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橋川文三を考えるコミュの日本のパトリオティズム〜ナショナリズム

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ダンボールさんの御発案により、表題のようなトピをつくりました。ちょっと恥ずかしい感じもありますが、以下に考えていることを書いてみました。何かのヒントになれば、と思います。(なお、私の日記にも掲げることにします)


Nos さんの問題提起により、橋川文三氏の『ナショナリズム』(紀伊国屋書店)を読んだ。読みながら「あとがき」をちらりと眺めたら、橋川氏は自ら「失敗作」と書いていた。橋川氏がそう思うのはどのあたりに原因があるのかな、と思いながら読み進めてみると、半分くらいにきて、「失敗作」の予感が私の頭にも過ぎり始めた。

幕末におけるナショナリズムを考えるにあたって、橋川氏は、領主層や武士団などの支配者層のナショナリズムを分析するだけでなく、当時の中間層に当たる紀州藩の豪農、豪商の事例を研究している。そのひとりは、こう書いている。


――神国に生まれ候程の者は、吾々風情に至る迄是非共心を一にして、神国を守らねばならぬ――上下の分ちはあれども、皆天子様の子なり――万一の節は居村を守り、村内足弱に至る迄一人たりとも凶事あってはすまぬ事なり。――日本気性の勝れたる処、夷人らにかがやかすため今日急度申合ものなり。


1事例に過ぎないが、橋川氏は、これらの古文書を逐一挙げて、当時の中間層にも、「攘夷」の形を取ってナショナリズムが芽生えていたことを証す。

同時に、橋川氏は、会津に攻め入った戊辰戦争時の板垣退助の述懐を引き、精強で知られた会津の一般民衆に、自らの国(藩)を守る気概がまったく見られないどころか、簡単に皇軍側に寝返る様を見て、意外に思うとともに気落ちした板垣の心境を紹介している。

ここでの橋川氏の疑問は、次のようなことになる。当時の幕末の支配層はおろか中間層においても「攘夷」といった形でナショナリズムが横溢していたのに、なぜ一般民衆にはナショナリズムが見えないのだろう、ということ。ここで言うナショナリズムは、郷土愛や郷土防衛の感情を意味するパトリオティズムと言い換えてもいいが、そのようなものが一般民衆の間には見られない。

橋川氏は明示的には上記の疑問を書いてはいないが、読者はその疑問にとらえられ、この問いに答えるであろう橋川氏の次の行間に期待する。しかし、本の半分を過ぎたあたりで、橋川氏の筆は、維新達成後、明治政府が「攘夷」から「開国」へ路線転換したことに進み、「攘夷」の形でナショナリズムの奔騰を経験していた中間層の挫折感を追い始める。

私が見る限り、橋川氏は、「攘夷」を失ったことによる中間層の挫折感を深追いし過ぎた。深追いし過ぎたため、本来、この書が究明しなければならない2大テーマを見失った。

2大テーマとは、ひとつは、前記のとおり、中間層は「攘夷」の形を取ったナショナリズムを抱懐していたのに、なぜ一般民衆にそれが見られなかったのか、という問い。また、その問いに答える過程でひきずり出されてくる歴史的構造。

そして、二つ目は、幕末(日本)のナショナリズムが、フランス革命、あるいはルソーのような近代的なナショナリズムの形に至らなかったのか、という問題である。橋川氏は、この本の序論のほうでルソーやフランス革命のことを盛んに引いており、おそらくは著述の最初の段階では、その遠大な問いも射程に入っていたと思われる。

この書は、本来追わなければならない、以上ふたつのテーマを見失った。よって失敗作である、と思う。しかし、この失敗を認め、どのようにすればそれらの答えに至ることができるのかを考えることによって、橋川氏の思いを継ぐことができるだろう。もとより私の記述は素人のメモ程度のレベルを出るものではないが、諸氏にとって何らかのヒントにでもなれば幸甚である。

まずは、幕末から明治にかけての農民の経済構造をめぐる講座派からE・H・ノーマンにいたる考察を見ていただきたい。これらの考察の結論を簡単にいえば、「農民は大地主と小作人に分かれており、大地主は小作人からの多額の地代収入によって潤っていた。その地代は、資本主義勃興以前の欧州のそれに比べて高く、日本の大地主は地代収入を死守しようとした。反対に欧州の大地主は地代収入ではやっていけないために農産物の商品販売に乗り出し、資本家的経営を営み始めた」というものである。

このあたり、飛ばしていただいてもかまわないが、参考として挙げれば、次のような記述となる。実はここのところ、以前のトピでも書いたことがあるので、ダイジェスト版として再掲する。


1929年、講座派の代表格、野呂栄太郎が労農派との論争過程で書いた論文は、「国家―地主―小作人」という日本の農村における支配の図式を、「土地私有者―資本家的小作農―農業労働者」という図式と対比し、こういう問いを立てている。

「国家―地主―小作人の関係は、「他の適当なる一般的生産諸関係の下では」、土地私有者―資本家的小作農―農業労働者の関係として発展せられた所のものである。しからば、何ゆえに、我が国において特にかかる発展形態をとったか?」

この問いに対する答えを野呂は抽象的にしか出していないが、これを受けて、同じく講座派の山田盛太郎は後年、この関係の背景についてこう解説する。

「必要労働部分にまでも喰いこむほどの全剰余労働を吸収する地代範疇、利潤の成立を許さぬ地代範疇。土地所有者たるの資格が圧倒的に優位を占める右表の場合においては、利潤を目標とする資本主義的農業経営の成立しうる余地を存しない。したがっていわゆる貨幣所有者は、利潤を目標とする借地農業経営者たることなく、地代を目標とする寄生地主たるの一般的傾向をとる。これ日本資本主義発達の場合に、何故、農業上、利潤の成立を許さぬ全剰余労働吸収の地代範疇=半隷農主的寄生地主制が強化せられるかの根拠を明示する。この点は、日本農業における資本主義化の限度を形成する。」

ここにおいてその意味は明らかだが、後に(1939年脱稿)E・H・ノーマンが『日本における近代国家の成立』においてよりわかりやすく展開している。

「日本の地主制度は高額の小作料を特色とするが、これが非耕作地主の関心をもっぱら地代の徴収にばかり向けさせ、資本家として農業経営にその資本を使用することを妨げる原因となっている。イギリスでは農業が十分に資本主義的発展をとげたため比較的少数者の手に土地を集中させ、これら少数者は議会のエンクロージャー法令によって在来の旧小作人を放逐したのちに耕作面積を拡大し資本制企業として土地の営利経営をおこなった。在来の半封建的旧小作人はイギリスでは最終的に土地から放逐され、一家をあげて、急激な成長をとげつつある都市工業に職場を求めざるをえなかった。しかし日本では、高額地代の魅力にひかれた地主や高利貸は、自ら農業経営をおこなうために旧来の小作人ないし自作農をことごとく放逐しようとは思わなかった。むしろ法外な小作料を徴収するために農家に零細のうちを稼行させることを望んだものである。」

土地に縛り付けられた小農民は、その高額地代に魅かれた地主によって収奪され、地主はイギリスのような資本主義的農業経営者には変化しようがなかった、という指摘。この構造のため、「国家―地主―小作人」という天皇制的支配構造は、「土地私有者―資本家的小作農―農業労働者」というイギリスの農村社会のような構造には変化できなかった、ということである。


ここにおいて、地主、つまり中間層がなぜ「攘夷」というラディカルな形でナショナリズムを奔騰させたか、という一端が理解できるのではないだろうか。黒船来襲 → 従前の経済構造変化 → 地代収入の途絶。この構造を生活直観的に察知した中間層は、激しく「攘夷」の思想にたきつけられ、「万一の節は居村を守り、村内足弱に至る迄一人たりとも凶事あってはすまぬ事なり」という記述につながったのではないだろうか。つまり、「足弱に至る迄」地代、地租は取れるのである。「一人たりとも凶事あっては」地代収入は減るし、お上に上げるべき税がなくなってしまうのである。

これに対して、小作人、つまり一般民衆のほうは、失うものがない。このために、橋川氏も指摘しているが、漂流してきたような夷人(ゴロヴニン)に対して非常に温情的で、当時の訪日欧米人のどの記録を見ても、一般民衆については、明るく温情にあふれた社交的日本人という印象が描かれている。攘夷ナショナリズムに染まり、生麦事件を起こしたような武士、中間層とは大違いである。

丸山眞男は、『日本におけるナショナリズム』で、このあたりの事情をこう解説している。


――攘夷思想にはどういう特徴があるか。――それが支配階級によって彼等の身分的特権の維持の欲求と不可分に結びついて現れたところから、そこには国民的な連帯意識というものが希薄で、むしろ国民の大多数を占める庶民の疎外、いな敵視を伴っていることである。幕末水戸学などの文献には「姦民狡夷」という言葉がよく出てくる。つまり、人民が敵に内通することに対する猜疑と恐怖を表現した言葉で、「姦民」が「狡夷」と同じ次元で問題にされていることが重要である。


もうひとつ、この構造から類推できることは、歴史的には一般的な知識だが、特に英国においてはこの農業経営者がジェントリ層を形成し、後の名誉革命、産業革命の地盤を準備していったということだろう。

ここで二つ目の問題を考えてみる。なぜ「幕末(日本)のナショナリズムが、フランス革命、あるいはルソーのような近代的なナショナリズムの形に至らなかったのか」という問題である。

「フランス革命、あるいはルソーのような近代的なナショナリズムの形」とはどんなものだろうか。丸山前掲論文の中から、わかりやすい解説をひく。


――近代ナショナリズム、とくに「フランス革命の児」(G・P・グーチ)としてのそれは決して単なる環境への情緒的依存ではなく、むしろ他面において、「国民の存在は日々の一般投票である」という有名なE・ルナンの言葉に表徴されるような高度の自発性と主体性を伴っている。これこそ、ナショナリズムが人民主権の原理と結びついたことによって得た最も貴重な歴史的収穫であった(だから日本でも明治初期の自由民権運動の担ったナショナリズムには不徹底ながらこの側面が現れている)。


「日々の一般投票」で信任を得るには、しっかりした社会契約を結び、一般意思を形成しなければならない。社会契約と一般意思(主権者)、というルソーの考え方の淵源をたどれば、当然17世紀英国のホッブズに至る。

ホッブズの『リヴァイアサン』が生成してくる17世紀英国は、当時のフランスなどの絶対王政とはちがう「制限・混合王政」である。どういうことかと言うと、ジェントリ層から発展した議会と王政が sovereign power つまり主権を争うという激烈な政治闘争の時代である。この闘争によって国王の首ひとつが落とされるわけだが、ホッブズは、人民の安全を期すために、自然法を絶対的に守護する主権者の確立と、その主権者と人民との間に結ばれる社会契約の必要を説く。 社会契約によって守られた身の安全。この安全を第一にする自然法と慣習法の行き届いた Commonwealth 。ここにおいて近代的ナショナリズムが生誕した。

翻って、日本のナショナリズムの淵源はどうか。橋川氏は、『ナショナリズム』で、本居宣長の『玉くしげ』から引いている。


―― 臣下たちも下方民も、一同に心直く正しかりしかば、皆天皇の御心を心として、ただひたすらに朝廷を恐れつつしみ、上の御掟のままに従い守りて、少しも面々のかしこだての料簡をば立ざりし故に、上と下とよく和合して、天下はめでたく治まりしなり。(「玉くしげ」)
ここにあらわれている政治的世界は、いわば治者と被治者の一体性が神意にしたがって自然に存在しているような世界であった。いいかえれば、人それぞれが己れの情の動くがままに行動して、しかも社会の共同性が損なわれることのないようなかんながらの世界であった。したがってそこでは、人々の服従を強制するために人為的な規範がもち出されることもなかった。


橋川氏の別の表現を使えば「ユートピア」である。このユートピア観から三島由紀夫の「文化概念としての天皇」まではあと一歩である。本居自身は、このユートピア観をもって各々満足し、政治的な動きなどはしてはならないと戒めているが、この国学思想が平田篤胤を通って幕末のナショナリズム、攘夷思想に結晶していった。

なぜ、このような国学思想がナショナリズムの淵源を形成したのか。ひとつには、国学思想の形成期が、ホッブズやルソーの思想形成期のような社会変動の時代ではなく、きわめて安定していたということ。もうひとつは、ジェントリ層のような議会形成力を持った中間層が日本には育たなかったということ。

ここまで書いて告白しなければならないのは、残念ながら、この先を書くには、私のような日曜歴史研究家の手にはあまり過ぎる、ということである。

まるで時間がなくなったので、一切推敲なしで載せる。


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

***
 トピ主マックスさんの了解の下、トピックのタイトルを「日本のパトリオティズム」から「日本のパトリオティズム〜ナショナリズム」へ改題しました(2010.10.17 by 副管理人)

コメント(222)

ちょっとわかりにくいかもしれませんので、少し、私の日記のコメントから引用します。





映画好きのアカショウビンさんは、名画『市民ケーン』をよくご存知だと思うのですが、そのストーリーは、新聞王ケーンが死に際の最期につぶやいた「薔薇のつぼみ」という言葉の謎を解くために、その半生を振り返ってみるというものでした。

結局、映画の登場人物にはその謎は解けないのですが、映画を観ているわれわれには最後にわかるのですね。それは、ケーンが幼年時代に楽しく遊んだ雪のそりの名前なのですね。常人には想像もできないような波乱万丈の人生を過ごしながら、最期に心が漂着した拠り所は、小さな手作りのそりの思い出だったのですね。

もしかすると、私も最期の場面で、「日当たりのいい部屋」とつぶやくかもしれませんね。すると、想像ですが、周りの人々は、どういう意味だろう、と首を傾げるでしょうね。最期に心が落ち着くところは、「そり」でも「部屋」でも、まさにその人でなければわからないところのものになるわけですね。

クンデラの『裏切られた遺言』(集英社)というのは、彼の芸術論がまとまっておさめられた、大変にすばらしい本で、その最後のほうのページにこうあるのです。



「−−ひとがときに死者の意志に従うことがあるのは、恐怖、強制によってではなく、そのひとを愛し、そのひとが死んだと信じることを拒むからだ。断末魔にある老農夫が、窓のまえにある梨の老木を切り倒さないように息子に懇願するなら、その梨の老木は、息子が愛情をもって父親のことを思い出すかぎり、切り倒されることはないだろう。

(略)

かつて私は、フォークナーの小説、『野性の棕櫚』の結末に感動した(今でも感動する)。女が堕胎手術の失敗のあとで死ぬ。男は十年の刑を受けて監獄にいる。独房の男のところに毒薬の白い錠剤がもたらされる。しかし男は、すぐに自殺という考えを退ける。なぜなら、愛する女の生を延長する唯一の仕方は、その女を思い出のなかに保ちつづけることだからだ。

(略)

もし私が自分の愛する存在をかりそめにも死者として考えられないとすれば、いかにしてその現存が顕れるのだろうか?/私が知っていて、私がずっと忠実でありつづける彼の意志のなかに、である。私は農夫の息子が生きているかぎり、窓のまえに残りつづける梨の木の老木のことを考える。」



クンデラが考え続けているのは、「梨の老木」であり、あるいは形を変えた「薔薇のつぼみ」であり、「日当たりのいい部屋」であると思うのですね。フォークナーの場合は、形さえ取らない、単なる思い出だけです。しかし、そのことを通じて、人と人はつながり、互いに癒されていくのですね。私には、このことはよくわかります。




また後日、チャンスがあれば展開します。

たとえば、橋川氏が追究していた西郷隆盛をひとりのパトリだとすると、彼の言葉、「敬天愛人」も、もう少し考えてみる必要があるのではないでしょうか。私は、この言葉の由来などを知る素養はありませんが、素朴にこの言葉を玩味してみた場合、まず「天を敬う」ということがあります。「天」とは何か。天皇という解釈もあるでしょうが、むしろ、生きている時間までをも含んだ空間すべてと取りたい。そして、「愛人」の中の「愛する」という言葉は、その愛着の度合いにおいて「敬う」よりも数等強い。何を愛するかというと「人」である。この含意をまずはストレートに胸に入れるべきではないでしょうか。

パトリとは何か。まずは素朴に地域を考える。しかし、それだけでは何か足りない。次には、失われた時間を考える。たしかに、そうなれば、ミヘルスのパトリオティズムに近づいたような気がします。しかし、もっと本質的なものがあるのではないでしょうか。それは、おそらくは「人」なのではないでしょうか。

橋川氏の『ナショナリズム』から、「パトリオティズム」を定義する箇所をいくつか抜き出してみましょう。まずは、ミヘルスからの引用−−


−−祖国とは私たちが子供のころに夕暮まで遊びほうけた路地のことであり、石油ランプの光に柔らかに照らし出された食卓のほとりのことであり、植民地渡来の品物を商っていたお隣りの店のショーウインドウのことである。私たちがそおn実のなるのを待ちわびたくるみの樹の生えた庭にこそ祖国はあった。谷川のとある屈曲、庭の裏手の灰色に古びた木戸、ストーブで焙られているリンゴのかおり、温かい両親の家にただよっていたコーヒーや料理の匂い、町から郊外へ、郊外から町へと野原を通っていた小路、その小路を歩いた思い出、童歌のメロディ、子供のころのある夕暮のざわめき−−それらが祖国である。人間にとって祖国とは国家のことではなく、幼年時代のふとした折のなつかしい記憶、希望にみちて未来を思いえがいていたころの思い出のことである。


−−石川啄木が上野駅の雑沓の中で、おくになまりを聞き分けたときの感情や、「やわらかに柳青める」北上川を思い浮かべた折の気持などは、まさしくここにいう郷土愛の情緒であった。


続いて、正岡子規の引用−−


−−故郷近くなれば、城の天守閣こそまず目をよろこばす種なれ。低き家、狭き町、淋しき松縄手、丈高き稲の穂、鼻の尖に並びたる連山、おさなき頃より見馴れたる一軒屋、見るもの皆莞爾として我を迎うるがごとく、いずれなつかしからぬはなし、まず身よりの内をここかしことおとずれて、久闊の情をのぶれば、年老いたる婆様の笑い声、痩せたる叔父御、肥えたる叔母御、よく居睡りする下女の顔さえ、見覚えたるまま少しも変らず−−


どうでしょうか。子規の感懐の後半部分のように、すべての懐旧の情は、そこにいた人々、つまり家族、友人、同志、懐かしい人々の思い出、面影につながってはいないでしょうか。たしかに美しい野山、海景などはパトリオティズムの舞台とはるでしょう。しかし、人はひとりでは生きることはできません。野山や海景の中にひとりで過ごしたところで、そこにパトリは芽生えないでしょう。何らかの社会があって、そこに懐かしい人々の顔があり、まさに「敬天愛人」の条件がそろうのではないでしょうか。

橋川氏は、これらの引用のあとしばらくして、イギリス王立国際問題研究所のナショナリズム・リポートから、ルソーの項目をひきます。


−−ルソー自身はこれ(=ナショナリズム)をパトリオティズムと呼んでいる。しかし、それは従来とはことなるパトリオティズムであった。それはたんなる地域的な郷土愛(ハイマート・リーベ)ではなかった。ルソーの理念は、人々がこれまでなじみぶかい環境や習慣に向けていた感情や忠誠心を、今やより抽象的な実体、即ち政治的共同体に移さねばならないというにあった。そしてその過程において、その感情や忠誠心は拡張され、深化されて、市民の全生活に作用するような、その利害関心やエゴティズムに訴えると同じように、その感情や道徳感覚にも訴えるような、情熱的な確信に転化せねばならないというのであった。


ルソーにおけるパトリオィズムとナショナリズムの相互連関への言及は、橋川氏の『ナショナリズム』いおいては、実はこの部分しかありません。橋川氏はこの部分より後、パトリオティズムを一貫して「地域」との関連で捉え、時間や、ましてや人々との関連では捉えてはおりません。

このため、「近代ナショナリズムの祖型」としてルソーを掲げながら、そのパトリオティズム=ナショナリズムの契機を見落としているようです。『ナショナリズム』が失敗作とするなら、むしろここの部分に大きい落とし穴があったのではないか、という予感があります。

ここでルソーにいく前に、前に挙げた、クンデラとフォークナー、「薔薇のつぼみ」のことを考えてみましょう。

若い農夫が老木を残しておくのは何のためか。それは老木自体にパトリがあるのではありません。亡き父親が愛し、自分と思って懐かしがってくれ、と言い残したからこそ、その老木はパトリとなったのです。

フォークナーの『野生の棕櫚』においては、形あるものは何もありません。ただ、自分がいなくなれば、その女の思い出はこの地上に跡形もなくなってしまうから、その女の生きた思い出のためだけに生き続けることを思うのです。その男のパトリは自分の頭の中だけにしかありません。

オーソン・ウエルズの「薔薇のつぼみ」や私の「日当たりのいい部屋」の場合はどうでしょう。そこにあるのは、たしかにものや部屋ではありますが、もちろんただそれだけではなく、それに関係する人々の思い出が重要なことは容易に感得されるでしょう。

さて、ここでルソーです。レヴィ=ストロースが「人類学の創始者」と呼ぶルソー。レヴィ=ストロースはいかに紹介しているでしょうか。再掲します。


−−ルソーは、世界のすみずみに住んでいる人々の研究を主張する一方、同時に、ほとんどその関心を彼の最も近くにいると思われるこの特殊な人間、すなわち彼自身に向けていたのであり、また彼の仕事全体を通じて、他者と同化しようとする一貫した意志が、自己と同化することへの執拗な拒否と一つになっているのであります。

−−このような能力、それはルソーが繰り返し強調していたものですが、それこそは憐れみと呼ばれるものであり、ただ単に肉親、隣人、同国人といったものにとどまらぬ他者、すなわち、人間であればすべての人間、生けるものであればすべての生ける存在である他者と、同化することによって発露するものなのです。それゆえ、ルソーにおいては、人間は自分が人間のすべての類似物と同じであると感じることから始まるのです。そして、人間は、この根源的体験を決して忘れることがない。


よりわかりやすくなったのではないでしょうか。「このような能力、それは−−ただ単に肉親、隣人、同国人といったものにとどまらぬ他者、すなわち、人間であればすべての人間、生けるものであればすべての生ける存在である他者と、同化することによって発露するものなのです」。

他者と同化する力。「憐み」をもって、まるで「敬天愛人」のごとく人々と同化する力。それをたとえばパトリと呼べば、その力の及ぶ範囲は、ルソーの場合、「単に肉親、隣人、同国人といったものにとどまらぬ他者」にまで及んでいく。

ここから先、ナショナリズムへの道のりはただの一歩ではないでしょうか。しかも、そのナショナリズムが、主権者、一般意思と社会契約で結びつく国民大衆であった場合には。パトリオティズムと結びついた近代ナショナリズム。それは、ここに完成型を見るのではないでしょうか。
補論

滅び去る前、ヤマトタケルの望郷の詩。パトリオティズムの原型のひとつ。



大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(ごも)れる ヤマトしうるはし



命の またけむ人は たたみこも 平群(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に挿せ その子



何ゆえに、美しい野山をうたっただけで終わらなかったのか。子供のようなその遊び、自分が滅んだあとになっても、そのことは続けてほしい。子供たちのその遊びの中に自分はあり、その遊びが続く間は、自分とその郷土は人々の間に生き続ける。




パトリオティズムが地域を対象としたものではなく、むしろ人々のうちにあるとしたら、パトリから近代ナショナリズムへはより近づきやすくなりませんか。
マックスさん
>187

その通りと思います。パトリ、故郷は、地図上のどこかに実在しているのではない。誰の、どの民族のものとあらかじめ決まっている土地などどこにもない。カンブリア紀に国境はなかった。no where. では故郷はどこに在るか。ひととひととの関係性に在る。その地のために、異郷におもむいたひとの「うるはし」という想いを「命のまたけむ人」が受け取ったとき、故郷は出来する。now here.

力強い立論、すさまじいですね。マックスさんとダンボールさんに追いつけそうにありません。が、周回遅れでタッチしてみたいです。
該博な知識を身につけながら率直な直感を尊重するダンボールさんの教導に導かれて、ここまでやって来ました。

出発点の文章を読み返してみると、クンデラやフォークナーを助けに、レヴィ=ストロースを通じてルソーを考えることにより、丸山の捉える一面平面的な近代ナショナリズムを乗り越えたのではないか、と直感しています。
ダンボールさん。おもしろい話ですね。

竹内好と言えば、なんと言っても『魯迅』でしょう。その中で示した中国伝統の思想「掙扎」(そうさつ)は、深い意味を持っているのではないでしょうか。

「掙扎」というのは、言ってみれば、思想的に新しく入ってきたものをいったんは容赦なく全面的に否定し、否定した者自身がその前でもがき苦しみ、果てに自己を変革する形で全面的に受け入れる、その形のこと。後進国中国が、全面的に襲ってきた「西欧」を、苦しみ抜きながらも受け入れるさまをも示しています。

丸山は、この概念を導き出した竹内に深い影響を受けて、日本文化のうちから「諫争」概念を引き出した(と私は解釈しています)。竹内と丸山の間の思想の伝わり方について、以前書いたことがありますので、拙いものですが、よろしければ下記からご覧になってください。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1311255551&owner_id=19663839

さて、この「掙扎」という考え方。Western impact を前にして、明治日本は脱兎のごとく近代化に走ってしまったが、中国のほうは簡単に受容れることができず、きわめて遠い回り道をしながら受容れることになった。その姿、その精神を、竹内は、魯迅から抽出して、「掙扎」と位置づけた。おそらくは中国への本当に深い愛着、執拗な探求がなければ出てこない概念ですね。

自国史を研究する中国の研究者は当然竹内を読み、教えられる。そこに中国への深い愛着、執拗な探求を見る。この姿は、これまでに話題になっているルソーの「一つの文化」と「他の文化」の自由な同化、連携の具体的な姿なわけですね。

丸山がその竹内に、通説とはちがって「インターナショナル」、「世界市民的なもの」を見出したというのも、頷ける話ですね。

その意味で、ちょっと外れますが、私は日本にとってE・H・ノーマンがそうした「竹内」的な役割を果たしてくれたと思っています。戦後すぐのあのとき、米国がこれ見よがしの「民主政治」を日本にくれてやろうとしていたとき、そんな考え方は江戸の昔から日本にはあったんだという意味で、異端中の異端国学者、安藤昌益を発掘した歴史的意味はやはり大きかったと思います。もっとも、その裏には丸山の全的な協力があったのですが。
女性格、男性格というのは、ちょっとわかったようでよくわからない気もしますが、保田、北の評価は非常によくわかる(ような気がします)。


−−橋川さんが、保田興重郎に対して、「徹底的に勇気がなかった」と批判したことが思い出されますね。北一輝は女性格の天皇という考えは取らなかった。彼は「徹底的に勇気があった」と言えるかもしれない。


「国民の天皇」を打ち出した北は、ありていに言っても「勇気の塊り」ですね。
マックスさん
>180
>ところで、nos さんがお使いになった「人工的ナショナリズム」という言葉が、伊藤博文が国体(憲法?)をつくった際に出てくるのと、現代の沖縄にひきつけて出てくるのと、ふたつの文脈で登場するのですが、いまひとつその定義がはっきりとはつかまえ切れないのです。

胡乱な書き方ですみません。明治から現代へ、中間層を利用した内向きのナショナリズムは一貫しているものとしてそのように呼びました。

ダンボールさん
>181
>上の論が正しいとすると、生まれ育ったところで生活している人には、パトリはないことになる。「ただそこで生きて死ぬのみ」とは、かわいそすぎる言葉のような気がする。
私のそもそもの疑問は、いま生活しているこの場所(私の場合は東京)は、なぜパトリではないのでしょうかということ。

書き方が悪かったです。「ただそこで生きて死ぬのみ」とは侮蔑の言葉ではないのです。むしろそれができればそれでいい。ただし、あらゆる意味で外部との交通がない場所=エデンの園は世界にないでしょうね。相対的に己の生きている(生きようとしている)場所を返り見た時にパトリは把握される、「ただそこで生きて死ぬ」ために。ダンボールさんは東京をどう見ておられるのでしょうか。僕は東京に暮らしていたおかげで、熊野や沖縄のことを考えるようになり、通うようにもなりました。
ちょっと思い出しましたのが、坂口安吾『文学のふるさと』という掌編です。

http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/44919_23669.html

ここで、芥川と「農民作家」の話が登場します。「農民作家」は子どもを口べらしのために殺してしまったことを文学にした。芥川はそれに絶句する。安吾はこれをインテリと庶民という通俗的な区別に落とし込まない。そしてこう言います。

「とにかく一つの話があって、芥川の想像もできないような、事実でもあり、大地に根の下りた生活でもあった。芥川はその根の下りた生活に、突き放されたのでしょう。いわば、彼自身の生活が、根が下りていないためであったかも知れません。けれども、彼の生活に根が下りていないにしても、根の下りた生活に突き放されたという事実自体は立派に根の下りた生活であります。」

根が下りるということは決して良いことばっかりじゃあない。「農民作家」は子どもを殺したことを文学としたことで、彼自身のパトリを発見しようとしていたのだと僕は思います。文学でそれを相対し、己のいる地を掴もうとした。そして、それに「突き放された」都会に生きる芥川にしても、まさにその「突き放たれ」ているというそのことによって「立派に根の下りた生活」なのだ、と。これらを踏まえて結ぶ安吾の「ふるさと」についての結論もまた見事なものです。ともあれ、僕は芥川の暮らしていた場所にも「根の下りた生活」つまりパトリを認める視線に共感するのです。東京が誰かのパトリでないはずがない。
ダンボールさん
>195

『開国のかたち』は読んでおりませんでした。『日本の失敗』と同じようなものだろう―とうかつに予断していました。こんなおもしろいことが書かれているとは!

>西南戦争を起こした西郷の私学校党というのは男ばっかりのホモ集団だ

民俗学に頼らなければ答えようがないのではないかとも思うのですが、松本は政治のほうから答えたのですね。それはそれでひとつの答えでしょう。
先日の関西オフ会でもガイストさんに申し上げたドイツの思想家でテーヴェライトというひとがいます。このひとは近代ドイツにおけるホモソーシャリズムの果たした影響ということを丹念に追っています(『男たちの妄想』法政大学出版局)。ナチズムもホモソーシャリズム抜きには分析できないと(ヴィスコンティ監督の『地獄に堕ちた勇者ども』を観れば彼の言っていることの半分くらいは分かってしまうのですが)。まあ、ドイツにはこうした研究がある。
司馬遼太郎はこの問題にかなりこだわっていて、何度か言及していたかと思います。手元にあるものだと、『街道をゆく』の「熊野・古座街道」篇の朝日文庫版P57~67。熊野の若衆宿から飛んで薩摩の郷中制度の話となり、西郷隆盛がそのカリスマだったと。一万余の私学校をおこしたときも、そのメンバーはかつての郷中組織であった。やがて西南戦争が起き、司馬はこう続けます。
「この間、西郷の思考には飛躍があり、ふつうなぞとされている。しかし西郷の決断はかれの成熟しきった理性によるものではなかったであろう。
 慣習であったのではないか、ということを、私は熊野の古座川の出身のKさんの若衆イメージをきいてから、目をひらかれたように思うようになった。」
熊野も、薩摩も、それほど若衆同士の関係は濃密であった、と。
與重郎が中国で迎えた終戦の日のことを書いた文章があります。
当然のことながら、終戦(敗戦)は與重郎にとって大きな衝撃なのですが、その中で自分を良く診てくれた医者への感謝の言葉があります。
その医者の故郷が沖縄であることを書いて、自分の故郷が大変な状況にあるにも関わらず自分を(患者を)よく診てくれたということを書いています。

終戦の日のことを書いた文章で沖縄のことが出てくる例は他には少ないような気がします。

     播磨國住人 韃靼人
「みやらび」は「美童」と書きますかね?たしか。
「みやらびあはれ」を二度読み返しましたが、これは、私には大変むずかしいです。パトリオティズムで論じる余地はあるとは思いますが、また別の側面の議論も展開されるようにも思います。

どなたか、新しいトピを立てて、たたき台を出してみたらどうですか。
保田與重郎と沖縄、というのは非常に興味深い取り合わせです。
個人的には、柳宗悦が沖縄方言をめぐって政府(沖縄県知事)と闘ったのに対し、この件に関しての保田の冷笑的な発言が引っかかっていまして。この辺りはきちんと読み直したいなと思っていたところです。
王子さまさん、ダンボールさん、ぜひ新トピでの展開をお願いいたします。
みなさん、ご無沙汰しております。
まだ、出版社との熾烈を極めた闘争(?)が続いておりますし、描きかけの小説も佳境に入ったばかりですので、まだ復帰できません。が、出版社との闘争の関係で以前に日記で書いたものを見ていましたところ、新たに昔読んだ橋川文三の「時代と予見」の一節が頭を過ぎりましたので、読み直しましたところ新発見がありましたものですから、日記を書き換えました。

日記とは『「西郷隆盛とルソー」試論ー橋川文三をめぐって』というものでして、このトピに関係しますし、橋川文三の近代的ナショナリズム観にも関わるので、ここに無理やりに転載させていただきます。

またチャチャやクレームが入るかもしれませんが、馬耳東風に徹します。
嫌になるほど長いですが、辛抱して読むように、と命令口調でお願い申し上げます。
それから、優秀な新人が大挙して入られたようで、喜んでおります。
復帰したときに、改めて挨拶させていただきます。
日記は、213からです。では、ごきげんよう。
 なぜ橋川文三はルソーを重視し、また問題にしたのか。 処女作である『日本浪漫派批判序説』を書き上げた橋川文三の嗅覚が、鋭く反応したからだ。
 ルソーが「近代的ナショナリズムの一般理論を提示」したこともあるが、それよりも、近代的自我が内に孕んでいる問題性を、その萌芽期において、既にルソーの人格のなかで強烈な形で体現化していたことを見抜いたからだと思う。
 それを見抜いたからこそ、橋川文三の思想は現在においてもなお、生き続けることができるのである。
 橋川文三は『日本ナショナリズムの源流』に書いている。

「ともかく、ナショナリズムとデモクラシーとの同一性を仮説することから、近代ナショナリズムの運動が発達したことは、ヨーロッパにおけるナショナリズム理論の始祖とされたルソーの場合を考えても明らかである。彼は一方ではホッブズやロックに始まる主観的・合理主義的な個人主義の観点と、他方ではほとんどロマン主義的なトーンをおびる一般意思の理念とを結びつけることによって、服従することがそのまま自主的な支配を意味するような全体的政治形象を考え、そこにはじめて近代ナショナリズムの一般理論を提示したのであるが、我国においてそれと同じ理論的状態を現出したものは、なんといってもやはり自由民権の思想と運動であった。そして、それ以降の日本ナショナリズムの展開は、たとえそれがいかにアジア的ないし天皇制的歪曲を蒙ったにせよ、ナショナリズム一般の理論的文脈において処理しうるものとなったはずである」

 橋川文三がいう「ナショナリズムとデモクラシーとの同一性」とは何か。 これこそが近代的自我が内に孕んだ問題性なのである。すぐ後で具体的に言及している。

「一方ではホッブズやロックに始まる主観的・合理主義的な個人主義の観点と、他方ではほとんどロマン主義的なトーンをおびる一般意思の理念とを結びつけることによって、服従することがそのまま自主的な支配を意味するような全体的政治形象を考え、そこにはじめて近代ナショナリズムの一般理論を提示した」

「ホッブズやロックに始まる主観的・合理主義的な個人主義の観点」と、全く相反する「ロマン主義的なトーンをおびる一般意思の理念とを結びつけることによって、服従することがそのまま自主的な支配を意味するような全体的政治形象」を渇望する幻影的パトスが、自己のなかで分裂的に並存していることを指摘しているのである。
 ルソーにおける「自主的な支配を意味するような全体的政治形象」とは、「ホッブズやロックに始まる主観的・合理主義的な個人主義の観点」から否定された、共同体的なるものへの郷愁によって作り上げられた、いわば「共同幻想」のようなものである。が、近代自由主義の成立は、共同体階層秩序の解体なくしてはありえなかった。ルソーにおいても、例外ではない。ルソーの強烈な近代的自我は、共同体階層秩序を激しく憎悪し、その鉄鎖を自らの歯で食いちぎったに違いない。
そして、共同体の牢獄から解放された自由で独立した自我を謳歌しようとしたのである。
 ルソーが特異なのはここに留まっていなかったことだ。それがルソーをルソーたらしめている理由であり、ルソーの問題性が現代にまで生き続けている理由なのである。
 否定し、憎悪する対象でしかなかったはずの共同体を逆に激しく渇望するという自己矛盾が生じたのだ。憎悪する対象でしかないものをそのまま渇望することはありえない。自分のうちにある近代的自我のフィルターを潜らせ創り上げた、幻想としての共同体のイメージなのである。実際の共同体とは異質の、幻想的で理想的な、「近代的意思」が創り上げた空中楼閣でしかない。それこそが、共同体階層秩序から解放され独立し自由になった「近代的自我」の拡散と放恣を一つに集結させ、全体的に一体化させるための紐帯となるべき、「理想的な近代的国家像」としての理念なのであろう。そして、この理念こそが「近代的ナショナリズム」なのである。  
(つづき)

室生犀星に有名な詩がある。

 ふるさとは遠くにありて思うもの
 そして悲しくうたうもの
 よしやうらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかえらばや
 遠きみやこにかえらばや
 「小景異情―その二」

 この詩こそ、ルソーの共同体への郷愁に通じるものだと思う。激しく憎悪する対象でしかない故郷=共同体。それでもなお激しく心を揺さ振られ、惹き付けられていく故郷=共同体。その故郷とは、現実のものではありえないはずである。「近代的自我」が描き上げた幻想としての故郷=共同体でしかないのだ。
 ルソーが自己の人格のなかにおいて象徴的に体現化した「近代的自我」の問題性を橋川文三は『西郷隆盛紀行』でも取り上げている。

「J・J・ルソーについては、いわゆる『ルソー問題』とよばれるものがあるが、この問題はヨーロッパにおいて消えることのない謎といってよい。つまり、ルソーは崇拝者と嫌悪者とにわかれている。その一例として『ヒュームとルソー』の場合をあげることでよい。この二人ははじめ尊敬しあいながら、一年と少しで悪魔よばわりするようになった。わが国では山崎正一、串田孫一の本が『悪魔と裏切り者―ルソーとヒューム』として出版されているのはその証拠である。四年前、フランスにおいてルソーとヴォルテールの死後二百年祭が行われたが、それはヴォルテール賛美の気配が濃かったという。これは一言でいうとルソーの自然賛美とヴォルテールの人工賛美との対抗であろうが、また西郷の『敬天愛人』と当時一般的であった『文明開化』との対比でもある」

 上記の文章は、単純な読み方をしては理解できないと思う。先に引用した『日本ナショナリズムの源流』で言及していた「ルソーの分裂した人格」を踏まえた上で読み解くべきだろう。 分裂のどちらに軸足をとるかによって評価が分かれるのは、蓋し当然のことである。が、橋川文三が問題としているのはそんなことではない。「ルソーの分裂した人格」とは、そのまま近代的自我が宿命的に己の内に内在化せざるを得なかった「分裂した精神構造」だということを見抜いていたのである。
 極論しよう。ルソーは自由主義と民主主義の精神と、もう一方ではファシズムにも通じる精神とを分裂的に併せ持っているのである。そしてそれは、ルソー個人に留まらない、近代化された自我の持つ分裂的な二面性でもあるのだ。
 橋川文三はそうした問題意識をとおして、近代史を読み解いたのだと思う。日本浪漫派の問題性をとりあげ、ドイツ・ロマン派に言及し、日本ナショナリズムを語り、超国家主義へと分け入ったのは必然であったのである。
 その問題意識とは、次の文章にも垣間見えている。先の『日本ナショナリズムの源流』からもう一つ引用しよう。

「北一輝のような思想家が、ほとんどルソー的といってよいような視点から、日本ナショナリズムの超越化を考えた所以である。このことを別にいいかえれば、日本ナショナリズムは、その成立根拠の中に、北的な解釈を許すような理由をもっていた」
(つづき)
 
 上述したことは、師である橋川文三の著作を辿ることで、わたしなりにルソーの解釈を行ったものである。断わっておくが、飽くまでもわたし的な解釈である。では、橋川文三はルソーをどう捉えていたのであろうか。橋川文三はルソーの強烈な個性の中で花開いた近代的ナショナリズムの萌芽に、託すべき夢としての可能性を見ていたように思える。
 橋川文三は『時代と予見―橋川文三対談・講演集』のなかで、自身の近代的ナショナリズム観を述べている。少し長くなるが「演繹する思想への疑問」(『日本読書新聞』昭和43年9月30日号)から当該する箇所を抜粋してみよう。

「ナショナリズムというのは、僕もいくらかそういう示唆を出したのだけれども、ルソーの時代もそうでしょうし、1930年代あるいは60年代の現代でもそうだと思うんだが、人間の根元的なあり方、あるべき姿、そういうもののイメージと結びついた一つの主張・思想なのです。
 中世においてはナショナリズムがなかったと言われるのは人間の生き方と自分の存在の意味づけというものが一定の制度的なシステムの中で明確にあったわけで、例えばキリスト教的な共同体の秩序とか、中世の様々な共同体規制とか、秩序に従うことによって、人間は自己の存在の意義と自己の生涯の意味を測定できたと思う。
 ところがそういう共同体の崩壊の後は、人間にとって究極の拠りどころとなる具体的な社会的・制度的秩序というものはなくなり、そこに生まれてくるのがルソー的なネーション、パトリという考え方なんです。これは全く新しい発想で、こういう思想は従来存在しなかった。そういう考え方は当時は非常にグロテスクに見えたでしょう。だから啓蒙派の連中がルソーの中に非常にグロテスクな、今で言えばサイケデリックな思想を感じたんではないかと思います」

 橋川文三は近代的ナショナリズムを「人間の根元的なあり方、あるべき姿、そういうもののイメージと結びついた一つの主張・思想」と捉えていたのである。そして近代的ナショナリズムが生まれた理由を「共同体の崩壊の後は、人間にとって究極の拠りどころとなる具体的な社会的・制度的秩序というものはなく」なったために、「ルソー的なネーション、パトリという考え方」が生まれてきたのだと説明している。
 橋川文三はこの近代的ナショナリズム観を、『時代と予見』のなかで更に詳細に語っている。「ロマンチシズムとナショナリズム」(『未来』?34・昭和44年7月号)においてである。

「ルソーでも、あるいはドストエフスキーでもいっていると思うけれども(中略)要するに自分の隣人を愛することができない連中が、その口実にインターナショナリズムやコスモポリティズムや西欧主義やを持ちだすんだという意味の、非常に似た発想を含んだことばがあるわけで、ぼくはそういう意味でナショナリズムはヒューマニズムなんだといいたいんです。つまり基底にあるのは、似たようなタイプの人間同士の間に、一種の幸福な人間関係を作り出すのにはどうしたらいいのかという思想や態度というものが、ナショナリズムをぼくは形成していると思う。(中略)ナショナリズムというのは、そもそもぼくの解釈だと、たとえばルソーならルソーのナショナリズムというやつは、ごく平凡にいえば、新しい幸福な社会関係の創造、つまり従来の封建的な身分差別によって形成されていた、従来のエスタブリッシュメントを突き破って、自由な個人が、しかも幸福な人間的な連帯をつくるために、という発想です」  
(つづき)

 方法としての浪漫的な思考様式に拘って、ナチス的な決断主義を回避(「ロマンチシズムとナショナリズム」より)しようとした橋川文三が「ナショナリズムはヒューマニズムなんだ」とまで断定するのはよほどのことである。それほどまでに橋川文三は、ルソーにおける近代的ナショナリズムの萌芽に内包されている精神に強く惹きつけられていたのだと思う。『日本浪漫派批判序説』を上梓した後の橋川文三の方向性はこの時点で決まったと言えるのかもしれない。日本ナショナリズムと日本超国家主義の研究とその解明こそが、必然的な道筋だったのであろう。なぜならば、「ナショナリズムはヒューマニズム」であるはずが、日本における近代的ナショナリズムの歩んだ歴史は全くといっていいほど正反対の様相を呈していたからだ。その要因の究明なくしては、可能性としての「ナショナリズムはヒューマニズム」というあるべき姿とその政治的システムは見えてこないはずである。その辺りに関する問題意識を橋川文三は明確に述べている。

「ただそこで問題になるのは、当然ルソーは結局ジャコバン全体主義の思想的な根拠になっているんじゃないか、一般にルソーというのは、全体主義の創始者であるという解釈がそうと強いわけですよね。これは多くの人がそういうふうな指摘をしているわけだし、もちろんそれに対する反論もあって、それでルソー・クエスチョンというものになっちゃって、解決がついていないんだけれども、ぼくはどうも今いったような意味で、ルソーをトータリタイアンというふうに、簡単に考えないほうなんですよ。そういうふうに考えていくと、ナショナリズムは実は人間主義だというふうになるわけなんだけれども、しかしそういう議論と日本ナショナリズムの歴史があまりにも食い違っている事実、これをどう説明するんだということになるわけね(「ロマンチシズムとナショナリズム」)

 橋川文三は「ナショナリズムは実は人間主義だというふうになるわけなんだけれども、しかしそういう議論と日本ナショナリズムの歴史があまりにも食い違っている事実」を「どう説明する」かによって、ルソーのなかに鮮やかに開花した可能性としての近代的ナショナリズムのあるべき姿としての国家像を描こうとしたのだと思う。「いわゆる政治的ナショナリズム、あるいは軍国主義と結びつき、大国主義と結びつくような、国家主義と結びつくようなナショナリズムとは、ぼくは意味を別のものとして考えないとまずいんじゃないか(「ロマンチシズムとナショナリズム」)と、問題意識を熱く語っている。
 わたしが思うに、こうした問題意識は西欧的な近代化に軸足を置いた視点だと思う。いわゆる丸山学派としての橋川文三の立ち位置だったのである。『日本浪漫派批判序説』とは、日本の近代化を激しく憎悪した日本浪漫派を、つまりは己の内なる日本浪漫派的なるものを、可能性としての西欧的な近代思想によって乗り越えるためのものだった、とわたしは解釈している。
果たして、橋川文三はこの問題の答えを出し得たのだろうか。否とわたしは断言できる。この問題の深部にまで潜っていけばいくほど、闇は尚いっそう深まったのだと思っている。丸山学派として歩んでいた橋川文三は立ち止まった。そして、無意識に反対方向に歩き出したのだ、とわたしは考えている。『黄禍物語』とは、その分岐点であり、また新たなる歩みの宣言としての意味を持っていたとわたしは見ている。
 橋川文三が新たに歩み出した方向とは、竹内好の歩んでいく方向だったのだと思う。つまり、『日本浪漫派批判序説』の地点に立ち帰ったのだ。西欧的な近代化を激しく憎悪した、己の内なる日本浪漫派的なるものにもう一度立ち帰り、西欧的な近代思想による乗り越えではない方法で、再び乗り越えようとしたのだと思っている。それはルソーという強烈な個性が鮮やかな形で体現した西欧的な近代的自由主義としてではあり得ない、と橋川文三は思い至ったはずだ、とわたしは想像している。  
(つづき)

 橋川文三はどこまで辿り着いたのか、不勉強なわたしにはまだその場所が見えていない。が、その場所は橋川文三はが最後まで拘った西郷隆盛のなかにあるような気がしてならないのである。
 正直に言うと、わたしにとって西郷隆盛は謎である。しかし、どうも西郷は近代的自我が必然的に己のうちに抱え込み分裂化し、心が二つに引き裂かれていくという、「ルソー的な問題性」を無意識に感じ取ったのではないかと妄想しているのだ。どうして感じとれたのか、それは奄美での生活の体験が、血となって色濃く西郷のなかに流れつづけていたからではないだろうか。士族であり、しかしその根底には奄美の熱い真赤な血が流れていた。
 西郷においての故郷は、室生犀星が詠った幻影としての故郷ではない。現実の奄美だった。だから、西郷の心は奄美に帰れたのだと思うのである。
近代化を邁進し、しかし魂と心が、幻想ではない現実の奄美に帰っていった。近代的な自我の萌芽と真正面から向き合い、己のなかで葛藤したからこそ見えたのだと思う。近代と共同体とが、西郷のなかで激しくぶつかり合い、火花を散らしたに違いない。そして、愛した女「アイカナ」のなかへ、奄美へと帰っていったのだ。その西郷の姿にわたしは惹かれるのである。それがわたしのいう「菊と刀」ではないもう一つの「日本的なるもの」なのである。可能性なのである。

 西欧における近代化と違い、日本における近代化は下部構造において決定的に違っていた。歴史性と風土的な違いもある。上からの近代化とは別な世界が、日本的な共同体的階層秩序の世界が生き続けていたように思うのである。二重構造になっていたのではないだろうか。そして、その世界に対応するように、「日本的なるもの」も二つ存在したのだと思うのである。近代化した世界においては「菊と刀」的な「日本的なるもの」が近代的ナショナリズムという形で取り込まれた。が、もう一つの「日本的なるもの」は切れたままで別の世界に生きていた。
 したがって、日本におけるナショナリズムを考えるに当たっても、この二重構造は重要な意味をもつ。ナショナリズムとは、近代的自我の形成なくしては成り立たない。つまり、社会契約説的な近代国家像がなくしては、近代的ナショナリズムはありえないからだ。個人レベルにおける共同体的階層秩序の頚木から解き放たれるための葛藤こそが、近代的ナショナリズムへと昇華するエネルギーとなるのである。橋川文三は『日本ナショナリズムの源流』で説明している。

「この前提が欠けている場合、どのように民俗独立、民族防衛的な発想を含んだ思想でも、政治の全体の文脈においては、近代的ナショナリズムのカテゴリィには属しないことになる。したがって、我国における近代的ナショナリズムも天賦人権・人民主権の意識の展開、すなわち自由民権運動の登場をまって、はじめて理論的にナショナリズムとして論じうることになる」

「この前提」というのは、遠山茂樹の次の文章を指している。

「本来の意味のナショナリズムは、尊皇攘夷思想とは全く系譜を異にし、否、尊皇攘夷思想の批判克服の上に成立したと考えられる自由民権思想の内に成長したという事実を確認しなければならない」

 明治維新革命によって成立した近代国家によって、上からの近代化が推し進められる過程で噴出した近代化する自我のエネルギーこそが、自由民権運動なのだろう。そして、その混沌としたなかから「近代的ナショナリズム」が生まれたのである。が、それは近代化に取り込まれた階層でしかない。民衆は依然として近代化する前の世界に留まっていたのだ。だから、民衆のなかに「近代的ナショナリズム」が成立するはずはない。せいぜいが、遠山の言う「尊王攘夷思想」のレベルでしかない。が、これとて上からの近代化=天皇制国家体制による不断の教育=教育勅語の押し付けによって芽生えたものであるのだろう。
 二重構造の近代国家。だから、民衆の心を国家に向けようとすれば、共同体的階層秩序を刺激しなければならなくなる。そして、共同体的階層秩序の世界が揺らぐときには、「中間層」を通じて近代国家の世界が揺さ振られるのだ。
民衆の心にとっては、言葉の厳密な意味での近代国家は存在しなかったのである。
民衆にとっての「国家」とは共同体的階層秩序の世界でしかありえなかった。そう思うのである。  
(つづき)

 その二重構造は、だんだんと侵食されながら戦後まで続いたと思う。そして、近代化によって全てが覆い尽くされようとしたときに出現したのが、「限界集落」化なのである。「限界集落」化とは、人口の過多によるものではない。都会でこそ問題となっている現象なのだ。アトム化され、バラバラになった近代的自我と、ひととひととの関係性が完全に消えうせた先に出現したものなのである。都会の片隅で忘れ去られ、置き去りにされて、孤独死していく老人の姿こそが紛れもない「限界集落」化の姿なのである。

 茨城県の土浦市で起きた無差別連続殺人の本質とは何か。 産経新聞社の記者の単独インタビューに金川被告は答えている。

記者「加藤容疑者は、会社などがうまくいかずに犯行に及んでいますが?」
金川被告「おかしいと思う。彼は自分がうまくいかないことをすべて他人のせいにしていた。彼は八つ当たりで人を殺している」
記者「加藤容疑者とあなたの違いが、僕には分からないのですが?」
金川被告「僕はただ、この世の中から解放されたかっただけ」
記者「ファンタジーの世界に行きたいと、インタビューに答えていますが?」
金川被告「死んで、ファンタジーの世界に行きたい。向こうでは攻撃の魔法を使いたい」
記者「攻撃の魔法で他人を傷つけるのですか」
金川被告「違います。人間を支配しようとする悪者を倒すんです。人々を守りたい」
記者「皮肉に感じる。今生きている世界では、その人々を傷つけたわけでしょう」
金川被告「この世界から消えたかったんです」

 わたしは考えてしまう。アトム化し、バラバラに解体された近代的自我に内在化するロマンの描く空中楼閣は、最早郷愁ではありえない。共同体そのものが破壊尽くされてしまったからだ。若者のなかに幻想としての村落共同体への憧れなどないだろう。だとしたら、そのロマンはどこに行き着くのか。もしかしたら、バーチャルなゲームの世界なのだろうか。そんな夢想が許されるのかもしれない。
しかし一方では、息も絶え絶えになった現実の村落共同体へと向かう若者たちもいる。犀星が詠った郷愁としての村落共同体ではない。そうした若者たちの「心」は、西郷が奄美へと帰っていった「心」に通じているのではないだろうか。

 最後に、少し長くなるが、現在のわたしの問題意識と深く関わり、「日本的なるもの」の可能性とも、「限界集落」の問題とも関わってくるので、藤原保信『自由主義の再検討』から引用しておくことにする。

「たとえば、デカルトはコギトを通じて得られたもはや疑いえない自我を心理の拠点として、そこから確実な知識の世界を組み立てていった。ロックもまた、世界についての全体的知識はもはや不可能であるとし、類や種すら概念的構成物にすぎないとしながら、もっぱら感覚と内省により得られた単純観念の結合によって世界を理解しようとしていった。そしてカントも人間の有しうる確実な知識の範囲を、経験を通じて知りうる現象の世界に限定しながら、その客観性の保証を主観のうちに求めていった。このようにして、いずれのばあいにも外なる世界はむしろ主観の構成物とされていったのである。ここに人間中心主義が成立し、自我中心主義が成立するのも当然といえよう。
このような主観ないし自我のあり方は、社会理論としては社会契約説的発想につながる。すなわち、それは自由で平等で独立な個人の自然状態を出発点としながら、道徳をたんなるそこにおける自然権をよりよく実現するための平和の戒律(義務の規則)とし、国家を人為的構成物としていったのである。このようにして個人が、他者との関係に先行し、他者関係は自己充足的な個人のためのたんなる手段となっていった。あるいは公的目的や公的連関から切り離された権利として措定され、義務はかかる権利のよりよき実現のために守られるべきものとなっていったのである」
橋川は国民国家を戴く近代ナシャナリズムとそれ以前の地域主義的ナショナリズムを区別し幕末のそれは前者を目指すものとしているようだ。しかし、前近代の擬似ナショナリズムは、傾向として氏族的・部族的・民族的に変容する。島国の鎖国体制から思考として部族的な擬似ナショナリズムが族生(国学・水戸学・崎門等)し、未熟な近代ナショナリズムと習合する。やはり、記紀神話に由来するGHQの国家神道定義(天皇・国土・大和民族の)先験的神聖性をトートロジーとする創られた神の国(日本だけが神の国である、又は日本の神は外国の神に超越する力と権威を持つ)起源譚とそれに基づく系譜的(レジテマシー)正統性前提のベクトルが特異なナショナリズムを生んだ源泉だろう。

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