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谷崎潤一郎コミュの「湘碧山房」訪問記と「細雪」のことなど・・

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谷崎潤一郎氏のコミュニティに参加して一週間。団塊世代の“いしけん”と申します。
“好きな作品”というトピックに2月11日、その昔(昭和42年ですから39年前)谷崎氏の終の住まいとなった湯河原の「湘碧山房」を訪問し、松子夫人と対談をさせて戴いたことや「細雪」の貴重な資料を拝見したことなどについて、初書き込みをしました。
それを読まれた「細雪」ファンの朱蘭さんから、「トピックを立ち上げたら如何ですか」とのアドバイスを受け、このトピックを立ち上げた次第です。
順次・・訪問時の写真やエピソード等を掲載して行こうと思っています。

今回は、「湘碧山房」の外観と玄関の写真を掲載します。
一見平屋のお宅に見えますが、実は2階屋なんです。(その秘密は次回以降に)

コメント(36)

わぁ早速ありがとうございます!!

「湘碧山房」は今年中に訪れてみたいと思っているところです。
内部の秘密、興味深々ですねー。

ところで、今は内部見学などさせていただけるのでしょうか?
>朱蘭さんへ
朱蘭さんのお言葉に後押しされて、トピックを立ててしまいました。
「湘碧山房」は、会社の寮になっているとの情報を以前見たように思いますが、詳しいことは存じません。

>shigeruさんへ
京マチ子さんは私よりずっと年上の女優さんですが、二十代の頃の京さんには、若い女性特有の我儘な感性が豊富で、そこが男に取っては堪らない魅了です。
そんなところが春琴にマッチしていたのかと思います・・・
谷崎氏が湯河原の「湘碧山房」に転居したのは昭和39年7月。そして他界されたのが昭和40年7月ですから、終の住まいとなった「湘碧山房」は約一年間のみの住まいだったことになります。
私達4人の“「細雪」研究小グループ”が「湘碧山房」を訪問したのが昭和42年12月初旬(「好きな作品」の投稿の中で初秋と書きましたが、晩秋の誤りです)ですので、谷崎氏が亡くなられて二年数ヶ月後のことになります。

この訪問に至った背景には、別のアクションで成果が得られなかったことが起因していました。
そのアクションとは・・・19才の若者の未熟な発想だったのですが・・・谷崎氏と関連がある作家と文芸評論家に、「細雪」に対する評論や評価を直接文章で戴けないかとの発想でした。
グループで考えた“質問状”を同一文章で各自が手書きをし、4〜5名の先生方へ分担して郵送で送りました。
その結果は、“質問状”に正面から答えてくれた先生はおりませんでした。(今思えば当然と思いますが)
但し、不思議なもので、仲間の一人のO君の所には回答文ではありませんでしたが、作家の丹羽文雄氏からは、専用の原稿用紙にさらさらとした達筆で「とても、谷崎氏のような大作家を論ずる身分ではありません」と言うような返事が、評論家の塩田良平氏からは、律儀そうな文字が詰まった「断りの手紙」等が送られてきました。
私はと言うと、三島由紀夫氏を始め、送付した方々からは何の音沙汰もありませんでした。同じ文章でも、筆跡により“想いや気持ち”の伝わり方が違うのかなぁ―などと思ったりしたものです。

そして、松子夫人に直接お会いして、「細雪」のことをお聞きしようと言うことになったのです。
まず私が松子夫人宛に手紙を書きました。それが着いた頃を見計らって、仲間の一人のK君が公衆電話から谷崎家に電話を掛けました。周りを取り囲んでいたメンバー全員が固唾を飲んで見守る中、K君が電話を置くと・・「OKが出たぞ」と言ったのです。
その時から数日後の昭和42年12月6日、私達は東京駅から東海道本線の鈍行に乗って湯河原に向ったのでした・・・・・

◆ 今回の写真は、「湘碧山房」の表側の外観です。
山房はみかん畑の中の傾斜地に建てられていました。裏からは一階の家屋に見えたのはそのためです。
次回は、棟方志功氏の版画が多数置かれていた玄関口など、家の中をご案内したいと思います。
私達は湯河原駅からバスに乗り「湘碧山房」に向かいました。
バスを降りて、その邸までどのくらい歩いたかは、今では記憶がはっきりしません。
玄関は並列に二つあり、右側の玄関から中に入りました。二つの広い玄関は横に吹き抜け状態になっていて、ほぼ同一の造りでした。(左側の玄関は上客用のようでした)
そして、二つの玄関の両脇に、障子よりも大きい縦長の版画が数点ずつ置かれていました。この版画を見て、メンバーの一人が「“棟方志功”の『鍵』の挿絵だ!」と言いました。(私は、この時にはまだ「『鍵』を読んでいませんでした)
写真の撮影は、松子夫人に挨拶をした後に許可を得て行いましたので、残念ながらこの玄関の版画の写真はありません。

実は、私達が谷崎邸を訪れた時間には、松子夫人は家には不在でした。お手伝いさんの話では、東京の観世さんの所に行っていて、もうじき帰られるこのことでした。これは後に知ったことですが、松子夫人の娘さん(谷崎ファンの方は松子夫人が三番目奥さんであり、松子夫人には前の旦那さんの間に娘さんがいたことはご存知のことと思います)は能役者でテレビ俳優としても活動されていた観世栄夫さんに嫁がれています。
そのため、私達はお手伝いさんにお茶やみかんを頂戴しながら、暫し松子夫人を待つとことになりました。そして庭に出て家の周りを散策させて貰ったりしました。

松子夫人は私たちの訪問の少し前に「倚松庵の夢」と言う本を、谷崎氏との関連が深い中央公論社から出版されていました。その本をメンバーの一人が入手し、皆で回し読みをしていました。この後の対談の中で、リーダー各だったK君が「奥様の“キショウアンの夢”を読みましたが・・・」と言った時、松子夫人が“きょとん”とした顔をされたのです。その時まで、我々全員“倚”松庵は“イ”ショウアンではなく“キ”ショウアンと思い込んでいたのです。

◆掲載の左側の写真は、廊下の入り口に飾られていた棟方志功氏の版画です。そして右側の写真はダイニングルームに飾られていた安田一彦氏作「谷崎氏の肖像画」です。(この肖像画は、多くの方が谷崎氏の解説書などで目にされたことがあるとかと思います。写真が不鮮明なのが残念です)

次回は、松子夫人との対面の時のお写真を掲載しようと思います。
興味深いお話をありがとうございます。
私は昨年夏湘碧山房へ行ってきましたが、ピジョンの寮なので中へは入れませんでした。
肖像画は安田靫彦ですね。
おぉ、いしけんさんの訪問記、佳境に入ってきましたね。
次回が楽しみです。

肖像画は出版物等で見たことが、あります。
実物を拝見したいものです。
源三位入道さんご指摘感謝します。
字が分からなくて“ー”とメモしていたのを、そのまま記載してしまいました。安田靫彦(やすだゆきひこ)氏が正しいです。
「書き込み」の修正ができないというのは厳しいものがありますね。
私達は、松子夫人の帰宅を待つ間、「湘碧山房」の南側のみかん畑を下り、道路がある所まで降りてみました。そこからは海が望めたように記憶しています。
(このトピックを立ち上げてから、ネットで「湘碧山房」があった場所を確認してみたのですが、思っていたよりも北に位置していました。記憶では海岸際まで行ったように思っていたのですが、記憶違いかも知れません)

谷崎邸に戻ると、松子夫人は帰宅されていて、先ずご挨拶をしました。松子夫人はグリーン系の和服をお召しになっていて、小柄で品のある美しい方でした。
19歳の若者としては相当不遜な発言なのですが、同行メンバーの一人であったU君が帰り道で言った、「思わず抱きしめたくなるような人(女性)だったよなぁ」との言葉が、私達の松子夫人への印象を表していたように思います。
その時点では、松子夫人は六十代の前半であった筈ですが、女性の美しさは年齢を超えたものなのだと思いました。そして、このような女性を求めた谷崎氏の“感性”の凄さを感じたものです。

松子夫人は帰宅が遅かったことに気を使われたのでしょう。私達にお鮨を取って下さいました。訪問メンバー全員、当時の庶民的な家に育ち、鮨などは滅多に食べたことがありませんでしたので、感激したのは言うまでもありません。
食事が終わると、いよいよ対談に入らせて貰うことになり、ダイニングルームから隣室のリビングルームに移りました。・・・・・

■ 写真は、対談の後で撮影した松子夫人です。モノクロ写真なので、上品な美しさが伝わり難いかも知れませんが、年齢を感じさせない艶やかなお姿でした。
右の写真は、「湘碧山房」の南側の斜面に広がっていた“みかん畑”です。
>いしけんさん、39年前のことにもかかわらず緻密に思い出していただいて、本当にありがとうございます。そのときのご様子が浮かんできます。松子夫人、たおやかで美しい〜。
続き、楽しみにしております。
応接間には、大きな長方形のテーブルが置かれていました。
奥のエンド側に和服姿の松子夫人が座られ、私達は両サイドに二人ずつに別れて座りました。私は録音係でしたので、夫人からは離れた方に席を取り、先ず電源やマイクのセットの準備に取り掛かりました。
その時に持参した録音機は、クラスの友人から借りたソニー製の真空管式のオープンリール形テープレコーダで、優に10kgを超える代物でした。1号リールを装着して片面30分、往復1時間の録音時間でした。
対談の時間について、事前に松子夫人に確認をしたのかどうかは忘れましたが、30分でテープが巻き上がり、話しが継続する中で急いで裏返しを行い、もう片面の録音を始めました。それが巻き上がっても話は少し続きましたので、対談は1時間以上に及んだことになります。
(その時の録音テープは、後日・・国文学系の教師の手に渡り、その教師が某国立大に転出したため、そのままの状態となりました。私達としても、そのテープの内容には多少貴重な部分もあるとの認識はありましたが、松子夫人にお会いしたことの方が思い出として大きく残っていましたので、そのテープに拘泥する気持ちは薄かったように思います。
「でかした!」の一言で“それ”を持ち去った教師が、谷崎潤一郎氏の研究の一片に、私達の対談の足跡を使ってくれたとしたら・・それはそれで意義あることだったと思っています)

■ 今回は、対談の内容をお話すると予告しておきながら、対談の前段の話だけになってしまいました。39年前の記憶を辿りながらの記事なので、ご容赦を。
では、対談の中で「細雪」に関する松子夫人のお話を一つだけ・・「作品の登場人物とそのモデル」についてのお話。シュトルツさんという外国人の一家が作品に登場しますが、ご近所にドイツ人のご一家が住まわれていて、その家族の出来事の断片が織り込まれているようですよ。(朝顔の話なんてありました?・・思い違いかも)

■ 今日の写真は、後日訪問記に登場予定の“書斎”に掛けてあった「雪後庵」の額と、前庭に置かれてチェアです。
額の書由来やその後の行方を知りません。ご存知の方がおりましたらご教示ください。小さいチェアは、観世さんのお子さん(松子夫人のお孫さん)用だったのではないでしょうか。
 この雪後庵の額は初めて確認しました。「園田穆」とか書いてあるように見えますが、調べてみます。
 近くにいたドイツ人一家はシュルンボンさんといいます。
園田穆は園田湖城という谷崎と同年の篆刻家でした。その人の揮毫です(細江光先生に伺いました)。
源三位入道さん、いつも貴重な情報ありがとうございます。
園田穆氏という方を存知上げませんが、谷崎氏と接点があったのでしょうね。
私の住む南関東も、桜の花が満開となりました。
今年も「細雪」の始まりの季節がやって来ました。

(最近、仕事が多忙の上、マジック関連のイベントがあったりしたため、2週間程このトピックをご無沙汰してしまいました)

松子夫人との対談は、「細雪」のことから始まりました。
「細雪」は昭和17年(1942年)に執筆が始められたとのことですから、既に太平洋戦争の最中であったことになります。しかし、その作品の中には戦争に関することは全く書かれていません。
谷崎氏は、この「細雪」の執筆に当たり、“四季を通して、季節毎の自然の美の移ろいと、雪子という美しい女性の心の移ろいを、シンクロナイズさせた絵巻物語を描こう”としたのでしょうから、そこには経済社会も戦争も登場させる必要は無かったのだと推測します。

昭和18年(1943年)に「中央公論」に連載していた「細雪」は、“華美の小説”は戦時下にはそぐわないとの理由だったのでしょうか、軍部により連載禁止処分を受けます。
止む無く、谷崎氏は私家版として「細雪 上巻」を刊行したそうです。
“その本”を対談の終了後に、松子夫人が書庫から持ち出して来て下さり我々に見せてくれました。

連載中止後も、谷崎氏は熱海の家(疎開先?)にて、ほぼ毎日、「細雪」の原稿を数枚ずつ書かれていたとの松子夫人のお話でした。
K君の「谷崎先生は、戦争をどのように考えていたのでしょうか」との不躾な質問に、松子夫人は少し困ったような表情をされ・・明快な回答はされませんでした。
谷崎氏は・・戦争は、大変な社会の出来事ではあっても、自身の文学世界とは無縁であり、孤高にその時をやり過ごすことで、その先の日本の姿を見据えていたのではないでしょうか。

■ 今回の写真は、戦争中に自費出版せれた、「細雪 上巻」です。
非常に写りが悪い写真なのが残念ですが。
松子夫人が、応接間に戦後の初版本を持って来てくださったのですが、「確か、戦前の自費出版本もある筈」と、もう一度書庫に行かれ、探してくださった本です。谷崎氏の書斎の畳の上に置いて撮影しています。
今日の話は、「好きな作品」のトピックに初訪問した時にも書いているのですが、
対談の中で松子夫人からお聞きした、映画化された谷崎作品に対する谷崎氏自身の想いについてです。

谷崎氏自身は・・『どの映画も自分の作品とは異質のように感じていたようですが、その中で、京マチ子さんが演じた“春琴抄”が、自分の作品に一番近いイメージを表現していると言っておりました』・・との松子夫人からのお言葉がありました。
この作品は、昭和29年(1954年)の伊藤大輔監督「春琴物語」を指しているようです。

谷崎氏自身、大正時代に映画製作に深く関わっていたことは“谷崎文学の解説書”に記されていますのでご存知の方も多いことと思います。
横道に逸れますが、下記の文は私の3月2日のmixi日記の一部です。

・・・正月休みに本屋で何気なく手にした本でした。
四方田犬彦氏著、集英社新書「日本の映画史100年」
ぺらぺらと捲ったページに、増村保造監督作品『卍』のスチール写真が目に入ったのが、買ってしまった理由かも知れません。・・・<中略>・・・巻末の著者の言葉に、谷崎潤一郎氏の小説『痴人の愛』のモデルであり、日本最初の女優の一人“葉山三千子さん”のことが突然出てきて、谷崎ファンとしてはちょっとビックリ。
二十歳の頃に読んだ『痴人の愛』の衝撃的な“あの場面”を想い出して、懐かしい気持ちになりましたが、彼女の映像が全く現存していないことを知り、またビックリ・・・

「細雪」のトピックにはそぐわない品の無い文を載せてしまって申し訳ありません。
その谷崎氏も昭和に入ると、映画の製作とは疎遠になっていったようです。
しかし、その後の昭和から平成に至る八十年間に谷崎氏の作品は、多くの映画化がされています。
市川崑監督の「細雪」など、没後に封切られた映画を・・もし谷崎氏が観られたら・・それぞれの映画にどのような感想を持たれたか・・叶わぬことですが・・とても興味が湧いてきます。

◆ 今回の掲載写真は、戦後に前編が完結した後、昭和24年に中央公論社から出版された「細雪」の初版本です。(応接間のテーブルの上に置いて撮影しています)
右の写真は「湘碧山房」の一面の情景です。
*前回の書き込みに、漢字変換時の誤記がありました。
『戦後に“前編”が完結・・』は誤りで、『戦後に“全編”が完結・・』が正しいです。
失礼致しました。

松子夫人から拝見させて頂いた三つ目の書は、“定本”「細雪」です。
ただ・・この本が何年に刊行されたかについては、情報を持っておりません。
“定本”ですので、前回掲載した“戦後の初版本”より後なのは確かなようです。
写真の写りが悪く残念に思いますが、背表紙に書かれた「定本」の文字は、谷崎氏自身の手によるものなのでしょう。

■ 今回の写真は、その「定本 細雪」と「湘碧山房」の前庭の写真です。

*次回は谷崎潤一郎氏の書斎にご案内します。
中央公論社『細雪(全)』のようですね。昭和24年の刊行です。
対談が終わると、松子夫人は私達を谷崎氏の書斎に案内してくれました。
廊下を少し歩いた右側にその部屋があり、10〜12畳ほどの和室でした。
部屋の中の調度品の配置を思い出して、見取り図を描いてみました。
(3個の本箱の配置に自信がありませんが、左側の方に2個と1個に別れて置かれていたのは確かです。39年前のことですので思い違いがあるかも知れません。ご容赦ください。)

中央には机があり、“谷崎氏の生前のままにしている”と、松子夫人が言われていました。ただし、机の上の「谷崎氏の写真」は谷崎氏が亡くなられてから松子夫人が置かれたものと思います。
また、この机は作家の吉川英治氏から贈られたとのことでした。谷崎氏と吉川英治氏の文学上の繋がりについては全く知りませんが、当時吉川氏も神奈川県に住まわれていたようですから、住まいが近いと言うことで、交流があっとのではないかと推測しています。

■ 今回の写真は、私が描いた「谷崎氏の書斎の見取り図」と、書斎に置かれていた「机」と「チェア」です。
今日は、「谷崎潤一郎氏の書斎」訪問の続きになります。

書斎には、本箱が三個有ったと前回書きました。三個とも、特別なものには見えませんでしたが、しっかりとした造りの段だけの本箱でした。
本箱の中に収められていた書籍は、「谷崎源氏」や谷崎氏自身の全集が若干あったように思います。その他の書籍が何であったのか記憶の底に沈んでしまっていて思い出せませんが、一つの本箱の最上段に「広辞苑」が入っていたことは記憶しています。
仲間の一人が「谷崎さんは、広辞苑を使っていたんだ!」と言った言葉を、今も憶えているからです。

社会人になってから、私もいつの日か“広辞苑”を座右にと思いつつ・・この時から二十四年後の第4版に改版時に・・やっと購入しました。その“広辞苑”は、これまた谷崎氏の机を範に購入した“座り机”の下で、殆ど使用されることも無く鎮座しています。

書斎に置かれていたもう一つのモノは仏壇でした。
それは、机の反対側に置かれていました。松子夫人に、谷崎氏の仏前に拝礼したい旨を申し出たところ、松子夫人に快く許可をいただきましたので、私達4人は順番に谷崎氏の仏壇にお線香を供え、手を合わせました。

仏壇の中には谷崎氏の位牌の他に、少し小さめの位牌が置かれておりました。そして、記憶として鮮明に憶えていることは、位牌の少し下に小さい額に入った谷崎氏の母上の写真が置かれていたことでした。それは谷崎氏の解説書で目にしていた写真でしたので、お母様の写真であることは直ぐに分かりました。
その写真は氏の生前から仏壇に置かれていたのではないかと思います。それを拝見しながら、谷崎氏がお母様をたいへん慕われていたことが思い出されました。

なお、書斎の撮影についても、松子夫人から許可を戴き、部屋の中の調度品の大部分を写しているのですが、仏壇についてはカメラ係のO君の判断で撮影を避けたようで、写真がありません。

■ 今回の掲載写真は、二つと一つに分かれて置かれていた本箱です。
 (おぼろげながら、置かれている本が分かるものもありますね)
谷崎先生は、新村出と親しかったから、広辞苑を使っていたのでしょうね。
源三位入道さんへ
いつも情報をいただきありがとうございます。
「広辞苑」の第一版が出版されたのは、1955年(昭和30年)5月25日となっていますので、既に谷崎氏の晩年の時期に当たります。ですから、それを愛用していたと言うよりも、新村出氏との関係で「広辞苑」が置かれていたのかも知れません。
私事ですが・・2年前にシャープの電子辞書を買い、その中にも「広辞苑」が入っていて、仕事やネット関連の書き込みに重宝しています。
「広辞苑」の前身は「辞苑」で昭和十年に出ていますから、その時代から使っていたのでしょう。新村出との交遊は「当世鹿もどき」に書いてあります。
会社に「広辞苑」の第2版(1969年)があり、その“後記”に「辞苑」の発行から「広辞苑」の出版の経緯などが記載されていましたので、源三位入道さんの言われたことが、より理解できました。
訪問時期から、「湘碧山房」に置かれていたのは第1版で間違いないようですね。
谷崎潤一郎氏の書斎拝見が終わると、私達はまた応接間に戻りました。そして、松子夫人に、対談や貴重な資料を拝見させて戴いたことへのお礼の言葉を述べました。

実は、対談の時のことで書き忘れていたことがあります。それは対談の終盤でのことでした。仲間のK君が谷崎氏のことで質問をした時、松子夫人が涙を流されたのです。そっとハンカチで目頭を押さえられました。おそらく一分にも満たない時間だったのでしょうが、私達はその間、お掛けする言葉が見つからず沈黙していたのでした。19歳の学生を前に、感情を抑えながらも、愛する人への想いを抑えきれずに流された涙、それは感性豊かな女性の美しいお姿として、心の奥に刻まれました。
40年近い歳月が過ぎた今でも、その時の情景がこの文を書きながら蘇って来ました。

いよいよ「湘碧山房」を辞することになりました。
私達は、バスでも徒歩でも構わないと思っていたのですが、松子夫人がハイヤーを2台頼んで下さいました。時間は既に7時近くになっていたのでしょう、初冬の外は訪問した時の明るい景色から暗闇の世界に変わっていました。
湯河原の駅に着き、ハイヤーの運転手さんからは「車代は奥様の方で・・」と言われ、またまた松子夫人の心遣いを知ることになりました。

そして、私達4人は東海道線の鈍行列車に乗り一路東京に向けて揺られて行きました。それぞれが無口となっていました。おそらく今日一日の「湘碧山房」での出来事を思い返していたのだと思います。
私も、ずっしりとしたソニーの真空管式テープレコーダを肘掛にして、これからは「谷崎潤一郎作品」のよりファンになって行くのだろうと思うと共に、「谷崎松子さん」のファンにもなって行く・・いや、既になっているのだと思いながら・・やはりその日の「湘碧山房」の出来事を反芻していたのでした。

★ 今回が、このトピックの“メイン書き込み”の最終回となります。
このトピック立ち上げのきっかけを与えてくださった朱欄さん、そして書き込みの記事に対し、いろいろと補足の情報をいただいた源三位入道さんに、感謝を申し上げます。
私自身は、これからはmixiの中で、入場した本来の目的のアマチュア・マジシャンとしての書き込みや交流を中心に、ソーシャル・ワーキングを続けることになります。
また、「谷崎潤一郎」のコミュニティについては、会員として谷崎ファンの方々による多くのトピックを、これからも楽しませていただこうと思っています。

■ 期待の向きもあろうかと思いますが、「湘碧山房」の写真は前回で使い果たしてしまっております。
「湘碧山房」を訪問してから35年後の2002年3月に、関西方面への出張折、所要が午前中で終了したため、午後の時間を利用して、住吉の「倚松庵」を初めて訪ねてみました。「湘碧山房」と比べると小さく感じましたが、趣のある古風なお住まいでした。
ここが、「細雪」のモデルとなった松子夫人の妹さんを含めた生活の場所であり、「細雪」の執筆を始めた家ということで、初めての訪問でありながら、何か懐かしい思いがしました。
<番外記事>
本日の読売新聞の書評に、野崎歓氏のよる小谷野敦著「谷崎潤一郎伝」の記事が、『松子神話を解体する」と言うタイトルで掲載されていました。
「細雪」を始め松子夫人との出会いに触発されて書かれた作品郡だけではなく、より広く谷崎潤一郎の女性関係を考察をし、谷崎氏の“終の住処”となる「湘碧山房」に到る道程を広角度から語られている本のようです。
来月の短い夏休みに読んでみようかなぁーと思ったりしています。
<番外記事?>
読売新聞の土曜版に、毎週ドナルド・キーンの日本文学との関わりを中心としたエッセイ「私と20世紀のクロニエル」が連載されています。
今日は、三島由紀夫との交流、特に三島氏との自決間近の会食事の状況について書かれていて、興味をそそるものがありました。

それを読むと“三島とキーン”は友人と呼ぶに相応しい関係であったようです。それでは“谷崎とキーン”の関係は?そのことについて、松子夫人に対談時にお聞きしたのですが、年齢が離れていたこともあってか、それほどフレンドリーな付き合いではなかったようでした。しかし、キーンが谷崎文学を甚く愛し、高い評価をしていたことは確かです。

もう半年以上前の発行と思いますが、ドナルド・キーン著 松浦史朗訳 新潮社刊
◆ 「思い出の作家たち・・・谷崎、川端、三島、安部、司馬」
という本が出版されています。(ご紹介まで)
いやあ、キーンは美青年だったから、『青い目の太郎冠者』の序文を書いたり、『BUNRAKU』にも文章を寄せたりしていますが、キーンは谷崎の長編を訳していないんですよね。
<番外記事?>
一年前のトピックの持ち出し、失礼します。
昨日、新潮文庫「文豪ナビ 谷崎潤一郎」を買いました。
この本が発行されたのは17年1月1日となっていますので、私がこのトピックに初書き込みをする一年以上前になります。

・・・と言うことで、谷崎ファンが集うこのコミュニティのメンバーの方々の中には、この本を読まれた方も多くおられることと思いますが〜谷崎作品の全体を捉えるのに、とても分かり易い本なので、遅ればせながら紹介させて戴く次第です。(税込み定価;420円)

「細雪」に関する記載は、ストーリーの要約や寸評などが掲載されていて、それなりに参考になることが書かれています。今回この本を読み、「細雪」の四女の妙子は、主役である三女の雪子と同等以上の役割を担っていることを認識しました。
しかし、谷崎氏は雪子の方が女性として明らかに好みであり、それは天性の気品を有する松子夫人に繋がっているのだと思います。

『湘碧山房』に関する記載は一箇所のみなので、見落としの無きように〜
>いしけんさん
お久しぶりです。
今回またこのトピを読み直し、改めていしけんさんは素晴らしい体験をなさったのだなぁと感慨を新たにいたしました。

文豪ナビは私も読みました。(確か細雪のトピ内でも紹介した記憶があります)
が、『湘碧山房』のくだりは読み飛ばしてしまったのか思い出せません。
また、読み直してみようと思います。

この先も追加情報等ございましたら是非、お知らせくださいませ。
楽しみにしております。
朱蘭さん、こんにちは。
mixiに入会した直後に、朱蘭さんから“ポン”と背中を押されて、書き始めることになったこのトピックでした。
(朱蘭さんの一言が無かったら、書くことは永遠にありえなかったでしょう)

谷崎家との関わりを持った青春のたった一日の出来事を、長々と書き連ねた訳ですが、この体験記がささやかながら、谷崎潤一郎ファンの方々の知識の一助になり、また松子夫人の人となりを知っていただく機会になっていれば幸いです。
最終の書込みから5年以上が過ぎました。時間の経つのは早いですね。
このトピックを立ち上げた当初、記事に使用の写真は40年程前にプリントをした写真をデジカメで写し掲載していたので、当時写撮影を担当した友人の0君に元のネガを持っていないか電話を入れ確認しました。「昔のことなのでどこにあるか見当がつかない。」という答が返ってきました。それから5年が過ぎた今年の春先に、O君から手紙が来て、中に湘碧山房を訪れた時の写真のネガフィルムが同封されていました。このトピックで使用していない写真として、谷崎家内で写した私達の写真もありました。あまりの若さにあ然としつつ・・・これは掲載できないなあと〜。でもその他に松子夫人を撮らせて頂いた写真が2枚ありました。多分このトピックとしては最後の記事になると思いますが、その写真をアップしておきます。
久しぶりにmixiのコミュニティ『谷崎潤一郎』を訪れ、自分が立ち上げたこのトピックを読み返しました。思えば投稿を始めた時から既に15年以上が過ぎました。当時50代の半ばだった私”いしけん”も今は72才となりました。このトピックは昭和42年の秋に谷崎潤一郎の終の住いであった神奈川県湯河原市の「湘碧山房」を訪問し、松子夫人と対談させて頂いた1日の出来事を綴ったものです。現在は、谷崎潤一郎作品を読んではおりませんが、生きているうちにもう一度「細雪」を再読してみようと思っている昨今です。

私の趣味は読書と奇術(マジック)です。谷崎潤一郎と戦前交友関係にあった奇術家の阿部徳蔵が、太平洋戦争終盤の昭和19年夏に神奈川県の鵠沼で他界しますが、そのひと月ほど前に谷崎潤一郎が阿部徳蔵を見舞った折のことを『三つの場合』と言う作品で発表しています。私は阿部徳蔵の業績研究を5年前にレポートに纏めた関係から、谷崎潤一郎と阿部徳蔵の交友の足跡をしております。写真は半年前に出版された『近代日本奇術文化史』です。この本の阿部徳蔵の項に谷崎潤一郎の名が登場します。なお本書の174ページに私”いしけん”の本名がこっそりと記載…。
「谷崎潤一郎コミュニティ」の管理人“いしけん”です。mixiのコミュは開店休業状態が多く、残念に思います。大きな理由は、世界的な規模で運営されているSNSが発足したことで、国内のみのmixiから離れる方々が多くなった事と、ハンドルネームでの寄稿はバーチャル感があり、敬遠されてしまったようにも思います。そこで今日は、一念発起!し久し振りに投稿を致します。

“いしけん”はマジック愛好家ですが、昨年の9月に共同通信社からの依頼で、10回連載の「マジックコラム」の新聞記事を書きました。ネット記事は47NEWS(共同通信社)が発信元で、2022年12月9日(金)から2023年2月10日(金)に掛けて一週間おきに掲載され、次の10社が同日に47NEWSを基にデジタル記事を掲載しました。
秋田魁新報 信濃毎日新聞 下野新聞 神戸新聞 福井新聞 中国新聞 山陰中央新報 沖縄タイムス 高知新聞

新聞紙面へは次の5社から週1で現在掲載が継続中です。
*愛媛新聞;1月6日(金)の朝刊から
*西日本新聞;1月6日(金)の夕刊から
*信濃毎日新聞;1月7日(土)の夕刊から
*京都新聞;1月24日(火)の朝刊から(第1回を添付)
*埼玉新聞;2月9日(木)の朝刊から

タイトルは「天覧奇術師・阿部徳蔵の生涯」です。この中で、第1回、第9回、第10回に谷崎潤一郎との関係を記しています。特に第9回は谷崎が死期の迫った阿部を昭和19年8月に見舞った折の文章を扱っていて、このコミュニティでも記した私が松子夫人から聴いた話を組入れております。
https://www.47news.jp/culture/entertainment/8896173.html

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