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哲学が好きコミュの意識とは何か(受動意識仮説)

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mixi内コミュ及びトピ全体で「受動意識仮説」で検索して1件だけトピを見つけることができました。しかしながらコミュの主旨によりトピ主以外のコメントは禁止になっていて議論できるトピではありませんでしたのでこちらでトピをたてさせていただきました。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=24311054&comm_id=1428307


 「受動意識仮説」というのは、ひとことで言うと、私たち人間一人一人が、「私が」という風に主語で表す「意識主体」は、私たちが通常そう感じているような「能動的な主体」ではなく、「受動的な何か」でしかないのではないかという仮説です。「私」は、私の「司令塔」ではなく、私で起こっていることの単なる「観察者」ではないのかという仮説です。

「私」は「司令塔」でなく「観察者」、AI構築の仮説  進化する人工知能(番外編)
村上憲郎のグローバル羅針盤(9)
http://www.nikkei.com/tech/trend/article/g=96958A90889DE1E7EAE6E4EBE0E2E0E6E3E2E0E2E3E3E2E2E2E2E2E2;p=9694E0E5E2EAE0E2E3E3E1EBE1E0

外部から受けた情報や自身の行なった言動に対して、評価・反省・思索等の行為については、意識”も”関わっているように感じるのですが、この感覚も錯覚なのかもしれません・・・

わずかばかりの実験・検証結果からはある程度確からしさもうかがえますし、意識は観察者と仮定すると、私にとってのいくつかの重要な難問の解も得られるように思います。

意識は観察者というこの仮説について、皆さんはどのようにお考えになりますか。

忌憚なきご意見を頂き、議論できれば幸いです。^^


「意識は機械で再現できる」 前野教授の「受動意識仮説」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0905/27/news022.html

意識は幻想か?―「私」の謎を解く受動意識仮説(youtube)
http://www.youtube.com/watch?v=Ox8gJEIe5Ac&feature=player_embedded

受動意識仮説(のおもしろ解説)
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/kuoria7.html

意識 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98

運動準備電位 [編集]
自発的運動に関する研究から、意識的決定の体験は行動に先んじない事が確認されており(つまり後追いする)、脳内で神経細胞の活動が始まってから数百ミリ秒後に意識的決定の体験が起きる、という順序が確かめられている。このことから「意識とは自分の現状をモニター(監視)する機能である」と結論付けられつつある。 つまり意識はモニター監視した結果をフィードバックする事で、その後の行動に反映するという形で間接的に行動を制御は出来るが、その瞬間瞬間に行動を直接的に制御しているのではない、といったことである。簡潔に、私たちが持つのは自由意志(free will)ではなく自由拒否(free won't)だ、と表現されることもある。意識的決定と運動に関する先駆的な研究は1980年代にアメリカの生理学者ベンジャミン・リベットにより行われた[19]。

意識に相関した脳活動 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AB%E7%9B%B8%E9%96%A2%E3%81%97%E3%81%9F%E8%84%B3%E6%B4%BB%E5%8B%95

コメント(552)

> 512

w( ̄o ̄)w オオー! りょさん、コメントありがとう。

意味も価値も趣味も拘りも人それぞれなのかもしれませんね。^^
なるほど、こっちのほうか、
通読するは流石にしんどいが、

ざっと見た感じ、決定論による自由意志の否定ってところか…
詳しい方にお聞きしたいです。

自由意志の根源は、有機物の自発性なのでしょうか?

つまりアメーバがどう動くのかと、私たちの自由意志がどう動くのかは、同じことなのでしょうか。
俺は常に無生物にも知性があると思ってるけどね*・゜゚・*:.。..。.:*・'(*゚▽゚*)'・*:.。. .。.:*・゜゚・*

ほらよ。

WIRED.jp (@wired_jp)
12/05/18 23:45
【研究】「粘菌の知性」を解明:記憶や予測も可能なネットワーク──単細胞生物である粘菌(変形菌)は、変形体になって移動し、効率的な輸送経路を発達させる「知性」を有することで知られる(再掲) go.wired.jp/KyNrG8 #wired_jp
僕は全く詳しくないけど、自由意志の概念自体が本当に正しいのかどうかは誰も解明しておらず、その真偽はわかりません。

ただ恐らく単純な有機物に何らかの自発性があるとは考えにくいと思います。
そのような自発性を促すシステムが備わっていないからです。

アメーバと私たちの意志との関係については、明確に同じだとは言えないでしょうね。
まずアメーバに意思や心が存在するのか、僕らにはわかりません。
他の生物のように我々との意思疎通そのものができませんので、仮に有ったとしてもその確認のしようがなく、どうしてもわからないのですね。

しかし心があるかどうかはわかりませんが、いさぎさんがおっしゃるように、「知性」(情報処理能力)の可能性については近年見直しが図られています。
このアメーバに見られるメカニズムが後世の生物の「理性」への進化を可能とさせたものではないか。との認識も広まりつつあります。

この知性・知能はなにも有機物に限ったことではありません。
たとえば「人工知能」はパソコンのような電子コンピューター(計算機)で作れますよね。
中には人間に近い解釈を持たせてコミュニケーションを可能とするものや、あるいは人間以上の処理能力を活かして、人には不可能な問題に対応するものもあります。

しかし<彼等>には私たちと明確に異なる事があります。
それらが100%計算上の結果であり「自由意志を持っていない」ということです。
そしてそれらが果たして本当に「意識を持っていない」と言えるのかが我々には決定できない。という事です。
もちろん我々は「意識を持っている存在である」という前提を持って、<彼等>も同じなのかがわからない。という意味です。

知能的・知性的であるからと言って、即時に意識があるとは言えないのです。
>517 リウrepさん

おぉ〜ありがとうございます。  詳しくない私でも色々と想像膨らむテーマですね〜。

アメーバの中には、もしかしたら「動きたい!動きたい!」という、意識になろうとする手前の信号がとびかっていたりして。
トピのテーマ「受動意識仮説」で考えると、それを観察する能力が無いため、アメーバに「私」は無いってことになるのですかね。
♪( ´θ`)ノ

>りうさん
うん。
俺が主張する「無生物の知性・意識」を確認する手段は、現在の人類にはまだ持ち得ていないので、肯定も否定も出来ないね。

>自発性を促すシステムが備わっていない
と、りうさんは考えているのだろうが、「確認出来ない≠否定証明」であるという基礎が分かってない模様。
そう断言すべきではないなあ。
>いさぎさんへ、コメントありがとうございます。
はい、いさぎさんのおっしゃるように「確認出来ない」であることが「否定の証明」にはなりません。

そして「有機物に自発性を促すシステムが備わっている」ことは確認されていません。
現時点で「有機物に何らかの自発性があるとは考えにくい」ということになります。

上記は「自由意志の根源は、有機物の自発性ではない」の証明をしているのではないですよ。
>てりたまさんへ、レスポンスありがとうございます。
「観察する能力」とても面白い着眼点だと思います。

このトピックテーマを通して、僕は「意識」と「知能」は別々の機能として扱う必要があると思うのです。
恐らくですが、アメーバが対象を「観察する能力」を持たないのは知能の差・処理能力の限界や特性によるものではないでしょうか。

観察するためには、対象への認識(情報の入力)と、そしてその分析(情報の処理)を可能とする必要があります。
アメーバの場合、恐らくその両方ともが人間や他の動物の情報処理能力と比べ、単純なものだからでしょう。
だから対象への反応(情報処理の出力)も極々単純なパターンしか存在しないのだと想像できます。

では「対象への認識」を可能とするのに「意識」は必須なのでしょうか?
その処理を行い、行動へフィードバックするには「意識がある」ということが不可欠なのでしょうか?

「認識」とは情報の入力のことでした。情報が入力され対象を認識するには「センサー」(入力に対する受容体)とその情報を処理する能力さえあれば可能です。
このことは「人工知能」を事例に当てはめると解り易いのではないでしょうか。
認識し、認識として受け取った情報を処理し、それを結果として出力を行う事は、二進数で情報を処理している電子コンピューターでも、適切なプログラムを与えさえすれば、<まるで意識を持っているかのように>出力できることが十分わかります。

「知能」とは、演算システムの積み重ねでも構築できるものであり、「意識の有無」に左右されるものではないと考えられるのではないでしょうか。
「受動意識仮説」を説いた前田教授が『記憶に関する機能が再現されたとしても、意識という「現象」が生まれているわけではない』と語るのは、この事も大きく関係しているのだと僕は思います。
>521 リウrepさん  

なるほどです。
 
>「知能」とは、演算システムの積み重ねでも構築できるものであり、「意識の有無」に左右されるものではないと考えられるのではないでしょうか。

私もそう思います。そして
A「知能の演算がこういう指令のもの(手を動かすなど)である」と B「認識する(前述の観察する)」ことで、 手を動かすというC「意識現象」が生まれているのだと思います。

(Bが普段用いる意識ではないというのは、認識するという行為そのものをBというひとつのエネルギーとし、それによって生まれた結果をCと置いたということです。

つまり私たちの中にはAという無意識の"私"と、Bという認識するニューロン活動の"私"と、それによって生まれた普段用いている"私"の、三つの私が存在している。

(だいたいはAとBをひとつにまとめて無意識とし、無意識と意識とに分けていますよね)

まばたきや心臓の活動は分かりやすいAだと思います。生命活動において超頻繁に起こるものにBを付随してしまうと活動に負担が生じるので、そのBは発生しないようプログラムされているのだと思います。


ロボットにはAしかないと思われるのは、全てが人間の組み込んだプログラムであるがゆえですよね。
しかしロボットがAを「自己認識する」、つまりBを手にし、Cを得るときがくる可能性はゼロじゃないとも思います。無から生物が、人間が、誕生したように。
しかしそれは人間の手によって意図的に発生させるのは非常〜に困難だと思います。


ちなみにここのコミュで色々な方から学ばせて頂いた私は、
今、セル・オートマトンについて考えています。

これを用いることで何か物理のランダムに近いものを発生させ、BやCをもつロボットが、作れたりして・・・!?

あ、522は誤字削除です。きをつけまする
「セル・オートマトン」僕もどこかで聞き及んだことがあるかもしれません。
ただwikipediaに検索をかけてみたところ、僕の理解の方が撃沈してしまいました・・・。

自己認識、つまり「私が私である」という「アイデンティティ・自己同一性」の話ですね。
「こうである私が私である」ということのセルフイメージングにより、「私」を規定し意識的な自発性を生み出す。そのような自発性がCの意識を体現させるのではないか。ということを仰りたいのですね。

ここは正しく「受動意識仮説」のキモにあたる部分でしょう。
すなわち、Cはその仮説によると、「意識とは、脳(ニューロン)が生み出した幻想である」とする訳です。
意識と知性の関係は哲学の先人たちも盛んに考えていたらしく、「意識」と提示されている言葉を「経験」に置き換えてみるとロックやヒューム・カントあたりが脳裏に浮びます。(ちょっと話が飛躍しすぎでしょうか?)
彼らもこの「経験」を、「知性」との相互助力によって成り立つという事を言っていたかと思います。

コンピューターが意識を体得する可能性はゼロではないですね。
問題としては「それが可能か」ということよりも、何をもって「それを意識と認めることができるか」の方でしょう。
アメーバの例でもあったように、その意識が我々の感覚と、かけ離れればかけ離れる程、何を基準に判断すれば良いのかが難しくなるからです。
この意味において、アメーバにせよ人工知能にせよ、もしかすると意識を既に体得している。という可能性だってあるかもしれません。

ここらへんは現象学になりそうですが、意識(経験)は「脳の解釈。その現れ」だとするのが「受動意識仮説」が主張する軸であり、「脳の解釈」とは「脳(ニューロン)が入力された情報を処理・翻訳した結果」のことを意味しています。
これは丁度、パソコンのコンピューターに入力された2進数配列を、我々がこうしてmixi上に投稿された文として、読める状態への処理が行われている。という事と同じです。
パソコンはパソコンの解釈を超えることはできず。それは脳の解釈も同様ということですね。

人の脳の処理能力は何万年という長いスパンをへての進化の産物であるがゆえに、それをコンピューターで再現することは至難をともなうものです。(人工知能はそのずっと短いスパンで脳のブラックボックスを再現しようとしているのですね)
逆に言えば、コンピューター(計算機)でシュミレートできる可能性が示されているのが「我々の脳」の構造であります。
これには強力な根拠がありまして、もともとコンピューターとは、「脳が行っている計算処理を、別の媒体に委託・再現したもの」であるからです。
つまり「コンピューターが脳を真似ている」のではなく、「コンピューターは脳の情報処理能力を延長させて開発されたもの(脳が行っている手法のレプリカ)」なのですね。
人工知能は「脳の延長であるコンピューターが、脳(ブレイン)そのものとして機能させる」ための工学なのです。

話を戻しまして、AIが意識を持ちえるか。という問題は意識の存在を語る上で常に大きなテーマです。
「AIが意識を持つ瞬間」それは大変興味深いことですが、もしもそれが「AIであっても意識を持ち得る」とするならば、「我々(人間)が持ち得ている意識」は「脳の情報処理能力だけで体現可能である」ことを証明するもので、すなわち「意識は脳のメカニズムによって体現された幻想」とする「受動意識仮説」(機械論)の強い根拠となるのです。
>いさぎさんへ、#519を読み返してみたのですが、主張の対象となる部分について誤認がありました。
#519の対象は「有機物に何らかの自発性があるとは考えにくい」ではなく、「有機物に(自由意志の根源となる)自発性を促すシステムが備わっていない」の方ですね。
つまりいさぎさんが仰りたいのは「そのようなシステムが備わってない」という主張は未確認事項であり、証明不十分なので断言すべきではない」ということですね。
#520を取り下げ、再度ご説明させていただきます。他に誤った点があればご指摘ください。

[#519>#517]での問題は、
結論と示した「有機物に(自由意志の根源となる)何らかの自発性があるか」(a)と、
その根拠として示した「有機物に(自由意志の根源となる)自発性を促すシステムが備わっているか」(b)の二点であるかと存じ上げます。

(a)は形而上の問題であり「是非を確認する術」はありません。
もう一方の(b)は形而下の問題であり「是非を確認する術」はあります。つまり(b)は「確認出来る」事項です。
そして「自由意志の自発性を促すシステム」が「有機物」の構造上にない事は化学一般における常識の範疇において確認されていることです。

#517では、形而下の問題(b)を根拠として、形而上の問題(a)を是とするには考えにくいことを論証しているのですね。
意思とは、反応によって認識し記憶した、情報の整理過程における副産物。
行動は反射的に行われるものであり、その結果を後追いで、体系づけている。
よって、意思によってなにかなされることはない。

そんな感じ?

意識がまったく受動的、受け身的なものでしかないとは思えませんね。
意識はそもそもどの対象に注意を絞り込もうかということも選択してるし、
意識内部の意識の流れについて方向転換する能動性だって発揮しうる。
また、もちろんこうしてコメントを書く際も、どの言葉を選び、どう文章を構成するか、意識の能動性を発揮することなしにコメントを書ける人はいないでしょう。
>>[528]
(おほほw正直何ヶ月も前のコメントにコメントするの得意ではないですがタイムリーなトピックなので)
コトバ選びも文章の構成もマクロで見れば受動です。
誰も皆「学習」という過程なくしてはコトバを選ぶことも文章を構成することもできません。
このときにはこういうコトバを選ぶのだと教えられた→そこではそのコトバを選ぶようになった
「学習」そのものは能動によるものではないかと思われるかもしれませんが
その「学習」ですら何かから授かっているからこそ行使できるのです。

このような事を考えていくと
能動とは社会基盤のヒトという存在の営みのあり様を表現するには適切でありますが
ホモサピエンスヒト科という種の生物という枠の中で見た場合に営みの根源が受動と看做される
という差が出来るのではないかと思われます。
つまり、78910さんおっしゃる意識の能動性とは「社会に生きる人間という存在としての意識というシステムのあり様」であり
ここでいう意識受動仮説とは「ホモサピエンスヒト科の動物という種族にとっての意識というシステムの仕様説明」であるかと。

>>[529]

おっしゃることはよーくわかります。
もちろん時にはそういう見方に立つこともとても有意義だし、
その見方、語り口を自分の唯一のものとするのも自由だし、
わが子へ
「人間は自由などないのだよ。受け身で生きるだけなのだよ」
と教え育てることさえ自由かもしれませんが、

ぼくはさまざまな物理的法則や生理的法則に人間が従わざるをえないことを正直に認めながらも、
同時に人間の生活実践においては、自由をしっかりと意識し、その前提に立って責任と義務を覚えながら生きてゆくことを、
自分にも人々にもすすめたいと思います。
>>[530]

>ぼくはさまざまな物理的法則や生理的法則に人間が従わざるをえないことを正直に認めながらも、
>同時に人間の生活実践においては、自由をしっかりと意識し、その前提に立って責任と義務を覚えながら生きてゆくことを、
>自分にも人々にもすすめたいと思います。

意識とは何か という命題に取り組む際
意識を社会に生きる人間としてどう扱うべきか・どう考えるべきか
までを必ずしも導く必要はありませんから、そのことは・・・・・
純粋に「意識とは何か→これこれこうである」だけを知りたい・伝えたい人にとっては
議論からの各自の事後応用論的教訓であり議論の結論そのものではない=そんな話はしていない 
ということになるのではと思いますw
>>[531]

意識とは、
「完全に物理的あるいは生理的法則の支配下で受け身的、隷属的にしか生きていない人間という生物に与えられた幻覚」
ではなく、
さまざまなレベルによって自らを振り返りうるそれ自体、構造的多層的な能力であって、
「物理的あるいは生理的法則の支配下で受け身的、隷属的にしか生きていない」ように見えるレベルも振り返ることができれば、
「自由を大切な規範として主体的に行動しうる生活実践のレベル」
も振り返ることができれば、
さらにその他のレベルも振り返ることのできる成長可能な能力だと思います。
横からすみません。

そもそも「意識」は、「能動」「受動」という概念と関係がないように思います。

むしろ、「意識はどの時制に在るのか?過去か、現在か、未来か?」」と問うほうが見通しが得られます。

「意識」とは「事後的」なものであり、物事が生起する「現在」に対して常に「未来」に位置します。

生き物の「現在」は「不確定」であり、「意識」が働いた瞬間にいわば「事後的」に確定されます。

つまり意識とは「現在を確定する未来」です。


「我思う、ゆえに我あり」

「我あり」という意識が「存在」を与えるのは「現在のわたし」にではなく、「過去のわたし」にです。
「我あり」によって過去の(その時点では現在であった)わたしが「我おもう」として確定されます。

「現在のわたし」はどこまでも不確定です。

>>[535]

>>つまり意識とは「現在を確定する未来」です。

すみません、さくらもちさんが説明してくださっていて、ある程度は理解できた気がしますが
私は、まだ、コメントの内容を、十分には、理解できていない気がしています。
すみませんが、もう少し、教えて頂けると有り難いです。


>>「我思う、ゆえに我あり」

観念されたものと、観念とに隔たりがある と、デカルトがみた
とするような解釈や

生き物というものは、ただ生き、生きて流れ過ぎ去っていく
そういう生命観も感じられます。


>>「意識はどの自制に在るのか? 過去か、現在か、未来か?」 と問うほうが見通しが得られます。

もしかしたら、私の考えは
この御説明から、少し、離れてしまっているかもしれませんね…
>>536 永遠さん

僕が思うに、「意識」は「感覚、思考、判断、感情」を含みません。
「意識」は「感覚、思考、判断、感情」を認知します。
認知することによって非決定の「現在」を決定します。
つまり、「意識」のはたらきによって「現在」が定まるということです。
「現在」という標識(アンカー)を打ち込むこと。これが「意識」の役割であり、そのおかげで我々は「今、わたしはどの時制に在るのか?この瞬間は過去なのか、現在なのか、未来なのか?」と迷わずにいられるのだと思います。
>>[538]

分かりやすい御説明を、ありがとうございました。m(_ _)m

[今何について考えてる?その6トピック、コメント612などへ。]
>>[31]

ありがとうございます。懐かしいトピックです。
m(_ _)m
意識は「生命そのもの」の意識なのであって、「生命を蒙ったもの(生きもの)」に属するものではない、と言ってみる。
そうだ、このあいだわたしはこの話をしたいなと思ったのです。

http://m.huffpost.com/jp/entry/7066956

「頭部移植」なのにいつもとは逆に、頭部を移植される側が「ドナー」とされていて、でもそれが当然のことのように扱われているのが面白いなぁと思います。わたしもそれで違和感ないし。
頭以外みんな捨ててしまってもワレリーさんはワレリーさんのままで、ドナーの人は、頭だけ残してあとはみんなワレリーさんになるわけです。

今後、もっと医療技術が進んで「脳移植」なんかできるようになっても、たぶん手術後のその人は身体ではなく、脳の持ち主だった人として扱われるのでしょうね。

更にもっともっと技術が進んで、誰かの脳の反応パターンや記憶をコピーした人口脳を誰かの身体に埋め込んた場合、それはその脳データのコピー元の人なのか、それとも新しい人なのか、もしくは誰でもないのか、なんて考えてしまいます。観察している「中の人」はいるのかな。

もし自分の身体が事故や病気でいろいろ壊れてしまって、そろそろ脳もダメだわー、となった時に、「あなたの脳をコピーして健康な身体に入れておいたから安心してね!」とか言われても、「安心できるわけあるかー」ってきっと思うけど、でもコピー先のわたしは「変わらずわたしである」って思って暮らすんでしょうね、たぶん。
こういう話になるといつも、「どこでもドアを通る時に、今までののび太はドアの内側でばらばらになって消え、ドアの向こうでまた新しいのび太が組み立てられている」という噂を思い出します。
消えたのび太たちと、新しいのび太たちは、みんな同じのび太なのか。

私を「私」と呼ぶ人、私を「私」と呼ぶ人を「私を『私』と呼ぶ人」と呼ぶ人、いつまで頑張っても決して呼ぶことのできないこのひとは誰で、どこにいるのか。

あと「人口脳」じゃなくて「人工脳」ですねすみません。
>>[543]

言ってたのはこれです。『マインド・タイム』という本だ。
客観的な「意識」の所産が脳・身体に対して受動的か能動的か、どちらか一方であったとして

目的・状況において、どうやればどうなるか?という主体性(主観的な「意識」)にとっては関係あるのだろうか?
受動的であること・能動的であることは自覚的に違うし、それらのモードの転換によって効能も変わってくる、どちらが正しいとも言えない。
>意識は観察者というこの仮説について、皆さんはどのようにお考えになりますか。


仏教(やヒンドゥー教)においては、私たちの意識は大抵、さまざまなことに巻き込まれ、同一化し、そのせいで苦しんだり嘆いたり喜んだり大騒ぎしているが、
そうしたさまざまなことに振り回されるだけの苦しみから脱するには、同一化しているさまざまなことから自分を引き剥がして、それらをいったん対象として向こう側に観察するように観ることがとても大切だと教えています。
観察、観照、念、観、ヴィパッサナー、マインドフルネスなどと呼ばれる基本的修練ですね。

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