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観コミュの観

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観ずるというとき、そこには大別して三つの側面があるように思われる

一つ---対象物への観

二つ---対象物と観自体へ同時に気付いている観

三つ---観のみへの観

対象物への観とは、外界、思考、感情、状況など、縁起事象への観

対象と観自体に同時に気付いているのが深化した観---動中の静

観のみへの観とは対象のない瞑想状態での観(それはもう観とさえ呼べないかも)

コメント(39)

>主観、客観という言葉がある。

観は両者を越える。

>厳密には客観は神のみが持ちうるもので、人間のものではない。

厳密に神が存在するならの話で、神に会ったことがない以上、神は概念でしかあり得ない。

>客観的と述べるとき、それは最大公約数的なほんのささやかな部分に対する同意――それも多数派の――でしかあり得ない。

客観=当事者ではない、という程度のものでしかなく、そこには傍観者としての個々人の好みその他が大いに絡まっている。

>では、観とは?思うに、主観、客観といった区別をなくしたもの。主客を取り去ったものの見方ではないのか。

全て(思考・感情・判断・etc)を取り去った状態だろう。ここで言う取り去るとは、それらがあろうが関知しない、それらからの影響を越えているということ。その関知しない姿勢こそが観である。

>ただ、人間が何らかの思考をする以上、そこに主体は常にある。観るものとしての主体なくして、誰がそれを感(観)じるのか?

観自体が観ずるしかあるまい。観に思考は要らない。観とはいえ、個人の観である以上、個人の中に在るものではある。しかし、それは通常の個人としての状態(思考・感情・記憶との同化=性格=小我)を越えている。越えていればこその観行のススメというものがある。


●瞑想には、それがどのような技法であれ、そのなかに共通した本質がいくつかある。その本質的な要素は、あらゆる瞑想法に必須なものだ。
 
その第一は、くつろいだ状態だ。マインドと闘わない、マインドに対して統制しない、精神集中しない、ということだ。

第二に、くつろいだ気づきとともに観ること......何が起っていようと、妨害することなく。マインドを、静かに、判断も評価もせずに観ることだ。

● くつろいで、観て、判断を下さない、

これがその三点だ。すると、次第に、ゆっくりと大いなる静寂が訪れてくる。内側の動きがすべて静まってくる。あなたは存在する。だが、「私が存在する」という感覚はない。純粋な空間があるばかりだ。

OSHO meditation first and last freedom 


●解放は個人には関知しない、なぜならソレは個人からの自由だからだ。

                        ---ジーン・クライン
マインドと同化している限り自由はない
>Kohji

>翻弄された欲望を近視眼的に満たすことを自由だと思っている人
>自由を間違った意味で捉えている

ちょいと、他で、話しがあったから、続き、
自我が自由になるんじゃなくて、自我からの自由、
これは、MIXIを始め、方々で言われていることだから、
あまりポイントでもないかも、精神世界に興味ある人だけじゃなくて、
一般的にも常識化しつつあるんじゃないかな

自由にもいろんな階層があることを理解する、
純粋な意識の、自我からの解放を、取り沙汰するのもいいけれど
実生活に促した段階の自由も大切かと、
表現の自由、探索の自由、自分の本性に即した生き方の自由
こういった、基本的な、自由のない国も多くあるわけで、
それは、日本においても、家族関係、生活状況、教育、
などから、自由度があるといえども、個々の中で、
欲求不満、ジレンマ、を抱えている人が多い、

家族関係、人間関係、生活状況、こういった中で、
自分の思いどうり、理論どうりに、事が運ばないところから、
内在する怒り、それを表現できないところからくる、
シリアスさ、そう言うものに覚めてあることも大事で、
そんな場合、大仰な、精神論を、カタルシスとして、
発散させるのじゃなくて、実際の瞑想の実践、
これが、近道だと思う、特に、そんな入り口の場合、
アクティブな瞑想、これをお勧め、、

というのも、観というような思考に働きかけるよりも
最初は、肉体から入ると、ほんとわかりやすい、
誤解が少ないと言うか、ほとんどない、
そのことから、OSHO瞑想の多くは、ステージがあり、
肉体に働きかけるステージから、静に移行する瞑想が多い

ダイナミック瞑想をご存知だろうか、ま、これなんかは、
一つの瞑想の中に、縮図のように、瞑想、求道の段階を
盛り込んである、まず、呼吸に働きかける、
まったく思考のものでない、その深い、ランダムな呼吸は、
自らの持つ硬化してしまったブロック、思考の凝りを、
粉砕していく、次ぎに、そこから、溶け出した、
不満、怒り 笑い 様々な思考、感情を吐き出す、
そして、新たな生のセンターからの、
エネルギーの上昇を、促し、そして、動かず、静の状態に移行、
そののち、祝祭の踊りの、湧きあがりを許す、、

こののち、自らのインテリジェンスに、問いかけると、
いままで、自分が住んでいるとおもっていた世界、
その反映もまた、違ったものになる、探索、観といった、
方策が、その中に、不満から来る暴力性、焦りもなく
自然なものとなる、、と、こんな感じですか、、
ま悟ると言うより、変容のプロセス、

例えば、自我の掘り起こし、日常的には、スコップ
手作業の、観で、いいんだけれど、ときには、
大きな岩に出くわす、そんなとき、ダイナミックと言う
削岩機の登場、ガンガン、フッ フッ、っと、
割砕いて、また日常の手作業に戻る、という感じですか、
合理的でしょ、
ダイナミックは対象物の岩を特定しないでとにかく掘り出す感じ。そして粉砕。で、本来ある生命エナジーを活性化するというか、とにかく強烈だよね。シンドイから嫌いなんだけど(笑)で、ダイナミックの後は手放し、リラックスが意図せず起こっている。ゼロポイント・正念に近くなっている。それを悟っていると形容したんだけどね。

じゃなぜ悟り続けないのか・・・。単純に正念相続をやる気の問題でしょう。
人によってはイッキに本来の自己に振り戻されるかも

いやダイナミックをすれば誰しも振り戻される。しかしそれがポイント・オブ・ノーリターン即ち不可逆古の領域へ突入するとは限らない。多くの場合そうはならない。だから何度も瞑想する必要がある。そして瞑想状態を知性と存在で正当に評価し、味わい深めてゆく。Kの本を全部読もうが、一回のダイナミックの教えには遠く及ばないかも。しかし死ぬ気でトータルにやらねば効果がない。それくらいシンドイ(笑)
本来の自分と知り合うのが瞑想らしい
化けの皮を剥いだらどうなるか、という恐れもあるかもだけど、何枚剥ごうが皮は皮なんで、本来の自己とは無関係のはず。もう一つの恐れは皮との同一化、それを失うまいとする執着心から生まれるという。

皮との同化=エゴ・マインド(瞑想しない人はそこまでしか自己知がない)

本来の自己=ノー・マインド=「意識」
見ているもの、とは見ている主体の事ですか、或いは見られる客体のことですか。
最近mixiも沈滞ぎみで、YouTubeに押されてるんでしょうか。で、沈滞ぎみのこのコミュを久しぶりに読み返してたら以下の書き込みがあった・・・、

>というのも、観というような思考に働きかけるよりも

観は思考に働きかけない。思考に働きかけず、思考を働かせる必要のないスペースに在ることが観だと思う。

>最初は、肉体から入ると、ほんとわかりやすい、

観は肉体にも働きかけない。ただ観自体に働きかけ、観として在ることを徹底してゆくのだと思う。ただ肉体に働きかけることで観が強まる可能性は大いにある。ダイナミックなどはその効果の典型でしょう。すべからく瞑想技法は観に在るための方便かな。もっと違う領域へワークする技法もあるようだけど。たとえばハートとか生命エナジーとか。
>観は思考に働きかけない

純粋に観は、なにもしないしできないね、
ただ、微妙に目指したり、方向性にしてしまえば、
良い悪いじゃなくて、何かしている事になるね、、、
働きかけの一種だ、、

>最初は、肉体から入ると、ほんとわかりやすい、

肉体だけを観するということじゃなくて、
普通に働きかけると言う事、、
基本は、観に関しては、なにもできないしね、
肉体に働きかけることで雑念・マインドから肉体に・今に引き戻しが起こる。それだけでもマインドとの同一化から脱することができる。そのへんも値打ちかな。カタルシス効果も当然ある。大掃除。

>純粋に観は、なにもしないしできないね、

観すること以外はね。

>ただ、微妙に目指したり、方向性にしてしまえば、
良い悪いじゃなくて、何かしている事になるね、、、

留意していることになるね。

>働きかけの一種だ、、

そのとおり。修行していることになる。
さて、観るということだが、一日の内の何パーセントぐらい観ていられるだろうか。
>一日の内の何パーセントぐらい観ていられるだろうか。

こんなこと考えて、どうなるんでしょうか・・・・・?

・・何パーセント、、観パーセント・・・・・??
>こんなこと考えて、どうなるんでしょうか・・・・・?

どうなった?

これを考える価値は、もう一度自己チェックできることじゃないかな。そういえば、自分は本当にやってるだろうか、とね。で、実は「今」何パーセントか、と問うべきなんだよね。そうすると「今」に振り戻される。そういう価値がコレにはある。
>どうなった?

思考が動いたよ、このまんま>こんなこと考えて、どうなるんでしょうか・・・・・?だけ。
パーセントってのがよく分かりませんね。


>そういえば、自分は本当にやってるだろうか、

まあ、つまり、観ることですよね。

うん、今、ちょっとこのトピ全部読んだりなんかして、ちょっと思ったんだけど、、、
観ようとすることで、突然、観る人が現れた・・ま、当たり前ですが・・・、
で、観る人と観られるもの(対象?)は分かれた、
この分かれる、分離の感覚が二元性というものかな、、
観と一つになるということは、つまり対象(観られるもの)とも一つになるということかな、
苦は苦、楽は楽、悲は悲、喜は喜・・・そのままそれと一体になる、つまり、三昧といわれるもの・・・
同化とは違う・・・同化には化け物がいる、化け物とは「私」で、エゴで、、そして観る「人」でもある、
同化=化け物と同じになること、、なら、同観やね、観と同じになるってことか、・・・こんなコトバあったけな?(>_<)

しかしながら、、苦を苦と、喜を喜と、まず認識したのは「私」で・・・・・、なので、、

なんか、ややこしくなってきた・・・めんどくさい・・もうやめた!(考えながら書くとまとまらんわ!)


・・・・・というわけで、>どうなった?・・・・・こうなった!(~_~;)
観ないことをするには観ないでおかねばならないが

観ることをするには観なければならないんではないかと思うわけである
「私」にするべきことは何もない・・・ということに気づいて、、、
この気づきが、観ではないかと・・・、思うわけである。

わかりませんが・・・・・、
何か、大きなカン違い・・・観違いを感じる今日この頃・・・。
>「私」にするべきことは何もない・・・ということに気づいて、、、

「何もしない」という大仕事
>「何もしない」という大仕事

しないことをするから大仕事でしょう・・・?

しないのではなく、「できない」のではないか、ということです、「私」である限り・・・。

ま、いいけど・・・・・(~_~;)
瞑想は、するかしないかのどっちかだと思う
瞑想をするかしないかを言ってるのではないんだけど・・・・・、


・・・・・・・・・・し〜〜〜ん
>しないことをするから大仕事でしょう・・・?

しないことが大仕事、一大事だという意味

しないこと=瞑想でしょう

ただ観てることは何もしないことじゃないかな
ううううううぅぅぅ・・・・・うんちくは苦手、、うんち出すのは得意だけど・・・・・そーか、うんち出しちゃえ!

>しないことが大仕事、一大事だという意味
>しないこと=瞑想でしょう

言いたいことは分かる・・・(と思う)

しない、する、大仕事、小仕事、一大事、二大事・・と思ってる「あなた」、「私」、がいる限り、永遠に分離はあるのではないか、、、

瞑想することで、分離する、しかし、瞑想することで、実は自己から逃避けているのではないか・・・
なぜ瞑想するかといえば、自己があまりにも愚かでアホなので、そんな自己はいらん、認めたくない、そんな自己とは一緒にはなりたくない(同化したくない)ってんで、本来の自分探しに瞑想の旅に出た・・・で、愚かな自分は、さも自分ではないかのごとく、離れて観る・・・その分離こそが苦しみの原因であり、その分離こそが、今に在れない原因で、、その分離こそが「私」エゴってことではないのかな・・・?
じゃあ、瞑想はなぜするのか・・・?やっぱり、このおかしなトリック、このアホな自分を知るため、、瞑想に憑かれ、疲れ・・それでも瞑想するわけは・・・んん・・???(@_@;)


>ただ観てることは何もしないことじゃないかな

そうだけど、、観るということは、気づいているということだよね、、ただ、気づいている、なんの操作もなく・・・


はい、失礼しました。
>しない、する、大仕事、小仕事、一大事、二大事・・と思ってる「あなた」、「私」、がいる限り、永遠に分離はあるのではないか、、、

分離があるから修行するんであって・・。つまり「意識」との分離。

>瞑想することで、分離する、しかし、瞑想することで、実は自己から逃避けているのではないか・・・

瞑想することで統合するんじゃなかろうか。つまり意識との統合。

>なぜ瞑想するかといえば、自己があまりにも愚かでアホなので、そんな自己はいらん、認めたくない、そんな自己とは一緒にはなりたくない(同化したくない)ってんで、本来の自分探しに瞑想の旅に出た・・・

苦しんでるのはマインドで、それから逃れようとするのは知性やら魂でしょう。

>で、愚かな自分は、さも自分ではないかのごとく、離れて観る・・・

それは自分だけれども、それだけじゃないんじゃないか。もっと自分には深みがあるんではないか、その線の探求をするんじゃないかな。

>その分離こそが苦しみの原因であり、

それは逆じゃなかろうか。その分離がなければ苦しみ=マインドだけじゃないですか。瞑想ってその分離を生み出すことだと思う。マインドから脱する術。

>その分離こそが、今に在れない原因で、、その分離こそが「私」エゴってことではないのかな・・・?

観ているソレは今にあるじゃないですか。対象と分離してはいるけど。というか分離しているから観れるんだけど。もちろん対象も今にある。宇宙の全ては今に在る。しかし、マインドだけならソレは無い。ソレを今に持って来ること、ソレとして今に在ることをするんじゃないですか。

>じゃあ、瞑想はなぜするのか・・・?やっぱり、このおかしなトリック、このアホな自分を知るため、、

それもあるけど、アホでない自分を知ると言う方がもっと正確なんじゃないかな。

>瞑想に憑かれ、疲れ・・それでも瞑想するわけは・・・んん・・???(@_@;)

かむらがそんなに瞑想してるとは知らなんだ。
>分離があるから修行するんであって・・。つまり「意識」との分離。

>瞑想することで統合するんじゃなかろうか。つまり意識との統合。

>苦しんでるのはマインドで、それから逃れようとするのは知性やら魂でしょう。

>それは自分だけれども、それだけじゃないんじゃないか。もっと自分には深みがあるんではないか、その線の探求をするんじゃないかな。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このような、、瞑想に対する期待?理想?があって、分離するのでは?



>かむらがそんなに瞑想してるとは知らなんだ。

私のことではないよ、、瞑想してる人たちの事。

私はきっと「そんなに」瞑想してないと思う(@_@;)
>このような、、瞑想に対する期待?理想?があって、分離するのでは?

期待や興味は必要でしょう。何も期待せず何ができますか。何も期待せずプーナに行きましたか。ねえ、すなおに期待していいじゃないですか。エンライトだけ期待しなければ(笑)つまり瞑想ってどんなだろうとね、探求心ですか、地平線を追うみたいな。で、瞑想するにつれて期待不要の在り方、一切不要の在り方がおぼろげながら分かってくる、みたいな。

>>かむらがそんなに瞑想してるとは知らなんだ。

>私のことではないよ、、瞑想してる人たちの事。

誰と誰でしょう。

>私はきっと「そんなに」瞑想してないと思う(@_@;)

あ、そう。
>期待や興味は必要でしょう。何も期待せず何ができますか。何も期待せずプーナに行きましたか。ねえ、すなおに期待していいじゃないですか。エンライトだけ期待しなければ(笑)つまり瞑想ってどんなだろうとね、探求心ですか、地平線を追うみたいな。で、瞑想するにつれて期待不要の在り方、一切不要の在り方がおぼろげながら分かってくる、みたいな。

はい、そうですね。

まあ、いろいろ、ありますね、、
ちょっと、感じていることを書かせてもらいました。

>誰と誰でしょう。

???、、一生懸命に瞑想している人達のこと(昔も今も)を思っただけです。自分が、ろくに瞑想もしないで、つまずいていることが情けなく・・・、ま、今は、がんばれないので、しょうがないけど・・・
>Osho は、覚者は睡眠中ですら覚めているといいますよね。

らしいですね。でも修行は起きてる内に眠りこけない努力をすることから始まる。それができたら睡眠中でも覚めてるなんて芸当ができるのかもしれませんね。蟹座

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