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昭和プロレス研究室ミクシィ分室コミュのちょっとコーヒーブレイク

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宮城県で発行されている「河北新報」2009年3月23日(月)号8面に、プロレスの記事が大きく取り上げられていたので報告いたします。話題的には平成なのでしょうが、昭和テイストのある記事だと思いましてトピ立てしました。コミュの意に沿わなければ削除願います。以下、長文になりますがお許しください。

力道山、馬場、猪木・・・昭和の、高度成長期の鏡像
『プロレスは時代に負けた』

55年間続いてきた日本テレビのプロレス中継(地上波)が今月、幕を閉じる。最大の理由はプロレス人気の低迷だ。いまもプロレス黎明(れいめい)期の記録映像といえば、力道山の勇姿が定番。その後も人々はジャイアント馬場やアントニオ猪木の活躍に酔った。大衆文化であるプロレスは社会の鏡像でもある。そのたそがれは何を意味しているのか。再生の道はどこに―


『日テレ地上波中継 55年で幕』
『レスラーと素人 近づく距離感』
『消えた「夢」や「物語」』

視聴率 実に64%
 横浜市都筑区の閑静な住宅街。元工場だった道場のリング上では「バシッ」と筋肉がたたきつけられる音が響いている。
 大日本プロレス。小さくても過激さが売りの団体だ。ここの社長であるグレート小鹿(本名・小鹿信也)さん(66)は道場で「まるで枝が一本ずつ切り取られて枯れていくよう。心底寂しい」と日本テレビのプロレス中継終了について話した。
 小鹿さん自身、かつて日本テレビが放送中の団体「プロレスリング・NOAH(ノア)」の前身である全日本プロレスの選手だった。北海道函館市近郊に生まれ、1962年に大相撲からプロレス界入り。悪役として一世を風靡(ふうび)した。力道山の晩年の弟子でもある。

 その入門の年に放映された力道山対デストロイヤー戦の視聴率はなんと64%(ビデオリサーチ関東地区調べ)。「外国人を力道山先生がバッタバッタとなぎ倒す。箸(はし)を持ったままのじいちゃん、ばあちゃんのひざがテレビの方へズズッと進んでいく。戦争で米国に負けた日本人のうっぷんをプロレスが晴らしてくれた」
 新弟子時代のある日、試合会場で着物姿の美女から力道山へと花束を託された。「先生は雲の上の存在。花束を楽屋に渡しに行くのすら怖くて。先生にじろりと見られただけで震え上がった」

「おいらは特別」
 そんなプロレス人気の絶頂期と低迷する現在のどこが違うのだろうか。小鹿さんは選手と一般人との距離を指摘した。
 「当時はレスラーらしい格好をしろと先輩に言われ、派手なアロハシャツと背広で冬でも我慢。その辺を歩くと『ああレスラーだ』って言われたよ。おいらは特別なんだっていう意識があった」
 しかし現在は違う。
 「歌手でも何でも選ばれた特別な人間じゃなく、素人でもなれるっていう意識に変わってきた。着替えたら、人込みにまぎれちゃうような」。プロと素人の曖昧(あいまい)さはあこがれを薄めた。
特別な人間たちが描く物語。小鹿さんは「お客さんを喜ばしてこそプロだ」と信じる。「プロは必ず物語をつくる。その懸命な姿に共感し、観客は沸いた。そこが勝ち負けだけのアマチュアには無い点」と語る。高度経済成長のような“夢”を描けた時代にプロレスの物語が栄えたとすれば、夢のない時代に物語は消えてゆくしかないのか。
 小鹿さんも模索している。女子プロレスやデスマッチも入った「バイキング形式」(小鹿さん)に挑み、経営面でも慢性的な赤字対策に料理店や運送会社を営んだ。
 最近は演歌CDを発売した。普段なじみの薄い人たちにプロレスを知ってほしい一心からだ。



『両者リングアウトや反則負け』
『観客「曖昧さ」許さず』

有料CS放送に
 日本テレビがプロレス中継を始めたのは1954年。初回のシャープ兄弟対力道山・木村政彦戦の視聴者は約二百万人とも言われている。
しかし90年から放送は深夜枠に移動。日テレでは現在、日曜25時(月曜午前1時)55分から「ノア」の試合を放送しているが、4月以降は地上波ではなく有料のCSでの放送となる。
 日テレの久保伸太郎社長(当時)は先月23日の記者会見で「時代の変遷とともにプロレス放送の視聴率は極端に落ち込み、放送時間も深夜に移った。こうした状況を総合的に判断した」と地上波撤退の理由を説明した。
 大衆のプロレス離れは如実だが、一方でコアなファンは残っているようだ。プロレス専門誌の元編集長で現在、テレビ朝日系の解説者を務める金沢克彦さんは「ここ15年近く深夜の放送となったため子どものファンが育たず、会場に来る子どもの姿はめっきり減った。ただ、若い女性客は増えている」と明かす。
 さらに「全国には約70の団体があり、プロレスラーを自称する人も500人以上いる。不思議なことだが、バブル崩壊後はプロレス会場の観客の入りはずっといい状態が続いている」という。
 テレビ放送終了の事情については「不景気でスポンサーが広告を出さなくなった。プロ野球のジャイアンツ中継さえ減らされる中、プロレスを残す理由もなかったのではないか」と推し量る。

社会的に不適合
 では、大衆文化としてのプロレスの衰退の要因はどの辺にあるのか。
 「小学生のころ、午後8時から始まるプロレス中継をつられて見るうちにファンになった」というドキュメンタリー作家の森達也さんは「プロレスを単純に勧善懲悪ととらえる人は本当のプロレスファンではない」とその“哲学”を開陳する。
 「プロレスの試合はレスラー同士の合意の上で成り立っている。人間だからそれが破綻(はたん)することはあっても、虚と実の間を楽しむのが本当のファンで、気持ちに余裕がないと成り立たない」
 そのうえで、社会の変転にプロレスが適合しなくなったと分析する。「昔は両者リングアウトや反則負けは当たり前。視聴者もそれで満足していた。今は市場原理主義の影響からか、白黒をはっきりさせなくては満足せず、曖昧さを許さない時代になっている」
 それはプロレスに近い演劇の世界にも共通しているという。「ある劇作家が芝居でも『どっちが悪役なのかはっきりして』『複雑でわからない』といった観客の声が多くなったと言っていた」

団体乱立 整理を
 半世紀以上にわたるテレビ放送の中止という難局。それを乗り越え、再びプロレスが輝きを取り戻すことはあるのか。
 森さんは「カリスマ性のあるレスラーが出てこない限りは難しい。東京ドームのような場所より、地方の薄暗い体育館で続けてほしい。それが本来のプロレスの姿なのかもしれない」と話す。
 金沢さんはプロレス団体側の改革を提唱する。
 「人気の分散を避けるため団体の乱立を整理する必要はある。コミッショナーやライセンス制度を確立し、最低でも各団体の興行日程を調整するなどの措置が必要だろう」
 低迷ばかりが語られがちだが、それでも一線のレスラーの意気は高い。大日本プロレスで最若手の河上隆一選手(20)は日テレの放送終了に重ねつつ、こう断言した。「プロレスはロマンっす。やられても立ち上がる姿が熱いんです」


『日本のプロレス略史』
1953 元大相撲の力道山が日本プロレスを設立
1963 力道山が暴漢に襲われ、その傷から死亡
1972 アントニオ猪木が新日本プロレス、ジャイアント馬場が全日本プロレスを相次いで設立
1976 猪木とモハメッド・アリの異種格闘技戦
1984 旧UWF設立、この後、90年代を通じ、小規模団体が分裂、乱立
1999 ジャイアント馬場死去。翌年、プロレスリング・ノアを設立
2009 日本テレビがノアの地上波放送を終了

写真左:空手チョップでブラッシー(左)を攻める力道山=1962年4月撮影
写真右上:「お客さんを喜ばしてこそプロ」と語る大日本プロレスのグレート小鹿社長
写真右下:激しいトレーニングを繰り返す大日本プロレスの選手たち=横浜市

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