ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

クラシック音楽館アマ〜プロまでコミュのヨーゼフ・ラインベルガーについて

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
今回は19世紀リヒテンシュタインの作曲家、ヨーゼフ・ラインベルガー(1839〜1901年)について書きたいと思います。

ラインベルガーは19世紀のドイツ帝国時代、リヒテンシュタインの首都ファドゥーツに生まれ、主に18世紀に誕生したドイツ帝国の首都であったミュンヘンで活躍したオルガン奏者、作曲家です。

元々リヒテンシュタイン公国(侯国)自体がハクスブルク帝国(神聖ローマ帝国内の一領邦、後に衰退⇒オーストリア帝国)の1貴族の家系であった。

7歳でファドゥーツ・聖フローリン教会のオルガン奏者となり、その時に最初の作曲をしている。
1851年にミュンヘン音楽院に入学。専攻はピアノと音楽理論。3年間の音楽院のコースを終了した後フランツ・ラハナーに個人指導を受け、1859年には同音楽院にてピアノ演奏の教師に就任している。同年に作品の出版もしている。翌年には作曲・和声・対位法・音楽史の教授に就任。863年聖ミハエル教会のオルガニストに就任(〜1867年まで)。1864年ミュンヘン・オラトリオ協会の指揮者に就任(〜1877年まで)。王立歌劇場のコレペティートルも勤める(〜1867年まで)。
1867年秋にミュンヘン音楽院が再建されるとオルガンと作曲の教授となり、終生その地位にあった。音楽教師として非常に優秀だったため、ヨーロッパ及びアメリカから彼を慕って生徒が集まった。高名な教え子としてはエンゲルベルト・フンパーディンク、エルマンノ・ヴォルフ=フェラーリ、ジョージ・ホワイトフィールド・チャドウィック、ホレイショ・パーカー(ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの幼少期に家庭教師をしていたこともあった)などがあげられる。直接の教え子ではないが、マックス・レーガーなどからも慕われた。リヒャルト・シュトラウスはいくつかの作品のタクトを振った。また、マックス・ブルッフとは共にとある作曲コンクールの審査員となったことをきっかけにして手紙による交流があった。
1877年にバイエルン王・ルートヴィッヒ2世によってフランツ・ヴュルナーの後任として宮廷楽長に任ぜられる(〜1894年まで)。1878年、『ミサ曲 変ホ長調 op. 109 』をローマ教皇レオ13世に献呈し、聖グレゴリーの騎士に叙せられる。他、1887年ベルリン王立芸術アカデミーの名誉賞を受賞。1895年バイエルン王室より大十字勲章を授けられ一代貴族に列せられる。1899年ミュンヘン大学哲学部より名誉哲学博士号の授与、など生前は高い地位と名誉を収めた。1892年妻フランチスカの死去以後は孤独な人生を送ったが、創作意欲は衰えず、彼自身が亡くなる年まで作曲・出版が続いた。生存中の最後の出版は『オルガンソナタ第20番 ヘ長調 op. 196 "平和の祭典へ"』。最後の作品『ミサ曲 イ短調 op. 197』はクレドの途中で絶筆となった。生前は絶大な人気を誇った作曲家であったが、死後その作品は急速に忘れられていく。
作曲家としてはオルガン曲が有名で、20あるオルガンソナタは彼の代表作である。そのほか宗教曲、管弦楽曲、室内楽曲、ピアノ曲にも多くの作品を残している。 合唱曲では、3つの宗教的な歌 op. 69の第3曲Abendlied(夕べの歌)が小品ながら知られている。また九重奏曲 op. 139(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)は比較的演奏頻度が高い。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

クラシック音楽館アマ〜プロまで 更新情報

クラシック音楽館アマ〜プロまでのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。