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ちぇすと島津コミュの島津義弘年表

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<年号><西暦> <歳>         <出来事>
天文 4 (1535) 1 伊作亀丸城にて誕生。幼名は又四郎、初名は忠平
    6 (1537) 3 弟・歳久誕生
   14(1545) 11 島津貴久、居城を伊集院一宇治城に移す
   16(1547) 13 弟・家久誕生
   19(1550) 16 島津貴久、居城を鹿児島内城に移す
   23(1554) 20 初陣。渋谷・蒲生氏が篭る大隅岩剣城を攻め落とす。
             岩剣城の城主となる。
             長女・御屋地誕生(母・北郷忠孝の女、後に島津朝久に嫁ぐ)
弘治元(1555)  21 大隅帖佐城(蒲生氏の支城)を攻略
    2 (1556) 22 大隅松坂城(蒲生氏の支城)を攻略
    3 (1557) 23 蒲生北村で菱刈氏に勝利。蒲生本城も落城。
             初めて敵将の首を取るも義弘が重傷を負う
永禄 3 (1560) 26 豊州家・島津忠親の養子となり、日向飫肥を守る
    4 (1561) 27 大隅廻城の戦いで叔父の島津忠将が戦死
    5 (1562) 28 叔父・島津尚久、病死
             義弘、大隅の前線に向かうため帰国
             大隅横川城を攻略
    7 (1564) 30 加世田から飯野城に移る 
    9 (1566) 32 兄の義久、島津家16代当主となる
             日向三山城(伊東氏の支城)の戦い、決着はつかず
             この戦い以降、戦死者の供養塔を建てるようになる
             義弘、重傷を負う
   10(1567) 33 菱刈氏の馬越城を攻略
   11(1568) 34 薩摩・堂ケ崎の戦い。菱刈・相良連合軍に苦戦。
             日向・飯野で伊東勢を奇襲、撃破
             祖父・島津日新斎、死去。
   12(1569) 35 薩摩大口城を攻略。家老の川上久朗戦死。菱刈合戦の終了。
             長男・鶴寿丸誕生(母・広瀬氏)
元亀 2 (1571) 37 父・島津貴久、死去
    3 (1572) 38 日向・木崎原の戦い。伊東氏を破る。
天正元 (1573) 39 次男・久保誕生
    2 (1574) 40 肝付氏・伊地知氏ら降伏→薩摩・大隅の統一
    4 (1576) 42 日向侵攻開始。高原城攻略。
             三男・忠恒誕生、長男・鶴寿丸死去。
    5 (1577) 43 伊東氏の本城、都於郡城を攻略、三州統一
    6 (1578) 44 耳川の戦い。大友・伊東連合軍を破る。
    7 (1580) 46 四男・万千代丸誕生
             織田信長から大友家との和睦を勧められる
    9 (1581) 47 肥後・水俣城攻略。相良義陽降伏
   10(1582) 48 五男・忠清誕生
             肥後・八代へ侵攻。大友氏と和睦。
   12(1584) 50 沖田畷の戦い。島津家久、龍造寺隆信を敗死させる。
             次女・御下誕生(後に伊集院忠真に嫁ぐ)。
             熊本城へ入城。
   13(1585) 51 肥後国守護代に任命される
             大友氏に加担した肥後阿蘇氏の堅志田城を攻略。
             豊臣秀吉、大友氏との和睦を勧める
             兄の義久から家督を継ぎ17代当主に?
   14(1586) 52 義珍に改名。
             筑後侵攻。筑紫広門を下し、岩屋城を攻略。
             豊後侵攻開始。義弘は肥後より豊後へ入る
             島津家久、戸次川で秀吉の先遣隊を破る  
   15(1587) 53 秀吉本隊到着。義弘は日向口より撤退
             日向・根白坂の戦いで敗北→島津家、秀吉に降伏
             島津家久、急死
             義弘と改名
   16(1588) 54 四男・万千代丸死去。
             侍従・従五位下、ついで羽柴姓と従四位下を賜る
   17(1589) 55 大隅栗野城へ居城を移す
文禄元 (1592) 58 文禄の役。朝鮮出兵  
             島津歳久、秀吉の命で自害
    2 (1593) 59 次男・久保、朝鮮唐島で死去
    3 (1594) 60 三男・忠恒、朝鮮へ渡る
    4 (1595) 61 伏見で秀吉から薩隅日三州の封を受ける。
             五男・忠清死去。居城を帖佐に移す。
慶長 2 (1597) 63 慶長の役。朝鮮に渡る
    3 (1598) 64 泗川新城の戦いで勝利。同年帰国。
    4 (1599) 65 正四位・参議を賜る。惟新と号す。
             忠恒が老臣・伊集院忠棟を討つ。庄内の乱起こる。
             朝鮮の役の戦没者のため、高野山に供養塔を建立。
    5 (1600) 66 関ヶ原の合戦。甥・豊久ら戦死。帰国後、桜島に蟄居。
    6 (1601) 67 宇喜多秀家を大隅牛根に匿う
    7 (1602) 68 忠恒が島津家の当主となる
   11(1606) 72 居城を平松城に移す
   12(1607) 73 居城を加治木館に移す
   16(1611) 77 兄・義久、死去
元和 2 (1616) 82 孫・光久誕生
元和 5 (1619) 85 加治木館にて死去。

<参考>島津修久『島津義弘の軍功記』など

コメント(6)

島津義弘の年表を作ってみました。
ほぼ島津家の歴史、になってしまいましたが…。
義弘が中心になっているので、他の一族・家臣の事跡が抜けているところもあります。何かありましたら追加・修正しますのでよろしくお願いします。

しかし義弘、本当に長生きしましたねえ…。
ジュラム様
こうしてみると3男忠恒以外男子のほとんどを病気や戦でなくしているんですね。でも忠恒が残って義弘が亡くなった時点で43歳と働き盛りで島津家が残って本当によかったと思います。昔は世継ぎこそが命だったと思います。さもなければ取り潰しの憂き目を見る危険性もあったからです。
随分と激しい戦の連続で叔父や甥も亡くしたり、大変な修羅場を潜り抜けてきていますよね。その経験が関ヶ原の敵陣突破の捨てがまり戦法につながったのでしょうね。相手の井伊直政も肩に瀕死の重症を負わせた島津軍の射撃はすごいの一言です。
すいません、レス遅くなってしまいました。
改めて見ると義弘の家族運の悪さに驚いてしまいます。
兄の義久に嫡子は生まれず、歳久・家久も直系の子孫は残せませんでした。義弘自身も次々と子を失い、武将としての名声とは裏腹に家庭は寂しいものだったのかもしれません。忠恒という血気盛んな後継者がいたことは結果的に島津家にとっては幸運だったのでしょうね。
義弘はやはり戦場を駆け抜けてこその武将。歴戦、という言葉が似合いますね。
何度か重傷を負っているあたりに義弘の勇猛さを感じます。
秀吉の九州征討、関ヶ原の戦い、朝鮮出兵などのピンチをくぐり抜けて島津家を守った義弘の功績ははかり知れないものがあると思います。
確かに息子や兄弟を先に亡くすなど不幸な一面もあったでしょうが、孫の誕生を見届け、最期は安らかに死の床に着いたのではないでしょうか。しかし、ジュラムさんのおっしゃる通り、歴戦の武将としては戦場で死にたいという思いもあったのかも知れませんね・・・。
義弘も若い時は無茶なことをする武将だったのでしょうね。
川上久朗も義弘を救うために戦死しましたし…
晩年には「若かった」と思うこともあったのではないでしょうか。

孫の誕生を見ることができたのは何よりもの幸せ。義弘自身もまさか天寿を全うできるとは思っていなかったでしょうね…。常に戦場にあって生命を危機にさらし続けた武将がこうして生き残るというのも不思議なものに思えますよ。
素晴らしい年表の完成度ですねぇ〜☆
尊敬する義弘公の波乱万丈な人生が良く解りました!
ほんとうにジュラムさんの島津家に対する情熱、愛情
は素晴らしいですね☆

それにしても皆さんコメントされてたように
相次いで子供や兄弟を戦場や病気で亡くしてる中で
大往生を遂げて、孫の誕生を見届けられたってのは
やはり運の強さ、そしてその運を引き寄せるだけの
義弘公の器量や、慕う家臣に恵まれるだけの魅力が
あったのでは無いかと思うんですよね。

実際良く、武将に声を直接かけたり、医学等さまざまな
事にも比較的明るかったみたいなので、主君としても尊敬
される人物だったのではないかと思うんですよね☆

自分もあの時代に生きていたら、戦場や
死ぬのは当然怖いけど(苦笑)、
一緒にお供してみたかったなぁ〜なんて妄想をしたり
したことがありましたね☆
長文失礼しました!

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