軍隊は、イスラエルでは、最も安定した、そして最も危険な政治的要素である。イスラエルの分析家が、既に2001年に指摘したように、「過去6年の間、1995年10月以来、5人の首相と、6人の国防大臣がいたが、参謀長(chief of staff)はたった2人だけだった。」イスラエルの軍事的、政治的システムは、将軍が軍隊から直接政府に移るといった形で密接に絡み合ってきた。しかし、軍隊の政治的立場はSharonの時代により堅固なものとなった。実際の結論が政治階層よりも軍隊によってなされているのもしばしば明らかである。軍部の高官はプレスにブリーフィングをし(彼らは、少なくともイスラエルのメディアのニュース領域の半分を捕まえている)、外交官の意見を説明・形成し、外交目的で海外へ行き、政府の替わりに政治的計画の概略を説明し、あらゆる場合において彼らの政治的見地を表明する。
詳細にはここでは入り込めないが、私は、l'heritage de Sharonにおいて、Sharonはガザ入植地から自らの意志で撤退をしたわけではなく、どちらかというと、無理やりさせたれたのだと論じた。Sharonは、イスラエルのロードマップの無視と西岸地区の壁の建設に伴う国際的圧力のピークにあって、時間稼ぎの手段として、彼の撤退計画を練り上げた。それでも、それ以来のいつの瞬間でも、最期の最期まで、今までの彼の約束に対してしてきたように、この約束から抜け出る道を探していた。しかし、今回彼は、実際にBush政権により強制的に実行させられた。それは、完全に表ざたから隠されているが、軍事制裁をも含めて圧力はかなり巨大であった。制裁への公式な名目は、イスラエルの中国に対する武器販売ではあったが、その前の機会において、イスラエルが取引をキャンセルすることに同意することですぐさま危機は脱していた。今回は、制裁は先例が無く、2005年11月の合意交換の調印まで続いた。
ガザの撤退の話は、国際的な圧力がイスラエルを譲歩に導くが出来ることを示している。私が(l'heritage de Sharon)で論じたように、USが近年の歴史において初めて、イスラエルに圧力をかけた理由は、その時点で、USはイラクの泥沼にのめり込んでいて、世界中に広がるイスラエルの政策と彼らに対するUSの全面的支援についての不満を無視するわけにいかなかったからである。(例を挙げれば、広範囲の欧州での世論調査では、イスラエルが正解平和に対しもっとも脅威的な国家であると大多数が見ているという結果。)USは、世論に譲歩しなければならなかった。