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観コミュの行法

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それよりいいのは

観ているソレで在ること

コメント(78)

>意識と親しむためにある

誰が親しむんだろう、

>つまり覚醒・ノーマインドがある

何もないものに、人が名をつけただけ

>意識なくして何かを知ることは

知る必要は、どこから、

>むしろ静寂の中に全ての雑音があるのではないか

そう、直感であるとしても、これがポイントに近づいた

>しかし、、、思われる、、

ここで遠ざかった
>>意識と親しむためにある

>誰が親しむんだろう、

意識と意識に内在する知性が親しむ。(思考・感情・記憶)=個我、との一体化に距離を置くことを通して。

>>つまり覚醒・ノーマインドがある

>何もないものに、人が名をつけただけ

(思考・感情との一体化が)何もない=「意識」、がある

>>意識なくして何かを知ることは

>知る必要は、どこから、

意識には知る作用が内在している。知るは必要から来るのではなく、意識は単に知る。

>>むしろ静寂の中に全ての雑音があるのではないか

>そう、直感であるとしても、これがポイントに近づいた

だから「雑音=マインド」と距離を置き、マインドの手前に元々あった意識と親しむために瞑想する。

>>しかし、、、思われる、、

>ここで遠ざかった

何センチ
>意識と意識に内在する知性が親しむ。
(思考・感情・記憶)=個我、との一体化に、
 距離を置くことを通して

意識とそれに内在する知性が、親しむということは
別物ということか、

また、個我と一体化しているものは、なにか

>だから「雑音=マインド」と距離を置き、
マインドの手前に 元々あった意識と親しむために瞑想する

なにが、マインドと距離があり、手前にあり、もともとあった
意識と親しむのだろうか、

意識、知性とは、どこそこの、誰々の意識と知性なのか
また瞑想するものと、意識とは別物なのか、
>>意識と意識に内在する知性が親しむ。
(思考・感情・記憶)=個我、との一体化に、
 距離を置くことを通して

>意識とそれに内在する知性が、親しむということは
別物ということか、

意識自体が意識に気付き親しむ

>また、個我と一体化しているものは、なにか

意識の表面=個我にしか気付いてない知性

>>だから「雑音=マインド」と距離を置き、
マインドの手前に 元々あった意識と親しむために瞑想する

>なにが、マインドと距離があり、手前にあり、もともとあった
意識と親しむのだろうか、

それも意識自体。マインドと距離を取るにはスペースが要る。そしてそのスペースは元々あるから取れるんであって、それを意識スペースと言ってもいいだろう。

>意識、知性とは、どこそこの、誰々の意識と知性なのか

瞑想者の意識と知性だ。

>また瞑想するものと、意識とは別物なのか、

意識は瞑想者の内に既にあり同一と言えるが、それに気付かないなら永遠に無いに等しい。またある時気付いたとしても、それを正当に評価し存続させる努力をしないなら、またマインドに同化してしまう。
>意識自体が意識に気付き親しむ

最初の意識と、後の意識は、別ってことだね、
親しむ主体と、親しまれる対象といったような

>意識の表面=個我にしか気付いてない知性

個我にしか気づいてないのに、知性と呼ぶわけだね

>それも意識自体。
 マインドと距離を取るにはスペースが要る。
 そしてそのスペースは元々あるから取れるんであって、
 それを意識スペースと言ってもいいだろう

親しむ意識と、その間のスペースと、親しまれるスペースと、
いろいろ分かれるんだね

>瞑想者の意識と知性だ

瞑想者とは、誰のこと あなたなのか、わたしなのか、
それとも、ほかの誰かなのか

>意識は瞑想者の内に既にあり同一と言えるが、
 それに気付かないなら永遠に無いに等しい。
 またある時気付いたとしても、
 それを正当に評価し存続させる努力をしないなら、
 またマインドに同化してしまう

まず、意識とは、瞑想者の中にだけあって、
瞑想するものと同一であるということかな、

また、それを正当に評価するものは、誰だろう、
存続させようとするのは、、

そして、それを維持するのは、
絶え間ない努力が必要ということかな、

そして、その努力するものは誰だろう、
そして、その努力は、いつまで続くのだろう、
>>意識自体が意識に気付き親しむ

>最初の意識と、後の意識は、別ってことだね、
親しむ主体と、親しまれる対象といったような

意識は二つはないと思う。気付いてるか気付いてないかだけで。

>>意識の表面=個我にしか気付いてない知性

>個我にしか気づいてないのに、知性と呼ぶわけだね

知性はエゴにもあるし、意識にもある。ちょうどニュートラルゾーンのように。それが橋渡し役を務める。

>>それも意識自体。
 マインドと距離を取るにはスペースが要る。
 そしてそのスペースは元々あるから取れるんであって、
 それを意識スペースと言ってもいいだろう

>親しむ意識と、その間のスペースと、親しまれるスペースと、
いろいろ分かれるんだね

これも全部一つじゃなかろうか。意識は一つ。それに広がりがあるかどうかだけでね。

>>瞑想者の意識と知性だ

>瞑想者とは、誰のこと あなたなのか、わたしなのか、
それとも、ほかの誰かなのか

瞑想する者のことだ。変な質問。

>>意識は瞑想者の内に既にあり同一と言えるが、
 それに気付かないなら永遠に無いに等しい。
 またある時気付いたとしても、
 それを正当に評価し存続させる努力をしないなら、
 またマインドに同化してしまう

>まず、意識とは、瞑想者の中にだけあって、

外にはないと思う

>瞑想するものと同一であるということかな、

そうだね。瞑想者の中にある。しかしそれに気付かなければ、あるいはそれを評価しなければ無いに等しい。

>また、それを正当に評価するものは、誰だろう、
存続させようとするのは、、

瞑想者の知性と意識そのものだ。OSHOに「Ah, This!」という禅の本があったね。

>そして、それを維持するのは、
絶え間ない努力が必要ということかな、

絶え絶えの努力より絶え間ない方がいい。即今を練る、とか言うじゃない。前にも言ったが、練るとはスバラシイ表現で、例えばセメントを練るとき、コテとセメントが離れては練れない。

>そして、その努力するものは誰だろう、

瞑想者しかその努力はしない。

>そして、その努力は、いつまで続くのだろう、

努力無用になる時までだろう。十牛図はそれを表している。
>意識は二つはないと思う
>意識は一つ

まさしく、、

>変な質問

瞑想者とは、個の中の多彩な顔の、一つを、そう呼ぶのか、
その個全体をそう呼ぶのか、

多彩な顔の一つをそう呼ぶ場合、それ以外の顔を、
どう決着つける、瞑想者と、その他の顔に、
区別と、是非を持ち込むということか、
部分が全体をどう観ることができる

全体をそう呼ぶならば、ほしがったり、競ったり、
なりたがったり、手に入れたがったりする顔も、
瞑想者の内ということか、

今を練るものの内に、ほしがったり、
練った結果を求めるものはいないのか

今を練るものの、出生と育ちは、
>瞑想者とは、個の中の多彩な顔の、一つを、そう呼ぶのか、
その個全体をそう呼ぶのか、

瞑想を志す者を瞑想者と言う。しかし瞑想者を名乗ろうが、瞑想的に在ろうとしない者は瞑想者ではない。瞑想的に在ろうと努めている時以外は思考・感情のなすがままだ。

>多彩な顔の一つをそう呼ぶ場合、それ以外の顔を、
どう決着つける、瞑想者と、その他の顔に、
区別と、是非を持ち込むということか、

人間誰しも多彩な顔を持つが、瞑想的観点から観れば、意識的か無意識的かの二極しかないと思う。言い換えれば、意識的に多彩な事をやっている人か、或はその逆かということになる。

>部分が全体をどう観ることができる

観るときには部分とは呼べない。それは大我=意識であって全体でしょう。部分とはソレでない在り方、即ち小我=マインドと同化した状態。だから全体を観ることができるのは意識のみということになる。全体には思考や感情や諸状況すべてが含まれる。

>全体をそう呼ぶならば、ほしがったり、競ったり、
なりたがったり、手に入れたがったりする顔も、
瞑想者の内ということか、

瞑想しようと欲せずして、また悟りに対する興味や探究心無くして瞑想は始まらない。それは瞑想へ駆り立てるエンジンになる。負の作用も大いにある。エゴにからまったままになるということ。競争は他者との比較であって、まだ本当の自己の一大事になっていない証拠と言える。しかしそれが自分の現実ならば、競争心や欲望を素直に認めて坐に食わせていくしかない。もう何も食わせるものが無くなったとき本当の坐になる。

>今を練るものの内に、ほしがったり、
練った結果を求めるものはいないのか

今を練る事に専心すること自体、それを望む欲望が要る。探求者の欲望と言ってもいい。欲望が聞こえが悪ければ、気構えと言ってもいい。それは修行には不可欠でしょう。それを禅門では菩提心と言うらしい。

>今を練るものの、出生と育ちは、

瞑想で今を練る価値を正当に評価した知性を親として、今という滋養を受けながら除々に育つんでしょう。意識が。なぜなら意識のすみかは今にしかないから。マインドは過去と未来だから。
>瞑想者を名乗ろうが、瞑想的に在ろうとしない者

これは誰なのか、自己のうちにあるのか、他者のことか、
また、瞑想者であろうとしながら
瞑想的に在れないものを、どうするのか

>意識的に多彩な事をやっている人か

意識的なものが、欲望の結果を、獲得しようと出来るのか

>観るときには部分とは呼べない。
 それは大我=意識であって全体でしょう

それならば、観るものを自負するものは、既に全体ではないのか、
全体であるものが、全体であろうとする意は

>今という滋養を受けながら除々に育つんでしょう。
 意識が。なぜなら意識のすみかは今にしかないから

今以外に、意識がないのなら 
時間を要する、変化、成長はあるのか

>菩提心と言うらしい

菩提心は、意図的に持ったり、もたないようにしたり
するものなのか、、
また、もつものを、もたないものは、同じく
自己のうちにあるのか、誰か他者の話をしているのか
またその両者に、是非はあるのか、
>>瞑想者を名乗ろうが、瞑想的に在ろうとしない者

>これは誰なのか、自己のうちにあるのか、他者のことか、

そういう人すべてでしょう。当然、自分も瞑想的でなければ瞑想してないんだから、そのときは瞑想者ではない。瞑想は24時間のものにならなければならない、とはOSHOの言。

>また、瞑想者であろうとしながら
瞑想的に在れないものを、どうするのか

そのために1日一時間の瞑想を習慣にせよとOSHOは言う。

>意識的に多彩な事をやっている人か

意識的、とは意識として、と言う方がいいと思う。その方が自己との親密性というかピッタリ感が増す。分離がないというか。

>意識的なものが、欲望の結果を、獲得しようと出来るのか

意識的であることで獲得できるものは、意識的で在ることに他ならない。

>>観るときには部分とは呼べない。
 それは大我=意識であって全体でしょう

>それならば、観るものを自負するものは、既に全体ではないのか、全体であるものが、全体であろうとする意は

観る、が無ければ意識も無い。観るは意識の発露だから。よって意識で在ろうと努める。瞑想修行、留意、即今、意識、牛、etcを失わないように努力する。そこに何の不都合があるだろうか。

既に全体、ではないから瞑想修行が必要になる。既に全体なら既に悟りの領域にいる。そういう人は通常いう瞑想の必要は無いでしょう。

>>今という滋養を受けながら除々に育つんでしょう。
 意識が。なぜなら意識のすみかは今にしかないから

>今以外に、意識がないのなら 
時間を要する、変化、成長はあるのか

面白い質問だ。まず今にいないから今に親しむための時間を要する。これが瞑想修行。しかし今に居れたとしても更なる成長はある。瞑想的深まりは底なしだそうだ。「今=意識」に在る事で終りではない。実はそれは瞑想の始まりだそうだ。だから大事にしなくてはならない。

>>菩提心と言うらしい

>菩提心は、意図的に持ったり、もたないようにしたり
するものなのか、、

意図しないでダイナミックができるだろうか。意図せずに覚めて在ろうと留意し続けられるだろうか。無理だと思う。

>また、もつものを、もたないものは、同じく
自己のうちにあるのか、誰か他者の話をしているのか
またその両者に、是非はあるのか、

意味がよく分からない。
>意図しないでダイナミックができるだろうか。
 意図せずに覚めて在ろうと留意し続けられるだろうか

それは、すでに菩提心の発露ではないか、

>意味がよく分からない

菩提心を持つもの、持たぬもの、それは、自己のうちにある
投影の話なのか、それとも、他者を判断したのち、
そのものの話をしているのか、

返答が分散しているので、引用は省くけれど、

観ていることを自負するものがいる、
しかも観るものは、部分ではありえない、
全体であると、、ゆえに、観ているものは、
すでに全体ではないのか、
>>意図しないでダイナミックができるだろうか。
 意図せずに覚めて在ろうと留意し続けられるだろうか

>それは、すでに菩提心の発露ではないか、

それは、とは何か。意味が分からない。意図せずして留意し続けることが菩提心の発露という意味か。ならばその前に意図する期間があったはず。よって意図せず菩提心は生まれないということにならないか。

>意味がよく分からない

>菩提心を持つもの、持たぬもの、それは、自己のうちにある

もの=者という意味か? 

>菩提心を持つ者、持たぬ者、それは、自己のうちにある

当然そうだ。

>投影の話なのか、それとも、他者を判断したのち、
そのものの話をしているのか、

またも意味が分からない

>観ていることを自負するものがいる、

自負する、というとエゴ的な響きがあるが、別に自負する必要はない。自負は観にとって余計なものでしかないだろう。

>しかも観るものは、部分ではありえない、
全体であると、、ゆえに、観ているものは、
すでに全体ではないのか、

本当に観れたら全体だろう。観るもの=意識。エゴを部分とすれば、意識は自己存在の最も包括的在り方=全体ではなかろうか。しかし本当に観れるようになるためには修行を要する。すでに全体でない間はすでに全体とは言えない。瞑想はそのためにする。
>意図せず菩提心は生まれないということにならないか

その意図は、いかに、どこから、

>しかし本当に観れるようになるためには修行を要する

修行を必要とする間は、観は起こっていないということか、
>>意図せず菩提心は生まれないということにならないか

>その意図は、いかに、どこから、

人に内在する菩提心から菩提心が生まれる。しかし意図しなければ悟りへの方向性を持った菩提心は生まれない。

>>しかし本当に観れるようになるためには修行を要する

>修行を必要とする間は、観は起こっていないということか、

修行の度合いによって観は起こっているだろう。修行に無関心で観を意図しなければ観=意識に気付きさえしないだろう。
あ、ちょっとここ勘違いしたみたい。

>>意図せず菩提心は生まれないということにならないか

>その意図は、いかに、どこから、

その意図ね。意図は悟りたいという欲求から生まれる。
>内在する菩提心から菩提心が生まれる

内在する菩提心と、生まれ来る菩提心、ちがいはどこに、

>修行の度合いによって観は起こっているだろう

観は全体であり、部分が全体を観ることはないのでは、
それゆえ、修行を要する内は、観は起こらないのでは、
>>内在する菩提心から菩提心が生まれる

>内在する菩提心と、生まれ来る菩提心、ちがいはどこに、

内在は可能性だ。眠ってると言ってもいい。

>>修行の度合いによって観は起こっているだろう

>観は全体であり、部分が全体を観ることはないのでは、
それゆえ、修行を要する内は、観は起こらないのでは、

誰でもダイナミックの後はかなり覚めて観じている目をしている。そして時とともにまたマインドと一体化するが、夕方クンダリーニやナーダブラフマをやればまたかなり覚める。そういう意味。
>眠ってると言ってもいい

菩提心は眠ったり、起きたりするのものなのか、、
また、起きる要因は、、また眠る要因は

>誰でもダイナミックーーーそういう意味

もう一度、、観は全体であるとき、起こっていて
部分は、全体を観れないにもかかわらず、
全体でない途上にも、観じているのか、
では、観は、流動、段階的なものなのか、
とすれば、全体のみ部分を観ることができるというのは、
そうでもないということか、、
>>眠ってると言ってもいい

>菩提心は眠ったり、起きたりするのものなのか、、

起きてないなら眠ってるし、起きてもまた寝る場合もある。

>また、起きる要因は、、また眠る要因は

いろいろあるだろう。起きる要因としては目覚めた人に会った場合がある。「本来の面目坊が立ち姿、一目見しより恋とこそなれ」だ。

起きてもまた眠る要因としては、瞑想してはみたものの、菩提心がガス欠に陥ってしまう場合だろう。

>>誰でもダイナミックーーーそういう意味

>もう一度、、観は全体であるとき、起こっていて
部分は、全体を観れないにもかかわらず、
全体でない途上にも、観じているのか、
では、観は、流動、段階的なものなのか、

そうだ。そうでないなら一回のダイナミックで全員悟る。

>とすれば、全体のみ部分を観ることができるというのは、
そうでもないということか、、

覚めていれば部分より広がりがあるということ。覚めていなければ部分でしかあり得ないということ。
>菩提心がガス欠に陥ってしまう場合だろう

そのガソリンとは、、なに

>部分より広がりがあるということ

部分と、全体は、別物で、全体だけが、広がって
部分を見たり、縮小して、部分を見れなくなったり
するということか、 
>>菩提心がガス欠に陥ってしまう場合だろう

>そのガソリンとは、、なに

期待だろうね。瞑想したら悟れるんじゃないかと期待する。そして期待がいつも裏切られる。悟りを何か爆発的な極彩色の神秘体験だと勝手に思ってたりしたらなおさら瞑想に裏切られ続ける。それでイヤになる。期待というガソリンが空になる。それは自分勝手な子供っぽい期待でしかないんだけども。

>>部分より広がりがあるということ

>部分と、全体は、別物で、

別物といえば別物、同じと言えばおなじ。別物と言う場合は思考や感情は意識には不要だということ。同じという場合はそれらさえも意識の中に在るということ。

>全体だけが、広がって
部分を見たり、縮小して、部分を見れなくなったり
するということか、 

広がる、部分=壷から出るのが意識。そこに部分たる思考・感情・エゴが含まれる。意識=大、エゴ=小、大は小を兼ねる(含める)が、小に大は入らない。だから縮小して小と同化したら、大はおろか小さえ見えなくなる。小の中で小に埋没してしまう。
>期待だろうね

その菩提心は、期待というガソリンがなければ、
動かないということか

>悟りを何か爆発的な極彩色の神秘体験だと
 勝手に思ってたりしたら

悟りは、爆発的な極彩色の神秘体験でないということか、

>同じという場合はそれらさえも意識の中に在るということ

思考や感情が、意識の内なら、別物でもなく、
不要、要といった、こともないのでは、

>広がるーーーーー埋没してしまう

壷とは、なんなのか、、意識がエゴを含めるものなら、
その意識とエゴは、同一ではないのか、
箱の中の箱といったように、意識の内部に、
境界を持つのか、、その境界はなんなのか

また、意識が縮小して、エゴに埋没することがあるのか
仮に縮小したとしても、意識は意識ではないのか、
縮小すると、別のものになるのか、

また、同一でありながら、大小に是非はあるのか、
またその是非を判断するのは、大なのか小なのか
>>期待だろうね

>その菩提心は、期待というガソリンがなければ、
動かないということか

そうだね。期待の他にも何かあるかもしれない。名誉欲とかエゴ絡みのものが。で、そういうガソリンは切れるまで使いきってしかるべきもんだろうね。よくぞ使いきったと。それからじゃないの、絶望してから、それでも修行を続けたら本当の修行になるのかも。

>>悟りを何か爆発的な極彩色の神秘体験だと
 勝手に思ってたりしたら

>悟りは、爆発的な極彩色の神秘体験でないということか、

そういう描写をする人もいる。それは人それぞれなんでしょうが、他人は自分ではないから同じ体験をするワケがないと思っていた方が知性的だと思うよ。また何も体験ナシの悟りもあるかもしれないし。つまりすーーーーーっと・・。

>>同じという場合はそれらさえも意識の中に在るということ

思考や感情が、意識の内なら、別物でもなく、
不要、要といった、こともないのでは、

それは見方次第。思考や感情は意識の表層であり一部に過ぎない。意識はもっとデカイ。ちょうど空と雲の関係じゃないですか。雲は空を生み出す事はないけど、空は雲を生み出す。雲は空の一部だけど、空は雲の一部ではない、みたいな。つまり雲は空にとって必須要素ではないということ。

>>広がるーーーーー埋没してしまう

>壷とは、なんなのか、、意識がエゴを含めるものなら、
その意識とエゴは、同一ではないのか、

これも空と雲じゃないかな。

>箱の中の箱といったように、意識の内部に、
境界を持つのか、、その境界はなんなのか

境界は無明という暗闇でしょう。自己の意識に気付いていない、マインドしか知らないという自己知の限界線。

>また、意識が縮小して、エゴに埋没することがあるのか

ぼーっとしてたら無意識になるんじゃないかな。だから意識的であれ、などと言う。

>仮に縮小したとしても、意識は意識ではないのか、
縮小すると、別のものになるのか、

縮小とはサイズというより意識への気付きがなくなること。意識的でなくなるとマインド存在でしかなくなるでしょう。だから意識的であれ、などと言う。

>また、同一でありながら、大小に是非はあるのか、

同一ではない。無意識と意識は同一ではない。覚醒の観点から言えば、大小に是非はある。当然でしょう。小のままでいいなら瞑想修行自体の存在価値がなくなる。

>またその是非を判断するのは、大なのか小なのか

知性だね。
>ガソリンは切れるまで使いきって

ガソリンは、菩提心を動かすものではないのか

>空は雲を生み出す

空が、生み出したり、消し去ったり、なにかするのか

>同じ体験をするワケがないと

想定する事も意味なしということか、、
想定せずに、目標とするのは可能なのか

>境界は無明という暗闇でしょう

その暗闇ですら、意識の内ということか

>自己の意識に気付いていない

何が自己の意識に気づいていないのか

>ぼーっとしてたら無意識になるんじゃないかな

無意識とは、意識がないということか
意識は出たり消えたりするものなのか

>意識への気付きがなくなること

なにが意識に気づいたり、気づかなくなったりするのか

>だから意識的であれ

これも同じガソリンを使うのか

>覚醒の観点から言えば

覚醒の観点を知るものの言葉か

>大小に是非はある

万物、是非なしではないのか、全部観るとは、
是非を持ち込むことか

>知性だね

知性とは、是非判断のことか
>>ガソリンは切れるまで使いきって

>ガソリンは、菩提心を動かすものではないのか

切れるガソリンは本当の菩提心は動かせない

>>空は雲を生み出す

>空が、生み出したり、消し去ったり、なにかするのか

雲は空に生まれるでしょ

>>同じ体験をするワケがないと

>想定する事も意味なしということか、、

想定することは意味がないどころか、妨げにしかならないと思うよ

>想定せずに、目標とするのは可能なのか

悟りを目標にするんだけど、他者と同じような体験を想定しなければいいんじゃない

>>境界は無明という暗闇でしょう

その暗闇ですら、意識の内ということか

マインドしかなかったら境界さえ見えない。マインドが全てだと思ってるから。瞑想して初めて境界に気付く。それは当然意識の内にあるが、意識に気付けば意識の光で暗闇はなくなる。ガチョウは壷の外ということだろう

>>自己の意識に気付いていない

>何が自己の意識に気づいていないのか

意識自体が

>>ぼーっとしてたら無意識になるんじゃないかな

>無意識とは、意識がないということか
意識は出たり消えたりするものなのか

無意識=マインドと同化してること=意識に気付いていないこと

>>意識への気付きがなくなること

>なにが意識に気づいたり、気づかなくなったりするのか

意識自体。とにかく気付くのは意識をおいて他にない。知性も意識の一部。

>>だから意識的であれ

>これも同じガソリンを使うのか

それは人それぞれ、境涯それぞれ。ガソリンが尽きたら他の燃料を燃やすしかあるまい。ハイオクタン菩提心

>>覚醒の観点から言えば

>覚醒の観点を知るものの言葉か

少々

>>大小に是非はある

>万物、是非なしではないのか、全部観るとは、
是非を持ち込むことか

何にでも是非はある。赤信号では止まれ、雨の日は傘をさせ、、、是非は知性的判断のこと

>>知性だね

>知性とは、是非判断のことか

それも知性の領域。でないとクソを食べて味噌を、、、
>本当の菩提心

菩提心に、本当とうそがあるのか

>雲は空に生まれるでしょ

空が雲を生むために、なにかするのか、

>悟りを目標にするんだけど、
 他者と同じような体験を想定しなければいいんじゃない

見知らぬものを他者と違う体験として、
想定することができるのか、

>意識自体が

気づく意識と、気づかれる意識、
2つあるということか、

>他の燃料を燃やすしかあるまい

他の燃料の、実体は、

>少々

覚醒に、少々や、多々が、あるのか


>赤信号では止まれ、雨の日は傘をさせ

これは、何が決めた是非なのか、
雨に濡れて歩く楽しさを知らぬ
矮小なものも、また意識なのか

>それも知性の領域

全部観るとは、是非判断のことか
このやり取りはいつまで続くのだろうか
では、ここで、お開きということで、、

ごきげんよう、、
>全部観る
>それよりいいのは
>観ているソレで在ること

どうやって
全てを休止してただ在ることによって
最近、うちの家族との乖離がはげしい…。

家族に限ったことではないんだけど、一緒に過ごすのがしんどくなってきました。

ふらふら
そうそう、間柄〜!

ぃよっ、アチャリ屋手(パー)
クリップすべてが起滅する「スペース」として在ること ------エックハルト・トール

これはとても分かりやすい行法だと思う。
すべてが起滅する「スペース」として在ること ------エックハルト・トール

OSHOはこれを更に積極的に「 Celebrate everything. 」と仰ったようだ。観で在ること自体が喜ばしい事であるから、何が起ころうと喜ばしいということか。どうせ死亡率100%なんである。つかの間の人生なんである。その人生全ての喜怒哀楽、滑った転んだを観ていなさいという事だろう。すべてが起滅するスペースとして在ること、、。山羊座
≪参考≫

「あなた自身を無重力にさせなさい」

座って、自分が無重力状態にあり、重さがないと、ただ感じてごらん。身体のどこかが重く感じられるかもしれない。でも、重さなしだと感じ続けるがいい。それは起こる。自分は無重力状態にあり、重さがないと感じる瞬間は来る。重さなしのとき、あなたはもはや身体ではない。なぜなら、重さは身体にあり、あなたにあるわけではないからだ。あなたに重さはない。

 あなたは自分自身を催眠術から解かなければならない。「私は身体だ、だから私は重さを感じる」というのは催眠であり、信じ込みだ。もしあなたが催眠を解かれ、自分は身体ではないと認識できたら、あなたは重さを感じなくなるだろう。そして重さを感じないとき、あなたはマインドを超えている。

 ブッダのやり方であるシッダーサナというテクニックは、無重力を感じるもっともよい方法だ。大地の上に座りなさい。椅子などにではなく、ただ床に座る。結跏趺坐で座り、足を組む。両足を組み、両手も組みなさい――それは助けになるだろう。なぜならあなたの内なる電気が、円を描いて流れるようになるからだ。背筋をまっすぐに伸ばしなさい。今あなたは、なぜ背筋をまっすぐにするようこれほど強調されて来たか、理解できるだろう。なぜなら背筋をまっすぐにすれば、重力に覆われる面積はより少なくなり、その影響が減るからだ。

 目を閉じ、完全に自分自身と調和し、自分の中心に据わりなさい。右に傾いては重力を感じ、左に傾いては重力を感じてごらん。前に傾いて重力を感じ、後ろに傾いて重力を感じてみなさい。そして、最小の重力が感じられ、最小の重さが感じられるところを見つけ、そこにとどまりなさい。そしたら身体のことは忘れ、あなたには重さがないと、無重力状態にあると、感じなさい。そして、この重さのなさを感じ続けなさい。突然、あなたは無重力にある――突然、あなたは身体ではなくなる――突然、あなたは無身体という異なった世界にいる。

 重さがないというのは、身体がないということだ。そのときあなたはマインドをも超越する。マインドもまた身体の一部であり、物質の一部だ。物質には重さがある――あなたにはまったく重さがない。そのことが、このテクニックの基本にある。



Osho: The Book of Secrets
ぴかぴか(新しい)@今さん

>全部観る
>それよりいいのは
>観ているソレで在ること

ありがとうございますぴかぴか(新しい)
Atsushiさん、

ご存じかもしれませんが、このへんが着眼として大変素晴らしいと思います。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=3722702&comm_id=495907

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=3775380&comm_id=497341
@今さん

拝見させていただきました。

>T:あるがまま受け入れます。
B:それはできません。この事に関しては苛立って怒ってるんですから。
T:ならば、それをそのまま受け入れます。
B:え? イラついて腹を立てている事を受け入れるんですか。受け入れられないという事実まで受け入れろとおっしゃるんですか?
T:そうです。受容できないというその事実にさえ受容をもたらします。サレンダー不可能という事実にさえサレンダーします。 そしてどうなるか観ます。

           -------エックハルト・トール (Stillness Speaks)

まさに、「正念相続」ですねウインク
ありがとうございますm(_ _)m
上記の元ページです。

エックハルト・トール
http://mixi.jp/view_community.pl?id=495907

パパジ
http://mixi.jp/view_community.pl?id=497341

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