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哲学が好きコミュの自殺の是非について

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確か、カミュが「シーシュポスの神話」の冒頭で、自殺について考察することはたいへん重要である、というようなことを言っていた記憶があります。

ぼくは、人生で自殺だけは絶対にしてはならないもの、という考え方を前提にして生きています。

しかし、その根拠は希薄です。

自ら認識したわけでも、自ら考察の果てにたどり着いた結論でもありません。幾人かの世界観・宗教観に洗脳されている、それだけの話です。

しかし、成人してからの人生、基本的に自ら考え、自ら認識して生き方を決定してきたぼくとしては、死生観というもっとも重要なテーマで、人の考え方を借りているのは、どうも釈然としません。

そこで、皆様に自殺について様々なご意見を伺い、考察の参考にさせていただければと思いトピを立てさせていただきました。

論考、理屈も大いに結構なのですが、あなた自身の問題として現実に自殺をどう考えるのか、お聞かせ願えれば幸いです。

あと、一つお願いがあります。

どうも「哲学」だからでしょうか。

あえて横柄、不遜、ナマイキな態度(とてもそんな態度で日常生活を過ごしてはいらしゃらないだろうというような態度)でコメントに臨まれたり、あえて物事を難解に説明しようとする傾向のある方もいらっしゃるようです。が、このトピックスではできるだけ普通に(謙虚にとは申しません)、平易な言葉でご意見をいただければ幸いです。

それでは、よろしくお願いいたします。

コメント(512)

個人的な考えですが正直な所
自殺志願者に尊厳死,安楽死の選択肢があってもいいのではないかと思われます
メリットは自殺志願者一点にしかありませんが人様に迷惑を掛けるような死に方が多い
これは単なる自分の自殺願望の一部分かもしれませんが


あと確実にマスコミ等のメディアも自殺者を増やしている大きな要因のひとつだと思います

自分は自殺願望と付き合い出して7年になります
何度か行動にも移してきました
ですが恐怖心に耐えかね今に至ります
自分がなぜここまで自殺を考えるのか疑問で仕方ありません

自殺については肯定もしません
死んでしまえば関係はないのでしょうが公共機関,人様に迷惑をかけるような自殺だけはは否定します

自殺の是非について。


私は否定的です。


求められていない命なんて、この世の中にはないと思います。


人は一人で生まれてきた訳でもありませんし、たとえ死ぬという行為を自らが選択した!と、声高に言ったとしても、それは傲慢なような気がしてなりません。


そして、生を全うすること、精一杯生きること、それは、この世に生を当に“受けた”者たる使命だと、私は感じます。


稚拙な表現ばかりで、失礼しました。
すごく怖い思いをしたとき 窮地に追い込まれた時 死を選んだほうが楽かな・・・ と思ってしまう事があるかもしれません。

どこかのトピにあった トロッコ問題で その場面を想像したとき自らの死が浮かびました。

実際に自殺してしまうのと 「死にたい」と思うのとでは 雲泥の差があるように思えますが・・・
自殺の是非を死生観で論じたら 社会的進化発展の考え方ではなくなってしまいます。

人間の尊厳。これは 命もしくは生命の尊厳を語る事だと思います。
一つしかない物、他の物に代えられない物、復活できない物は 絶対に価値観で捉える事ができないのです。
尊厳とは 価値観で捉えられないほどの物に与えられる言葉だと考えています。

例えば・・
お前に代わる人間は大勢いる。

この様に考えている人間も大勢いる事でしょう。
街の中の慣用句でも聞こえそうな言葉ですねぇ。

この様な考え方をしたら 封建時代の支配者が非支配者に対する考え方と同じ意味になってしまいます。

自分の命 もしくは生命は 一つしかないのです。
一つしか無い物に 価値観を語ってはいけないのだと思います。
なぜならば・・
価値観は 二つ以上の物の中で生まれる考え方だからです。

この考え方があって、初めて 一つのものに【尊厳】と言う言葉を冠して良いのではないでしょうか。

自明の事ですが、人間の命、自分の命は一つしかありません。
他人の命もしくは生命を自分自身に置き換えて、はじめて人間の尊厳と言う意味と自分の命が実存的に一致するです。

この様な考え方が 自殺防止に役立つ事、社会が明るくなる事を願いつつ書いて見ました。
たとえ人生が泥沼にはまり込んだとしても、諦めないこと。
粘り強い根性を持つこと。
心の底に楽観主義を持つこと。
この世界の優しさに最終的に信頼を置くこと、
などが大事ではないかなあと思うのですが、

これらのことは哲学的に議論の遡上にのせるなら確かにいろいろなことが言えると思います。
あえて「自殺するのは善いことか悪いことか」という問題を一旦、括弧に入れて、
「生きていることは生きていないことと比べて善か悪か」という問題を考えたり、
「自殺しない人の心の中ではどのような考えが防波堤になっているのか」という問題
を考えてみることも有益だと思います。
「生きていることの素晴らしさ!」という考えがまったく空々しくしか聞こえなくなってしまった人たちは厳しい危険水域に立っているのかもしれない。
それでも何とか踏ん張って、耐えて耐えて生きている人たちも大勢いるだろう。

心の光をかかげよう。
自殺が悪いとは死が悪いという事でしょうか?
それなら人間は必ず最期に悪い事をします。
なら途中で悪い事をしても大差ないんじゃないですか?
殺人と同じく、悪いものは悪い。
考えても仕方ない。
シンプルなもんさ。
>>[488]   【最後に迎える死は本能なんです】

>・・・それなら人間は必ず最期に悪い事をします。

死の意味が正反対です。生かせる。生かせない。この違いは正反対です。

最後の死は本能であれば、誰にも止められません。ならば其の死に対して悪ではなく、最後にお迎えする死は善と言い換えても良いと、人間社会はそれを自然に受け止め続けているのだと考えられます。
【自殺と他殺】は同じではないだろうか?

社会通念上では他殺と自殺は違う事は理解していますが、自殺の時も自分自身の意識が切れて及ぶ行為なので、自分が自分の身体を殺せる行為と言い換えれば、自殺も他殺も似たような行為で、それは客観的にも悪い事だと言っても良いかもしれない。
>>[491]桜の花さん

>【自殺と他殺】は同じではないだろうか? /社会通念上では他殺と自殺は違う事は理解していますが、自殺の時も自分自身の意識が切れて及ぶ行為なので、自分が自分の身体を殺せる行為と言い換えれば、自殺も他殺も似たような行為で、それは客観的にも悪い事だと言っても良いかもしれない。

根本的に違う性質のものと思います。何故なら、他殺は他者の生存権を著しく侵害しますが、自殺は行為者自身による絶命ですから、生存権の侵害はありません。更に、法的禁止規定も存在しません。但し、いずれも「悪い事」であるということには異論ありません。
>>[492]    【思考はあたかも対話しているようなシステムで意識的に処理されている】

感覚が無意識的に構築されるのに対して、思考は意識的に処理されています。

此れは、誰でもが他人と意思疎通を取るのに言葉を通してコミュニケーションの形態を取るのと同じ事で、思考も脳内で自分自身が自分自身とコミュニケーションを取っているんです。自意識とのコミュニケーションとでもいえると思います。

他人から見たら別人格には見えませんけど、脳の中には一人称的別人格とも言える話し相手が存在しているんです。それを私は色々なところで書いている自意識ともいえるんだと考えています。

自分が自分を殺す事が出来るのはその為だと考えています。
死にたい死にたいと言いながら、死なないのは自分で自分を殺せないからではないでしょうか。勿論 他殺とは違いますが、他殺と似ていると思います。

寿命や病死とは違うと思います。どうでしょうか。考え方で変わりそうですが、誰でもが等しく迎える最後の死と自殺は脳の中では違うのですが、殺人行為とは似ていると考えた次第です。
>>[494]桜の花さん

>此れは、誰でもが他人と意思疎通を取るのに言葉を通してコミュニケーションの形態を取るのと同じ事で、思考も脳内で自分自身が自分自身とコミュニケーションを取っているんです。自意識とのコミュニケーションとでもいえると思います。/他人から見たら別人格には見えませんけど、脳の中には一人称的別人格とも言える話し相手が存在しているんです。それを私は色々なところで書いている自意識ともいえるんだと考えています。

成る程、それはそうかと思います。しかし、最終的に判断を統合するエリアはあるわけでしょう。

>死にたい死にたいと言いながら、死なないのは自分で自分を殺せないからではないでしょうか。勿論 他殺とは違いますが、他殺と似ていると思います。

生存本能を乗り越えて、自らの命を絶つというのは、動物的攻撃本能で一定程度理解できる他殺ともまた全く異質なものがあるように映ります。しかも、数が3万人ですから。

>寿命や病死とは違うと思います。どうでしょうか。考え方で変わりそうですが、誰でもが等しく迎える最後の死と自殺は脳の中では違うのですが、殺人行為とは似ていると考えた次第です。

病気という原因に拠らずして、社会が命を救えなかったという点において、という意味合いでは、類似すると言えるかも知れません。
自殺を止めるのは、人間としての義務であろう。
それを、推し進めようとする者は 絶対的に悪 そう言える。
奪命の幇助をする者に、依るべきロジックなど一切無い。
悪い者は、悪い。
それだけさ。
>>[495]

【尾状核】の働きも関係していての結論でしょうか?


>・・・・しかし、最終的に判断を統合するエリアはあるわけでしょう。

統合するエリアと言う言葉を昔から使う人がいますが、最終的にと考えられているエリアが本当に最終的なのでしょうか? 教えていただけますか?


☆【自意識】=【空=当為】は受動的意識になる、 尾状核等々の脳の色々な部位も大なり小なり関係していると考えているからです。 最終的と言えたり断定できる処が無いのだと考えています。

※尾状核 ・・・ 対を成して起動する遺伝子によって信号化された本能はここから発生している。


私はこのようなことも考えているので、自殺も他殺も似ている根拠にしてもいます。自爆テロだけを考えても複雑な要因もあり、それが自爆しながた他殺を含みますが、この場合はむしろ自殺と他殺の区別も出来ないほどに概念的に同じ事に成る事例ではないかと考えています。
悪ならばなぜ自殺は犯罪にならないのだろう
>>[498]桜の花さん

>統合するエリアと言う言葉を昔から使う人がいますが、最終的にと考えられているエリアが本当に最終的なのでしょうか? 教えていただけますか?

こういうことですよ。つまり、全く別の考え方をする人格Aと人格Bが自分の中にいるとしますよね。しかし、そうすると必然的に、AとBが自分の中にいると認識しているメタレベルの次元にあるCが必要です。AやBがどう動こうと、現実的に手足が動くのはCの同調がなければ、実現し得ないわけですから、Cが存在することが必要と成り、それが統合エリアかと思います。

>☆【自意識】=【空=当為】は受動的意識になる、 尾状核等々の脳の色々な部位も大なり小なり関係していると考えているからです。 最終的と言えたり断定できる処が無いのだと考えています。

上記の通り、統合エリアがないと、人間としての一体性は失われ、少なくとも基本的な判断機能を維持できないはずです。

>私はこのようなことも考えているので、自殺も他殺も似ている根拠にしてもいます。自爆テロだけを考えても複雑な要因もあり、それが自爆しながた他殺を含みますが、この場合はむしろ自殺と他殺の区別も出来ないほどに概念的に同じ事に成る事例ではないかと考えています。

他殺は、利己的欲求を極端にすれば実現しますから、人格の分裂も必要なければ、生存本能との対立はありません。しかし、自殺は、生命機能との対立と、それに伴う分裂は必須条件ですから、少なくともそこには著しい違いを見出せます。但し、他殺に分裂傾向がないと言っている訳ではありません。
>>[499]かぴばらさん

>悪ならばなぜ自殺は犯罪にならないのだろう

生存権は基本的に各人に帰属するからと考えられます。
人間の身体、脳は自然の産物。
ならその構造が生む機能である『私』も自然でしょう。
その『私』が判断したならそれは自然でしょう。
そうするしかないならそれは自然でしょう。
ぼく自身は、すっごく憂鬱な気分になる時(「何て人間社会って醜いんだろう」など)、
「へたばれきって、どん底で生きさせてもらおう」
というような、逆に視界が一転するような気持ちになって、あたらめてそこから歩き直させてもらっています。
自殺が良い悪いのではなくて

当人が自殺しようと思うほどの何か について重要と考えるのではないかな と


死ぬ必要とは何か?


ブッダは弟子で長老のヴァッカリ比丘が重病になり、その苦しさに耐えられない様子を前にして、
本当に耐えられないのか確かめ、
悩みや悔いはないか聞き、
戒を守る生活をしてきたお陰でそれによる悩みや悔いはないがブッダに会えなくなるのが悩ましく悔やまれると聞くと、
「やがて朽ちてしまう私の生身に会うことにどれほどの価値があるか。正法を見る者は私を見る者なのだ」と諭し、
さらに、色受想行識が無常であることをしっかりと認識するに至ったならば二度と苦しみの世に生まれることはないと説かれた。
ブッダが帰り、翌日ブッダにより比丘たちがヴァッカリを見舞うと、ヴァッカリは「色受想行識が無常であり苦であることを私は疑わない。私はいっさいの愛着をそれらに持たないことを疑わない」という心をブッダに伝えてくれるよう頼んだ。
比丘たちが帰ると長老ヴァッカリは剣を取り出して自ら命を絶った。
ブッダはヴァッカリのもとを訪ね、悪魔たちが四方八方ヴァッカリの魂を探し回っているのを確認されると、「善き人ヴァッカリはこの世にとどまることなく完全に涅槃に至ったのだ」と言い、その死に方も何ら罪のあるものではないとされた。
古いトピを掘り出しましたね、「

シーシュポスはギリシャ神話ですよね。
在任シーシュポスがに神が嫉妬して最も重い罰を与える。それは岩を丘の上まで運ぶ刑。でもせっかく丘まであげた岩もすぐに転がりおちてしまう。これほど重い罰はない。
そんな話でした。
これはとてもリアリティのある物語です。
たとえば社員を想いやり社員の幸せを一番に考えていた社長がある日その社員の一人に会社の金を持ち逃げされてしまう。会社は倒産、家族は離散、残ったのは借金ばかり。
シーシュポスと同じです。ではどうするか。
その不幸つまり不条理から逃げるために自殺を選ぶ人もいるでしょう。然し、シーシュポスのように不条理に受け入れるという生き方もある。カミュはそれを人として崇高な生き方だと云っています。シーシュポスはヒーローなんですね。カミュにとって。

読むと考え方かわる、かも、
修正。
在任シーシュポスをに ではなく 罪人シーシュポスに
不条理に於け入れる ではなく 不条理を受け入れる

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