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背理・逆説・パラドックスコミュの命の重さ

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ケース1
今、病院Aに、臓器提供者がみつからず助かる見込みのない患者が3人います。
今日、突如、3人の患者とは別に、患者Bさんが緊急入院してきました。

このBさんは実は3人の患者と偶然にも臓器適合者の関係にありました。
さらに、3人の患者が必要としていた臓器はそれぞれ別の臓器でした。それぞれ、心臓、肝臓、腎臓です。

Bさんは、たいしたことのない怪我で病院に搬送されてきただけなのですが、医者Cはなんと、Bさんから臓器を摘出し、3人の患者に移植し、たいしたことのない怪我で病院に搬送されてきたに過ぎないBさんの命と引換に3人の患者を助けました。


ケース2
Aさんは列車の車掌さんです。
ある日、Aさんが列車を操縦しており、列車の分岐点にささしかかったところ、右に行くと1人の作業員が、左に行くと3人の作業員がいるのが見えました。
今ブレーキを踏めば間にあうので、急いでブレーキを踏んだのですが、なんとブレーキは故障していました。
もう手遅れで、進んだ方向の人を確実に轢死させてしまうという事態に直面したAさんは、1人の作業員がいる方にハンドルを切りました。
その結果1人の命と引換に3人の命が助かりました。

ケース1の医者Cとケース2の車掌Aの行為を比較すると、大方の人は、医者Cの行為を非難するのではないでしょうか??

もしそうだとすると、1人の命と引換に3人の命を救ったという点で同じ行為をしているにもかかわらず、何故医者Cだけ非難されるのでしょうか??

コメント(98)

論点とは少しずれていてすみませんが・・
助けられた三人は自責の念にかられないんでしょうかね
仮にも自分のせいもあってBさんは死んでいるわけですから。

三人も生きているのが辛い様な状況であれば、
医師の判断は明らかに間違っていて譲歩の余地なく非難をされるかも(´・ω・`)
つか、人の命の重さを論理的に解く流れで、誰かが決めたに過ぎない「法律」なんて「型」を持ち出すなって。
命題と関係ないのですが気になって(>人<)

人、1人の命を使い助けることのできる人数が何人以上になった場合『英雄』となるでしょうかね(^^;)?

(総数1億人中、助ける方法としては先に出ていた1人の体をバラバラにして使うと助けれるとした場合)

トピズレしてしまいそうでしたらスルーで(>人<)

批判あれば削除します(>人<)
命の重さが同じであれば、困ってしまいますね。
ニュースで流れる殺人事件の顔も知らない被害者の死と、自分の大切な人の死を同じように受け止めなければならないのですから。

いずれも、重たいのでしょう。
けれども、その重さを量るのはあくまでも、客体ではなく、主体でしょうね。
ケース1について、
医学的なことが良くわかりませんが、Bさんが3人と臓器適合者の関係にあったと言う事は、、、
3人はそれぞれの人の臓器適合者にはならないものなのでしょうか?
なんとなく素人考えでなりそうだったので。
もし、3人がそれぞれの人の臓器適合者になるのであれば、3人で話し合って2人生き残るか3人死ぬかを選択してもらうのが良いと思いました。

さて、「1人の命と引換に3人の命を救ったという点で同じ行為をしているにもかかわらず、何故医者Cだけ非難されるのでしょうか??」
について、僕の考えです
ケース1について、
1人の命と引換に3人の命を救ったという点で同じ行為ですが、脳死や死亡でもない人から、本人や遺族(この場合は生きているから家族??)の意思が無く、臓器移植をする事は、違法ですから、この点に対して非難されると思います。
もし、その移植行為が合法の国というのがあれば、多分非難されないのではないかと。

ケース2について、
整備不備と非難されるかと。
列車が運行中に線路上で作業をしていた作業員や作業員の管理会社も非難されるかと思います。そう思うと、本来列車の来ない方で作業を行っていた作業員はかなり可愛そうですね。
車掌Aは与えられた仕事の中で間違いの無い作業をしていたのであれば非難されないでしょうが、列車会社や作業会社などはものすごく非難されるのではないかと思います。

ケース1の拡大解釈で助かるのが1億人だったら?について、
基本的に何人助かろうが本人の意思無く、やってはいけない気がします。
だって、僕なら1億人助かろうが世界の半数が助かろうが自分がそのために死ぬのは嫌だからです。(皆さんもそうではありませんか?)

1人を犠牲に1億人を助けた医者に対して、
とり合えず殺人です。なので犯罪です。捕まって罪を償ってください。
ただし、、、
1億人が死んでしまうような状況なら国家(?)が必ず動いているはず。動いていないなら状況説明して動いてもらわなくてはいけないはず。個人判断でやらない事。
そんでもって、国家的に動くのであれば、情報操作するなりうやむやにするなりして、上手くやって罪から逃れる方法があると思います。個人判断でやったら、例え本当でも変人扱いされる気がします。
うーん

>放っておけば死ぬ人を放置して死なせる:‐1点
>軽傷者・健常者を故意に死なせる:‐10点
>放っておけば死ぬ人の命を頑張って救う:1点
>軽傷者・健常者を死なせずに済ませる:0点

この配点だと、

軽傷者を一人犠牲にすることによって、放っておけば死ぬ人10人が救えるケースで点数が0点に
(逆の選択をしたの点数は−10点で、選択差は+10点)

放っておけば死ぬ人20人が救えるというケースで、点数が+10点
(逆の選択をした場合との選択差は+30点)

・・・となってしまいます。

「健常者・軽傷者を故意に死なせる」のマイナス配点は、もっと大きいのではないかと思います。
感情論や倫理観などまったく除外して考えた場合、
死亡した一人と助かった三人の年齢・性別・能力・社会的立場などが同じようなものだとして、死亡した人、助かった人、殺してしまった人が同じ集団(国家とか)にいるならば、最大多数の最大幸福ということを考えると、ケース1とケース2はまったく同じであると思います。

感情・倫理的に考えた場合、
 ・一人の人と三人の人の状況の違い:
  ケース2の場合は事故にあう可能性として4人は平等であったが、
  ケース1の場合は病気の人と健康な人と立場が異なる。
 ・事後の状況の違い:
  ケース2では、元通り健康な3人の人間と、事故死した1人の遺体が残り、
  ケース1では臓器移植後の3人(臓器移植に対しての印象により不自然・不健康と思う人がいるかもしれない)と臓器を摘出された遺体が残る。
といった違いを具体的に想像はしなくとも、少なからず背景において人は判断するのだと思います。

法規的に判断する場合感情を持った大多数の人間が納得するように作られた法律に照らし合わせて、感情を持つ裁判官(裁判員)が論理的に判断するので、やはりケース1とケース2では差が出るのではないでしょうか?
人間に感情や考える力があるから非難されるんですよ。

この問題はそれ以上でも以下でもないです。

感情や考える力がなかったら非難されません。

そして、トピ主さんのコメントについては、私は命の価値は無限大とは思っていないので(むしろ命の重さとか、そんなのわかるわけない)、その問題提起に関しては答えることができませんね。


ただ、仮に私が命の重さは無限大と考えていたとしても、ケース1の大げさバージョンであっても、故意に人を殺すことは許せません。トピ主さんが、ケース1の大げさバージョンならば医者が許されると断言されている根拠がわかりません。



っていう主観的な考えですので、うざいと思ったら削除してください。それと文章下手ですみません。意味通じていなかったら、そのままスルーの方向で。
ケース2の1人の作業員が
ケース1のBさんと同一人物だったとしたら、
列車の車掌は4人殺したことになるのかな?
ん? 3人か?…どっちでもいいけど(笑)。
「1人の命と引換に3人の命を救ったという点で同じ行為をしているにもかかわらず、何故医者Cだけ非難されるのでしょうか??」

1人の命と引換にというなら、まずその医者Cの臓器を提供すべきなんじゃないかと考えます。
それにこれは似ているようで全く意味の違うものですよね。
ケース1は事件で、ケース2は事故です。
hideさん

hideさんは「トピ主さんが、ケース1の大げさバージョンならば医者が許されると断言されている根拠がわかりません。」とおっしゃってますね。

僕はどこで、断言していますか??その根拠を示してください。


21のコメントで断言していませんか?
もし私の勘違いなら謝ります。
> чудилаさん
医療に関して批判したわけじゃないですよ。
この場合、一人の関係ない患者の臓器を勝手に、都合いいように使ったわけじゃないですか?
だったら自分の臓器でも提供しろよっていう皮肉の意味で書いたんです。
別に医者こそ臓器を提供しなければならないとは思ってないです。

ちなみに僕も命の重さなんて計れないと思ってます。
すいません、80の追記です。


医者はただ数字上多くの患者を救えば良いというものではないです。
いくら三人助かろうが、人の命を救うべき医者が一人の人間を殺してるんです。
患者の強い希望で臓器を差し出したのならまだ理解できなくもないですが、勝手にやったらただの加害者です。
これは感情論抜きにしても許される行為ではないです。
たとえ見捨てる形になろうと、移植用の臓器が間に合わず提供もなかったのなら、そのまま患者を看取るのが道理です。
本来死ぬ状態にあった人間を、本来寿命をまっとうできた人間を勝手に犠牲にしてまで助けても、医療として成り立ちません。
本末転倒です。
ただ命を整理整頓してるだけです。

かなり主観的な意見でしょうが、理屈は間違ってないと思います。
> чудилаさん

そうですね、こういう話はおっしゃる通り、議論し始めたら文字量がとんでもないことになりますよね。
ましてや皆が皆、納得するような答えが出る話でもないので尚更です。
なので僕もかなり簡単に書いてしまい、誤解を生んでしまったわけですが、結果として一つの答えが出せたことはかなり意味のあることではないでしょうか?

有意義なやりとりができたことを光栄に思います。
どうもありがとうございます。
だってケース2は事故だけど、ケース1は事故じゃないじゃん。まずそれが根本的に違う。被ってたら失礼。
しかしブレーキが利かずに運転手はどちらかにハンドルを切らなければならないという状況下では、いずれにしろ運転手は「ハンドルを切る」という行為の他に選択肢がないわけじゃないですか。
つまりそれは止むを得ない事故であり、選択の余地がある他のケースとは異なると思いますので、その行為自体を責める事は誰にも出来ないのでは?
更に言えば、あくまでケース2は事故なので、仮に3人を轢いたとしても、ケース1のように故意に一人を殺すよりは、まだ情状酌量の余地があるとさえ言えるかも知れません。もちろん止むを得ない事故としても、被害は最小限に抑えるべきなのでケース2の運転手の判断は妥当でしょうけど。
いくら「三人殺すか一人殺すかという点は変わらない」と一括りにしようとしたり可能性の話を持ち出したって、ケース2は事故でケース1は事故じゃないわけですから、同じものとして扱う事自体が個人的には非常にナンセンスですね。
でなければ、過失で止む無く人を殺してしまっても故意に殺人を犯しても「人一人を殺した事には全く変わりなく、結局両者は全く同じ例」と言っているようなもので、これだったら“全く同じ例”なわけはなく、明らかに前者の方が後者に比べて罪が軽いのは当然だと思いません?
88さんが挙げられた例がどのような状況下なのかは分かりませんが、それが他に選択肢のない事故でなければ、ケース2と同例として比較するには適切ではないと思います。
お初にお目にかかります.

法学とか医学とかサバイバルロッタリーとか抜きにして,
単純に, みなさんが医者および車掌になった場合,
どういった行動をとるのか考えてみていかがでしょうか?

みなさんが出した答えと, ケース1, 2の結果は
同じですか?違いますか?

あまり難しいことは言えませんが, 個人的には,
個々の考え方(人格と言っていいのか分からないですが…)を
確立する環境(社会?)の下で, 非難が生まれるか生まれないかが,
決まるのかなぁと思いました.
自分はAは「ない」と考えた上でコメントしました。これが「ある」だと余計に医者は無駄に一人殺した事になってしまうからです。
そもそも病人が死ぬのは医者が殺したとは言えません。医療ミスなど不手際があった場合は別でしょうが、誰か別の人間を殺さなければ助からない患者を死なせても、それは医者が見殺しにしたとはならないでしょう。
つまり、ケース1の医者は殺人を行う必要がないにも拘らず、独断で一人の人間を殺しており、そこに身勝手さが生まれます。
必死の治療の甲斐もなく瀕死の病人が3人死ぬ事は残念ですが、だからといって無関係の人間を殺しても正当化されるわけではなく、むしろそちらの罪の方が重いと考える人間が多いからこそ、医者は非難されるのだと思います。
一方ケース2のBですが、「三人側の方に行く」とは書かれていませんが、もし仮にそうだとしても、いずれにせよ運転手は殺人(過失とは言え)を避ける方法はなく、そうなれば被害を最小限に抑えるために敢えて一人の方にハンドルを切るのは自然であり、その点でケース1とは全く異なる事例だと言いたいのです。
繰り返しになりますが、ケース2は事故でありケース1は事故ではないので、同じ「三人殺すか一人殺すかという点は変わらない」と一括りにしようとしても、比較対象として不適切だと思います。
ケース1.

3人の患者は臓器提供者がいなければ助かる見込みがないんですよね。
ということは、Bさんが現れなければ、3人の死ぬ確率は100%。
Bさんは軽い怪我なので、死ぬ確率は0%です。


ケース2.

3人と1人に別れているので、惑わされてしまいますが、この場合ハンドルは2方向にしかきれないので、ブレーキが壊れているとわかった時点で、3人と1人のあわせて4人が、それぞれ死ぬ確率は1/2なのです。

まとめ:

ケース2はみんな平等に50%の確率で死ぬ運命の4人のうち、1人を犠牲にすれば3人が助かる。
しかしケース1は、言い方悪いですけど、放っておけば死ぬ運命だった3人を助けるために、軽い怪我で死ぬはずのない1人の命を犠牲にしているんです。


ケース1を、ケース2のシチュエーションに置き換えれば、ブレーキも効かず、ハンドルも壊れている電車が走るレールの先に3人の作業員がいて、その3人が轢かれてしまうまえに、レールの近くで作業していた作業員1人を無理やりレールに乗せて電車を止める、というような行為です。
というと少し大げさになってしまいますが、それに近いと思いませんか?


まず、いくつか参加者への意見を。議論の鉄則です。

1、議事録が読める場合は、最初から議論を追ってから発言しましょう。時間がないときにさっと投げるのは、無駄な混乱を呼ぶ場合があります。
2、問題提起に関する質問を除き、新たな条件を加えるのはやめましょう。それぞれが「私はこうだったら〜」と言い出したら、進む議論も進みません。この条件がないと、どうしても議論が成立しない、と思う場合だけ、その必要な理由も納得のいく形で明記の上、意見してください。
3、提起者が問題の核心をはっきり述べた後は、それに関係する形で発言しましょう。堂々巡りになったり、横道にそれることが多くなって、議論が進みません。
4、自分の知識をひけらかすだけの様な意見は避けましょう。議論ではなく茶々です。

2、3、4、は1、のためにも必要なことなので、論点が別の議論になりそうだな、と思うときは別トピックなりを作りましょう。

管理人でもなんでもないですが、議論・思索を行ううえで以上が守られていないと、ただの時間の浪費になってしまいます。実社会でも同様ですが、限られた時間の中建設的な議論をしたいので、みなさんのご協力をお願いします。

このトピックを汚しても議論の妨げになるだけなので、このコメントに反論のある方は、直接メッセージをおくってください。

連投します。
非常に面白い議論だと思います。
まず提起者の思う問題の核心は>>21にあるように、「命の重さ」について、ということで意見します。

結論から述べると、ケース1も2も、一人の犠牲に対し三人の救出を行っており、問題は等価です。文意を汲み取れば、1の三人は「Bさんが死ななければ助からない」、2の三人も「残る一人が死ななければ助からない」という点で等しいのです。
ではなぜ非難されるかですが、そもそも非難というのは「社会的不適合行為」に対する「社会的適合者」のなせるものです。ここでいう「社会」が正常であるかどうかは不問なので、ありていに言えば「多数派か少数派か」となります。

ここで、仮に自分がそれぞれのケースにおける判断者(1の医師C、2の車掌A)になったとします。個人的な感情は提起に言及されていないので存在しないものとして、どう判断を下すか、ということを考えます。また、医師は「人命を救助する存在」、車掌は「列車を運転する存在」として定義します(この定義については問題はないでしょう)。

さて、ケース1の場合、人命を救助する存在である医師が、その救助する対象であるところの人命を、奪う行為が認められるでしょうか。否、「現在の日本社会」においては「社会的不適合行為」となります。では三人の命を見殺しにすることは不適合行為ではないのか。これの答えも「不適合行為」です。だからこそ現実において、助けられなかったことに対する不満・不平は、遺族の方のなかに細々とでも存在しうるのです。ただ、強度の差異はあります。それは現代の社会通念となっている、「人命はそもそも完全に支配することができない」という考えに起因するものです。
次にケース2の場合、列車の運転をする存在である車掌が人命を奪う行為は認められるでしょうか。もちろん、認められません。しかし、この場合の認められないというのは、ケース1の場合と違います。「そもそも触れてはいけない領域」か「触れているが、逆の行為をしている」かの違いとなります。
だから、非難にも差が生じるのだと思います。
何度も繰り返しますが、すべて「今ある日本社会」を想定しているのであって、社会通念の変わった未来やその他異界を想定すれば、結果は変わるでしょう。

以上から、非難に差異が生じる原因には言及しましたが、肝心の「命の重さ」に関する議論は出てきませんでした。思索の不十分さは十分承知していますが、最初に書いたとおり、両ケースは問題として等価なので、命の重さとこの問題自体に関連性がないという結論を得ました。

ではどうすれば関連性を持つか、となりますが、それは>>6に掲げられたケース1「大げさバージョン」との関係の上で命の重さに問題が波及します。

簡単に言ってしまえば、「どこからを禿というか」という有名問題と同じで、明確な線引きはできません。しかし、現実に「禿頭」と「禿頭でない」という二つの存在が存在する限り、線引きは存在することになります。そこが問題の本質になるのだと思います。
実際の法律では、法律のもつ「明確な線引きを作る必要がある」という性質上、この手の問題は倫理的問題として裁判官の法解釈に投げてしまい、法律的には「悪意あり」としてしまいます。
最後の最後に感情論を持ち出しますが、命の重さはどう考えても「近い存在」か「遠い存在」かで差が存在します。あえてミル的にいうならば、「全人類各々の考えるその命の重さ」の総量が社会の持つ、「その命の重さ」になるのだと思います。

長文失礼。
結果回避可能性が明らかに違う。
前者においては、別の機会に3人が救える臓器の提供がある可能性があったにもかかわらず、自らの意思で医師として通常の手技を持ってすれば救わねばならない職務上倫理上の義務がある1人の命を断ったために、結果を回避することが可能でりその義務もあったのに敢えてしたので殺人の故意があり、有責である。

後者は、起きる事が確実な事故において、被害者を最小にしようと努力した結果であり、結果を回避することはできないため、責任が無い。

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