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日本の城と籠城戦コミュの真田”神川合戦”マニアックス

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         ◆真田あるところ矢沢一族あり◆
  矢沢薩摩守頼綱(1518−1597)・但馬守頼貞(頼康)


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矢沢家はもともと信州先方衆で薩摩守頼綱は
海野棟綱の子、真田幸隆の弟であり
昌幸にとっては叔父にあたります。
幸隆は小県郡真田郷を領して以後、
真田の姓を名乗るようになりました。
武田家滅亡後、頼綱は信州先方衆から
戸石城を本拠とする甥の昌幸に仕え
旗本〜家老に取立てられます。

昌幸からの信頼は篤く、兄:一徳斎幸隆譲りの機知と、
昌幸の兄・昌輝・信綱にも負けない武勇を持った
知勇兼備の将でした。
武田家滅亡後からは真田家は危急存亡の連続でしたが、
その精魂は屈することなく、自ら甥:昌幸のために
苦難の道を率先して進み、
ひたすらに真田一族の誇りとその未来を思って勇戦し続けた
まぎれもない名将であります。


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頼綱は若い頃、京の寺へ出家しますが、
学問より武芸にのみ没頭して
ついには寺を追い出され故郷に戻るというような
武辺の面を持ちます。
実際腕っ節も大したもののようで
郷里での土地紛争などでは率先して
薙刀を振るい敵対する地侍たちを追い払っていました。
天文10年(1541)頃は信州小県:矢沢城主となっていました。
武田信虎・村上義清らの海野平侵攻の折りはそれに降って
信州先方衆となり、土屋昌次の指揮下に入っています。

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天正六年(1578)、 昌幸の謀略によって
沼田城は手薄となりその隙を付いて矢沢頼綱は甥:昌幸から沼田・名胡桃攻めの総大将の任を受け見事に攻略に成功しています。
武田家当主:勝頼からは感状も拝領しています。
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【?:第一次上田合戦(神川合戦)】参照
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=6396035&comm_id=731999

【沼田城戦史?〜沼田の変遷と真田昌幸〜】参照
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=7473033&comm_id=731999

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沼田城は北東に80メートルの断崖と薄根川を、西には利根川の段丘を持ち、東12キロの地点には片品川を外堀として持つ天然の要害であります。しかも越後・関東・会津・信濃を結ぶ交通の要衝でもあり真田家にとっては大きな収穫で、北条家にとっては手痛い損失でした。

天正十三年(1585)、
第一次上田合戦”神川合戦”においても
沼田城代だった矢沢薩摩守頼綱は
上野:真田領における対北条戦線の要でした。
当時、昌幸は景勝と和睦し、越後からの圧力は無くなったので
戦局を対北条に絞り込むことは出来ました。
しかし沼田奪還によって上野を掌中に収めようとする北条家の執念は激しく、神川合戦の折は徳川の北上軍に呼応して
北条氏邦が大挙して押し寄せ沼田を包囲しました。
真田家は沼田を失うと本領:上田の危機に続き、上田・沼田の間にあった領地:上州吾妻・岩櫃は裸となって真田家は滅亡危機を迎えることになります。

頼綱は甥:昌幸が後詰の援軍を出すのが不可能と承知の上、寡兵でもって籠城し、果敢に北条氏邦に抗して見事に支えきりました。

昌幸は頼綱が東の北条を抑えてくれたおかげで
神川合戦を制して、徳川の後詰を駆逐しその武名を天下に轟かせたと言えると思います。


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頼綱の子、但馬守頼貞(頼康?)は
父に劣らず武芸に秀でており、神川合戦では九尺柄の大薙刀の石突きを握って振り回し
敵をなぎ払うという剛勇振りで合戦後半で徳川の殿を務めた将:大久保甚右衛門(忠直?)を見て『よき敵かな!』と叫んで真一文字に突進し大いに大久保隊を蹴散らした。

徳川家が豊臣家を大坂に滅ぼして天下統一がなった折、大久保(忠直?)は上田藩主:真田信之にこの話を持ち出し『あのときの真田様の追い討ちで大長刀が風を切る音が耳のそばをかすめ命の心地もなかったのです。それがしの乗馬は日頃は早ようございますがこのときばかりは馬も浮き足立つ有様でした』と言った。
信之は『それは真田家の矢沢但馬という者です』と答え『いや、それがしが振り返ったときはたしかに真田様でありました』
『いや、それは矢沢但馬に相違あるまい。わしはもともと逃げる物を追うのは苦手なのじゃ』
と答えたといいます。


〜『真武内伝追加』による〜

コメント(2)

この合戦を描く際に、通常、全く無視されてきた北条軍の動きも記載していただき感謝!
この合戦は、北条サイドの記録も少ないのですが、氏直の感状が多く出されていることもあり、戦術レベルでは、かなり有利な戦いが出来たのではないかと思っています。
いずれにしても、城を抜けなかったということは、戦略的には完敗です。
北条側から見れば、関東制覇という大構想に立ちはだかる真田一族だけは憎みても余りあるものだったでしょう。
こんな戦いをしているから、北条家は『コンバット』におけるドイツ兵イメージ(注)を持たれるのですね。

注)米兵が弾を撃っているところに、わざわざ飛び出して撃たれるイメージを指す。
>桜町中将さん
書き込みありがとうございます^^
神川合戦は昌幸の才智ばかり目立ちますが
私はこの沼田での攻防が神川合戦の鍵と思っていました。
北条家の当初の戦略立案では
”上野は意地でも切り取るべし”の気概がみえますね。
今製作中の【沼田城戦史】を作っていてもそれを感じます。
(かなり北条家が出張ってきますよ〜しかし矢沢の叔父御にはいつも機制を制されています;)
大規模な戦力で一機に沼田を抜くことが出来なかったのは氏直なり北条家に政治的な目標が希薄だったのかもしれません。
関東制覇の”先”の視野を持つ政治家が重臣となっていれば真田家のゲリラ戦に対して有効な作戦を立て来るべき秀吉との対立も違った動きができたのではないでしょうか。
惜しむらくは北条家に領土拡大に対しての執着心が薄れていたのではと思う点です。

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