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パレスチナ問題を考える会コミュの動き始めたシャロンの遺志

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Electronic Intifada の記事を訳してみました。

Sharon−Olmertの政策の流れと、諦めちゃいけない運動を続けようって内容です。

ちょっと長いですが、興味深い内容でした。

http://electronicintifada.net/v2/article4734.shtml

Opinion/Editorial
Sharon's Legacy in Action
Tanya Reinhart, The Electronic Intifada, 23 May 2006

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現在は、西側世界はAriel Sharonの呪文にかけられた状態に見える。彼は、拡大と占領から譲歩と節度へというイスラエルの政策に巨大な変化をもたらしたといわれており、そのビジョンは後継者であるEhud Olmertによって引き継がれていると。ガザ地区の入植地撤退以来、主要な西側の語り手達は、イスラエルが占領の終了に向けて彼らの役目を果たし、更なるステップにに向けて準備が出来ていることを指し示し、いまや、パレスチナ人が彼らの希望に満ちた隣人と平和に暮らすことができるかどうかを示す番であると伝えている。

イスラエルが生んだこれまでで最も残酷で、冷徹で、人種差別主義者で人を操るのに長けたリーダーであるSharonが彼の政治生活を伝説的な和平の英雄として終わろうとは如何にして起きたのだろうか?答えは、私はこう信じているが、Sharonは変わっていない。どちらかというと、彼の周りに築かれた神話が現在の宣伝システムの全能さを反映し、Chomskyの指摘を引用すれは、意識を生産することでの完璧さに到達したといえる。

Sharonが世界の目の前で変貌しえたマジックは、ガザ入植者の撤退にあった。私は、この点に戻って、Sharonか彼自身の意思ではなくUSの彼に対するとてつもない圧力によってなされたとさえいえる議論を後でしようと考えている。いかなる場合であっても、Sharonは、まさに最初から、入植者の撤退はガザを自由にするということではないと言って来た。撤退計画は、2004年4月16日のイスラエルの新聞で発表されたが、「イスラエルは、土地の外側の防御と管理を行い、引き続きガザの制空権を独占的に維持し、ガザストリップの海域での軍事的活動を独占的に管理するだろう。」と前もって特定されていた。

Sharonのそのほかの記録を簡単に振り返ってみましょう。

彼が政権にいた4年間で、Sharonは、パレスチナとのいかなる交渉の機会をも行き詰らせた。2003年−ロードマップの頃−パレスチナ人は計画を受け入れ停戦を宣言した。しかし、西側世界が新しい平和の時代を祝っている間、イスラエル軍はSharonの指揮下で、暗殺の政策を強化し、占領しているパレスチナ人にたいする日々の嫌がらせを維持し、最上級の軍事的政治的リーダーを殺害することで、まさにハマスに全面戦争を宣言したのである。

後に、西側世界が再び息を呑んだのは、計画したガザ撤退を待っている1年半の間、Sharonが2005年1月に選挙で選ばれたパレスチナ大統領Mahmoud Abbasを欺くための可能な限りのことをしたことだ。Sharonは、Abbasが(テロと戦わないために)交渉相手としてふさわしくないと宣言し、再開された交渉で彼のすべての申し入れを却下した。Sharonの時代の占領地区におけるパレスチナの人々の現実は、これまでになく残酷なものであった。西岸地区では、Sharonは、イスラエルに隣接する地域で大規模な民族浄化のプロジェクトをスタートさせた。彼の壁プロジェクトは、これら地域にあるパレスチナ人の村の土地を奪い、街全体を牢獄化し、住民の生活維持の為のいかなる手段をも残さなかった。このプロジェクトが続くのなら40万人もの多くのそれに影響受けたパレスチナ人がそこを離れて、西岸地区の中心にある幾つかの市の外周に住む場所をもとめなければならなくなり、既に、西岸地区北部の町Qaqiliaで既にそれが始まっている。

イスラエル人の入植者がガザストリップから撤退したが、ストリップ自体は、大きな監獄となったままで、外の世界と完全に遮断され、飢餓に近い状態で、地上、海上、空からイスラエル軍による攻撃に晒されている。1967年のパレスチナ人の領地を収奪した時からイスラエルの政治的軍事的エリートを捕らえていた疑問は、いかにして最小限の数のパレスチナ人をつかって最大限の土地を維持できるかということであった。労働党のAlon計画は、これはオスロで実現したが、40%の西岸地区を保持することであったが、それは、パレスチナ自治政府に他の60%を許すことでもあった。しかしながら、BarakとSharonは、オスロ合意を破った。イスラエルが、シャロンの元で発展させたのは複雑な牢獄のシステムであった。パレスチナ人は鍵のかけられ閉ざされた飛び地に押しやられ、その飛び地に自由に入ることが出来る外部のイスラエル軍によりすべてをコントロールされている。私が知る限り、この住民全体を牢獄に入れるやり方は、前例の無い占領の仕方で、それは驚くべきスピードと効率の良さで遂行された。

同時に、Sharonが完璧なまでに打ち立てたのは、戦争はいつも疲れを知らない平和の追求であると売り出せることが可能であると示すことで、意識を生産することである。彼は、イスラエルがパレスチナ人を牢屋にいれ、空から爆撃し、西岸地区の彼らの土地を奪い、和平のチャンスを潰し、それでも尚、西側世界からは、イスラエル−パレスチナ紛争における平和的な側だと見なされることが出来ることを証明した。

Sharonは、いまや政治生活から引退したが、それだけではいかなる変化ももたらさない。Sharonの遺志は十分生きている。それは、10年に渡りイスラエル軍で培われ、結果として、イスラエルの政治においての決定因子となっている。

軍隊は、イスラエルでは、最も安定した、そして最も危険な政治的要素である。イスラエルの分析家が、既に2001年に指摘したように、「過去6年の間、1995年10月以来、5人の首相と、6人の国防大臣がいたが、参謀長(chief of staff)はたった2人だけだった。」イスラエルの軍事的、政治的システムは、将軍が軍隊から直接政府に移るといった形で密接に絡み合ってきた。しかし、軍隊の政治的立場はSharonの時代により堅固なものとなった。実際の結論が政治階層よりも軍隊によってなされているのもしばしば明らかである。軍部の高官はプレスにブリーフィングをし(彼らは、少なくともイスラエルのメディアのニュース領域の半分を捕まえている)、外交官の意見を説明・形成し、外交目的で海外へ行き、政府の替わりに政治的計画の概略を説明し、あらゆる場合において彼らの政治的見地を表明する。

軍事的安定性に比較して、イスラエルの政治システムは、徐々に分解されてきている。2005年4月の世界銀行の報告書では、イスラエルは、西側世界において、最も破綻した、そしてもっとも効率的でない国々の中で、政府の破綻という指標ではイタリアに次ぐ2番目、政治的安定性では最下位と見なされている。Sharonは、個人的に、彼の息子と共に、深刻な賄賂の容疑に結び付けられているが、法廷にまでは至らなかった。Sharonが創設した新しい党Kadima−今政府を代表しているが−は、党や地方の支社に属さない個人の階層的集団である。11月22日に発行されたそのガイドラインは、そのリーダーにすべての標準的民主的過程を通さず党の本体における投票や承認なしに議会の候補者のリストを作り上げる権限を与えている。

労働党は、替わりを提案することが出来なかった。最近2回のイスラエルの選挙において、労働党はハト派的な首相候補者を2003年にAmram Mitzna 、2006年にAmir Peretzを立てた。両者は当初たいへんな熱狂で受け入れられたが、即座に彼らの党とキャンペーンアドバイザーそして自発的検閲によって沈黙させられた、それは、彼ら自身を「政治地図の中心に」おくことが狙いであった。すぐに、彼らの政治綱領はSharonと区別が付かないものとなった。Pretzは、「外交と治安」問題に関しては、Sharon、後にOlmert、とまったく同じことをするとさえ宣言した。そして、彼らと違うのは社会問題に関してだけであった。そのようにして、これらの候補者達は、Sharonの方法が正しい方法であることを有権者に納得させる助けとなった。近年では、Sharonと将軍達に対抗する左派の対抗馬が出ていない、なぜなら、選挙の後には、労働党はいつも政府に参加し、将軍達が国際ショーに必要とするハト派のイメージを供給しているのだ。

 政治システムの崩壊により、軍部がイスラエル政治を形作り執行する母体となり続けており、Sharonが政権から去った数ヶ月で既に明らかなように、軍部が彼の後継者であるEhud Olmertと共に、彼の遺志を引き継いで実行している。これにより、イスラエルがすることは何であれ痛々しい譲歩とひと括りにされるのが基本となっている。今、我々はOlmertによる新しい「和平計画」の幕開けにいる。

Olmertがこの計画の名前をつけたのかもしれないが、著作権はSharonのものだ。2006年1月2日、Sharonが執務を離れる直前、イスラエルの新聞Ma’arivは、彼が西岸地区の為に提供する予定の計画を明らかにした。その計画は、ロードマップは手詰まり状態であるというUSの暗黙の認知の下に立っており、実際それはズッと「役立たずnon-starter」であったわけで、(イスラエルの当局筋によれば)これまで純粋なパレスチナの和平交渉の相手はいなかったということを示している。これは、ハマスを権力に付かせた選挙以前のことであるが、イスラエルの視点からはいかなるパレスチナの指導者も適切な交渉相手ではないのだ。Sharonは、Abbasのもとでパレスチナ自治政府はテロ組織との対決という責務を実行することに失敗したと非難した。適切な交渉相手の不在により、イスラエルは一方的に国境を決めなければならない、と言われている、どれだけのパレスチナの土地を取ることが適切かを決め、残りから撤退する。この計画によれば、USとの交渉により「最終的なイスラエルの東側の国境を決定するワシントンとの署名された合意」に到達する。アメリカ−イスラエル間の合意は、「実際の国境フェンスとなるであろうフェンス(壁)の速やかな完成」も含まれている。

イスラエル選挙の前日、Olmertは、この計画を公に明らかにした。これは、後に、under title cosolidation, or convergence新しいイスラエル政府の公式計画となった。彼は、イスラエルの新しい国境は、開放(disengagement)が始まる前に完成するであろう「壁」のルートと同じになるだろうと強調した。この計画が実行に移されるために、壁は現在のルートよりさらに東に移動されなければならないだろう。そして、Olmertは、その最終的位置決めに関する考えの概略を明確に示した。彼は、ヨルダン渓谷のコントロールと同時に「イスラエルは、Ariel、Ma’aleh Adumim、the Jerusalem envelope と Gush Etzion(の入植地)を確保する」を明確にすることを望んだ。地図を一瞥してみると、この計画でイスラエルが一方的に取り入れようとしている地域は西岸地区の40%にも及ぶことが分かる。

Olmertは、現在の環境はパレスチナ人に対しこの解決を押し付けるのに良い状況であると信じている。なぜならば、パレスチナの選挙でのハマスの勝利によって、世界にとって和平交渉にふさわしいパレスチナ側の相手がいないことがより一層明らかになったはずだからである。彼は、「ハマス政権の台頭とガザ撤退についての支援によって、いまや、国境を設定する国際的合意に至る‘機会の窓’が出来た。」と述べている。宣言のレベルにあって、計画は新しい国境の東側の入植地からの撤退の可能性を含んでいる。しかしながら、ガザ撤退計画と異なり、この意図されている撤退には時間設定がされておらず、撤退されるべき入植地のリストも公開されていない。いかなる場合でも、撤退のシナリオは持ち上がり、計画は、ガザで行われたように、西岸地区のパレスチナ人居住区をイスラエルの完全なコントロール下に置くことである。Olmertは、彼の計画の公開に際して、このことについて明確であった。開放の後のアレンジは、「解放前のガザストリップの状況と同じように、西岸地区において、イスラエル国防軍が活動の自由を与えられる」であろうと言うことだ。

Olmertの計画は、次に、Sharonの遺産を西岸地区の40%をイスラエルに取り込むこととガザの監獄モデルを残りのパレスチナ人居住区全体に適用すると言うことを現実に移すことである。しかし、(それでも)Olmertは、イスラエルの新しい平和の人なのである。

この破壊の道のりに対して、国際的な法律や正義の障害もなく、Sharonの遺志が勝利しそうな、困難な時代である。

2年も経っていない2004年7月9日、国際司法裁判所は、「パレスチナ占領地区の壁建設に関する法的帰結」に関する決定を発行した。法廷は、現在の壁のルートは重大で言語道断な国際法の違反に当たると判断した。イスラエルにおける最初の反応は、当惑したものであった。2004年の8月半ば、Meanachem Mazuz司法長官は、「国際法廷の決定の否定的悪影響が、イスラエルにとって、多くのレベルに対して、分離壁の問題以外の事柄に関するものにまでも及ぶと強調しすぎることは難しい。この決定は、国際的レベルでのイスラエルの政治的現実を作り上げる。それは、国際的討論の中で、イスラエルに対する制裁に結びつく行動に利用されるかもしれない。」との報告をしている。イスラエルは、すぐさま、壁は一時的な防御壁であり、土地の事実を決定するようなものではないと明言した。しかし、現在の政治的状況は、イスラエルがこの壁を国境としようとしていると宣言をし、欧州のいかなる国も無関心を決め込んでいる。

ほんの1年前にも、西側世界は中東における民主主義の夜明けを祝っていた。Arafatの離脱の後、パレスチナ人は本当の選挙キャンペーンを行っていた。ハマスは、選挙への参加の意志と武力による抵抗から政治の場での活動に移行する意志があることを宣言した。ある者は、これを長年に渡る流血からの勇気付けられる建設的な進展と見なしたであろう。もちろん、USはイスラエルの反対にも関わらず、選挙の実施に固執した。しかし、なんと、パレスチナ人は間違った政党を選んでしまった。西側世界にとって、パレスチナの人々が民主主義の履き違いに対して集団で罰を受けなければならない、ことがどれだけ自然に見えることか。USはパレスチナに対するすべての支援を打ち切るべきと指示し、欧州はそれに賛同した。それにより、彼らは、残ったインフラと医療システムが崩壊していくなかで飢餓に近い状態となっている。

それにもかかわらず、ここ数年は、イスラエル拡大の勝利の年と言うだけではなかった。西岸地区のイスラエル占領を維持するという長期的展望にたってみると、ガザ入植地からの撤退は、敗北であった。

批評家の間での優勢的な見方では、Sharonがガザ入所地からの撤退を決断したのは、維持するのにコストがかかり過ぎるからで、主要なゴールである西岸地区の保持と入植地の拡張に努力を集中することに決めたからであるという。しかし、実際は、この考え方の現実的証拠はない。

もちろん、ガザの占領はいつもコストがかかっていた。そして、もっとも敬虔なイスラエル拡張主義者の見通しからしても、イスラエルはこの一片の土地を必要としない。世界で最も人口密度の高い場所の1つであり、なんの天然資源もない。問題は、西岸地区を保持したければガザを手放すことは出来ないということだ。占領されたパレスチナ人の3分の1はガザストリップに住んでいる。もし彼らに自由が与えられたなら、西側やアラブ世界への自由なアクセスが可能な、解放に向けたパレスチナ人の闘争の中心になってしまうだろう。西岸地区をコントロールするためには、イスラエルはガザに固執しなくてはならなかった。そして、ガザの占領とコントロールが必要であるとなったら、占領の先行モデルというのは最適な選択であった。ストリップは、内側から軍部によってコントロールされた。入植は、軍隊への支援システムと、兵隊の残酷な占領活動へのモラルと正当性を提供した。それは、彼らのそこでの存在を祖国を守るという役割に仕立て上げた。外側からのコントロールの方が安上がりかもしれない。しかし、長い目で見れば、それは成功を保証できない。

さらに、オスロの時代から、入植は、国内でも国際的にも、イスラエルの占領を終了させたいという正しい意志にもかかわらず、解決が出来ないことという悲劇的問題として捉えられてきた。この使える神話は、ガザ入植地からの撤退と共に崩れた。それは、実際には、入植を撤回することがいかに簡単なことかということと、それに対するイスラエル国内の支持が如何に大きなものであるかを示したからである。

詳細にはここでは入り込めないが、私は、l'heritage de Sharonにおいて、Sharonはガザ入植地から自らの意志で撤退をしたわけではなく、どちらかというと、無理やりさせたれたのだと論じた。Sharonは、イスラエルのロードマップの無視と西岸地区の壁の建設に伴う国際的圧力のピークにあって、時間稼ぎの手段として、彼の撤退計画を練り上げた。それでも、それ以来のいつの瞬間でも、最期の最期まで、今までの彼の約束に対してしてきたように、この約束から抜け出る道を探していた。しかし、今回彼は、実際にBush政権により強制的に実行させられた。それは、完全に表ざたから隠されているが、軍事制裁をも含めて圧力はかなり巨大であった。制裁への公式な名目は、イスラエルの中国に対する武器販売ではあったが、その前の機会において、イスラエルが取引をキャンセルすることに同意することですぐさま危機は脱していた。今回は、制裁は先例が無く、2005年11月の合意交換の調印まで続いた。

ガザの撤退の話は、国際的な圧力がイスラエルを譲歩に導くが出来ることを示している。私が(l'heritage de Sharon)で論じたように、USが近年の歴史において初めて、イスラエルに圧力をかけた理由は、その時点で、USはイラクの泥沼にのめり込んでいて、世界中に広がるイスラエルの政策と彼らに対するUSの全面的支援についての不満を無視するわけにいかなかったからである。(例を挙げれば、広範囲の欧州での世論調査では、イスラエルが正解平和に対しもっとも脅威的な国家であると大多数が見ているという結果。)USは、世論に譲歩しなければならなかった。

USの立場からは、その目的である国際的圧力をなだめることは、ガザ入植者の撤退で達成することが出来た。西側の指導者とメディアは、中東の新しい展開に満足した。国際的な穏やかさが維持される限り、パレスチナの被害はUSのそろばん勘定には何の役割も無い。US政府は、それを明確に表して言った、「欧州とアラブ世界の友人たちへ、イスラエルはその過程においてなすべき役割を果たした。今は、イスラエルのことはかまわずに、パレスチナが彼らのやるべきことをするよう期待している。」

短い期間であったとはいえ、イスラエルに圧力がかけられたという事実があったが、それは力とプロパガンダの限界をも示した。親イスラエルロビーが西側の政治論儀におけるイスラエルの政策に対するいかなる批判をも静めることに成功したにもかかわらず、正義を求めるパレスチナ人の苦闘も世界の関心を広く集めることになった。これは、長い年月過酷な抑圧を耐え、日々の忍耐と組織作りや抵抗を通して、それはすべての抑圧された国々が遣り通すことが出来うると言うものではないが、パレスチナの運動を守ってきた人々に対して始まった。それは、国際的な連帯を模索する動きが、人々を占領地区へ送り込んだり、家での不寝番の代わりをしたり、教授たちがボイコットの請願書に署名したり、毎日の嫌がらせの対象に自らなったり、従順なメディアや親イスラエルのロビーの圧力に抵抗し、数人の勇気あるジャーナリストは真実を伝えることに固執したりするといった活動で続けられている。しばしばこれらの努力は、無駄なことのように見えるが、しかしそれでも世界の意識に浸透している。これが、実際にUSをもってイスラエルに圧力をかけさせ、幾分の、限られたものではあったが、譲歩を引き出した意識の集合体であった。パレスチナの運動は、たった今起こっているように、しばらくの間静められるが、また再び現れるだろう。

Tanya Reinhartis テルアビブ大学とユトレヒト大学で、言語学、メディア、文化の講義をしている。彼女は、srael/Palestine: How to End the 1948 War (Seven Stories Press, 2002).といった幾つかの本の著者である。

コメント(1)

もう一丁、行ってみます。

『アパルトヘイトへのカウントダウン』

Countdown to Apartheid
Jeff Halper, The Electronic Intifada, 27 May 2006

http://electronicintifada.net/v2/article4741.shtml

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イスラエル首相Ehud Olmertの両議会での演説は、George Orwellが‘Newspeak’という言葉を彼の小説『1984』で発明して以来、恐らく最も技巧的に用いたものであった。(彼には援助があった:著作家で、ノーベル平和賞受賞者Elie Weiselが報道によれば、スピーチのかなりの部分の下書きをした)まさに、Orwellの全体主義者の伝道者が「戦争は平和なり」と宣言し、そして、ベツレヘムへの入り口の壁(じゃない、フェンスか)に掲げられた「あなたに平和が訪れますように」という恵みの言葉でパレスチナ人を迎えるイスラエルの政府のサインと同じように、Olmertはワシントンで宣言した。「一方的な配置転換は平和である」

OlmertのOrwell言語の使い方(誰か、Bush大統領や議会のメンバーをふくめて、我々に「収斂(convergence)」と「配置転換(realiggnment)」の意味を説明できるか?)のおかげで、我々は、何が述べられたのか、何が述べられなかったのか、そして、何を意味したのかを、注意深く聞かねばならない。

述べられたことは、額面どおり捉えれば正しく聞こえる。Olmertは、「私の和平への手は、選挙によって選ばれたパレスチナ自治政府のMahmoud Abbasに」差し伸べ、パレスチナが「テロリズムを放棄し、テロリストのインフラを取り壊し、先の合意や約束を受け入れ、イスラエルの存在の権利を認める」という条件の下でなら彼と交渉するという、イスラエルの前向きの姿勢があることを宣言した。もし彼らがそうするのなら、Olmertはイスラエルの約束である2国和解案を提供する。

何が述べられなかったか?パレスチナ国家に触れたことがすぐ訪れるように聞こえたが、その国家を規定するロードマップに設定された2つの主要要素がなくなっている。イスラエルの占領の終結と、存続可能なパレスチナ国家である。OlmertとBushが常に忠誠を誓っていたロードマップの記述は、「入植地は、イスラエルと平和で安全に手をだずさえて生活をする、独立した民主的で存続可能なパレスチナ国家の出現に結びつくであろう。入植地は...1967年に始まったイスラエルの占領を終結させるであろう。」と述べている。

Olmertの「収斂計画」(いまや、名前が変わって「配置転換計画」。なぜなら「Newspeak」英語の方が聞こえが良いから)は、公然とアメリカの支持を得ているイスラエルが一方的に主張している膨大な「地上の事実」を基本にしていおり、パレスチナの存続可能な国家の成立を認め得ない。その「隔離壁」それはイスラエルの人口統計学上の永久的な国境と宣言されるであろうが、西岸地区の10%を取ることになる。それは、多くには聞こえないかもしれない。しかし、こう考えてみてくれ:それは、主要入植地域(加えて、50万人のイスラエル入植者)をイスラエルに組み込むことになる、一方で、西岸地区をいくつかの小さな、分離され、困窮した「州cantons」に削り取るということで、存続可能な国家の基礎とはまったく言えない。それは、パレスチナから彼らの最も豊な農業用地と水を奪い取るということだ。

配置転換計画は、「偉大なる」イスラエルのエルサレムを西岸地区の中央部分全部に築き、それによって、パレスチナの経済的、文化的、宗教的、歴史的中心を切断するということでもある。それによって、パレスチナを障害壁/国境ともう1つの「治安」境界であるヨルダン渓谷でサンドウィッチにし、イスラエルに2つの東側国境を与えることになる。パレスチナの、人と物両方の移動の自由は、そのようにして、イスラエルとヨルダンよってだけでなく、内側でも様々な州の間で阻まれることになる。イスラエルは、パレスチナの制空権、電磁気圏そして、パレスチナ自身の外交政策の権利をも保持することにもなるだろう。

ロードマップはまた、一般的に占領の終結をうたった国際法と同様、両者間での交渉に固執している。Olmertは、パレスチナのテロリズムの大きな課題を(アメリカ
人の感受性をこの流行の言葉で翻弄することで)交渉の、前提条件としてしまった。イスラエルは、パレスチナ自治政府と交渉することを望んでいる、と彼は言った、ただし、それはテロリズムを廃絶し、テロリストのインフラを破壊し、先の合意を受け入れ、イスラエルの存続する権利(イスラエルがパレスチナ人に対しては認めない権利)を認めるものであること。

触れられていないことは、イスラエルの占領が、テロや交渉の終結に関わらず、制度化され永久になされるということ。本当の課題は、安全のためでも、テロリズムのためでもなく、イスラエルの収奪政策は、国全体に対する積極的な要求に基いている。実際に、占領のいかなる要素−300もの入植地の建設、西岸地区のほとんどの土地の没収、百万のオリーブや果物の木の伐採、イスラエル本体に入植地をリンクさせる巨大な高速道路の建設、あるいは、深くパレスチナの地域に入り込んだ曲がりくねった障壁の経路などは、安全などで説明が付かない。いかなる側にあっても、テロリズムは間違っている。(イスラエルは、パレスチナに比べ4倍もの一般市民を殺害してるということを記しておこう)。しかし、占領が永久になろうとしている時に、抵抗運動に終了することを要求するのは不条理である。

そして、最期に、何を意味したのか?人種隔離。この”A”言葉は、もちろんOlmertのスピーチにはなかった。しかし、かれの収斂計画の底辺にあるのは、明確に、永久的で、制度化されたユダヤ人とアラブ人の引き離しに基いたパレスチナ人に対するイスラエルの支配の確立である。6−9ヶ月以内に、Olmertの計画によれば、Olmertはアフリカ人は失敗したが、ユダヤ人は成功できると信じているかもしれないが、歴史は我々に、不正は維持し続けることはできないと教えている。そして、収斂/配置転換は、不公正を明確にしない限り何物でもない。

Jeff Halperは、家屋破壊に反対するイスラエル人委員会のコーディネイターで、パレスチナ人の平和活動家Ghassan Andoriと共に2006年ノーベル平和賞の候補である。
He can be reached at jeff@icahd.org.

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