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出口王仁三郎コミュの出口王仁三郎『惟神の道』(昭和10年12月5日発行)

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 「世界よ何処へ行く」

 世界よ何処へ行く。
 まったく世界は何処へ行くのであるか。
 仏典将又(はたまた)あらゆる神示に於て示されたる末世は既に来てゐるのであって、百鬼は白昼横行し、仁義道徳は地を払ひ、暗黒無道の世態は正に常世の暗と謂はねばならぬ。
 人心の荒び、これは実に恐ろしいことで、父子兄弟の争ひ、親戚の離反、盟友間の信義の暴虐、主僕の疎遠、上下の反目、労資の対峙等々、世道の頽廃は実に言語に絶して居る。人道は今や潰滅して了ったと云はねばならない。
 国家社会は刻々に危機に陥り、汎(あら)ゆる曲神(まがかみ)は時を得がほの横行振りを発揮して居る。富豪家の堕落は社会を極度に汚し、淫酒にふけって敢て為す所なく、社会の心臓たるべき都会人は安逸快楽に馴れ切って奢侈の限りをつくせば、従って純朴の気は田舎からも去って了ふ。国家の中堅で、社会の第一線に立つべき青壮年は此悪風に眼を眩惑されて、争って悪魔の虜となり、国内に異邦的精神の発生をみるまでに至り、未来の賢妻良母たるべき女子は紅白粉を塗り立てて胡蝶の如き生活に日を送る。全く淫靡の世風は吹き荒んで、聖者の遺訓はあっても鼻紙程の重きをなさず、法令は存しても此の人心を如何ともすることが出来ない。人心の堕落はすべてに反映して経済的の危機も正に来てゐるのであって、農業の不振は商工業に大なる影響を来すこと言ふまでもなく、世界的の不景気風はフーヴァ風犬養風の対抗ぐらゐでは止むことを知らぬ。
 国家の富が増進したとて喜んだ時もあったが、併し、実際は人々の頭上に飢餓は迫って来てゐる。経済的不備は生産過剰を招いて物価の凋落は一層世間を不景気に落し、輸入超過につぐ超過で、経済界は赤字又赤字で、窮乏その極に達したの観がある。かくて国庫は正に窮乏して兌換借款とその行くところを知らず……。
 この人心の悪化、経済界の危殆は人々の生命財産をおびやかすこと正に甚大であって、法警の完備した現代に益々殺傷の行はれる事は寒心に堪へない。人心の悪化は政界の不完全を物語るとみてもよく、暴戻の横行に誠の人士は進むの道を奪はれて仕舞ひ、奸佞邪智の者の天下となって挽回するよすがもない娑婆世界になってしまった。国家の元老は名のみ希(こひねが)ひ己れの勢力と配下を持つことにのみ余念なく、政客に正義なく、只政権を弄ぶかの如く見え、吾党擁護が彼らの仕事となったかの観がある。国家の選良は国議を軽視し、国帑(国財)を浪費して民の負担を日に重からしめ、かくて国家破産の緒を開き、あまつさへ彼の神聖無垢であるべき我等の議事堂に、恰も雲助輩の行動を演出することは慷慨にたへぬ事である。
 医学の完備した世に悪疫の益々蔓延して行く現代であり、交通機関は完備しても而も有無相通ずる道もない今日である。学説出でて益々偏狭陋劣さを現はし、怪論迷説は世を闇雲に導くのみの現代である。国防成って国辱頻りに起るの時、武人は士道華やかなりし頃の気概なく、むしろ物質に愛着を感じてゐる現代を思ふ時、益々世界よ何処へ行くの感は深い。
 人心を天国浄土に導くべき宗教はどうしたのかと叫ばずには居られない。宣教師又は僧侶は、エホバ、仏陀の教義を曲解し誤説して、彼等は極力宗祖の教旨を滅ぼしてゆく。道を説く彼等の品行の堕落は正視出来ぬものがあり、却て精神世界を攪乱しつつある古今未曾有のこの世相には、天神地祇も正に怒りを発したかの観がある。台風、時ならぬ雷鳴、頻りに臻(いた)る水難、旱魃、地震、大火等、軍神つひに憤って天賊地妖を隈なく鏖殺(おうさつ/皆殺)し清め給ふ御心を覚らねばならぬ。

 しかし、神は愛であり慈悲である。神は恵みの主であらせらる。神は『みろく』下生を、或はキリストの再臨を誓約した。即ち神の恵みは天来未知の大偉人の力に依って最後の峠を越さしめ、選民を永久に救って下さるのであって、茲に初めて天国浄土は地上に顕現するのである。徹底的に邪神を懲らし善神を救ふ神の大経綸、これこそ大和民族に賜った神の御遺訓であり、聖約なのである。
 かくて真人生れ来たり、惟神の大道を世界に敷衍(ふえん)する時、五逆十悪の濁世は消滅して、天地自ら清浄に、主神の意志の完全に地上に行はるる新しき国土は開かるるのである。

コメント(4)

「現代と岩戸隠れ」
 我日本神国は、古来磯輪垣(しわがき)の秀妻の国と称へて来ました。シは水であり、ワは国土または潮であります。即ち海水を以て国土の四周を囲ふと云う言霊であります。次に秀妻の国のホは天地萬有の始めであって、且つ日の霊であり、ツは続き列るなり、マは周なり、眼なり、圓(まどか)なりの言霊であります。要するに世界太初に神の造られし神国であって、天津日嗣の万世一世、天壌無窮に連続するてふ国名であります。しかして海の潮は七五三に浪が打つのであります。故に七五算を国語でシメと云ひます。七五三(しめ/〆)を天地開闢の初めより惟神に張り廻した国は、我日本国の地形であります。

 今迄は、日本は此の七五三(しめ)の内に平和の夢を貪りつつあったのでありますが、米国の使節ペルリの来航と共に三千年間の七五三(しめ)は撤去されてしまったのであります。七五三(しめ)が撤去されると共に、日本人は何時までも松の内の如うに安楽な考へを持っては居られない如うになって来たのであります。就いては今日の日本には、七五三(しめ)が精神的に取り外されて居るから、外国の危険なる思想がドシドシと遠慮会釈もなく侵入してしまって、目下の處では到底政治や教育や法則や宗教の権力では如何ともすることが出来ない様に成って来て居るのであります。即ち現代は神典の所謂(いわゆる)常世往く荒ぶる神の音なひは、五月蠅(さはへ)なす皆湧き、萬妖悉く起り、山川草木みな動揺むの現状であります。
 かかる乱世天の岩戸隠れに際しては、どうしても八心思兼(やごころおもひかね)の神の出現して、天の岩戸開きの大神楽を奏上せねば、到底このただよへる不祥の現状を救ひ、五六七(みろく)の神政を永遠に樹立すると云ふことは不可能であります。今日となっては、如何なる智者、学者、政治家が現はれて、盤根錯節を料理せむとしても、既に手遅れであります。瀕死の病人にカンフル注射を為て見ても、一時の生命を保持するだけのもので、到底何の役にも立つものでない。ただ此の上は神に任せて、天然力の神の大修祓を願ふより外に方法は絶無であります。今日の世界に、どんな立派な有力な人が現はれたところで、時勢の悪潮流を根本的に清むることはどうしても出来ませぬ。吾々唯一の頼みの綱とするは、大国常立尊の萬代不易の周到なる御経綸を待つばかりであります。

 ああ孤立の日本神国、混乱の極に達せる地上の各国、二十億の蒼生を救ふの道は 天津日嗣天皇の御稜威と国祖の御神威の発動と、吾々国民の思神(ししん)、思君(しくん)、思国(しこく)、思道(しどう)の日本魂(やまとだましい)の発揚の外にないのであります。
「神劍の発動」

 政治宗教教育芸術おしなべて 今は地獄の風景となる(王仁三郎)

 現代は世界の隅々まで面白からぬ思想が勃興し、人心日に日に悪化し、暴動や爆弾騒ぎが相次いで起り、天下は実に欄麻の如き状態である。かかる醜穢の国と成り果てたる以上は、どうしても御禊祓いの大々的御神業が開始されなくては、到底人間の智力、学力、武力などで治めると云ふことは不可能である。即ち絶対無限の金剛力を具有し玉ふ神剣の発動、神界の大祓行事により、日本国体の崇高至厳を根本的に顕彰して、地上天国を招来すべき時期に立ち至ったのである。
 現代人の多くは、天災地妖の如きは人間の左右し得るものでないと信じてゐるが、その実、天災地妖と人事とは極めて密接の関係があるのである。故に国家治平の時は天上地上倶に平穏無事であって上下万民が鼓腹撃壌の怡楽を享くるのが天理である。地上二十億の蒼生は、悉く御皇祖の御実体なる大地に繫殖するもので、万物の霊長とまで称えられ、地上を経営すべき天職を享け得て成長するのである。しかるにその天職をも知らず、法則をも究めずして、日夜横暴無法なる醜行為を続けつるあるは、実に禽獣と何等撰ぶ所が無いのである。
 そもそも宇宙が天之御中主神の御精霊体なる以上は、地上の生民等が横暴無法の行為を為せば霊界も亦乱れざるを得ない次第である。要するに天災地妖の原因結果は、所謂天に唾して自己の顔面に被るのと同一である。人間を始め動物や植物が、天賦の生命を保つ能はずして夭死し或は病災病毒のために変死し枯死する、その根本の原因は天則に違反し矛盾せる国家経綸の結果である。現時の如く天下こぞって人生の天職を忘却し、天賦の衣食を争奪するが為に汲々たるが如きは、実に矛盾背理の極みである。

 云ふ迄もなく、日本は世界を道義的に統一すべき神明の国であって、決して外国の経綸の如く、征服とか占領とかの無法横暴を為す事は許されぬ神国である。日本は皇典古事記の御遺訓に由り奉りて、国政の大革新を断行し、以て皇道宣揚の基礎を確立し、皇祖天照大神の御神勅を仰ぎ、世界経綸の発展に全力を盡さねばならぬ事は、国祖国常立尊の終始一貫せる御神示である。

「皇道は神に基く」

 満州事変の突発と共に、日本精神に還れ、皇道精神に目覚めよ、の叫びが高らかに唱へられた。しかして皇道の研究が卒然として起り、日本主義の読物がたちまち店頭を埋めるの遺観を呈した。その有様はこれを譬ふれば、春風に梢を鳴らす櫻(桜)の花ともいふべきか、遠く離れてそれを眺める者も、樹の下蔭に花の衣を着る人も、今を盛りの色に酔ひ、過ぎにし冬の寒さを忘れ、明日にも来らむ嵐を知らぬ風情であった。
 洵に、学者の教ふる惟神の道、思想家の説く皇道精神、そして軍人の叫ぶ日本主義、総て其の内容は精細を極め巧妙をつくしまた精力溢るるものがあぁつた。四十年間脇目も振らず、あらゆる試練を潜って皇道一本に突進んで来た自分でさへも、今更の様に思はず目を見張らなければならなかった。

 しかし余(王仁三郎)は、斯く皇道を叫ぶ人々の多くが最も肝腎な一事を忽(ゆるがせ)にして居る様に感ぜられた。しからば最も大切な一事とは何か。皇道は神より発する道であるといふことである。故に皇道に関する百の理論よりも、大切なのは敬神の一事である。神むながら言挙せぬ国が日本の本然の姿である。だからして神社参拝を実行しない者に皇道が判る筈はない。神様を吾家に齋かざる者に神ながらの道を説く資格は無い。神に一切を捧げ、神の心に融け込んでこそ、始めて皇道の真諦に触れることが出来るものである。神の無い皇道は稔る事なき徒花である。たとえ五色に色香は咲いても、稔らぬ花は栄えない。余が長い間、

『三千世界一度に開く梅の花、開いて散りて実を結ぶ』

と云ったのは此処のことである。開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。そして散った後に於いて始めて徒花と実の花が判って来るものである。
 満州事変直後、皇道の潮が澎湃として高鳴る時、今にも昭和維新が眼前に実現するかの如き勢を示した。実にここ数年間に、皇道の旗を掲げて革新日本の前線に踊り出た人々は無数である。
 しかし、開いて散りて実を結ぶ、開いた花は散らねばならぬ。今や皇道運動者に立別の嵐が吹いて居る。それは一度は通貨せねばならぬ必然の運命である。余は一面、これが早く来ることを待望して居ったのである。国家の大事を成す者は、如何なる時代に於いても金も名も生命も要らぬ赤誠の士でなければならない。故に真に神を信ずる者のみは、いよいよ辛酸が加わり益々試練が重なるにつけて、完成の日近づけりと心に歓喜を覚えるものである。永遠に栄えの実を結ぶ者は、唯神を信じ神の御心に生きる者のみである。

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