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ミシェル・フーコーコミュの「オープンな関係」について

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私の仕事はIT関係ですが、ここ数年「オープン」という言葉が使われるようになり、最近では企業が何百億円もかけて開発した成果物を無償公開してしまうという資本主義に反するような動向にまで発展してきてて変だなーと感じておりました。そんな折にたまたま読んだマックスウエーバーという社会経済学者もニーチェに影響を受けていてフーコーにも通じるところがあると書いてあった次第です。

さて、前置きが長くなりましたが、僭越ながら皆様と身近かな「オープン」について語りあいたくトピック作成いたしました。

例えば、
■「オープンカフェ」などごく普通の商業的なもの。異常なオープンなお店とかあったら知りたいです。例えば、持込み完全OKで客なのに料理を持参して販売可能とか。なんかありそうですね。
■「オープンファミリ?」なんてあるかしりませんが核家族の反対みたいなものですかね。江戸時代の長屋社会はそうであったかと。。
■「オープンマインド」これはよく聞きますね^^ 具体的にはよく定義は知りませぬが。
■「オープンセックス」これも割とよく聞きますね。何がオープンだかクローズなんだか分かりませぬが、一般的にはクローズドなことが良いとされてますよね。その理由と背景はいまいち不明です。。ソフトな話題でよろしくです。

などなど身近かで進行しつつある「オープンな関係」について書き込みくださりませ。

コメント(10)

マックスウエーバーもなかなか変わったおじさんです。大学の教授だったのですが、急に授業をさぼりだしてとうとう辞職して神経症になったりしてた変わった方です。しかしポリシーとしては、「人と違うことをすると必ず大なり小なり不幸になるけど、それを克服して新しい境地に達することこそ人間の真の高潔さが宿る」なんていうファイターなところも垣間見える次第です。

彼のオープンな考え方は古代農業事情の研究で見えまして、今年ちょうどオリンピックがあったギリシャの古代は有名な「ポリス」という数万人規模の多様な都市国家群があり、最高に創造的な発展をとげていた時代であったというように読めました。その「ポリス」では、君主制や民主性など各ポリスによってポリシーが異なっていて、互いに戦争もするけれど災害のときは助け合ったりもしていたらしい。そして、ペルシャ戦役にて完全専横国家のペルシャ軍を同じポリス仲間のアテナイとスパルタ連合軍で奇跡的勝利をおさめたそうです。このペルシャ王国をウエーバーは「対国家奉仕義務(ライトルギー)」と呼び、ギリシャの「ポリス的」の対極としたそうです。しかし結局は自由なポリス諸都市も古代マケドニア王朝にやられて多様な都市国家群は消滅したらしい。。

ウエーバーさんの考えを僕なりの解釈で代弁させていただけば、「ポリス的」から「ライトルギー的」への移行は歴史上の必然であって、合理化によってかならずいきつくとのことな気がします。しかし、確かに、2度の「ライトルギー的」世界大戦を経てもなお「対国家奉仕義務」が「対会社奉仕義務」に置き換わった程度でとことん創造性のかけらもない無機質な合理化を押し進めているだけのような気もします。

でも21世紀に入りなにかとぶっそうな世の中ではありますが、巷にはそれほど毒気のない「オープンな関係」も見受けられるような気がします。少しだけですが多様性の復権が起きているのかもしれませぬ。ソクラテスが少年の胸元にドキドキしていたあの古代ギリシャ時代が僕が生きているうちに復活してくれたら有難い限りと思う次第。
僕ははじめ、このミクシィはクローズな関係で成り立っている社会だと思っていました。たとえば2ちゃんねる掲示板のように誰でも参加できる訳でなく、紹介によってはじめて参加できる場だからというのがその理由です。2ちゃんねるに慣れていた僕は、ミクシィ空間は社会から閉じられている、という印象を持ったんです。

しかし、ミクシィに慣れていくにつれ、ここの特徴は個人情報を公開し合っている者同士が集うという点にあるのだなぁと考えるようになりました。素顔にしろ仮面にしろ「顔」を見せ合って、コミュニケーションを図っている、そういう意味では、ここは個人情報がオープンな関係の場ですね。
言葉の一つ一つが、名無しさんから発せられるのでなく、オープンしている「個人」から発せられていてるからこそ面白いと思います。

なんとなく、ここは「ポリス」と近いものがあると思います。
ここの人々は、社会によって管理や規律訓練される目的で作られた「個人」などではなく、『性の歴史(?や?)』に出てくるような自ら律する「自己」と言うべきかもしれません。

オープンな社会にはクローズな個人が、クローズな社会にはオープンな自己が現れる、って言ってしまうと乱暴かもしれませんが。
趣旨にあってるかどうかは自信がありませんが、、、細かくひっかかったとこがあったので(本当につまらない内容ですが)書かせて下さい。
いちおなんとなく自己紹介すると、大学院にダラダラと籍を置きながら家族社会学とか社会史のようなことをやっている院生でございます。

「オープンファミリー」って面白いですね。ただ家族社会学を振り返ると、核家族が果たして近代の産物なのかは、そうとう議論が分かれていて結論が出ていません。たとえばピーター・ラスレットの有名な研究(教区名簿を使った人口学的な復元法)だとイギリスでは産業革命前も核家族が基本的な形態だった、ということが分かり、近代家族=核家族という発想をしていた学会には衝撃が走ったことがあります。日本でも(宗門改帳を使った)江戸中期〜後期についての研究が進んできていて、例えば都市部は核家族だったんじゃないか、と言われていたりします。だから落語に出てくる江戸時代の長屋付き合いみたいなものは、物凄く短絡化したらゲマインシャフト的な地域コミュニティかもしれないけど、家族とは言いづらいですよね。
一方で現代のキューバの家族のあり方は変わっていて、一生の間に何回か結婚/離婚を繰り返して、何度目かの結婚でも昔の配偶者が訪ねてきたりして、子供たちは親が何人もいるような感覚を味わうことがあるらしいです。
http://www.divorcereform.org/nonus.html
これって、言ってみれば「オープンファミリー」みたいなものかな?

ところでウェーバーとニーチェの関係は(社会学やってるくせに)全然分かってないんです(恥)。教えていただけたら幸いです。>こがさん
それとギリシアの都市国家ポリスは、少数の市民階級の下に大多数の奴隷がいたのが気になります。多様性を担保するための道具立て(というか制度と資本配分)がどうなるのか、というのがなかなか難しいのではないでしょうか。
横から初カキコです。よろしく。
ウェーバーとニーチェについては山之内靖さんのタイトルそのものずばりの著作『ニーチェとヴェーバー』を読めば十分ではないかと。
もっとも山之内さんは師匠の市民社会派の大御所・大塚久雄についても「晩年はニーチェ的ペシミズムに傾いていた」などとぬかしてるので、多少電波の匂いはしますが(笑)。
はじめまして。カナダのトロントに大学院留学中のchi*と申します。

「オープンファミリー」という言葉の含意ですが、わたしが実践している人から聞いた範囲の印象ですけれども、男女のヘテロセクシュアルな対を基本とした一夫一婦制度にチャレンジしていこうという考えがあるケースも見られます。たとえばある女性には結婚している「夫」と、女性の「パートナー」がいて三人で同居、周囲には「わたしたちはオープンファミリーである」と公言するというケース。

何度も結婚、離婚を繰り返した結果子供にとっての「親」が多い場合、あるいは長屋のような生活形態をオープンファミリーと名づけてカテゴリー化することも可能かもしれませんが、これらではヘテロセクシュアルな関係が自然化されています。また、必ずしも自分から「オープンファミリー」と名乗っているわけではありません。これに対して、「オープンファミリー」と自ら名乗りながら性のポリティクスにチャレンジしている場合は、意図的な社会実践と見ることができます。
ウーェバー、ニーチェ、フーコーならネタ本はオーウェンですかね。
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0821-4.htm
三者の関係については散々論考されてますが、この本は確か山之内本の下敷きにもなっている代表的なもの。
>chi*さん

キューバの家族いいですね。憧れます。
「意図的か否か」というのは大きな分岐点ですねー。僕はもう無意識的で自然なオープンさは体感できないかもしれません(涙)。

最近読んだ本で家族の崩壊と再生を描いたと言われる
舞城王太郎著「みんな元気」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4104580023/ref=pd_bxgy_text_1/249-0236042-7807570
はなかなかオープンファミリを描いていると思えます。日常の常識のほんの一部が変わっただけで、それまで当り前と思えていたことがそうとも思えなくなることは誰しも感じるところだと思います。たまに宇宙人との交流が始まったら人類はどんな常識につつまれるのかなーと考えたりします。

あとはカナダ在住とのことで思い出した本で、
「気流の鳴る音」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480087494/ref=pd_bxgy_text_1/249-0236042-7807570
読もうと思って読んでない本でした。「曖昧なものは悪」となりがちな現代社会へのメキシコのインディアンの方からのメッセージのようなものみたいです。機動戦士ガンダムのアムロも「曖昧でいいんじゃないですか」って言いながら戦っていたからなー。曖昧だからこそ理解し合えることって割と多い気がするな。役割がはっきりしすぎて他人のことが見えなくなることって多いかも。

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