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本多勝一コミュの中国の旅

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本多勝一の「中国の旅」について、さまざまな意見・批判が出ています。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022608056/
これらの件について皆さんどのようにお考えでしょうか?

コメント(18)

以下のコミュで、
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=1737274&page=all
かような議論になりまして、『中国の旅』の出来るだけ古い版を探しています。
恐れ入りますが朝日文庫版『中国の旅』第1刷、またはそれより古い版(あるのかな?)をお持ちの方は私に売っていただけないでしょうか?
また、当時朝日新聞に連載していたと思われますが、「中国の旅」が連載されている朝日新聞の年鑑を私に売っていただける方はいらっしゃいませんでしょうか?
 ハードカヴァー版が、家のどこかにあるはずなんですが (^^;)。
秦郁彦の本多勝一著『中国の旅』批評?

秦郁彦著『いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(2)』
※日本大学法学会『政経研究』第42巻第4号P81〜84より一部引用

本多勝一の「中国の旅」

戦後の混乱期に忘却のかなたへ押しやられた百人斬りの話題が、南京大虐殺の一エピソードとしてマスコミに再登場したのは1971年(昭和46年)秋であった。
 6月から7月にかけ40日にわたり中国各地を取材した朝日新聞の本多勝一記者が、8月末から12月にかけ「中国の旅」と題して夕刊に連載したルポ報道である。
 翌年3月に刊行された単行本の末尾に「本書は中国側での取材にもとづいて報告していますので・・・・日本側の資料あるいは反証があれば、できるだけ双方のくいちがいをただしたい」と断っているが、日中復交の前年でもあり、中国政府側が提供した言い分を検証抜きで取り次ぐだけに終わった感を否めない。
 この点は本多と批判派の論争で、争点のひとつとなった。批判派がお仕着せでなく冷静な目で取捨すべきだったと論じたのに対し、本多は取材情報をストレートに読者へ伝達するのがジャーナリストの本分だと反論し、対立は感情的レベルにまでエスカレートした。
 たしかに本多のルポ記事は731部隊の人体実験、平頂山事件、万人坑、強制連行、南京事件、三光作戦など、中国大陸における日本軍の残虐行為だけに絞りこむ告発スタイルが目立っていた。しかも取材源はほとんどが被害者の個人的発言という形式をとっていたものの、共産党独裁という国柄から言って、読者が中国政府の操作ではないかと推測したのは当然だったろう。
 それにしても、本多ルポの与えた衝撃効果は大きかった。新聞ばかりでなく、『朝日ジャーナル』『週刊朝日』にも転載され、『中国の旅』の単行本が10年間に26刷を重ねるベストセラーになったことだけでも、浸透度の高さを推し測れよう。しかし動あれば反動がくるのは世のならい、雑誌『諸君!』を主舞台にイザヤ・ベンダサン=山本七平、鈴木明が本多ルポ批判の論稿を次々に発表、やがて南京虐殺事件をめぐる「虐殺派」と「まぼろし派」の白熱的論争へ発展していく。
 ところで本稿の主題でもある百人斬りに限れば、本多の記述は71年11月5日夕刊の1回だけ、それも20数行にすぎない。見出しも「競う二人の少尉」と地味で、2人の実名もイニシャルも控え、AとBの仮名で通している(単行本では実名に)。次に該当個所の全文をかかげる。

「これは日本でも当時一部で報道されたという有名な話なのですが」と姜さんはいって、二人の日本兵がやった次のような「殺人競争」を紹介した。
 AとBの二人の将校に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の句容から湯山までの約10キロの間に、百人の中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・・・
 2人はゲームを開始した。結果はAが89人、Bが78人にとどまった。湯山に着いた上官は、再び命令した。湯山から紫金山までの約15キロの間に、もう一度百人を殺せ、と。結果はAが106人、Bは105人だった。こんどは2人とも目標に達したが、上官はいった―「どちらが先に百人に達したかわからんじゃないか。またやり直しだ。紫金山から南京城までの8キロで、こんどは150人が目標だ」
 この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、2人はたぶん目標を達した可能性が高いと、姜さんはみている。

<続く>
秦郁彦の本多勝一著『中国の旅』批評?

 語り手の姜根福(43歳)は南京港務局の船員で、自身も両親が南京大虐殺で日本兵に殺された経験を語ったついでに、百人斬りにも言及した形になっている。しかし、この人は半ばプロの語り部として政府当局から差し向けられたらしく、本多へ語ったのとほぼ同じ内容の記事を『人民中国』の72年7月号に発表している。ただし、「3回にわたって45キロの間にわが同胞六百余名を殺害した。つまり0.5キロ当たり6名の中国人を殺したわけである」と、なぜか百人斬りが六百人斬りに膨張している。
 南京法廷の判決文と比べると、前者では殺害対象が「俘虜及び非戦闘員」だったのに対し、姜証言は「中国人」というぼかした表現に変る一方、個人行動ではなく「上官」の命によるとなっている。南京虐殺の責任は実行者ではなく、指導者にあると見なす当時の中国共産党の対日政策を反映したデフォルメなのかもしれない。
 実は百人斬りの話を聞かされたのは、本多が最初ではない。それより5年前の1966年夏、南京を訪れた元毎日新聞外信部長の大森実が「日本人に話したのは初めてだ」との前置きで似たような話を聞かされていた。大森はそれを著書『天安門炎上す』(1966)に紹介しているが、取材のテーマは文化大革命の観察で、南京大虐殺と百人斬りに割いたのは2ページ余にすぎなかった。
 それに比べると本多の新聞連載と著書は、日本軍の残虐行為に焦点をすえており、とくに著書には提供された多数の残虐写真が並んでいただけに、衝撃度は段違いだったと言ってよい。ただし南京がらみで登場する写真の多くは、悪名高いアイリス・チャンの『レオプ・オブ・南京』に掲載されている写真群と重複している。そしてその多くが南京とは無関係で、戦時中の国民政府が宣伝用に作った偽造ないし「やらせ」写真であることが、その後の調査で判明している。

<以下略>
百人斬り報道と報道被害?

東京地方裁判所 平成15年11月10日付 エミコ・クーパーさん陳述書より一部引用

本多勝一氏へ

私が本多氏の名前を耳にし、目にしたのは1972年の初めでした。
 当時まだ軍にいた夫がベトナムより帰米し、「最低3年は在日できる」と大喜びで神奈川県座間にある米軍基地に向かったときです。
 私は、日本の中で日本人同士が「百人斬り」のことで論争しているとは夢にも思わなかったから、大きな驚きと激しい痛み、悲しみに続いてどうしようもない怒りと悔しさに潰されました。
 寝耳に水と昔のことわざがありますが、そのときの私にはそんな優しいものではありませんでした。「寝ているところを野球のバットでぶん殴られた・・・」とでもいうほうが近いでしょうか。

 戦後一ヶ月もたたない一九四五年九月十日に、私(当時9歳)と4歳の妹千恵子は母を失いました。その後2年半で父を36歳の若さで失いました。
 私たち姉妹は孤児となり、人生、世の中の荒波に放り出されました。幼い妹は、年老いて病身であっても精神面ではまだしっかりしていた祖母に母代わりをしてもらい、私はまだ10台の半ばであったにもかかわらず、何とかして一人で歩かなくてはと、明日の事も見えず考えられないのにがむしゃらに、悲しみ、苦しみ、不安、おそれ、心の痛み総てを押しのけながら歩き始めました。
 それはコンパス(父母)を持たない小さな小船(私)が、荒波の太平洋に浮き沈みしているようなものでした。そういう世の中の荒波にあって、常に私の心を支えてくれたものの第一は、亡き父母達が残してくれた言葉でした。
 自らの死を悟って母は、死の4日前、「目に見えなくても、何時も一緒にいますよ」と言いました。大人になっても「そう信じていたい」と思いました。母が残した書き物には、私が生まれる前からのものもあり、母の人柄がありありと分かります。
 父の言葉は、5年生だった私に、「何も悪い事はしていないからすぐに戻れるだろう。心配するな。おばあちゃんの手助けをして、千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい。」そう言って二人の私服の刑事さんたちと汽車で東京へ向かった。それが、私が最後に父の生きている姿、顔を目にしたときのことでした。
 父の書いたものもわずかですが、父の人柄を忍ぶことができます。その一つに中国で「兵隊達に感謝する、みんなよくやってくれる」云々と、陰でノートに書き残しています。また同じ頃父は、自分の父親が亡くなったことを知り、中国人の食堂の二階をかりて、一人思いっきり泣いたとか。その後父は、中国戦地にいる弟に、どのように父の死を知らせようかと悩んでいる事も書き綴られています。父の人柄の一片一片が父の書いたもののなかから私には伝わってきます。

 一見して、本多氏および彼等が書かれた種々のものとは、無関係のようなこのようなことを書きましたのは、すくなくとも過去30年余にわたり、本多氏が数々のもので、私の父を「父」とは全く違って「大きな冷血の化け物」に想像や曲解や他の人々の書いたものと混ぜ合わせて、本多氏の勝手な想像での「大悪人」に作り上げ、世にさも真実であり、「真の父の人柄」であるかのように報道し、現在では日本だけでなく、中国始め世界の多くの人々に信じ込ませ、「レイプ・オブ・ナンキン」を書いたアイリスチャンのような人にも利用されて、アメリカのウェブサイトでは誰でも自由に見る事ができる「資料」の一つになり世の中に残り続けようとしているからです。

 私は短い間ではあっても、父を良く知っていますし、この年になっても良く覚えています。父も母もまだ30台の若さのまま、私の胸の中に生き続け、辛酸の人生を歩んできた私の支えになってくれましたし、今も見守ってくれています。
 父は数々の思い出を作り残してくれました。亡き祖父母達には一番の親孝行でしたし、2人の伯父たちにとっては、思いやりのある優しい兄でした。私には良い父でした。それだけに、父を知る者の心は痛んでやみません。
 こういう父が、何故に見も知らぬ本多氏に死後もムチ打たれ続けなくてはならないのでしょうか。そして、間違った事を信じ込まされた少女に「バカヤロー」と呼ばれ「日本の恥」と言われなくてはならないのでしょうか。父はさぞ無念で,死んでも死に切れないはずです。

<続く>
百人斬り報道と報道被害?

本当の「日本の恥」は、日本人でありながら、自らの国や同国人たちの悪口を真偽をとはず、自らの想像で海外にまで撒き散らすものたちのことでしょう。一体その理由は何なのでしょうか。また、こういうことを平気でし続ける人の人柄や良心、責任感等はどういうものなのでしょう。死者達のみで終わらず、遺族まで平気で何十年も苦しませている事は「残酷」でなくて何といえるでしょうか。

 私は、1972年の始めに日本を訪れて、「3年在日」どころか一年で帰米しました。
 本多氏に作り上げられた父の本当の姿とはまったく別人の「化け物」のために、あんなに喜んだ在日は「悪夢」に変わり、それらより逃れるため1973年早々にアメリカに戻りました。その後20年間、私は日本の土を踏みませんでした。
 その間も次々と止むことのない日本での「百人斬り」に関しての論争は、そのたびに古傷は鮮血を噴出し、私はどこに行ってよいのか、行き場のない痛み、悲しみ怒り無念さに苦しみ、現在も続いています。
 アメリカに戻ったからと言って「百人斬り」の事から逃れた訳ではありませんでした。アイリスチャンの「レイプ・オブ・ナンキン」では、本多氏や鈴木氏のことが出ており、明らかに敵味方の使い分けをしているのが分かります。これは私にとっては、刃物で心臓を刺されるような痛みを感じないではおれませんでした。

 現在ではコンピューターを通じて父たちのことが世界中に広がっていると、私の友人知人たちから知らされます。
 本多氏の「南京大虐殺13のウソ」では、「据え物きり」ですか。どこでそのようなことが行われたのでしょうか。いつどこで、父が本多氏の言うような行動が取れたのでしょうか。一人の日本兵に目撃される事もなく返り血一滴のシミもなく。全く不思議な事があるものです。
 私は父が「南京進軍中に負傷したという傷」を見ています。父が終戦後にステテコ姿のときに話してくれた事がありました。

 長い間の事を数枚の紙上で書ききれるわけではありませんが、日本を遠く離れていても、日夜今もって苦悩し、涙している者がいることを忘れないでください。
 そして、過去の「価値のない意地っ張りや面目」などを捨てて、良心に恥ずかしくないよい仕事を始めてください。
 尊い人命のことなど全く頭におかず、良心もない鵜野氏が書いたものと父や野田氏のことを混同したり、比べたりすることも止めていただきたいものです。
 鵜野氏のかかれたことが本当にあったことであり、彼の行動であったのなら、彼のような人こそ、冷血で残酷な人間であり、戦犯として処刑されるべき人でした。私は旧日本軍や南京全体のことの弁護をするわけにはいきませんし、私には出来ないことです。

 今生きていれば90歳を越した父であっても、私の心の中は、わずか35歳の最後に見た父です。懐かしく忍びながら、また時には幼い日の私に戻り、一人大声で泣いたりします。
 何年もの間、日本人の顔は見ませんし、日本語も口にするのは妹との電話くらい、日本語で文章を書く事も思うようにはかどらなくなりました。

 最後のもう一度、「どうか死者をムチ打ち続ける事をやめて、静かに安らかに眠らせてやってください」、そして、「真実」を求め、誠意をもって、「日本を愛する日本人らしい」仕事をしてください。
 昭和は遠く去っていくようです。
                          以上

<終>
百人斬り報道とBC級戦犯遺族の精神的苦痛について

所謂「百人斬り」報道に関して、一部に両少尉遺族の名誉毀損・精神的苦痛を考慮しない意見が散見されます。私は報道と人権といった観点からこうした傾向には懸念を感じます。
そこで今回は、昭和46年の朝日新聞本多報道が、両少尉の遺族に如何なる影響を与えたのか具体的に検証してみましょう。

平成15年7月7日の東京地方裁判所第1回弁論期日で、向井千恵子さんは意見陳述をされております。なお、以下ご紹介する意見陳述内容の概略については、稲田朋美著『百人斬り裁判から南京へ』(文春新書刊)65〜66頁から一部引用いたしております。

昭和46年、朝日新聞で「中国の旅」が連載された(注1)。千恵子さんは「戦犯の子」といわれながら、貧しかったがまじめに努力して公務員になり、幸せな家庭を築いていた。夫には結婚前に父が戦犯で処刑されたという話はしていたが、詳しいことは話していなかった。向井さんは朝日新聞をとっていなかったので、記事自体は読んでいなかった。ある日職場の同僚から「見たよ、あれあんたのお父さんのことだろう」と言われ、朝日新聞の記事を取り寄せて「戦う2人の少尉」という記事を読んだ。最近夫の様子がおかしい理由がわかった。その後単行本『中国の旅』が出版され(注2)、名前が本名で記載された。家に帰るとテーブルの上に『中国の旅』が置かれている。毎晩口論になり、次第に夫婦仲はうまくいかなくなった。
夫は、「戦争だって何だって人を殺すのは絶対に悪い」といい、やがて会ったこともない向井さんの両親(注3)の悪口をいうようになり、向井さんを「人殺しの娘」とまでいうようになった。
向井さんは子供と家を出た。
<以上、引用終>
(注1) 朝日新聞本多記者の取材は昭和46年(1971年)6月〜7月、新聞連載は同年8月〜12月。同時期、『朝日ジャーナル』『週刊朝日』でも同様の記事を連載。なお、新聞では両少尉は匿名で報道されていた。
(注2) 新聞報道に加筆し、昭和47年(1972年)3月、朝日新聞より単行本として出版される。同書では両少尉は実名で記述される。因みに、私が中学時代(1980年代前半)に読んだ文庫版『中国の旅』(朝日新聞社刊)も実名報道されている。
(注3) 向井千恵子さんの母親は終戦後ほどなく死去。

法的見解は別として、上記事実から勘案し、『中国の旅』報道は遺族に少なからずの精神的苦痛を与えたと解釈するほうが、蓋然性があると私は考えます。
姜根福証言の検証?

1.姜証言の時代的背景

姜根福の南京大虐殺、「百人斬り」等に関する主張に関しては、昭和46年の朝日新聞本多記者への証言 、翌昭和47年7月号『人民中国』 への寄稿文が有名です。
戦後の所謂「百人斬り競争」論争の発端でもある福根証言を考察する上で、今回、私は改めて昭和47年当時の『人民中国』を纏めて読み直し、当時の激動の東アジア情勢に思いを馳せました。嘗てロベール・ギランが「過激なる極東」という副題の著書 を出版しておりますが、1970年代初頭の極東情勢も、林彪失脚、米中接近、ベトナム戦争等、ギランの著書の形容をそのまま拝借したい程、「過激」な時代であったと思います。姜根福証言は、こうした時代的背景を無視して語ることは出来ないものと考えます。

1970年代初頭、文化大革命による国内の混乱は収束期にあったものの、国内政治では林彪失脚等、権力闘争が最も激化した時代でした。林彪グループ主導による「毛沢東天才論」、毛沢東国家主席就任要請等は、毛の個人崇拝を極限にまで高めるとともに、実質的に「権力」を毛から奪取する策動でもありましたが、この背景には文革混乱の収拾過程での権力バランスの変化、中ソ対立の先鋭化、ニクソン政権下でのベトナム撤退問題(米中接近)等が存在します。

一方、日中関係については、日本側の「権力」の交代がありました。佐藤長期政権の終焉と昭和47年の自民党総裁選に於ける田中角栄の勝利です。
親台派の佐藤政権は、当時の『人民中国』でも痛烈な批判の対象となっております。一方、田中内閣成立後の対日本政府批判は、当時の『人民中国』には皆無であり、それだけ中国側の田中内閣への期待は大きかったものと推察できます。事実、田中政権発足直後、日中国交正常化が成就しました。この事実は、日中双方は水面下、或いは民間交流や公明党のパイプ等(竹入・周会談)を通じて、政権交代時点で相当程度国交正常化の機運が両国間に存在していたものと考えます。

なお、先ほど1970代初頭が文化大革命収束期であったことについて言及いたしましたが、1972年3月号『人民中国』グラビアが面白い。特筆大で「陳毅同志の追悼会 北京で挙行 偉大な指導者毛主席が参加」とあります。中国知識人・政治指導者の多くはこうした「事件」からも、毛沢東の突然の行動によって、彼が文革の混乱を収束する為の「局面の転換」を模索していることを明確に察知したことでしょう 。

今回、私はこうした複雑な中国の政治的背景の中で、姜根福証言がどう位置付けされるべきなのか改めて考えました。姜根福証言が当時水面下で進行していた国交正常化交渉に微妙な影響を与えたのか、そこに「特別な」政治的意図があったのかは判然としません。
ただ、当時の『人民中国』等を読む限りにおいて、姜根福証言と国交正常化交渉には特別の関連性を見出せなかったというのが私の正直な感想です。従って、姜証言は「中国の南京事件に関する従来の公式見解」 と捉える方が妥当であり、純粋に当該内容を分析し、中国側の従来からの主張の意図に関して、同証言を以て検証することに意味があると私は考えます。

<続く>
姜根福証言の検証?

2.姜根福の経歴・政治的背景

秦郁彦氏は論文「いわゆる「百人斬り」事件の虚と実(2)」に於いて、姜根福が本多勝一に語った内容とほぼ同じ内容の記事を『人民中国』72年7月号に発表していることから、「半ばプロの語り部として政府当局から差し向けられたらしく」と推測しております 。この指摘等も踏まえ、先ずは姜根福証言を検証する前提として、彼の政治的経歴に若干注視する必要があると考えます。

「南京大虐殺」の目撃者且被害者である姜根福は、本多への証言当時、南京港務局の船員として、タンカー等で労働に従事しておりました。
姜根福は1951年に若干23歳で中国共産党に入党。1949年に中国共産党が政権を掌握したことを考えると、人民中国成立後、比較的早い時期に党員資格が与えられていることが判ります。
1968年、姜根福は労働者毛沢東思想宣伝隊の一員となります。この点について、『人民中国』72年7月号69頁で彼は次のように語っております。

「プロレタリア文化大革命がはじまってから、わたしは労働者毛沢東思想宣伝隊の一員として南京大学にゆき、革命的な教師・学生とともに大学での教育革命に挺身した。これは党と毛主席がわたしに与えてくれた栄誉である」

毛沢東思想宣伝隊が組織された1968年7月当時、中国国内は文革による混乱が深刻化し、各地で紅衛兵同士の「武闘」が頻発しておりました。そもそも紅衛兵運動は、毛沢東派による「奪権闘争」の手段として文革初期に組織され徹底的に利用されましたが、この当時、既に毛沢東派の指導の範疇を超えた運動へと「先鋭化」していきます。
この事は、例えば1968年7月の3中共中央、国務院、中央軍事委員会、中央文革が、交通破壊・軍用列車略奪等6カ条の厳禁を通達し、同月24日に再通達を行い、「武闘」制止を図ったことからも判ります 。また、同月28日には毛沢東が直接、紅衛兵指導者5名を呼びつけ指導を試みております 。

毛沢東思想宣伝隊は、上記紅衛兵運動の混乱を収拾することを目的とし、同年7月下旬に産業労働者、貧農・下層中農、人民解放軍で組織され、全国の教育機関、研究機関、医療機関、その他重要拠点に「進駐」します 。紅衛兵運動の収束、及びその後の紅衛兵の辺境地帯への「下放」運動に至る過程で、彼等毛沢東思想宣伝隊は重要な役割を担いました。

姜根福の党歴並びに毛沢東思想宣伝隊での活動歴は、彼が極めて毛沢東思想に忠実な、模範的党員であったことを物語っております。また、それ故に中国政府・中国共産党の対外宣伝雑誌である『人民中国』に寄稿、或いは大手外国新聞社の取材対象として、「中国政府・共産党の公式見解」を語る「プロの語り部」になり得たものと推察いたします。

一方、姜根福を取材する側の本多勝一も、半ば確信犯的に取材内容を未検証で新聞に掲載したものと考えます。本多が学生時代から毛沢東思想に傾倒していた事実は有名ですが 、彼のインドシナ報道等 からも、社会主義的歴史観・イデオロギーの信奉者・共感者であることが判ります。そうした点からも、彼の「戦争中の中国における日本軍の行動を中国側の視点から明らかにする」「日本軍の残虐行為に重点をおき、虐殺事件のあった現場を直接訪ね歩いて、生き残った被害者たちの声を直接聞きたいと考えた」 といった、ナイーブ且つ割り切った主張が、取材記者として如何に無責任であるかが判ります。

<続く>
姜根福証言の検証?

3.姜根福証言の検証

それでは、姜根福証言について具体的に検証しましょう。

『人民中国』1972年7月の姜根福証言(或いは論文)は、同紙66〜69頁に、同氏の写真入りで掲載されております。当時の時代的背景、姜根福本人の経歴等から勘案し、彼の「証言」は中共中央或いは中国政府の公式見解と見て間違いはないでしょう。『人民中国』には、前年に姜根福が朝日新聞本多記者に語った内容と概ね同様の内容が繰り返し主張されております。

『人民中国』掲載の姜根福証言(論文)の構成は、次の5つに区分出来ます。
1. 南京に襲いかかった日本侵略者
2. 罪なき住民30余万も殺される
3. わが家の場合
4. 毛主席に救われたわたし
5. 日本人民はわれわれの友

上記の内、1〜3が、主に南京大虐殺に関連する記述であります。

先ず、1.「南京に襲いかかった日本侵略者」の内容ですが、次の論旨で構成されております。
(1) 抗日戦争勃発後の1937年12月12日午後4時ごろ、南京侵入を目指す日本侵略軍は、雨花台を占領した。日本侵略軍は行く先々で中国人と見れば直ちに殺害し、家を見れば直ぐ火を点け、ものが目に入れば奪い去るという、残虐極まりない「三光政策」を実施した。
(2) 雨花台を占領した翌日、彼等は「中華門」を突破して城内に雪崩れ込んだ。彼等が簡単に城内に攻め入ることが出来たのは、売国奴蒋介石が偽の抗日、真の反共という政策をとり、手を拱いて中国の美しい山河を日本帝国主義に譲り渡したのだ。
(3) 蒋介石の高級将校達は奥方、若旦那、令嬢どもを伴い、人民から奪った金銀財宝を担ぎ、城内から城外に逃げ出した。彼等が城門から出てゆくと、直ちに外から城門に鍵をかけ、交通を遮断した。城内にいる部下が長江沿岸に押し寄せ、彼等の命綱である船を奪うのを恐れたからだ。
(4) 蒋介石の軍隊は逃げ、日本侵略軍は続々と城内へ攻め込んだ。日本侵略軍は身に寸鉄をおびない中国の人民を機関銃、ピストル、手りゅう弾、銃剣などを用いて手当たり次第殺した。餓えるシェパードも放たれた。城門へ通じる中山北路と中央路は、中国人民の血潮で染まった。

上記(1)の記述にはかなりの跨張が見られるものの、一方で南京攻略戦に参戦した日本側将兵の証言等からも判るように、少なからずの略奪、住民殺害・中国兵の不法処断等が起こったことは紛れもない事実であります。
大変興味深いのは、ここで「三光政策」に言及している点でしょう。所謂「三光政策」は、この論文が掲載された1970年代初頭の中国の歴史見解では、1941年からの華北八路軍根拠地への「燼滅作戦」を指します 。これは毛沢東論文「学習と時局 」に依拠しておりますが、この「三光政策」を1937年の南京攻略戦に適用する辺り、当時の中共中央の政治的恣意性を感じます。

<続く>
姜根福証言の検証?

上記(2)は、当時の典型的な南京攻略戦を利用した「売国奴・人民の敵 蒋介石」批判でありますが、この時代の台湾海峡は極度の緊張状態にあり、国民政府軍の大陸反攻の可能性も若干現実味があったこと等から勘案し、当時の中共中央の公式見解を「南京大虐殺」問題に絡めて主張したものと言えるでしょう。
ところで、現在の中国に於いて、蒋介石は、彼の「中華ナショナリズム」への共感等から概ね肯定的に再評価されつつあります。これに関して、昨年の朝日新聞に興味深い記事が掲載されておりましたので、以下ご紹介させて頂きます。

解く 蒋介石日記? 愛される理由
※朝日新聞2008年9月12日付記事

蒋介石の生まれ故郷・中国浙江省奉化市渓口は「蒋介石テーマパーク」だ。生家などが国の文化財に指定され、「蒋家」の名を冠したレストランや土産物屋が約1キロにわたって並ぶ。「よく勉強する子供で10歳で論語を読んだ」。ガイドの解説に、にこにこ耳を傾ける観光客。とても「人民の敵」とは思えない。
蒋介石が中国で愛される理由の一つは、生涯追求した中華ナショナリズムへの共感だろう。
日記で外国への不信感を示した。
「外国は我(中国)を恨み、侮り、壊し、嫌う。自立自強あるのみ」(48年1月26日)。毎日の日記の冒頭には必ず「雪恥(恥をそそぐ)」と書き込み、アヘン戦争以来続いた各国の侵略による屈辱を晴らす願いを込めていた。
中国での再評価も進んでいる。本屋で蒋介石ものは毛沢東ものと並んで多い。中国社会科学院の楊天石教授は「蒋介石には功罪があり、例えば軍閥の打倒は明らかに功績だ。そんな当たり前の主張も昔は学会で批判されたが、今は違う」と話す。
何より、伝統を大事にするところが中国人の好みに合う。
父親を9歳で失い、母親への思慕が強かった。母の死後は渓口郊外の山に「蒋母墓」を造営し、居宅までつくってしばらく母のそばから離れなかった。台湾で「国破れ、墓が汚れ、帰京して拝めず、子の務めを果たしていない」(51年10月15日)と嘆くあたり、親孝行を重んじる儒教社会の価値観に沿う。
蒋介石は台湾で埋葬されることを拒んだ。遺体はホルマリンで防腐処理されたまま、渓口の母の元に戻る日を待っている。(野嶋剛)<以上、引用終>

姜根福証言に限らず、中国に於ける政治的文脈で語られる歴史的公式見解には、その時間的経過によって評価が180度変わるものが少なくありません。どうやら、上記の蒋介石評価等はその典型的事例と考えて良さそうです。

上記(3)もかなりの作為的文章であり、蒋介石政権を批判し貶める為の、当時の中共中央の公的主張と考えて良いでしょう。実際には、挹江門付近で中国軍第36師が武力で退却部隊の実力阻止したのであり、その結果として、スティール記者が見たように挹江門での大量の死体の山が築かれます 。

上記(4)も「中国の人民を機関銃、ピストル、手りゅう弾、銃剣などを用いて手当たり次第殺した。」と当時の中共公式見解其のままの主張ですが、秦郁彦氏や原剛氏を始めとした研究者によって南京攻略戦、城内掃討作戦等の実証的研究は20年程前には概ね成果を上げており 、上記主張には何ら論拠が無いことが既に証明されております。

<続く>
姜根福証言の検証?

次に、2.「罪なき住民30余万も殺される」の内容ですが、次の論旨で構成されておりますのでご紹介します。
(1) 蒋介石の不抵抗政策により日本侵略軍は一挙に攻めよせ、12月14日には、長江にのぞむ2つの城門を攻め落とした。殺人狂のファシスト強盗は、長江下流に沿う下関、煤炭港、宝塔橋、草鞋峡一帯で虐殺を行い、南京北郊にある燕子磯でも、10万の住民を長江の辺に追いたて、機関銃で一人残らず殺した。
(2) 日本侵略者は射殺したり、銃剣で突き殺す他、婦人や子供を並べて機関銃で掃射し、其の後で死体を積み重ね、ガソリンをかけて焼き払うといった残虐な人殺しの手口を全て用いた。
(3) 紫金山で一度に2千人もの罪の無い人々を生き埋めにした。
(4) 日本ファシストの残虐な大虐殺は、1937年12月中旬から翌年の2月上旬まで行われた。その間に30余万の中国人が殺された。この2ヶ月間に毎日平均5千人が虐殺されたのである。この血の債務を中国人民は永遠に忘れない。
(5) とりわけ憤慨に堪えないのは、日本軍国主義者が南京で行った残虐極まりない「殺人競争」である。2名の将校が上級の命令で「殺人競争」を行うことになった。先に人殺ししたものを「勝者」にするというのだ。目標は1人あたり百人殺すのだが、上級の命令を受けて、この2人の殺人鬼は、3回にわたって45キロにわたり我が同胞を6百余名殺害した。つまり、0.5キロあたり6名の中国人を殺した訳である。この恨みは数字で表すことが出来ない。
(6) 35年前、日本帝国主義の親玉―「天皇」裕仁と大戦犯東条英機は、この様にして中国人民を虐殺して中国人民を虐殺してきたのである。彼等は中国を侵略している間、「共存共栄」「大東亜共栄圏」などと恥知らずにも鼓舞していた。「共存共栄」とは人間地獄に他ならない。
(7) だが、中国人民はあくまでも屈しなかった。たとえ素手でも敵と最後まで戦いぬく決意を固めた。
? ある労働者は日本侵略者の暴行にあくまで反抗したため、日本侵略者から身体中硝酸をぶっかけられ、大通りを走れと強要された。だが、この労働者は絶対にその命令に服さず、「強盗!ファシスト!」と大声で痛罵し、「日本帝国主義を打倒しよう!」と叫んだ。
? 運転手の梁志成も日本侵略者の武器を運ぶのを拒み、素手で敵と渡り合い、雄々しい最期を遂げた。
? 一家皆殺しにされたある婦人は、爆薬を抱えて列車に突っ込み、日本侵略者数百名を死傷させた。
? この頃には、こうした例が非常に多くあった。
(8) 35年たった。佐藤らは(注:首相)今も中国侵略の古い夢をもう一度見ようとしている。今は「共通理念に結ばれた日米両国による秩序の創造という太平洋新時代」である、などと佐藤は出鱈目を言っている。この新しい看板のもとに、日本人民の激しい反対にも顧みず軍備拡張・戦争準備の為の第4次「防衛」計画を推し進め、「自衛隊」の拡充に努めつつある。佐藤らがしていることと、旧い軍国主義者がやったこととをあわせて考えると、次の事がはっきり分かる。これは「大東亜共栄圏」の焼き直しでなくて何か。これは露骨な軍国主義復活を示すものに他ならない。

<続く>
姜根福証言の検証?

上記(1)の記述の内、「草鞋峡一帯で虐殺を行い、南京北郊にある燕子磯でも、10万の住民を長江の辺に追いたて、機関銃で一人残らず殺した。」の部分は、南京軍事裁判の代表的論拠の1つである魯甦証言に基づく主張であります。魯甦は、兵士と難民(男女老幼)57,418名が日本軍によって捕えられ幕府山付近の4,5か所の村に閉じ込められ、12月16日夜、草鞋峡に連行されて機銃、銃剣で虐殺されるのを、上元門の大茅洞に隠れて「目撃」したと証言しております 。(この「目撃」の真偽は極めて疑わしいのですが、)魯甦が「目撃」したとされる12月16日夜の草鞋峡での殺害は、山田支隊歩兵第65連隊が当時幕府山で捕らえた中国兵捕虜の内、約半数を魚雷営で殺害した事件に相当します。翌17日、歩兵第65連隊は残りの捕虜を幕府山北側で殺害した模様 。
この65連隊による捕虜殺害に関しては、現在も様々な議論がありますが、当時の上級指揮官や下級兵士等の証言から、「捕虜の処断」に関しては概ね「事実」であると考えられます。なお、被処断数は数千人(4〜8千人程度)から2万人以上の間で現在も議論が続いております 。
何れにしても魯甦の主張する57,418人の兵士・難民虐殺には具体的根拠はありません。また、夜間の洞に潜んで遠方で行われた虐殺行為を詳細に目撃し、被虐殺数を「57,418人」と具体的に特定することが不可能であることは、通常の論理的思考能力を持つ者であれば容易に理解可能です。以上の事から、当該発言は何ら実証性や合理性に担保されたものでないといえるでしょう。

上記(2)の「婦人や子供を並べて機関銃で掃射し」についても具体的論拠は存在しません。但し、捕虜とした中国軍将兵に対する不法処断の方法として、斯様な行為を行ったことは概ね事実です。
1970年代当時の中国の南京大虐殺に関する公式見解は、日本軍による「兵士・一般住民への無差別殺戮行為」であり、当該記述は、非戦闘員を無慈悲に大量殺戮した印象を強める為のプロパガンダと理解するべきでしょう。

上記(3)についても具体的論拠は存在せず、「約2,000名生き埋め」といった「無慈悲」な大量殺戮の印象を強める為のプロパガンダであります。

<続く>
姜根福証言の検証?

上記(4)の「30万人説」は現在も中国政府・共産党の公式見解でありますが、この中国側主要論拠の魯甦証言は前記(1)から信憑性が無く破綻しております。
また、もう一つの主要論拠である膨大な埋葬記録(紅卍字会・崇善堂)についても従前からその被現実性・非合理性等が指摘されており、且、死体埋葬数に戦闘で戦死した将兵、中国軍に殺害された将兵・市民、病死した市民、戦闘に巻き込まれて死亡した市民が含まれていることを一切考慮していないこと等から勘案し、「30万人説」を担保するものでは無いことが指摘可能です。
なお、最近の中国側研究は埋葬記録の見直しに着手しつつあります。著名な研究者である孫宅巍先生は、近年発表の論稿で次の様に述べておりますが、学者として誠実な発言と言えるでしょう。また、中国内の言論の自由が過去と比較し随分緩和されたとも言えます。南京事件研究が、従来の「政治的宣伝」から脱却し、中国国内に於いてより実証性を重視する諸端となることを期待したいと思います。

笠原十九司著『「百人斬り競争」と南京事件』(大月書店刊)P256〜257より一部引用

 埋葬資料については、埋葬団体が埋葬統計数に関するこれまでの議論について、根本からやり直しが必要であることを明らかにした、孫宅巍編『南京大屠殺史料集 第5巻 遇難者的死体掩埋』(江蘇人民出版社、鳳凰出版社、2005年)が出版された。同史料集には、これまで知られてきた慈善団体の世界卍字会、崇善堂、中国紅十字会の他の慈善団体の埋葬資料、安全区国際委員会、日本軍占領下の傀儡市南京政府による埋葬、日本軍部隊の処理、埋葬、さらに民間個人による埋葬と、種々の埋葬史料が収録されている。
 先の判決(注:谷寿夫裁判判決)の根拠となった崇善堂が埋葬した11万2,267体について、崇善堂記録では4月が10万4,718体となっているが、同史料に収録された「南京市慈善団体調査表」には崇善堂の埋葬活動は38年1月23日から始まり3月29日に停止と記録されている(同史料集、145P)。他の史料で確認する必要があるが、そうだとすれば、4月の10万4,718体の処理数には疑問が生ずることになる。
 同史料を編集した孫宅巍は、埋葬史料の統計には、大小さまざまな慈善団体間で同一地域における重複が見られるので、判決文に見られるような単純な加算は不可であると指摘している。一方では、これまで知られなかった埋葬団体による1万3,700体の埋葬という数字も紹介されている 。
 注記論文で孫宅巍は「新しい埋葬史料の一部は、従来の資料内容とそれに基づいた認識[30万人虐殺説を意味する]に衝撃と挑戦を確実に与えるものである。・・・・・挑戦の結果、これまでの認識を維持するか、あるいはこれまでの認識を覆すことになるか、いずれにせよ、歴史の真実に向かって前進させる一歩である」と結んでいる。これまで、中国における南京大虐殺研究の第一人者として「30万人虐殺説」を主張してきた氏の、学者として勇気のある誠実な発言である。<以下、省略>

<続く>
姜根福証言の検証?

上記(5)は所謂「百人斬り競争」に関する主張であり、拙著論稿の主題でもあります。内容は前年本多記者に語った内容と同じですが、やや具体的に「上級の命令を受けて、この2人の殺人鬼は、3回にわたって45キロにわたり我が同胞を6百余名殺害した。つまり、0.5キロあたり6名の中国人を殺した訳である。」と残虐性を強調した内容となっていることに特徴があります。
上官命令に関しては完全なフィクションであり、中国側の政治的意図が垣間見えますが、既にここまで読んで頂いた方には、姜根福証言自体が「政治的宣伝」であることを充分認識して頂いているものと考えます。
姜根福の所謂「百人斬り」の主張には具体的論拠の明示はありませんが、概ね南京軍事法廷判決に依拠したものでしょう。然しながら、南京軍事法廷に於ける当該公判には当時から多くの問題点が指摘されております。例えば、2少尉の法廷弁護を担当した培均律師(弁護人)の反証意見は下記の通りです。

<崔培均律師(弁護人)の弁護論要旨 >
?新聞記事を証拠となしえないことは中国最高法院の判例がある。米軍も不問に付した。
?犯罪事実は積極証拠によって認定すべきことは中国の刑事訴訟法に規定がある。
?被告等が殺人競争をなしたことを証明する直接間接の積極的証拠(目撃証言等)はない。
?百人斬りは殺人競争を形容したもので、住民、捕虜等への行為ではない。
?判決が被告の関知しない南京大屠殺の共犯と認定したのは不当。
?百人斬りの新聞記事は、被告らとは全く別個に新聞記者が創作起稿したもの。被告の冗談を自白と認定しても自白は事実と符号せず、刑事訴訟法に違反する。

現在、上記弁護論の内、?について信憑性は別として望月証言があり 、?については両少尉が積極的に新聞記事報道に関与(協力)していたことは明白であります。また、秦郁彦氏の調査によって彼らが捕虜を斬殺した状況証拠も存在します 。

当該裁判について補足しますと、南京法廷では当該事実関係、並びに崔弁護人の主張は、法的厳密さでもって検証される事無く、猛烈なスピード裁判(両少尉の場合、1947年10月12日南京着、同年11月4日起訴、同年11月6日審理開始、同年12月18日死刑判決)で2少尉は処刑に至っております。
当該裁判の問題点の一つは、正当な手続によって保護を受ける請願人の法的権利を無視する軍事的必要性等が無かったにも関わらず、適正を欠く起訴状に基づいてスピード裁判が実施された点を挙げることが出来ます。確かに国共内戦等の国内事情はあったとは言え、それが当該裁判の不備を担保するものではありません。
また、弁護人等に本来与えられるべき調査並びに準備時間についても、上記裁判日程では著しく制限されたことが容易に推察可能です。中国側はこの点で後世に禍根を残したと考えますが、南京法廷開廷当時でさえ、例えばカーペンターGHQ法務部長は「中国側の公正な裁判実施への懸念」を抱いていたと云われております 。
裁判の二点目の問題点は、戦時国際法に基づく裁判として、中国側が挙証責任を放棄し、死刑判決を下した点にあります。
ハーグ陸戦法規違反行為の認知は、告発や新聞報道等によって存在しますが、戦時国際法に於ける不法行為の挙証責任は中国側にあり、中国側はこの責任を放棄した点は否定できません。従って、戦時国際法成立要件を満たす事無く、死刑が執行されたことは誠に遺憾であったと考えます。
因みに、中国側は現在に至るもその歴史見解(公式見解)を南京法廷等に依拠しておりますが 、説得性を有しない原因は上記の点にあります。近年、劉傑先生を始め若手中国研究者から、従来の歴史認識(東京裁判・南京法廷)からの「脱却」が主張されつつありますが、中国側研究者から見ても、当該裁判内容が歴史学的に見て問題を有するとの認識を抱いているものと理解可能です。
何れにしても、近年の秦郁彦先生等による研究成果、読売新聞社説等 から、所謂「百人斬り競争」の信憑性には一般的に疑念があることが周知され、一方で当該「競争」の「真実性」を主張する少数の研究者が具体的・合理的な論証を未だ為し得ない「事実」は注目に値します。本多側が後年、「据え物斬り」の概念 を導入したことは、当該論争遂行に効果的であったとは認めますが、学術的観点から当初の中国側主張を担保するものでは当然なく、あくまで「想像の世界」での議論に終始していると云えるでしょう。

<続く>
姜根福証言の検証<最終回>

上記(6)の「35年前、日本帝国主義の親玉―「天皇」裕仁と大戦犯東条英機は、この様にして中国人民を虐殺して中国人民を虐殺してきたのである。」も当時の中国政府の政治的宣伝と云えるでしょう。南京事件当時、東條は近衛内閣の閣僚でも無く、南京攻略戦にも関与しておりません。昭和天皇に対する批判は統帥権の観点から、確かに論理的整合性があります。注目すべきは、現在の中国共産党・政府は公式見解として、天皇の戦争責任と中国侵略(南京大虐殺等)との関連性を認めていない点でしょうか。国交正常化後の日本との友誼を重視し、政治的主張を180度転回させる辺り、中国外交の強かさが垣間見えます。

上記(7)は検証不可能ですが、辛亥革命以降のナショナリズムの高揚を背景とし、我が国の露骨な侵略に対して多くの中国人民が英雄的な抵抗を行ったことは容易に推察可能です。自己犠牲を伴った、これらの戦いで無くなられた名も無き方々に思いを馳せ、追悼することは我々の責務であり、そうしたことが、将来の更なる日中親善に繋がっていくものと考えます。

最後に、上記(8)は佐藤政権に於ける防衛計画「4次防」に対する、「大東亜共栄圏の復活」のイメージを絡めた中国側の政治的宣伝でしょう。米中、日中の国交が正常化され、中国が国際社会に復帰して以降、中国の当面の安全保障上の敵が所謂「ソビエト帝国主義」となってからは、逆に中国は我が国に対して自衛隊戦力の強化(軍事力強化)、反覇権主義を強力に求めます。大変柔軟?な対外政策ではありますが、こうした国際情勢の変化如何で、中国がいつでも政治的主張を180度転換させるかの良い「見本」と云えるのではないでしょうか。

4.終わりに

姜根福証言の南京事件に関する記述に関しては、3.「わが家の場合」でその個人的体験を語っております。これに関しては、是非本多勝一著『中国の旅』を直接お読み頂きたい。
姜根福証言は政治的宣伝であり、彼が当時の当局公認の「プロの語り部」であることは間違いありませんが、一方で、その個人的体験については、その真実性を担保する上で、中国当局が数多の「南京大虐殺体験者」の中から厳密に対象となる人物を選別したものと私は考えます。本来であれば、こうした個人的証言については、その真実性を見極める為に、丹念なテキストクリティークの作業が必要となりましょう。然しながら当該証言から既に37年以上が経過し、中国側も、現在では姜根福証言の政治的利用はしておりません。また、検証に必要な資料も皆無といって良いでしょう。
ここで姜根福の個人的経験の矛盾点等を論うことは、私は自重するべきであると個人的には考えます。彼は南京事件の被害者である蓋然性が高く、従って根拠薄弱な論理構成で彼の個人的体験を評論すべきではないでしょう。故鈴木明が自著冒頭で姜根福が被害者であることを強調し、その個人的体験への批判的言及を避けたのも 、私と同様の理由からであると考えます。
南京攻略戦の状況下に於いて、姜根福の悲痛な経験は珍しくなかったでしょう。そして、この責任の多くは、我が国の誤った政策・軍事戦略、軍紀の崩壊に起因しているもの思料いたします。

以上、姜根福証言について考察いたしましたが、所謂「百人斬り競争」論争の発端の背景にある当時の中共の思惑、宣伝工作と、それを以心伝心で「紹介した」本多記者に対する批判の論拠は以上の通りです。

最後になりますが、私は所謂「百人斬り競争」報道で報道被害に遭われた両少尉ご遺族のご心痛に心から同情する者です。人間とは如何に冷酷無比となり、無意識に他者を打ちのめすことが可能なのか、暗澹たる気持ちで筆をとった次第です。姜根福証言の背景について、一人でも多くの方が理解を深めて頂ければ幸いです。

<終>
姜根福証言の検証<補足>

参考文献

本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社刊)文庫本 225〜234頁
出版社:人民中国雑誌社(中華人民共和国北京阜成門外百万荘)
ロベール・ギラン著『アジア特電』
李志綏著『毛沢東の私生活(下巻)』319〜322頁、高文謙著『周恩来秘録(下巻)』80〜85頁
秦郁彦著『南京事件』増補版(中公新書刊)269頁
日本大学法学会『政経研究第42巻第4号』 秦論文83頁
矢吹晋著『文化大革命』(講談社現代新書刊)236頁
李志綏著『毛沢東の私生活』下巻(文芸春秋刊)268頁、矢吹晋著『文化大革命』(講談社現代新書刊)116頁
安藤彦太郎編『現代中国語事典』(講談社現代新書刊)408〜409頁
本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社刊)文庫本あとがき 302頁
本多勝一著『戦場の村』(朝日新聞社刊)等、インドシナ紛争関連ルポ
本多勝一著『中国の旅』(朝日新聞社刊)文庫本 10頁
安藤彦太郎編『現代中国語事典』(講談社現代新書刊)143頁
毛沢東『学習と時局』「打撃の重点を国民党から共産党に移す方針を一層協力に推し進め、共産党の指導する全ての根拠地の周辺に一層集中して、連続的な「掃蕩」戦と残忍な「三光」政策をすすめ」
笠原十九司著『南京事件』(岩波新書刊)133〜136頁、板倉由明著『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会)174〜175頁
秦郁彦著『南京事件』増補版(中公新書刊)、財団法人偕行社刊『南京戦史』『同資料集』
洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集』(青木書店刊)第1巻141頁
軍事史学会編『日中戦争再論』(錦正社刊)原剛論文148〜149頁、阿部輝郎著『南京の氷雨』(教育書籍刊)、小野賢治・藤原彰・本多勝一編『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』(大月書店刊)
秦郁彦著『南京事件』増補版(中公新書刊)315〜316頁、南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房刊)140〜156頁、板倉由明著『本当はこうだった南京事件』(日本図書刊行会)130〜146頁、防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 支那事変陸軍作戦(1)』(朝雲新聞社刊)436〜438頁
孫宅巍「新発現南京大屠殺埋屍資料的重要価値」(江蘇省中国近現代史学会・南京民間抗日戦争史料陳列館編『南京大屠殺研究新論』2007年)
日本大学法学会『政経研究第42巻第4号』 秦論文79〜80頁
望月五三郎著『私の支那事変』(私家版、1985年)靖国偕行文庫所蔵
日本大学法学会『政経研究第42巻第1号』『政経研究第42巻第4号』秦論文
鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』(飛鳥新社刊)322頁
劉傑著『中国人の歴史観』(文春新書刊)
読売新聞2007年5月6日付社説「南京事件70周年 事実に基づいた議論が必要だ」
南京事件調査研究会編『南京大虐殺否定論13のウソ』(柏書房刊)100〜116頁
鈴木明著『「南京大虐殺」のまぼろし』(文芸春秋刊)

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