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韓国ニューライト関連記事を読むコミュの(6)南北分断の原因と責任

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原文:http://www.newright.or.kr/read.php?cataId=nr03007&num=1722

<解放前後史の再認識>特講(6)
国内市民社会の未成熟と米ソ間冷戦体制

 以前にご紹介しましたが、連合軍によって日帝から解放されたせいで、我々が望んでいた方針での国家の建設に支障になったとの教科書の記述は、どのように受け入れたらいいでしょうか。結論から申し上げると、これは論理的や実証的にとんでもない話です。こんな無茶苦茶な話が教科書に載って、育って行く世代に伝承されていることは、誠に情けないことです。いまからこのことについて詳しく考えて行きましょう。

 この話が成立に、解放前我々が全て合意した建国(state building)のマスタープランが準備されていたとういう前提条件が充足している必要があります。残念なことに、この前提条件は充足していませんでした。上の話は論理的前提条件から不成立です。前の講議で指摘していた通り大部分の人達にとって、キリスト教で人々の前にイエスが再臨した日のように、ある日突然やってきました。

 解放直後の状況がどうだったのか、蔡萬植の『歴路』という小説が面白かったのでご紹介します。解放されて何ヶ月後に、蔡萬植はソウル駅で汽車の切符を買うのに3時間も立って待っていました。この長い行列で彼はある友達に会います。この友達は長い行列をせせら笑うように窓口の前まで行ってヤミ切符を買います。ある中学生が窓口の職員におつりを踏み倒され、「まったく、人心がかえって前より悪くなった。心配だ。」とその中学生はこぼします。

 混雑した列車の中でかろうじて席に座れた彼の周りでは、熱っぽく政治討論が繰り広げられていました。「老けた農民」は李承晩を、「ジャンパー青年」は呂運亨を支持しています。ある「田舎紳士」はアメリカ式民主主義を称賛します。熱い討論は天安駅で中断します。ガラス窓を破り米の入ったふろしき包みを押込みながら必死に人が這い上がってきます。あちこちで怒鳴り声と共に喧嘩がはじまります。釜山から天安まで米を買いに来ている人は、計算高い農民が日本に米を密輸出していると糾弾します。蔡萬植の目に映った世の中は混乱して、先が見えませんでした。「国民がまだ未熟で考えが浅いのか?それともただぼけててああなのか?」

 私は彼の小説で解放当時のありのままの姿を発見できます。「解放前後史の再認識」2巻に載っている全相仁の「解放空間の社会史」がこのような我々の姿を生々しく伝えています。ここでは誇張した政治思想や政治闘争ではなく、一般人だからといって無気力にその時代に置かれていた話では決してありません。かえってかれらはそれなりにその時代の主体として、その時代を熾烈にくぐり抜け積極的に生き残りました。彼等の日常生活を規定したのは民族とか階級とかのおおげさな政治的な談論ではなく、一族や村すなわち彼等の伝統的社会的ネットワークでした。

 解放直後は意外に平穏でした。日本人に対し暴力的な攻撃はありませんでした。日章旗が下ろされ星条旗が再び掛けられました。そんななか社会は乱れ始めました。戦争を通じて抑えられていたあらゆる消費欲求が噴出し始めました。旺盛な米消費が代表的な現象でした。「米が解放だ。」「米が民族だ。」それから愛国歌、太極旗、3・1節などの新しい民族の象徴が考案され広く消費されました。また数多くの海外同胞達が帰ってきました。日本から合計70万人余りの人口が戻ってきました。アメリカ的消費風潮、英字新聞、キリスト教、靴磨き少年、アメリカ軍服などはアメリカの時代の到来を表す指標でした。

 しかし米が日本への密輸出され始めました。解放の象徴の米が足りなくなり始めました。あちこちで買い占め・売り惜しみなど米との戦争が起こりました。アメリカ軍政は予想もしてなかった事態に驚き、日帝が施行した配給制度をしばらくの間復旧させました。そうするとアメリカ軍政が日政よりダメだと無責任な不平不満が出始めました。一族と村とは別の市民社会と言えるような自律的結社体は、とても不足していました。このように前提条件が欠如しているなか、自由民主義はとにかく見込みがないようにみえました。

 重複しますが、人々は一族や村のような伝統的な同盟に慣れていました。会社、組合、学校、教会、その他友愛団体など、市民社会の成立と言える個人と国家の中間団体がほとんど存在してませんでした。国家は強大で個人は貧弱でした。個人と国家の間はぽっかり開いてました。19世紀後半のフランスの社会学者デュルケームが環形動物で描写しような中がぽっかり開いた単純組織、こんな状態と同じだったと私は考えています。日帝が引き上げた後どうしてこういった状態が構成されたのか、今後多くの研究が必要な課題です。とにかく社会を統合していた唯一の自律的秩序は官僚制でした。

 こういったなか、人々は無作為に左と右に政治的に動員され分裂しました。左側に動員された人達は階級を大事だと考えました。彼等みんなが公平に豊かに暮らせるという社会主義の迷妄を追求しました。反面右側に動員された人達は民族とか理念に引かれました。こうして左と右に分かれた人達はほとんど馴染みのない階級とか民族とかいう政治の原理に引かれ、わけが分からないまま対立し分裂しました。

 私が訪問した忠清道のある村では、度外れに地主の一族が左を支持していました。そうすると支配されていた村の人々は、右を支持しました。慶尚道のある村に行ってみると、そこでは柳氏の集団と全氏の集団が対立してましたが、柳氏が左に行くと全氏が右に行きました。名実が伴う民族意識とそれに相応する政治的団結が成立していたら、ほんとうにそんなことが可能でしょうか。相違する見解と利害関係を自律的に調整することができる社会が充分に成立していたら、どうして外から入って来た階級やら民族とかいう政治的概念で、人間をこのように対立し分裂させることができるのでしょうか。要するに我々の力ではなく連合軍によって解放されたことによって、われわれが望んだ方針の国家の成立の支障になったと言うほどの前提条件はありませんでした。

 もっとも基本的な村落社会がこうだったため中央の政治も同様だったと簡単に想像できるでしょう。お互い違う思想と理念を持っている政治家達が会って、率直にお互い少しづつ譲り合いながら分断だけは避けないといけないと確約したことはありません。ソウルのアメリカの軍政がその発案したことがありましたが、ソウルでさえも政治指導者が1ケ所に集まったことがないうえ、それが理由で平壌の政治家達がソウルに来たという噂さえもありませんでした。このような分断を招いた歴史的条件は、一次的には内的なことでした。

 しかし話はそれでは終わりません。解放政局を規定した外的な国際条件も注意して見る必要があります。占領軍として朝鮮半島の南と北に進駐したアメリカとソ連が、協力する余地は最初から少なかったです。初めの1年間は二つの強大国の間に妥協の余地があるように思われましたが、1946年9月から全ての事が明確でした。いわば冷戦が開始されたということです。米ソ間の冷戦こそ朝鮮半島を真っ二つにした一番重要な力でした。この二つの強大国を制御することができなかったという点から分断は、当時の朝鮮半島の住民集団には運命と同様にどうやっても拒否することのできない選択でした。

 そうしたなか南側と北側では、占領軍によって選択され支援された政治勢力がありました。南側では日帝下での近代文明を学習した下級官僚とテクノクラート型知識人、中小工産業が中心勢力になりました。反面北側では社会主義革命を志向する社会主義者が中心勢力になりました。どちらにせよ支配的政治勢力が、占領軍によって選択され支援された点で南北間で少しの違いもありませんでした。

 よく分断の責任を1946年6月3日、後の初代大統領になる李承晩が、全羅北道ジョンオプでの宣言だったといいますがこれは間違いです。モスクワの機密文章によるとスターリンはすでに1945年9月20日、北側でソ連の利害関係に適合した独自の政府を建てる意向を、北に進駐するソ連軍司令官に明確に伝達しました。この点を『解放前後史の再認識』2巻に載っているイ・ジョンシクの「冷戦の展開過程と朝鮮半島膠着化」で学ぶことができます。

 イ・ジョンシク教授の主張は次のように要約されます。最初に1945年9月の初めまでスターリンの朝鮮半島の政策は流動的で、アメリカとソ連は朝鮮半島問題について妥協する余地がありました。2番目、この妥協の可能性は9月12日から10月2日までロンドンで開かれた戦勝国(アメリカ、イギリス、フランス、中国、ソ連)の外相会議で米英とソ連の間で、戦後処理を巡って衝突が露骨化し消滅してしまいました。3番目、9月20日スターリンの秘密司令にしたがいソ連軍政は、北側に独自的な行政機構を構築する作業に取りかかりました。4番目、この後スターリンの朝鮮半島政策は日本と中国の状況に従って変化しますが、これが朝鮮戦争を挑発するようになる中国の共産化が大きく作用したということです。

 広く知られている通り、北側にはすでに1946年からソ連軍とその協力者が、北側を完璧に掌握するために土地計画を実施するなど、事実上独自の政府に準ずる統治行為を展開しました。これに比べると、南側のアメリカ軍政はその協力者を選択しますが、ためらってもいます。。アメリカ軍政に加わったアメリカの進歩的自由主義者達は、現実離れした考えですべての可能性を開いていました。よく知られてるように、彼等は左右合作に未練を捨てきれずにいました。

 労働運動と関連しても似たことがいえます。これと関連しては『解放前後史の再認識』2巻に載っている朴枝香の「韓国の労働運動とアメリカ」という論文がよい参考になります。この論文によると、アメリカ軍政に加わったアメリカ国務部の自由主義者達は中道左派は勿論、穏健で合法的な労組運動を展開しているある共産党系列の全国労働者評議会(全評)さえも取り込むする準備をしていたといいます。

 多くの人はアメリカ軍政が韓国の労働運動を無条件に弾圧したといいますが、実際にはそうではありませんでした。アメリカ軍政の自由主義者達と労働問題の専門家達は、民主的かつ自主的労働組合という概念を信頼していました。彼等は韓国の労働運動から政治勢力を分離し、労働組合を労働者の真の代表機関として作ろうとしましたが、全評が冒険的な極左路線で不法的なわがままを敢行することによって結局失敗せざるをえませんでした。朴枝香教授は次のような結論をしました。万一全評が政治優先主義をはなれ、穏健左派の労働組織として経済闘争を追求したら、アメリカ軍政としてはこれを弾圧するのに適切な口実を探すことは困難だっただろうということです。

 アメリカ軍政が追求した呂運亨と金奎植を指導者とする左右合作についても同様な解釈をつけることができます。やがて1947年アメリカでトルーマン宣言が出るなど、冷戦が事実上の熱戦の熱を帯びながらすべての現実離れした試みの可能性は封鎖されてしまいました。アメリカはみにくいアヒルの子のような李承晩を協力者として選ぶほかありませんでした。アメリカは最後まで、ためらい躊躇しました。この点で初めから断固として金日成を自分の代理人として選んだソ連のスターリンとは、全く違っていたと言えるでしょう。

 北では革命の旗が騒がしくはためいているなか、別の理念や政治勢力が存続する可能性は始めから閉ざされてました。金日成総合大学が建てられたのがいつでしょうか。1946年7月です。でも南側はどうだったでしょうか。このような絶対カリスマがまったくいませんでした。ここでは大きく言ってアメリカの利害関係を離れることができませんでしたが、調整と妥協の余地はアメリカ式自由民主主義のそれ自体属性によって最後まで封鎖されていませんでした。

 要するに解放当時の朝鮮半島の住民集団には、民族とか階級とかいう外来起源の政治原理を克服しながら自らをしっかり団結した秩序体として統合するぐらいの文明能力はまだ成立していませんでした。こんな主体的条件が未完のなか、朝鮮半島の南北ではまさに冷戦に突入しようとする2つの強大国が占領軍として進駐しました。そして彼等が選択した協力者によって相違した原理の国が建国されました。もっと言うと常識的な話ではありますが、民族の分断はいつまでつづくかわからない悲劇の歴史はこうして始まりました。お聞きの皆さんは先ほど紹介した教科書の話がなぜ滅茶苦茶なのか納得されたかどうかはわかりません。こんなとんでもない話が一日も早く教科書から追放されるべきだ思っています。

イ・ヨンフン(ソウル大教授、<解放前後史の再認識>共同著者)
*イ・ヨンフン教授の<解放前後史の再認識>はEBSラジオホームページで聞くことができます。http://www.ebs.co.kr/Homepage/?progcd=0002420

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