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ミシェル・フーコーコミュのフーコーは、あなたにとってどう役立っていますか?

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フーコーの言ったことで、
自分の思想は道具箱のようなもので、
ねじ回しとかと同じように使って欲しいという言葉があったと思います。
あなたはフーコーを、どのように役立てていますか?
換言すれば、
あなたはなぜフーコーに出会い、
フーコーを読み、
フーコーの思想に価値を見出したのか?
そしてそれはどのような価値ですか?

皆様の回答に非常に興味があります。
よろしくお願いいたします。

コメント(43)

「自己のテクノロジー」、「啓蒙とはなにか?」が好きです。
常に「現在」という状況にあらざるをえない私達が、自己の根源的要求をいかにとらえ、対処していくかということが関心の主題です。
漠然とした不安に悩まされてた高校時のバイブルです。狂気も常識も時代、風潮によって意味合いが変化していくな、と。
精神世界の歴史書、だと思います。
トピック作成者です。
皆様の回答に考えさせられるところが多々あります。
回答を書きたいが、すこしまとめる時間をください。

聞いてばかりでは申し訳ないので自分のことも書きたいと思います。
が、少々お待ちください。
正直ドゥルーズ+ガタリやデリダといったフィルター、それもそもそもは蓮實や浅田のテキスト中の
引用といったものに表象される
当時のニューアカへの憧れのなかで、フーコーもまた、その限界やそれへの批判的視線を持つ
対象としての出会いが最初であったが、サイードの「オリエンタリズム」をここアメリカで精読する
機会とともに、実にもっとも重要な思想家の一人として自分の中に再登場したのが
フーコーでした。
クィアに対する偏見がなくなりました。
トピック作成者のテツです。

学問というもののえらいところは
自分のいる地点を全く別の観点から見ることができることだと思います。
自分は(自分たちは)どこから来て、どこにいて、何をするものかということを。
例えば、平らな地球から丸い地球へ。天動説から地動説へ。
我がミッシェル・フーコーもそういった新しい観点を提供した偉人の一人であると思います。

そういう知の巨人、フーコーは確かに存在します。私たちの知の先生です。

しかしフーコーはもう一人います。
フーコーは、ジーンズメーカーと同じ名前の人類学者とは問題の切実さについて全く違っていました。
監視・刑罰・権力・生・狂気そして死・・・・。
いずれも現在生きている私たちにとって、非常に切実な問題に取り組みました。
フーコーは歴史家ではありません。現在の問題に取り組む思想家であり
現在の私たちと同じように切実に悩み、苦しんだ人であります。
その意味で私は彼を友達のように親しく思えるのです。

80年代のニューアカ・ブームから入った人もそうでない人も、今や思想界のスターではなく、
フーコーに対して自分との近さを感じているのではないでしょうか。
フーコーの取り組んだ問題は、自分の問題であると捕らえているのではないでしょうか?
つまり自分のフーコーについて語ることは、自分について語ることと同じことです。
フーコーは、悩み考えているひとのために、道具として自分の思想を使って欲しいと言ったのだと思います。
皆様は言葉少なですが、私にはそのことが透けてみえるのです。
テツです。

自分のことについて書きましょう。
私は子供のころ、埼玉県に住んでいました。
親と一緒に、たまに東京に西武池袋線を使って出てくることがありました。
当時の西武線は本数が少なく、帰りの電車は特に混雑していました。
私は電車に酔ってしまい、以来、乗り物嫌いになりました。
中学生くらいになると、それが固着して電車に乗ること自体が怖くなりました。
専門的には不安神経症というらしい。(いまではパニック障害というほうが一般的かもしれません。)非常に苦しみました。
森田療法という精神療法を使って直しました。

フーコーに出会ったのは遥かあと、大学生の時です。本格的に読み始めたのは社会人になってからです。
私は、これまで、神経症になったのは、自分自身の心のコントロールがうまく出来なかったからだ、と思っていました。森田療法もそのように教えます。
確かにそれはそうなのですが、フーコーを用いると次のように問いを置き換えることが出来ます。
「私を神経症にしたものは何か?」
電車とは人間の大量輸送手段に他なりません。これが近代の乗り物です。してみれば近代とは効率化のために人間をモノのように詰め込んで運ぶことなのでしょうか。
そして、不快な乗り物であるにもかかわらす、便利だからみんなが使います。いや、否応無く使わなければならなくなります。これが近代であり、近代の権力の姿です。近代の権力は生活の隅々におよびます。管理、性、そして生と死まで。
フーコーの分析が、どこまでも深くなっていったのは、皆さんご存知のとおりです。
晩年、フーコーはこの権力装置に対して自分なりの反撃を試みています。
その反撃の姿がどのような内実を持つものか、私は知りたいと思っています。
私見ですが、カンギレムの弟子たるフーコーは、身体的な、生理学的なプロセスのトラブルを疑ったことはないと思います。彼は最後は病院で死んでいます。

フーコーが疑ったのはトラブルをトラブルたらしめているものでしょう。

生物学的に言って「正常と異常」は進化論的にしか線引きができないが、いわゆる「科学」の範囲を超えて、われわれの社会は、あるいはわれわれ自身の生活規範(われわれの身体に内在化された生活規範)はこの正常と異常の区別をわれわれに押し付ける。

身体的なトラブルと自己のコントロール、社会的合理性の問題は、フーコーの権力論というより、カンギレムの生命論・技術論ではないでしょうか?

フーコーの権力論はその延長上にあって、カンギレムが言わなかった別のものを目指していると思います。
はじめまして。
これは教えられたことですが、「知の考古学」の中に確認できます。
『知の考古学』231頁
「考古学的分析にとっては、矛盾は克服すべき仮象でもなければ、解き放つべき秘密の原理でもない。それらは自己自身のために記述すべき対象であり、いかなる観点からそれらの矛盾が雲散しうるか、いかなるレヴェルにおいてそれらは先鋭化し、結果から原因になるか、が探し求められることはない。」
242頁
「考古学的比較は、統一化する行為ではなく、多様化する行為である。」

単に考古学は事物から(これはテクストと置き換えても可能でしょう)結果を導き出すのではなくて、つまり原因を突き止めるのではなく、いかにそこから多様化するかその行為が重要である、ということになると思います。非常に参考にしています。

いま、私が管理人をつとめている、コミュニティがあります。

「磁性をもつ・磨り硝子の中の書評」といいます。
言説を大事にしたいと思います。また、間違うことは誰しもあります。ただ、国家が間違った方向にいくことだけは、やはり敏感にしていなければいけません。
毎回、ビビッドなテーマの本を読みあい、意見を交換する場です。
よろしければぜひご参加下さい。大歓迎です。その節は、はじめましてにでも入れてください。
http://mixi.jp/view_community.pl?id=3020901
Enzoさん、ザッコさん、コメントありがとうございます。
お二人とも、私のフーコー理解が単純すぎるとおっしゃりたいのかな?と思います。
コメントが難しいので、申し訳ございませんがもう少し噛み砕いて説明していただければ有難いのですが。。。

Enzoさんのコメント
「フーコーが疑ったのはトラブルをトラブルたらしめているものでしょう。 」・・・・「トラブルをトラブルたらしめているもの」って何だろう?
神経症を神経症としているもの?それは狂気を疾病とした近代医学と同じものから生じている、・・・ということですか?


ザッコさんのいうことは、私の最初のトピック「フーコーは何に役立つか?」に対するザッコさんなりの回答と思います。ありがとうございます。が、いまひとつその有用性がわからないので、もう少しコメントいただけると助かります。
役立つ。
そうですね。高尚なものとして崇め奉るより日常に役立たなければ意味はない
なんてこと言ってませんでしたっけ。

私は福祉領域で働いているので『狂気の歴史』は考えますね。
偶々時代が疾患を規定したから社会から隔離されるだけで狂気が神オロシのように考えられていた時代もあったんでそういった視点は参考になります。

人文学が何故成立したのか学問が学問として生まれる構造とかね。色色とつながりますねー。

あといっぱいありますがとりあえずこれだけ
>神経症を神経症としているもの?それは狂気を疾病とした近代医学と同じものから生じている
で、ほぼ合っていると思いますよ。
何らかの疾病は、近代医学の用語だと例えば「ウイルスの感染」と表現されるかもしれない。それが前近代なら「祟り」であるかもしれない。
しかし、祟りか感染かはわかりませんが、そのプロセスそのものの先にある身体的な変化については、疑っていないんじゃないの?ってことだと思います。

カント的なモノそのものがあるかどうかは留保するけど、モノそのものを指し示そうとする「真理」を対象にした、と言い換えてもいいかもしれないです。

その点については半ば同意するのですが、しかし「トラブルをトラブルたらしめている」もの(例えば「精神医学の真理」)を疑うということは、「トラブル」について「疑わない」ことではなく、「留保する」ところに帰結せざるを得ないんじゃないかとも思います。

トピに戻るのですが、フーコーの思想は基本的に「マッチョ」でないところが私にとってはとても魅力的です。
例えばアドルノのような「かくあるべし」という像を掲げた、批判精神の塊のような論者の対極にある思想家でしょう。アドルノは、それはそれで魅力的ですが
結構マッチョなところがあって(しかもそのマッチョさが私の意識とはズレているので)、疲れてしまうのは私だけじゃない気がします。

フーコーの批判精神はむしろ、アドルノ等とは逆方向からの照射の仕方をしていて、ある問題を切り取っていくつもの補助線を引いていく。そしてその補助線でトピックをぐるぐるにしてしまった上で、「私はこの補助線からならこう見える、こっちからはこう見える、あなたはどの見方が好き?」と問いかけてくるような書き方をしているわけです。
(逆にアドルノは確固たる自分の点をもって、論敵となるトピックを徹底的に批判しつくす、これはこれで相性が合えば面白い)

そういう点でいうと、フーコーがメインのトピックとしたものとは別のトピックを論じているもの(実はメイントピックへの補助線)が、最近は面白く感じていて、思考集成に入っているインタビューや、講義録の注釈を読み直しています。
大変遅くなりました。テツさんへ。

晩年、フーコーはこの権力装置に対して自分なりの反撃を試みています。
その反撃の姿がどのような内実を持つものか、私は知りたいと思っています。
>この問に対してのフーコーを引用するなどして明確な返答を今は持ち合わせていません。
私はテツさんがおっしゃったように単にフーコーの思想が意外に簡単に応用のきくものだと言うことで書きました。つまり、実際の考古学は発掘します。その過程で、遺物を見つけます。学問とは、遺物を見つけたからと言って終わりではなく、さてそれが遥か遠い原始の時代、どのように有益だったのか、を研究しなければいけません。まだまだわからないことは多そうです。簡単な原始特有のなにか木で作ったものが出たとしても、はたしてこれは呪術なのか祭祀なのかさまざまに研究しなければわかりません。
また、近代以降の科学というものに対しての考え方は、私は科学思想が本来なら良いと思いますが、フーコーの意図とは若干違ってきますのでここら辺で終わりにしておきます。
トピック作成者です。

皆様コメントありがとうございます。興味深く読ませていただきました。
「役に立つ」という観点から言えば・・・
?「狂気の歴史」「言葉と物」など、前期フーコーともいうべき思潮の影響力は絶大で、多くの方が自分の思考の枠組みを変えさせられる経験をしています。
中には非常に切実な経験も書かれています。例えば、
●福祉領域で働いているので『狂気の歴史』は考えさせられる
●自己の根源的要求をいかにとらえ、対処していくか
●漠然とした不安に悩まされてた高校時のバイブル。精神世界の歴史書
●クィアに対する偏見がなくなりました
●自分と発想が似ている。斜に構えて世の中を見ている目線にとても共感を覚えました
●「モテない」と思う意識そのものすらも(フーコーのいう権力がつくっているのかも知れない)・・・(笑 /失礼!実は本当にそうかも知れません)

?一方、フーコーの知的方法に実用性を感じている方もいらっしゃいます。
●「知の考古学」における知的方法。
●フーコーの思想を「マッチョでない」、多数の補助線から問いかける方法だという指摘。
・・・非常に参考になります。

特に?のことについてはあまり論じられることがありませんが、非常に重要であるような気がします。
なぜならば、フーコーが扱った問題:権力に対しては、ストレートな反撃はできないので、彼の編み出した知的方法が、その内容とともに本質的であると思うからです。
学問というものは、その本質において方法です。フーコーは対象を扱うために、独自の方法を編み出したのでしょう。私はそれをはっきりと把握しているわけではありませんが、このことを意識しつつ、私の最大の疑問について別のトピックを立てたいと思います。
>テツさん、せれさん

>>神経症を神経症としているもの?それは狂気を疾病とした近代医学と同じも>のから生じている
>で、ほぼ合っていると思いますよ。
>何らかの疾病は、近代医学の用語だと例えば「ウイルスの感染」と表現される>かもしれない。それが前近代なら「祟り」であるかもしれない。
>しかし、祟りか感染かはわかりませんが、そのプロセスそのものの先にある身>体的な変化については、疑っていないんじゃないの?ってことだと思います。

だいたい、僕のいいたいことは、せれサンの言っている感じです。
ただ、近代医学とか近代科学とかのせいで、正常と病理の区別が確立するというよりは、社会的実践(権力)ないしカンギレム的な意味での「規範」がまずあって、そのあとに正常と病理の区別があるという感じでしょうかね。

なので、フーコー理解にあたってのカンギレムの重要性を指摘したまでです。
ボクはフーコーにおけるカンギレムの影響は、歴史的な方法論とか概念史とかではなくて、「監獄の誕生」の近代の合理化に対する批判だと思っています。

カンギレムの生物学や医学の批判的な研究を踏まえたうえではじめてフーコーの権力論は意味を持つってことです。
>せれさん

<その点については半ば同意するのですが、しかし「トラブルをトラブルたらしめている」もの(例えば「精神医学の真理」)を疑うということは、「トラブル」について「疑わない」ことではなく、「留保する」ところに帰結せざるを得ないんじゃないかとも思います。>

非常に重要な指摘ですよね。
「社会的な関係」なんてまどろっこしいこと言う前にトラブルは存在するんじゃないかと。。。なにか原初的なトラブルが。。

カンギレムは患者が痛い、辛い場合のみが、本来的には、医学の出番であるはずになると言っています。まず医学とはまずトラブルから出発するのだというのが彼の主張です。社会の合理化で余計なものまで病気として同定されて、マイナスの価値のレッテルを貼られることに対する批判です。

対して、フーコーの場合は、彼が「系譜学」とか「現在の歴史」とか「アクチュアリテ」とか言うときは、まずやっぱり「トラブル」があると思います。ただし、この場合は、フーコーが歴史を再構成するときの出発点。いわゆる、問題構成、プロブレマティックってヤツです。現在の我々のトラブルですね。

なので、『狂気の歴史』はトラブルとしての精神疾患の歴史ではなく、現在(20世紀中ごろ)の精神医学やその周りの諸実践が抱える問題から見た歴史といった感じです。
こうしたフーコーの方法だと、いわゆるトラブルそのものの歴史にはならないし、ゆえにトラブルそのものをカッコに入れてしまうことになるのではないでしょうか?

それで、心身のトラブルが科学的にどれだけ確かなのかというトラブルの根拠を問題にしたいのであれば、カンギレムを読むほうがいいと思うと書き込みました。
カンギレム的な意味での「規範」が強い影響を与えている。という指摘は全くその通りで、確かにここでの「トラブル」と「精神医学の真理」とは相即的な関係にあります。
したがって、例えばかなり具体的に「〜痛い」ということは、少なくとも医学的な体系の現出に、必須の要件となっているようにみえる。
ここのところはカンギレムの領域だということも同意です。

しかしこれが一旦フーコーの解釈枠にいれられると、とても難しくて頭が痛い(笑
これはフーコーが身体的で、かなりの程度万人に共通であろう「痛さ」などからは離れた「精神医学」を主対象としたことにもよるのですが、まずその「トラブル」が何なのかを同定する作業そのものの中に、「真理」の体系が入り込まざるをえない。
例えば講義録の『異常者たち』をみると、何が「異常」であるかの判断は、それまで「トラブル」だと当事者にとって意識すらされていなかったような、「問題(?)」が、医師とのやり取りのなかで、「ああ、これまでの私はおかしかった」という発話に帰結してくる。
そして「おかしかったワタシ」を認めるその位置に、診断の「妥当性」(=正当性)が現れてくる、と書いてある。

これは覆しようもない「妥当性」をもった診断で、あたかも自白のみを証拠とする警察的手続きなわけです。ここでは「主権」は決して間違うことはない。

そうなってくると、「トラブル」が先にあるのか、あるいは数ある「トラブル」の中から何かを「問題」として取り出す作業があるのか、あるいは取り出された「問題」に正当性が付与された瞬間に「トラブル」があるのか、ちょっと分からなくなってくる。
フーコーはここで、明らかにC.シュミット的な(精神医学による)「決定」に、「トラブル」発生のモメントをみていると思いますが、もちろんここまでくると、カンギレムの問題圏からは出てきてしまいます。
>せれさん
<「トラブル」が何なのかを同定する作業そのものの中に、「真理」の体系が入り込まざるをえない。 [...]そして「おかしかったワタシ」を認めるその位置に、診断の「妥当性」(=正当性)が現れてくる、と書いてある。 >

そうなんですよ。ある種の「自白」=「自意識」をトラブルの根拠にしている部分が精神医学にはあるんですよね。で、この自白を医学の中に取り込む過程(近代医学の成立そのものかもしれませんが)が『臨床医学の誕生』なんかでとりあげられて、そのための監禁などの実際の実践の合理化の具体的な歴史が『監獄の誕生』あたりで描かれる。でも、他方では、この「自意識」形成のプロセスそのものは、どうなっているのか?ってなると思います。この問題は、おそらく、フーコー晩年の「主体化」の問題なのだと思います。

晩年の問題なのですが、思い出すべきは、フーコーの初期の研究が実存主義的な精神医学の影響を受けていることです。
例えば、ヤスパースなんかは、かなり、特殊な事例として、患者が自分の異常性や病理を意識していく過程を丹念に取り上げています。こうした議論をフーコーが知らないはずはありません。この辺の影響は『狂気の歴史』ではあまりはっきりしなくなっちゃうところで、確かな証拠がないのですが、ボクはやはり、患者の自意識の形成と晩年の主体化の問題は繋げられるのではないかと考えています(あと、少しマニアックなのですが、ドレイファスがフーコーにおけるフロイトからの影響としてある論文で「意識化」による治療というものをあげています。いわゆる「系譜学」などのことです)。

この文脈で考えると、「人間を扱う科学的言説」の根拠は、自白ないし自意識だけでも、客観的な真理だけでもなく、知と権力と主体化の関係の中にあるとしたフーコーの立場が見えてきそうな気がしませんか?

他方で、カンギレムは、はっきりと、患者の病人としての自意識から、医学が始まるとしているので、おっしゃるとおり、この問題圏には届いていないです。ただし、彼であれば実存的主体じゃなくて生命体としての個体が問題なわけですが、この場合では、さまざまなレベルでの「規範の内在化」という議論が出てきます。今日、人間の行動をさまざまなレベルで、進化論的な形成プロセスに還元することを試みている学問(進化心理学など)があることを考えると、生物個体と実存主体の明確な線引きはかなり難しい。社会的行動すら生物の進化上での獲得物だという議論はかなりの説得力を持ち始めてきました。

では、「病理学」的なトラブルはどこから来るのかという問題になるのですが、もし因果的な「説明」モデルを求めるのであれば、カンギレム的な生物学・進化論的なものが無難だろうと思います。いわゆる、科学的な説明です。
そうでなく、とにかく今抱えている「あるひとつの」トラブルを問題にするのならばフーコー的なアプローチがいいのではないでしょうか?少し大雑把ですが。。。

ボクがフーコーのLectureでカンギレムにこだわるのは、このような理由からです。未完のニーチェ論や社会規範論を含めたカンギレム全集の刊行が待たれます。パリIのブロンシュタイン先生が今やってるようなのですが。
>もんじゃさん
「認識の変化」のくだりには全く同意しますし、それ以下でも重要な点を指摘しているように思います。

しかしイリイチとフーコーは同じ問題圏に言及していながら、実は全く違うベクトルを向いていると私は解釈しています。
イリイチの脱病院化論は、それはそれで時代背景を踏まえて読むのであれば、切実な問題の立て方であるということには同意してもらえるかと思いますが、
今から読めば一面的な告発形式のものであるようにも、確かに見えます。
つまり、実際鬱病で苦しんでいた人が楽になったり、という面もあるじゃないか、ということも含めて。(とはいえ、イリイチはそんなことは百も承知で「カッコーの巣の上で」のような状況に一矢報いたのですが)

ところが、フーコーが精神医学の問題圏に言及する際、これは当時からよくある誤解だとフーコー自身も述べているのですが、「狂気の歴史」のような研究は精神医学を告発するものではなく、あくまでその枠組みの変化を読み取っていく作業だったわけです。そしてその作業が、「アンチ・オイディプス」のような同時代の著作と重ねて読まれた結果、精神医学の抑圧的な側面がクローズアップされて読まれたのではないでしょうか。
(もちろんフーコーはある程度精神医学に懐疑的な姿勢は持っていますし、抑圧的な側面に最大限の留意をしているのですが、「告発」が第一義的な目的ではなかった、ということです)

そうすると「権力」はイリイチ的な意味ではなく、単に「力の作用」といったような意味で取るのが妥当じゃないかということになります。(そもそもpouvoirを権力と訳すよりは、単に「力」とか「力の作用」と訳すほうが適切だとも思いますが)
したがって、フーコーは明らかにpouvoirのない「ユートピア」を夢想していたわけではありませんし(そのようなユートピアを彼は「ルソーの夢」だと嘲笑しているわけで)、pouvoirの有無ではなく、そのあり方を問題化しているように見えます。例えば反精神医学運動もまたpouvoirの発散であったように。

鬱病という診断に関していえば、今月の「現代思想」にも出ていましたが、単に気分が落ち込んでいる状態の人に「鬱」という診断を出してしまうことによって、より症状が悪化してしまうという自己成就的な予言の問題があります。
これはフーコー的にみれば、ある種のメンタルを医学的な体系のもとで対象化する権力の発現であるし、かつてはアントナン・アルトーやバフチンが想定していたようなメンタルなもの(あるいは「狂気」)と日常性や審美性との結びつきが、医学的な体系との結びつきに取って代わられたということでもあります。

もちろん、ここである種の脳内物質を抑える薬が処方されることで「本当に」病気が改善される人もいるでしょうし、あるいは自己成就的予言に嵌っていく人もいるでしょうし、「心理学化する社会」の問題が出てくるかもしれない。
その内部で「本当」になにが起こっているのか、ということを留保した上で、出来事の外周的変化を読み取っていく。そしてその解釈が社会運動などに道具箱として使われることで、権力性が告発されるかもしれない(という期待をフーコーは明らかにもっていますし、自身も行動していたわけですが)、というスタンスを彼は保持していたのではないでしょうか。
>もんじゃさん

答えになっているか不安ですが、カンギレムは、『正常と病理』の中で、次のようなエピソードを自説の具体的事例としてあげています。記憶だけで書いているので細部に誤りがあるかもしれませんが悪しからず。

ある家具職人が、作業中に怪我をしました。電動の鋸のようなもので利き腕を大きく損傷したのです。医師の懸命な処置により切断は免れますが、元通りにはなりませんでした。稼働範囲が正常な人と比べて約60%動くようにしか回復しなかったからです。この意味で彼は障害者であり、身体に異常な部分を持つ者です。しかし、彼の雇い主は元の職場に復帰させ、彼のできる仕事を与え、彼はほぼ元通りの暮らしを回復することができました。

この場合、彼は正常なのでしょうか?病理学的な障害を持つ患者なのでしょうか?

生物学的に正常とはカンギレムにとっては、その任意の個体の生活の規範の中でうまくいっていることです。生活の規範とはその個体が周りの環境の中で自分を変えつつ環境を変えつつうまく生きていくことです。環境は変化します。身体も変化します。したがって、自分である程度、環境も身体も、そしてその両者に合わせて生活の規範も、うまく適応させながら変化させ生きていかなければなりません。それができなくなったときが病理的状態です。

この意味で言えば、例の逸話の男は、腕に病理的な障害を抱えていますが、正常と言えます。しかし、彼は以前よりも適応できるであろう環境や、設定できるであろう生活規範の可能性の幅は狭まっています。この意味では病理的な状態にあります。
したがって、二つのレベルで正常‐病理の区別があることになります。実際の生活規範のレベルと潜在的なレベルです。

生物学的には進化論的な視点から考えて後者が正常−病理の基準となります(生き残る可能性が高いという意味で)。
前者のレベル、逸話の男の例では、彼が正常でいられる環境は様々な偶然的要素に依存しています。実際多くの事例で、生命個体は様々に適応し、病理的な状態と言われるような身体を持っていても生きている場合が多いです。

したがって、正常‐病理の区別は、厳密に科学的なレベル(生物学的なレベル)では、進化論的な意味でしかつけることができず、現実の複雑な状況でこのレベルで区別をつけたとしても実際上ではあまり意味がないし、もし実際に区別をつけているとすれば、実は何か違った基準で行っているのではないかということです。
これが、厳密に科学的な意味では正常と病理の区別がないというカンギレムの議論のあらましです。『言葉ともの』でフーコーも似た様な議論を病理学上の歴史的な事実としてあげています。どんな病理学的な反応も正常な生理学的な反応と連続性を保持している(はず)というわけです。

では、この区別に科学的な根拠ないのだとしたら、その基準とは何なのでしょうか?

例えば、件の男は、依然と同じ仕事ができないと言う理由で、解雇になり依然と同じ生活ができず、それが元で一家離散をし、新たな生活の規範をうまく設定することができず、犯罪者となったり、精神的なトラブルに陥ってしまうこともありえたわけです。
または、彼は障害者として自己のアイデンティティを規定することで、自分の生活の規範を設定して、微々たる年金で満足して一生を終えたかもしれません。

こうした想像上の後日談において、厳密には彼は死んでいないし、曲がりなりにも新たな生活の規範を設定しています。我々がなんとなく彼が実際の話と比べて「不幸」であるとなぜ思うのでしょうか?何かこの3つ事例を価値付けて上下をつけたりしていないでしょうか?
こうした問いに答えるためには何に注意をして何を問わなければならないのか?フーコーの問題はこの辺りにあるのではないかと思うのです。

され、以上の議論からすると、医療とは、それが科学的な根拠に基づいて行われる限りでは、患者に元の生活の規範を回復してあげるのを手助けするということ以上のことはできないのではないでしょうか?それ以上のことをすると、何か「予断」が入ると思います。(念のために言うと治療行為は科学的な根拠がある/あるべきです。)

自分で自分の生活の規範を、日々変化する身体や環境の条件に合わせながら、設定しながら生きていくのが生きているということなのでしょう。その限りで、治療のテクノロジーを利用するのも一つの戦略であるのは間違いありません。
まぁ、人間は社会的規範を内在化しているので、自分の生活規範をまったく一人で作るということは、不可能なのは言うまでもないのです。
このコメントでは、少し単純化しすぎて、主体の能力を不当に高く見積もりすぎの間もありますが、元気出して生きていくにはこのくらいでいいんじゃないですかね。フーコーのPouvoirを強く取りすぎると楽しいことも権力関係に還元したくなってきますからね。

もう少し続けます、すみません。各論です。
>もんじゃさん
<狂気と正常との線引きが作られるという分析以前に、患者が「苦しい」という現実的な問題があるとは思います>
 まず、患者の「苦しい」が精神疾患の医療行為でもまずあるのではないかという問いです。
 上記のボクの説明を踏まえれば、「苦しい」というのは、具体的に身体的に苦しいのか(痛いのか)、それとも、身体的に苦しくて生活の規範がうまく環境と適応せずそれが原因で「苦しい」のか(単純化して人間の主要な環境を社会的環境に代表させると、「社会的に苦しい」のか)で意味が違います。さらに精神疾患だと、精神疾患の様々なレベルがあります。自覚のあるもの、ないもの、自覚があることで後者の意味で「苦しい」もの、精神疾患と規定されて苦しいもの、監禁されて苦しいもの。
問題は、上記のような厳密な科学的な区別では、何も根拠がないにもかかわらず、これらすべてが精神疾患というカテゴリーの中に入れられて一緒に扱われ、そしてその根拠が「客観的な」「科学的」知識で真理を保持しているとされていることです。
そのとき、精神医学的な言説は真理として、患者の主体形成(自意識)に影響して患者を苦しめるのではないでしょうか?もしかしたら、原因は環境の方にあるかもしれないではないですか?ただこのレベルでは原因を特定するのはできそうにないですが。

<「自傷他外の恐れのある人間の措置入院」という監禁制度>
 それで、上の問題と重なるのですが、次の問いは、現在の監禁がフーコーの問題射程に含まれるか否かと言う問題ですね。
 フーコーが『狂気の歴史』で上げている事例は、ピネルやテュークによる精神病院成立当初のものです。そこでは、精神疾患の患者は、彼らが苦しいから監禁・入院させられていたのではなく(そういう事例もあるでしょうが)、社会の治安、効果的な治療実践、臨床研究などが主な理由でした。治療もいわゆるモラル・テラピーと言われる調教というか拷問まがいのものでした。
現在は薬を使った治療が主で極力入院措置はしないのはご指摘の通りです。こうした変化の理由が監禁よりも自宅療法の方がコストがかからないからと言うのはよく指摘されることです。
 フーコーが『狂気の歴史』を執筆したのは1950年代後半なので現在の状況にそぐわない印象を持たれるかも知れませんが、フーコーが監禁を軸に歴史を再構成したのは、19世紀初頭のピネル・テューク以降、精神疾患が知の対象になり精神医学ないし精神病理学が成立したということを示すためです。

さて、おそらくそれ以前にはなかった「人間」とか「人格」とかの概念にもとづくヒューマニズムの誕生もほぼ同時期だと思われます。
このように考えると、現在の監禁のあり方もフーコーが問題とするヒューマニズムの結果だと言えないでしょうか?ヒューマニズムと合理化の結果、今の監禁システムがあると。一見ヒューマニスティックな意味で改善されているかに見える監禁制度ですが、心や身体に直接作用する権力と言う意味では、まさに、逆説的ですが、フーコーの指摘の通りではないかと思います。この意味で、回りくどいですが、フーコーの議論は現在の監禁制度も批判の射程におさめていると思います。
肥満、喫煙、飲酒、売春、麻薬。ここ50年で随分と社会の寛容さが減ってきてこれらの取り扱いが変化したことでも、こうしたミクロな権力関係の効果のほどを察することができるのではないでしょうか?福祉社会をフーコーが批判したことも思い出されます。

ホントにごめんなさい。最後です。

<患者の自意識の形成><「認識の変化」><自己成就的予言>
 このあたりはおっしゃるとおり、患者の自己認識は社会の影響をもろに受けています。精神病理学では、ヒステリーや妄想の症状が社会や時代によってかなり違うことを確認しています。近年のうつ病患者のカジュアル化は絶対にあると思います。
ただし、変な言い方ですが、一方でこの事態を権力装置に組み込まれていると見ることもできるし、他方でこれを主体が戦略的に社会の評価をうまくアイデンティティの形成に組み込み、コスプレ的に自己演出していると見ることもできます。同じ事態をどうとらえるかは、客観的にはなんとも言えません。

>せれさん

ボクは哲学畑で社会学の議論に疎いので一つ質問したいのですが、よろしいでしょうか?

フーコーの権力の告発は、イリイチ的なものと異なるというのが、せれサンの書き込みの趣旨なのでしょうが、具体的にはどのあたりが違うと一般的には論じられていますか?
イリイチの立ち居地がいまいち掴みかねるのですが、ウィキペディアにあるような、道具的な理性やら人間の本来性の阻害みたいな話だと、大雑把過ぎて、ハイデガーとかアドルノなどなども含まれてしまいそうなので、もう少し詳しく比較してもらえると助かります。
「心理学化する社会」という言葉も気になります。もう少しヒントをください。よろしくお願いします。
イリイチとフーコーの語り方が違うのは次の点だと思います

イリイチの場合は、出来事や概念に対する操作的定義をかなり限定的にやっていて、『脱病院化社会』にせよ『シャドウ・ワーク』にせよその論考自体の中にかなり一義的な政治的主張が含まれています。
Enzoさんがアドルノなどのフランクフルト学派の例を出したのは適切で、イリイチは当時のフランクフルト学派とかなり近い議論をしていて、まず当時のソ連体制批判を念頭においている。これはフーコーも同様ですが、フーコーがあくまでその「権力の網の目」を描写しようと試みるのに対して、イリイチの場合は「あるべき自由」像をもっているようにみえるわけです。(例えばハバーマスが「討議」による合理的な結論の導出を「あるべき像」として立てたように)

この自由観についてはイリイチが「コモンズ」と呼ぶようなものに代表されるのですが、ちょっと近い例としてI.バーリンの自由論を引き合いに出してみます。
周知のとおり、バーリンは「積極的自由(〜へ向かう自由)」と「消極的自由(〜からの自由)」を区別して、「消極的自由」を擁護しました。(正確には消極的自由を大前提としながら、もう少し主体的な「基礎的自由」を理想としていますが)。
というのも、ファッショ、全体主義の経験から、「積極的自由」が「権力」によって定められがちであり、「積極的自由」の領域であった「よく生きること」といったような<生>の領域が統制化におかれることを批判したかったからなのですが、これをイリイチ流に言い換えれば、次のようになります。
すなわち、「健康」であるか(ありたいか)どうかや、自らのQOLをどのように定めるのかといった領域において、すぐれて制度的な意味での「権力」が作動して、「医師」の監視下で「より健康に生きる」ことが強制され、また自明のものとなってしまった社会から、「どのように生きるか」という決定を救い出すべきだ、という主張です。
(ここでいう「権力」とはフーコー的な意味というよりは、アルチュセールの「装置」に近いものです、イリイチとアルチュセールはかなり近い位置にあると思います)

議論の立て方からいえば、イリイチはある種の理想となる概念軸をもった上で、批判対象をそれとの対比で切るのですが、
フーコーはまず概念軸の「正しさ」を保留した上で、暫定的ないくつもの「正しさ」をネタとして仕込みながら、問題対象にいくつもの補助線を引いていく、というやり方をしているように思います。
これはフーコーが「書く」という行為の意味を尋ねられたとき、「前の自分と同じ考えをしないため」だと答えたことに端的に表れている姿勢ではないでしょうか(引用は『思考集成 政治・友愛』のどこかだったはず)。

「心理学化する社会」は斎藤環さんの本のことですが、上の議論からすれば、イリイチよりの分析図式のものです。
要するにカウンセリングや「心の病」を解決することが明るく求められる社会において、結局心理学的な「問題」の解決の意味って労働力の再生産にすぎないじゃないか、と批判する。「心の病」は対人関係の問題や仕事のストレスから発生しやすい(といわれる)、そして「心の病」を治すべきだ、としてカウンセラーが大発生し、結局やっていることはその「病」を治してまた、会社や学校へ引き戻していく作業(=正常化)にすぎない、というそれだけといえばそれだけの本です。
>フーコーの場合は外からみた異常に焦点があつまっているように思います。

というのはまさにその通りで、すなわち医学モデルに内在した身体観を彼はとっていないからですね。
もんじゃさんの話が面白いのは、もんじゃさん自身の個人的経験が、その実社会的経験と不可分であることを示している点だと思います。

最近の障害学では、ディスアビリティ(社会によって与えられた障害、差別)とインペアメント(個人的な身体による困難さ、例えば目が見えないことなど)
の差異が一つの問題圏を構成していますが、例えばB.Hughesという人がフーコーなどポスト構造主義の枠組みを使いながら、障害の現出について次のようにコメントしています。

すなわち、「健康な身体」たれ、と命ずる身体の審美化―圧制(aesthetic trranny)は、そのまなざしによって「障害」をもつ「異形」のものを正常化しようと試みる。ここまではごく普通の議論ですね。
しかしヒューズは、この説明図式だけでは障害を持って(例えば片足のない)いる人の身体的かつ個人的な経験を説明することはできないというアポリアに陥ると指摘します。すなわち、障害というカテゴリーがなくなったとしても目が見えない/歩けないという身体的経験(embodiment)、あるいは困難は残り続けるじゃないか、というわけです。
ここでヒューズはメルロ=ポンティの身体論を持ち出して、「ディスアピアランス(dysappearance)」という造語を作り出します。
すなわち、我々の身体というのは通常、わざわざ意識されることは普段ない。しかし意識に上るときというのは、その身体が通常「困難(痛み・違和感・他者による視線)」を覚えたときである、という素朴な経験論から出発します。
そして「障害者」がインペイアメントとしての困難さを感じるときというのは、実のところその裏側に、社会の側からのディスアビリティが常に既に、保持されている、そのインペアメント経験の現出こそが「ディスアピアランス」だと指摘します。
例えば「目が見えないこと」が、インペアメントとして経験されているのは、「盲人」に対する優れて制度的・設備的な意味での不備があるからのみではなく(つまりバリアフリーによって解消されるようなものだけでなく)、まずそのモノを「異形」のモノとして「同情」したり「特別扱い」することによって現出=アピアランスさせているからだ、というわけです。

こうなると、インペアメントを構成しているのがディスアビリティであり、ほとんどの「障害」は「社会モデル」によって説明されているようなもの(=障害は個人にはない)だという結論になりますが、しかしこれとは区別されたインペアメントは確かに残り続けます(骨折の痛みそのものなど)。

もんじゃさんの言うように、鬱病が社会の側に軸足を置いているのか、脳内に軸足をおいているのかの判定がとても難しいのは、上記のディスアビリティ/インペアメントが入れ子構造になっているからではないでしょうか。
すなわち、何らかの脳内物質が不足、ないし過剰である状態を「精神疾患」だと呼ぶのであれば、それはインペアメントであるように一見見える。しかし、その状態を生み出したものは往々にして、ディスアビリティとしての対人コミュニケーションの悩みや、過度の労働拘束でしょうし、また「鬱病」というラベリングでもあります。
ここまでくると、もう「鬱病」を観察する軸足の置き所をどこにするのか、という決断によってこれを「ディスアペアランス」とインペアメントの隙間における個人的経験だと考えるか(メルロ=ポンティ的な説明)、インペアメントだと語られるディスアビリティなのだとする(そして反精神医学を掲げる)、イリイチ的な説明をするのかという違いになってくるのかなと。
近現代という時代を冷静に客観視するきっかけと、
そこに属さないライフスタイルを送る自信をもらいました。
「障害者である」という枠組みは外に向けてあるもので、私は私以外にない。それでいいのだと思わせてもらいました。
また、治療を受け、生活の改善を行うにしても、ドクターの意見は意見として、服薬を含めて自分で選んでいく、自分の人生を選択するという持論に力を得ました。卑屈さが緩和されてきた感じです。
フーコーを邦訳でしか読んだことがありませんが、それでも「とても巧みな文章家だなあ」と感じます。
こんなふうに自分の思い、考えを伝えられる話し手、書き手になりたいなあと痛感させられます。
字義どおりの「破天荒」を真剣に認めてくれそうだなと。

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