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〜〜新撰組〜〜コミュの新撰組に関りのある人物?〜佐々木 只三郎について〜

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佐々木 只三郎(ささき たださぶろう、天保4年(1833年) - 慶応4年1月12日(1868年2月5日))は、江戸時代後期の幕末期の旗本。会津藩士・佐々木源八の3男。泰昌。

●陸奥国の会津藩領内(福島県)に生まれる。万延元年(1860)只三郎は、江戸に出府。佐々木家の親戚に当たる旗本、佐々木矢太夫に養子入りし、その家督を継いで浅草堂前の組屋敷に居住した。神道精武流を学び、幕府講武所の剣術師範を勤めたと伝えられる。青年時代、「会津五流」と総称される剣の流派の一つである、「精武流」を、藩の師範役羽嶋源太に学び、奥義を極めている。また、沖津庄之助に従って槍術を学んだ。「小太刀をとっては日本一」とも言われ、20才前には、師の羽嶋をも凌いだとも言う。
また、歌人としても知られた鈴木大之進について和歌も学んだ。文武の人でもある。1862年には浪士組結成に伴い京都へ上る。彼が歴史に名を刻み始めるのは、文久三年の頃からだろう。
将軍警護のため幕府が募集し、京を目指すことになった、浪士隊(勇や歳三もこの中にいた)を監督すべき立場の、取締並出役の一人に選ばれたのである。京に着くと清河は寝返り、勇や歳三ら一部を残して、浪士隊は江戸に戻る。その時、只三郎は、清河らと共に江戸に戻るのだが、その後まもなく、文久3(1863年)には江戸へ戻り麻布で窪田泉太郎などと共に浪士組の清河八郎を暗殺する。新選組が会津の預かりになった経緯については諸説あるが、只三郎が実兄の直右衛門に口を利いた、という話も、説として、ある。
その後、再度京に上った只三郎は、見廻組の与頭に抜擢。
見廻組というのは、新選組とよく似た役割を持つ。ただ、新選組が、出自は問わない代わりに腕自慢を集めたのに対し、見廻組は、旗本の次男、三男を集めた、いわばエリート集団である。
腕と、出自と。平隊士レベルではいろいろ衝突もあったようだが、歳三や只三郎ら幹部レベルになると、共に遊郭に上がるくらいの親交があった。ただ、見廻組の、目立った活躍の記録は、全くと言っていいほど、少ない。更に、新選組のように「屯所」というべき場所もなかったところをみると、集団での仕事、ということはしていなかったのかもしれない。1864年には京都見廻組を率いて新選組と共に尊攘派志士から恐れられた。

●只三郎の京都での私邸は、二条城の北、新出水知恵光院西入の松林寺(安寺)。ここに妻と暮らしていたようだ。(一子、高は京で生まれている)
ちなみに、この松林寺は、黒谷(金戒光明寺)(会津藩の最初の京都本陣)の末寺なので、只三郎がここを宿舎としたらしい。
この頃の只三郎は、禄を千石受けていて、大和守に任じられていたともいうから、相当羽振りが良かったらしい。兄の直右衛門の家を訪ねるときも、いつも馬に乗ってきて、従者を数人従えていた。


●只三郎の容貌や人となりについて
「中肉中背のがっしりした体格、顔の色は浅黒く、笑うとエクボがあって、可愛らしい顔になった」(只三郎の姪の話)
(どうしても、勇と似ているような気がするのは、私だけだろうか?)
「至ってさっぱりとした、くちゃくちゃしたことの嫌いな淡泊な人で、一面非常に我慢強いところがあった。また、頗る無頓着で、例えば、兄の家に来ても、その甥と姪が何人いるのかも、その名前がどういうのかも、そんなことすら知らず、寒いときでも単衣を平気で着ているような人だった。ただ、心を止めるところは、勤め向き(仕事)のことと和歌のことであったと言われている」
プライベートな細かいことはぐずぐず言わず、男として大事な仕事と、自分の思いを表現できる和歌にだけ、心を止めた、という彼に、私は、男らしいものを感じてしまうのである。その、彼の和歌を紹介する。
私はこの和歌を読んで、彼をとても尊敬し、好きになった。

くちはてて かばねの上に草むさば 我が大君の駒にかはまし

千万(ちよろづ)のあだ(敵)も草木と散りぬらん君の一刃の露とふりなば

先がけて折れし忠義のふた柱 くづれんとせし軒を支へて

弓馬も剣も鉾も知らずとも 恥をだに知れ 武士(もののふ)の友

この気持ちは、新選組を始め、当時の幕府側の人たちの共通の思いであったかもしれない。この歌を読み返すたび、いつも私は目頭が熱くなる。
「哀れ」という言葉で表すのは、只三郎に対し不敬でもあり、不遜でもあるのだけれど、やはり、哀れを感じる。そして余りにも無垢な忠義はそのまま、不器用で、素直で、一途で、まっすぐな、人となりを感じさせる。たまらなく愛しく感じる。そして、信頼できる人だと感じる。新選組も同じだ。
こういう人は、新政府軍にはなかなか見られないかも知れない、とも思う。

慶応4年1月6日、八幡の堤で戦っていた(鳥羽伏見の戦い)只三郎は、腰に被弾、紀州に運ばれたが、12日に亡くなった。遺体は、紀三井寺山腹に葬られたが、近年、会津に改装された。
戒名は「賢浄院殿義岳亮雄居士」。
鳥羽伏見の戦いで、甲冑を脱いで半裸になり、斬り込みをかけていた彼は、近くの酒屋に飛び込んで酒を出させ、代金代わりに襖にこう、書き付けた。

世はなべてうつろふ霜にときめきぬ こころづくしのしら菊のはな

戦いのさなかに、これ程の美しくも悲壮感漂う歌を詠んだ彼。これが事実上の辞世になったという。

●戊辰戦争でも戦い、和歌山で死去する、享年35。

●元見廻組の証言から慶応3年(1867年)の京都近江屋での土佐藩の坂本龍馬・中岡慎太郎暗殺に関与しているとも言われる。

●鳥羽伏見の戦いで負傷、和歌山の紀三井寺で没した。墓は紀三井寺にあったが近年ここ福島県会津若松市「武家屋敷」内に移された。
※紀三井寺(精浄水・揚柳水・吉祥水という紀州で有名な霊泉−井戸−が三つあるので紀三井寺)は西国33所観音霊場の一つ。10世紀創建。国重文の楼門から本堂までは石段230余もある。本堂裏山をさらに登ったところ(滝の坊)に墓所がある。

コメント(5)

>兄ちゃんさん
いつもながら詳しい説明、感謝します。
佐々木の最期については、歴史読本の今月号にも
載っていました。
まだ歴史読本を読んでないんで、ぜひみたいです♪一軒目の本屋ではありませんでした(;_;)
明日もう一軒行ってみます♪
文久三年の本日(四月十三日)

江戸麻布にて、
佐々木只三郎らが
清河八郎の暗殺を実行。

ちょうど147年前にあたりますね

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