その名が示す通り、フランス語系スイス人のプロテスタントの牧師の10人きょうだいの末っ子としてスイス・ジュネーブで生まれています。 2年間ジュネーヴ大学で数学と物理学を学ぶかたわら、作曲とピアノをヨーゼフ・ラウバーに師事。という多彩さが垣間見える。 1918年から1926年までチューリヒやローマ、パリを転々と過ごしているが、この時期に音楽家としての作曲や演奏に磨きをかけた様だ。 1926年にジュネーヴ室内楽協会 (Société de Musique de Chambre de Genève) を設立し、ピアニストやチェンバロ奏者として10年間の活動を続ける。この間に、ジャック=ダルクローズ研究所で音楽理論や即興演奏を教え、ジュネーヴ音楽院で室内楽を指導した。1933年から1940年までテクニコン・モデルヌ・ド・ミュジック (Technicum Moderne de Musique) 校長に、1942年から1946年までスイス音楽家協会総裁に就任。 1946年よりオランダに移住。スイス時代に公務に追われて専念できなかった作曲に、多くの時間を割くようになる。アムステルダムに10年暮らした後、ナールデンに定住した。 1950年から1957年までケルン市立高等音楽学校で作曲の教鞭を執る。その後は教育活動を放棄し、作曲に集中するが、その合間に室内楽の演奏旅行や指揮にも携わり、録音も残している。