっとらん―というのが僕の考えですが)。

nos さんの問題提起を受けて、加地の本から、削除された武田泰淳の文章を復元しましょう。以下のものです。


−−史記的世界は要するに困った世界である。世界を司馬遷のように考えるのは、困ったことである。ことに世界の中心を信じられぬ点、現代日本人と全く対立する。中心を信じるか、信じないか、これで両者相遭えぬこととなる。日本は世界の中心なりと信じている日本人、かつその持続を信じている日本人からすれば、武帝を信じられぬ司馬遷如きは、不忠きわまりない。宮刑では足りぬ。死刑に処しても良いのである。
 司馬遷は、史記的世界を創り出したが、その結果、その中心が信じられなくなり、人間不信に陥った。日本人を優秀人間として絶対視している我々からすれば、これは飛んでもない所業である。我々の場合は日本及び日本の中心を信ずることのみが、歴史に参加することになる。それ以外に方途はあり得ない。冷静に批判などしていたのでは、「日本世家」「日本本紀」は危殆に瀕する。空間的に世界を考えると言う態度は、行動者の態度ではなく、後から視ている傍観者の態度である。既に批判精神であるから「海行かば」の声は生れない。
 私は司馬遷をもち上げるような文章を、三百枚近く書きつづった。決して彼個人に感心したわけではない。史記的世界を鼻さきに近づけ、グウかスウか、本音を吐いて見たかったまでである。吐いて見て我ながら自己の不徹底、だらしのなさ、慙愧に堪えぬ。真珠湾頭少年飛行士の信念を羨むのみである。莞爾として降下する彼等の眼底胸中には、史記的世界など影もとどめなかったであろうから。忠とは、身を史記的世界に置いて、日本中心を信ずる事である。勇とは、史記的世界に肉身を露してたじろがぬ事である。忠勇無比とは、史記的世界が真実囲繞するとも、断じて往く行動者の態度である。忠勇無比が美しいのは、かかる世界が「絶対」幕として囲繞実存しているからである。


以上が引用です。加地は、この部分が戦後削除されているのはケシカランということで、泰淳の『司馬遷』を放り投げるわけです。
もとより、加地の考えなど取るに足りぬものです。戦後の安全地帯から皮相な部分を喋々するカール・シュミット批判者にも似ていますが、さらに軽いものです。指導教官に冷遇された学生時代の経験を、司馬遷について書いてみようと思った個人的背景のひとつとして挙げる加地には、所詮「司馬遷は生き恥さらした男である」に始まる泰淳の『司馬遷』はわからなかったのでしょう。

上記の削除された部分は、一読してイロニイの毒がそこかしこに埋め込まれていることに気がつきます。これをそのまま大日本帝国礼賛と読む人は、ほとんどいないのではないでしょうか。戦前戦中のあのむずかしい時代に、相当の皮肉を込めて書いた文章とすぐに読めるはずです。ことに『ひかりごけ』や『富士』などを読んだ泰淳読者ならば、ハハーンと思うはずです。

削除のことを中野重治から教えられた竹内好が泰淳に聞いてみると、「かれは例によって、いたずらっぽく眼尻で笑って削除を認めた」(竹内)ということです。これは、苦笑するより仕方のないものでしょう。言ってみれば、何度でも甘いグリコのキャラメルそのものよりも、オマケについて文句をつけられた、というようなものです。

加地についてはそのくらいにして、nos さんの問題提起である、泰淳にあって竹内にないもの、という件ですが、竹内の「胸うちにこみ上げてくる、名伏しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。」という言葉に対応する言葉は、これもやはり削除されている泰淳の次の言葉でしょう。


−−史記的世界を眼前に据え、その世界のざわめきで、私の精神を試みたかったのである。しかし書くそばから考えが変り、三年間、自分の位置を定めることが、出来なかった。昨年(1941年)12月8日まで、その低迷徘徊がつづいていた。−−あの日以来、心がカラッとして、少し書けそうになった。まづい物でも、兎も角書きましょう、と自分をはげまして、約一年、漸く形をなしたわけである。


この率直な言葉に比べれば、前に復元引用した部分は実にアイロニカルです。竹内の言葉や「心がカラッとして」という泰淳の言葉は、ストレートに響き、まだに一重の構造しか志向していません。ところが、前記の泰淳の復元文章は複雑なイロニイをの音色を奏で、これも文字通り「二重構造」を志向していることを示しているようです。
ここで大川周明(竹内)の言う「二重構造」について、ちょっと付言しましょう。私は、昭和初期からの新聞をじっくりめくってみた経験があるのですが、満州事変からまさに日中戦争が始まるころまでの新聞世論というものは、兄貴分の日本が弟分の中国を上手に導いてやる、というようなものでした。

当時の国際関係を表現する漫画は、典型的なものを記憶で再現しますと、4、5歳児くらいの幼児、あるいは巨大な赤ん坊といったなりの中国を、凛々しい少年姿の日本が導いてやり、それをアンクルサム(米国)やシルクハットの洋風紳士(英国)などが遠巻きに眺めている、というようなものでした。

「アジアは特別なんだ。特に中国というものはまだまだ国民国家を自力で経営することはできない。だから、一足先に成年に達した日本が導いてやるんだ。欧米はそれを邪魔しないで見ていろ。アジアはアジアでやるんだ」。これが当時の新聞世論、あるいは政界の主潮といったところだったでしょうか。

竹内の「胸うちにこみ上げてくる、名伏しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。」という言葉、あるいは泰淳の「カラッとして」という言葉は、本当は「二重構造」であるところを、前記の漫画のような、図体だけでかくて頼りない弟分の中国を抱えて欧米に挑戦する凛々しい少年の日本、という構図を直覚的に感じ取ったところのものでしょう。

まさに nos さんがおっしゃるように、「「二重構造」が、大川の絶句が、彼自身この時まばゆい感激のなかで霧散してしまった」ということでしょう。
マックスさん

武田泰淳『司馬遷』削除部分についてのご丁寧な解説と論評、ありがとうございます。さすが、こんな瑣末(世間的には、です。)な問題についても通暁しておられるのですね。ほとんど言い尽くされてしまいましたが、以下蛇足です。

『司馬遷』の削除なるものは、僕の所有する1971年版の『武田泰淳全集』ではすべて元通りに復活しています。たしか以下もかつて削除された箇所のひとつだったかと存じますので、参考までに引用してみます。第二章の頭です。

「序説
今、わたくしたち日本人は何故「史記」を読むのであろうか?如何に「史記」を読むのであろうか?この本の何がわたくしたちの心を惹くのであろうか?何をこの本の中からわたくしたちは求めるのであろうか?二千年も以前の、漢人の書きしるしたものが、何故現代の日本人に話しかける力を持っているのであろうか?
 日本人は今、自分たちの力をあらんかぎり出しつくして戦っている。日本人の力はますますひろく世界の中へひろまり、世界の人々が日本人の力におどろき、おそれているのと同時に、日本人自身が自分の力のかぎりない大きさを、あらためて自覚しはじめている。日本人の力が世界の隅々におよぶとともに、日本人は世界を、自分の頭で考えはじめた。この世界に起きたどんなきびしい困難でも、日本人はそれを解決しようとしている。どんな深刻な問題でも、どんな奇怪な謎でも、こと世界に関するかぎり、日本人は責任をもって、これを理解し分析しようとしている。日本国民の肩にかかっているのは、一日本国の運命ばかりではない。世界の運命がのこらずかかっている。わたくしたちの考えの中には、日本の運命ばかりでなく、世界の運命がかくされている。日本人が考える場合、それは日本が考えているばかりではない。それはすでに世界が考えていることである。日本人の力が「世界全体」を支えるのであるから、日本人の考えも、「世界全体」を支えなければならない。わたくしたちは「世界全体の歴史」を、自分のものとして、考えなければならない。このとき、二千年も以前の漢人の書きしるした「史記」が、わたくしたち日本人に呼びかけてくる、「全体のことを考えましょう。世界のことを考えましょう。わたくしたちには充分、その力があるのですから。」と。」

武田が戦後削除を認めたという箇所は、(加地の主張とは真逆に)すべてが実に巧妙な”反語”であると僕は読みます。その上で、この引用した箇所は、なんと京都学派の「世界史の哲学」に(表面的に)似ていることでしょう。しかし、その本質は決定的に違う。

日本は力を持った。世界に影響するような力を。だからこそ『史記』を読むべきなのだ。ところが、その『史記』には何が書いてあるか・・・。「困った世界」なんですね。イケイケドンドンの日本中心主義においては非常に都合の悪いことが書いてある。「中心」や「絶対」とは真逆の、世界の「構造」が真裸に描きぬかれている。そこには「中心」や「絶対」が無いんだ。これでは”「海行かば」の声は生れない”。引用した言葉にあるのは、そのような世界の真実に、日本人を誘おうとしている泰淳の必死の身振りなんだ。これが凄い。これが文学であり、これが批評であり、これが歴史に対するということなんだ。それが加地伸行のような学者には微塵も理解できない。

武田泰淳という男が書いた『司馬遷』という書物。これは一世一代の劇物であり、日本人が戦時中に何を考えたかを考える上で第一級の資料でしょう。
いま少し武田泰淳の『司馬遷』について続けます。

ここに、例えば「おそろしき女」と題された、呂后についての章がある。
これは戦時中削除された箇所ではありません。
「呂后は世にもおそろしき女である。」と始まり、その非道を恐れ、それをあえて書いた司馬遷の構想を問うものです。彼女はとにかく非情無情で、よく人を憎み、そして惨殺した。高祖の愛を受けた女性の両手両足を切り落とし、眼をえぐり、耳と口を不能にさせ、便所に閉じ込めて”人豚”と蔑んだ。いったいなぜこんな外道を記録せねばならぬのか。泰淳はいう。

「・・・あらゆる倫理や法則を超越して、人間が神に近づきつつあったのである。しかし、無限に上昇して行くかに見えた絶対者は、ここまで来て、ハタとゆきづまるのである。昇りつめた瞬間、神となった瞬間、人間はやはり個人にもどって来る。絶対者は天と個人の間の空間を往来するにすぎない。世界の中心は、天にはなくて世界にあり、世界の中の個人にある以上、絶対者は世界をはなれ切ることはできない。天に近づくかに見えた絶対者は、かくして、いつも地上へもどり、個人の殻へ帰るのである。個人の殻へ帰ることはわかりながら、地上をはなれることはできないときまっているのに、人間は常に絶対者となることを望んでいる。ある時は恐怖の中心とならんとして、ある時は智慧の中心とならんとして、人間は何度も何度も、天と個人の間の空間を往来する。」

この文章が射ているのは、誰か。何か。

それが分からなければ、泰淳が竹内好に削除の件を尋ねられた時の笑みの意味も、決して分からないだろう。
竹内好と武田泰淳の差、これは僕の手にあまるテーマですが、竹内『大東亜戦争と吾等の決意(宣言)』と泰淳『司馬遷』の差、というのはまだ論じうる余地があるかもしれない。

泰淳は昭和12(1937)年、兵隊として中国に渡ります。2年後に除隊。『司馬遷』は昭和18(1943)年の刊行です。この2年間で、泰淳は敵兵を殺したとおぼしい。たしか埴谷雄高の家で竹内は泰淳にこのことを尋ねていたはずです(川西政明『武田泰淳伝』。あいにく誰かに貸してしまったようで目下その箇所を確認できません)。

泰淳は己の戦い、そして殺人(仮に実際に敵兵を殺していなかったとしても)を、『司馬遷』、『史記』と重ね合わせて考えたはずです。司馬遷が”恥”から世界の構造を明徴したように、彼は”罪”からそれを行ったのではなかったか。”ひかりごけ”の光に照らされて―。そのように観た時、戦争開始における「心がカラッと」した云々とは、きわめて素直な情動の告白のようで、その実きわめて計算された真実の通達のための方便ではなかったか。こう思う訳です。

この辺りに、二人の偉大な中国文学関係者の差異はあったのではないか。
nos さん。

イヤア、私は全然通暁などしていないですよ。加地の本は nos さんに教えられて、あわててアマゾンの古本を買って該当箇所を走り読みしただけです。ただ、走り読みしただけでも、先に指摘したような問題の所在はすぐに理解できたように思います。

ただ、私が指摘させていただいたところは、まず誰もが最初に理解するところでまったく大したことはありません。泰淳の作品にある程度親しみ、戦前、戦中の状況を考え合わせてみれば、泰淳の記述のイロニイ性というものは恐らくは誰の頭にも思い及ぶものでしょう。(その意味で、加地自身も言っていますが、加地は泰淳の作品をほとんど読んでいないのだな、と思いますね。)

nos さんがさらに泰淳の全集の方から引用された次の文章で始まる箇所−−


−−今、わたくしたち日本人は何故「史記」を読むのであろうか?如何に「史記」を読むのであろうか?この本の何がわたくしたちの心を惹くのであろうか?


この塊の文章を読みますと、そこに込められた時代へのイロニイ性、反語性といったものがよく理解できますね。nos さんのおっしゃる通り、むしろ時代の「劇薬」ですね。

「呂后についての章」のくだりで展開される泰淳の「絶対者」に関する考察は、少し前にあった「絶対者の探求と政治」のトピにまさに打ってつけの考察を含んでいますね。すぐそばまで行っていながら誰もが言い得なかった「絶対者と政治」のひとつの形が見事に言い表されているような気がします。

さて、竹内と泰淳の「相違」に関して、泰淳が「罪」から世界の構造に光をあてようとしたのであるとすれば、戦争開始時に「心がカラッと」した云々というのは、新たな「罪」の大規模な勃発の時において、己の文学的使命を顧みて自ら心を励まし、「まづい物でも、兎も角書きましょう、と自分をはげまして、約一年、漸く形をなしたわけである」というような形になったのでしょうか。

竹内と泰淳の相違、差というものは、私などの到底論じうる範疇ではないのですが、恥を顧みず教えを乞う次第です。
マックスさん

僕は問題が奈辺にあるのか初版と戦後の改変版と全集とを首っ引きで比較してようやっと得心がいったので、素早く精確なご理解に驚くばかりです。もっとも、このコミュのメンバーの方々であれば驚くべきことではないのかもしれませんが。

この加地が現在、中国文学の泰斗として保守系の雑誌に論語やらをネタに書きまくっているのですから、なんともはや。

引用していただいた大川周明の言葉―

「日支両国は何時まで戦い続けねばならぬのか。これ実に国民総体の深き嘆きである。 」
「日本は、味方たるべき支那と戦い乍ら、同時に亜細亜の強敵たる米英と戦わねばならぬ羽目になって居る。」

この認識は、戦時中、竹内好は大川以上に深刻に抱えこんでいたものだと思います。いや、もっとラディカルだったことでしょう。しかし、それが大戦勃発により、”これまでの(間違った)戦いは、欧米との(正しい)戦いのためだった”と昇華されてしまう。

42年夏の『近代の超克』冒頭で、司会をつとめた河上徹太郎は冒頭、言います。

「・・・例へば明治なら明治から日本にずつと流れて来て居るこの時勢に対して、吾々は必ずしも一様に生きて来たわけではなかつた。つまりいろいろな角度から現代といふ時勢に向かつて銘々が生きて来たと思ふんです。いろいろな角度から生きて来ながら、殊に十二月八日以来、吾々の感情といふものは、茲でピタツと一つの型の決まりみたいなものを見せて居る。この型の決まり、これはどうにも言葉では言へない、つまりそれを僕は「近代の超克」といふのです。」

これは、42年元旦の『大東亜戦争と吾等の決意(宣言)』における、

「歴史は作られた。世界は一夜にして変貌した。われらは目のあたりにそれを見た。感動に打顫えながら、虹のように流れる一すじの光芒の行衛を見守った。胸うちにこみ上げてくる、名伏しがたいある種の激発するものを感じ取ったのである。」

と交差しているでしょう。
竹内自身が河上徹太郎いうところの「ピタツと一つの型」、すなわち「近代の超克」のただなかにあった。これは、この昇華、奇妙なアウフヘーベンのダイナミズムへは、日中戦争について反発を抱いていた者ほど強い反動として囚われざるをえなかったと想像できます。

武田も書いています。

「あの日以来、心がカラッとして、少し書けそうになった。」

…ところが、その書くことろがあの、絶対者を相対化してしまう恐るべきテクスト『司馬遷』なんですね。これは、強大な昇華の暴風のただなかにあって、独り武田だけが爪を磨ぎ、皆の興奮の中心に劇薬を注ぎ込むタイミングを見計らっていたとしか思えない。
武田泰淳が、敵兵すなわち中国人を殺したかどうか。
僕はその可能性は高いと思います。彼がその体験のせいで『司馬遷』を書くことができた―としてしまうと、あまりに個人の実存に引き寄せ過ぎているという誹りをまぬかれえないでしょう。しかし、司馬遷に宮刑という消すことのできない心身の傷があったように、武田泰淳にも何かがあった。そして司馬遷も泰淳も、”それ”を基点として、その時代の世界観とはまったく異質な、真裸の世界の構造そのものを(正しいかどうかは別として)提示してみせた。

むろんのこと、戦場でひとを殺しても、惨殺しても、それを自慢のタネにしかしない人間もいる。現にいま日本では過去の殺人、惨殺、虐殺を平然となかったことにしようとする人びとが群れをなしている情況ですから。ゆえに、ポイントは人を殺したかどうかではない。宮刑を受けたかどうかでもない。そのことでいっさいの同時代のイデオロギーを吹き飛ばし、生身の敵、相手の生命に直に触れ、ゼロからすべてを見つめ直すことができるかどうかにかかっているのではないでしょうか。京大の世界史の哲学の一派にはそれがなかった。大川にも、竹内にも、あるいは足りなかったのかもしれない。いまのところ、この程度が僕の考えです。




nos さん。了解いたしました。たしかに泰淳は、最初から最後まで冷静に動じず、ものごとの推移を見極めていたように思いますね。泰淳が、兵士時代に中国で人を殺した経験があったかどうかということは近年問題になりましたね。どうもそういうことがあったらしい、ということが研究者によってなかば明らかになった、というように記憶していますが、nos さんがおっしゃるように、泰淳の視点というものはもちろん、それだけで成立したわけではないですね。


−−そのことでいっさいの同時代のイデオロギーを吹き飛ばし、生身の敵、相手の生命に直に触れ、ゼロからすべてを見つめ直すことができるかどうか


ということはきわめて重要なことだと思います。これはまさに「尖閣」や「竹島」問題を見るうえで、われわれに課せられた課題でもありますよね。

ベンヤミンの『歴史哲学テーゼ?』の有名な言葉−−


――かれ(歴史の天使)は顔を過去に向けている。ぼくらであれば事件の連鎖を眺めるところに、かれはただカタストローフのみを見る。そのカタストローフは、やすみなく廃墟の上に廃墟を積みかさねて、それをかれの鼻っさきへつきつけてくるのだ。たぶんかれはそこに滞留して、死者たちを目覚めさせ、破壊されたものを寄せあつめて組みたてたいのだろうが、しかし楽園から吹いてくる強風がかれの翼にはらまれるばかりか、その風のいきおいがはげしいので、かれはもう翼を閉じることができない。強風は天使を、かれが背中を向けている未来のほうへ、不可抗的に運んでゆく。その一方ではかれの眼前の廃墟の山が、天に届くばかりに高くなる。ぼくらが進歩と呼ぶものは、<この>強風なのだ。


というテーゼに提示された思想ともきわめて近接した課題ですね。はたして我々は、「廃墟」を「廃墟」として見ることができるのか。たとえば、1945年12月8日の時点で、「日本というアジアの新興帝国主義が、米国という別の形の帝国主義に激突せざるをえない時点にまで追い込まれたのだ、きょうはその記念日だ」という冷めた認識を持って新たな「廃墟」の形成を予感することができたのかどうか。

あるいは「尖閣」でのぶつかり合いが、何の意味もない「廃墟」をまたひとつ積み上げるだけに過ぎない、という冷めた認識を持つことができるのかどうか。それはたとえば、「尖閣」をめぐる歴史的・知的な回顧、資源外交を主眼にした政治的アプローチの考察、そして「 ゼロからすべてを見つめ直すことができるかどうか」という思想的な志向が必要になるでしょうね。

その意味でも、このトピはアクチュアルな意義を有していますね。
>ALL

この、お二人の問答は凄い。うずもれるのがおしいので、コメントした次第。
福澤の「脱亜論」問題も、ここで語られるべき問題かと思います。
いつもながら、断片的なそして、印象批評的なコメントで申し訳なし。
これが、管理人の知力・体力的な限界なり。
>>[15]

二年間も、このような凄い問答を放置していた管理人の責任というものを感じています。

>nosさん、マックスさん、ごめんなさい。

福澤は「丁ちゅう(漢字出ず←バカ丸出し!)公論」でおしまいですね。

ひろたまさき氏の評伝を先ほど読み終わりました。福澤の晩年は悲惨ですね(思想家として)。コトバもない。
橋川さんも「福澤の思想的価値は日清戦争前に終わっている」と言うことを『順逆の思想』で言ってますね!

丸山の、福澤論は忘れてしまったのですが、「文明論之概略」をえらい評価していましたね。
今度読み直してみます。「知識社会学の萌芽」のような論理であったと、誰かが評していましたね。わたしも学生時代凄いなと感じたことが想い出されます。

この件、KYさんのコメントいただければ幸いです。
弟 弟子

 公演情報の拡散にあたるかもしれません。

1900(明治.33)年、孫文の命で恵州起義が発動するが台湾総督府密約の日本軍連携軍事行動は伊藤内閣指示により中止、蜂起軍途中解散。武器搬送に絡む中村彌六の着服が露見、その調達・仲介の任にあった宮崎寅蔵は疑惑と非難にさらされる。 翌年正月、犬養毅の配慮の同志親睦の酒席で、事情説明と背信者誅伐を迫る内田良平に対し口を噤み、言い合いのすえ内田に食器で額を割られる。
寅蔵は浪花節語りになることを決意し、桃中軒雲右衛門に入門、牛右衛門を名乗る。明治36年雲右衛門一座九州初興行の案内役をつとめ興行は成功するが雲右衛門との間に不和。37年日露開戦の年、一心亭辰雄の一座に加えてもらい浪花節の修業と興行。白波庵滔天。ここで滔天。
日露戦争を境に浪曲人気が沸騰しはじめたこの時代、圧倒的評判を得た浪曲師の三人が、「節の奈良丸、啖呵の辰雄、声のいいのが雲衛門」と讃えられていた。 明治42年8月、白波庵滔天新潟公演を途中から一心亭辰雄が助演。一転の大入りとなる。
大正11年12月6日、宮崎寅蔵、尿毒症により瞑目。
昭和初年、一心亭辰雄は節の声が出なくなり不振。劇作家長谷川伸から名をもらい、服部伸として昭和11年講談に転向。昭和47年、92歳まで高座に上がる。昭和49年没。
 弟子を取らないとしていた服部伸が晩年「南洲君を教えたい」と田邊南鶴に乞い、「いっぱい教わってこい」と送り出されたのが田邊南洲。現在の二代目悟道軒圓玉。
 平成23年12月、橋川ゼミのM、U、倉塚ゼミのEと悟道軒圓玉の服部伸追善公演を聴きました。「先生のところへ宮崎滔天が来ていたんですよ、右翼のね。」はご愛嬌でした。

2015年2月15日(日) 13時開演 お江戸日本橋亭
悟道軒圓玉 立川ぜん馬 二人会

宮崎滔天の弟弟子が健在です。
>>[17]
いつも意表をつくコメントありがとうございます!

さすがL研(笑)←違ったっけ…(汗)。

このコミュ、文学派が多く、貴兄のような、クールな社会科学徒が少ないのが残念な所ですが、貴兄がまったく異なる視点からの問題提起をしてくださったことに、深謝いたします。
近日中に江戸でお会いしとうございます。溝上氏ともども。
何とか予定が合わせられるといいですね。

越後の冬は厳しいでしょう。私は3月に佐渡に渡ったことがありますが、あの時期の日本海、凄いですねぇ。

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