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背理・逆説・パラドックスコミュのデカルト→ドゥルーズのパラドックス

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新トピ立てさせてもらいます。


「我思う、故に我あり」
と言ったのはデカルトです。
彼は全てのものを疑ったあげく、懐疑している自分だけは疑いきれないと気づき、そのようにして発見された自己を哲学の第一原理としたのでした。

…が!しか〜し!

《『「我思う、故に我あり」と思う我あり』と思う我あり》と思う…

といった具合に、我と、その存在を思惟する我
の間には絶えざる断絶が生まれていき、最終的には自己の同一性は得られない。


とドゥルーズは言いました。
が・・・・

私個人の見解で少し数学的ですが

『「我思う、故に我あり」と思う我あり↑∞』という事では?
これは全て肯定の文でできてるから、∞に続いても負にはならない。
(前提としてこの場合、自我の存在アリ=1、無し=-1、断定できない=0)
よって∞に続いた場合、限りなく1に近づく事になる。
(具体的には0,999999999999・・・・ということ)
これを極限的に見ると答えは1に収束する。
無限性の視点を持った場合、必ずしも断定的に答えが求められなくても「最終的には」ということで1になるので、
この考え方だと自己の存在は限りなく証明される。

自我の存在は0≦X≦1の間なら存在する。
問いでので答えは常に正なので負にならない。
負にならないという事は『存在しない』という解は出てこない。
これより消去法&極限により自我は証明される。

わたしが言いたいのは、
「我思う、故に我あり」と思う我あり
とした時点で「我思う、故に我あり」が存在しなければいけない。また肯定されなければいけない。
なので「〜と思う我あり」を続ける事により前の文章が肯定されていく。
常に文全体が「我思う、故に我あり」を肯定し続けてるのではないか?それならばパラドックスは起きないのではないか?


大変読みにくい文章ですいません。。。
よければ、ぜひ意見ををお聞かせ下さい。

コメント(13)

数学的な事は言えませんが、「我思う、故に我あり」は、「我思う」の時点で思考部分は終わり。だから現実として我が存在する。という意味だと思います。

よって、
『「我思う、故に我あり」と思う我あり』

という文章自体がおかしなものだと思います。


たとえば、
「そこに犬がいる」という文章をこのパラドックスに当てはめてみると・・・

「そこに犬がいる」と思う。と思う。と思う。と・・・


そこに犬がいる

それだけでいいべや!って思いません?
「我思う、故に我あり」って結果だと思うんですよね…
計算をした末に導き出された“解”みたいな。

例えば、
「1+1=2」
数学的には変えがたい事実ですが、ドゥルーズはこの“2”を使って、更に別次元の計算を始めてる様な気がするんです。
「1+1」とは関係ない計算を。

って思うのやっぱり僕だけでしょうか…
「我思う故に我あり」というのがそもそもおかしいのでは。
 つまり「我思う」から「我あり」と結論づける事が間違い。

「我思う」で疑い切れないのはその「思い」であり、その主格である「我」ではない筈です。ここで論理を飛躍させてしまったのがデカルトのミスだと思っています。
>みねぎし様、

初めまして。
人が思惟する主体であるならば、その「思い」に人の実体を代表させるのであるからして、「我の思い」をそのまま「我」とすることにはそんなに飛躍を感じないのですが、どうでしょう?
なんだかデカルト論とドゥルーズ論は少しレベルの
違う話をしてるみたいに見えますよね。
「我」の定義が混乱してきているような…

デカルト論は

・主体無しに思惟だけが為される事はあり得ない
・思惟を為すなにがしかの主体は我でしかあり得ない

って事を認めれば問題ないと思います。
何だか定義しているだけのようにも思えますけどね。
少なくとも思惟を為すなにがしかの主体が存在する→
思惟を為す主体を我としよう、と言ったような。 

>みねぎしさん
2つめの条件が自明では無いって事ですか?
だとしたらとても納得出来ます。

ドゥルーズ論は2つ目の条件を疑った様に見えます。
具体的には我の定義が狭くなってると思います。
我あり、の我が、自分が認識するところの我と
同一の我で無ければならないと言ってるのでは?

これはこれで納得が行きます。

例えば、実は自分は思惟を傍観し、さらにその思惟を
自分が為していると誤解している存在かも知れません。
この場合、傍観者はその括弧の外の我です。
確かに傍観者としての自分は存在しますが、括弧の中の
我との同一性は保証出来ません。

あるSFに、脳を完全にシミュレートするチップを脳に
埋め込まれた人の話が出てきます。ある日突然体が
言うことを聞かなくなるんですが、実は語り手は
そのチップで、故障の為、正常に脳をシミュレート
出来なくなり、それまでに自己だと認識していたもの=
オリジナルの脳とのズレが生じて来ると言うものです。
これはまさにチップが傍観者、括弧の外の「我」で、
オリジナルの脳が思惟を為すこととその存在の関係は
括弧の中で、その断絶を示しているものだと思います。

個人的には、現実の世界で上の方に書いた二つの条件は
自明と認めてあげていい気もしますが、上のSFの例では
自明でないわけですし、そんな条件が必要なら
第一原理とは言えないと言うのは確かかも。

乱文、長文な上に話が横道にそれてスミマセン。
哲学には詳しく無いので、滅茶苦茶言ってるかも知れません。
お気付きの事があれば、後学の為遠慮無く指摘して下さい。
 オレも、 2: moonlightさんの意見に近いかもしれませんが
ドゥルーズは、既存の数式や固定観念に疑問符を投げかけているような気がします。

 たとえば、”我”という人格が、多数の人格を内包している場合、思うゆえに考える我は一定ではない。

 1+1=∞ かもしれないし、1+1∽1かもしれない

 人の自意識というのは(無自覚な自意識も含めて)、常に流動的に変化するものではないのか…というのが、デカルトの明知に対する問いかけだったのではないでしょうか。

 アインシュタインが、証明できないため不可知の領域と考えられていた量子力学が 21世紀になってからは、日本人の一学生の手でも 実験→製品の試作段階が可能になっていくのと同じように。

 実験と検証を行う事で、定理定説を覆されるのが、自然科学の可能性かもしれないです。

 但し、定説として社会認知が得られるかどうかは しばらく時間がかかるのでしょうが。
 「我思わず、ゆえに我あり」
 「我思う、ゆえに我なし」
 「我思わず、ゆえに我なし」
 「我思う、しかし我あり」
なんか、それぞれに言えそうな気が・・・
>C13さん
>あるSFに、脳を完全にシミュレートするチップを脳に
 読んでみたいのでタイトルを教えていただけないでしょうか。

 「我がある」ことの理由として「我思う」という「我」が入った文章を使うのはおかしい気がしますね。
 
>「我がある」ことの理由として「我思う」という
>「我」が入った文章を使うのはおかしい
「我思う、故に我あり」とだけ言い放って他に何も言わずに終わったんなら、確かにおかしいですが・・・
実際はそんなことないでしょう?それを説明するようなことや補足するようなことをいろいろ言ってたんじゃないですかね。
なら別におかしいということもないわけで。
>>nick the hollywoodさん
グレッグ・イーガンの「祈りの海」という短編集に
入っている「ぼくになることを」ですね。早川文庫です。
アイデンティティをテーマにしたSFなら
ディックあたりもおすすめです。

>>「我がある」ことの理由として…
荒俣宏が著書の中で指摘してたような気がします。
曰く、「思惟が為される、故に我有り」とでもするのが
妥当だとか…だったような。確かにそうですね。

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