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意味不明小説(ショートショート)コミュのある一つの「ファ」

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二十歳も超えた今になればそりゃあ、母が僕にピアノを習わせた理由なんていくらでも推測できる。

だけどそれは大体の場合恨みとかコンプレックスとかを伴うし、
吐きそうな程馬鹿みたいに叩いた鍵盤の回数も、今になってみれば馬鹿、というほどでもなかったな、とは思う。

要するに僕はおそらく、母の掲げた理想には一応追従したのだろう。
ピアノに指を乗せる度、そういうことを思う。

だから母は想定していなかった。ピアノが弾けることが、別に社会で成功することとイコールでは無いことを。


音大を形の上で卒業した僕は、
何のコンクールに引っかかるでもなく、
どこにでも有るようなシステム会社の面接に引っかかった。

そういうわけで毎日僕は、黒一色の、文字ばかりが書いてあるキーボードを打っている。

職場は汚く、薄暗く、お世辞にも活気に満ちているとは言えない。
その象徴のような同僚が、僕の隣にいる。

いつもレンズの汚れた眼鏡を掛け、今日も色の褪せた同じスーツを着て、
アルファベットのCのような背中でディスプレイを見つめている。

ただ、手元も見ずひたすらにプログラムを打ち込む彼の勢いは、
戦時中のロシアで当時の資本主義社会から隔離された悪魔のような技術をもつピアニストを彷彿とする部分があった。

技術だけ見れば、彼のプログラム、というより文字列や数列に関する能力は異常とも言える程だった。

数百行に渡る文章からたった一つのスペルミスを見つけたり、
延々と検査データの数値が並ぶテーブルを見て、ただ一つの異常値を見つけたり、
まるで違う視覚をもっているかのような錯覚を覚えることが多くあった。


ある日。ごくごく偶然が重なったために、僕と彼は職場の備品を急遽買いに行くハメになり、
近所の少し大きな電気屋へ向かった。

電気屋で必要な機材を探す間、電子ピアノ売り場を見つけた僕は、
何気なく、・・本当になんという事もなく、彼に話しかけた。

「・・音楽とか、聞きます?」

よく考えれば、プログラムの仕様やデータ以外の話題で話しかけたのは、
入社して数年、これが初めてだったような気がする。

彼はコンピューターが文字を出力するように

「別に」

とだけ答えた。

僕は何気なく、・・・本当になんという事もなく、ショパンのノクターンの主題を弾いて、

「こういうのとか」

と、言った。

意外と彼は、音楽評論家の如く手を顎に当て、ピアノから手を下ろした後の僕の前で、
床とも壁ともつかないどこかをじっと見つめていて、
そしてたった一言、こう答えた。

「73個かな」

・・・73個。

おおよそ、音楽の感想としては似つかわしくない表現、であることは言うまでもなく、
通常の会話としても意味がわからない。

彼の変わらない表情に、僕はただ

「そうですか」

としか言えなかった。



次の日くらいだったろうか。

彼が珍しく僕に話しかけた。

「昨日のは、何?」

この曖昧に過ぎる表現に、しかし僕は正確にその意味を捉えていた。

それほどに昨日の「73個」は強烈だったということだろう。

「ショパンですよ。ノクターンの9番です」

まあ、彼のことだろう。ショパンを知らなくても無理は無いな、と思い、
ちょっと冷たい言い方だったかもしれないな、と説明を加えようとしたとき彼は言った。

「9番?」

・・・9番。

こういう会話なら、「ショパンって?」とか「ノクターンって?」という質問が来るのが相場だろう。

僕はしばし絶句して、むしろこう返してみた。

「73個、って何の事だったんですか?」

例えるなら、「バッハって誰?」と聞かれたとき僕がするような表情があるとすれば、

彼は僕のその質問に対して、それに至極近い表情をして答えた。

「73個、叩いてたじゃないか」

叩く、とは、プログラマーがよく使う、「キーボードのキーを打つ」というニュアンスだった。

「鍵盤を、ですか?」

「鍵盤?というのか、あの白と黒のボタンを、だよ」

まるで話が噛み合わなかった。
唯一わかったことは、彼はショパンもノクターンも、それどころかピアノすら知らないということ。

もう一つは、僕の指が鍵盤(彼が言うところのボタン)を、「何回押したか」を「見た」ということ。
ただ、「見た」という言い方は正しくない。

なぜなら彼は僕の右後方から眺めていたため、恐らく左手の左半分あたりは見えてないタイミングがあるからだ。
特に、ノクターンの9番は跳躍も多く、・・恐らくある程度ピアノに通じていて、上から眺めたとしても、
「音符が何個あるのか」ということなんて見ただけではわからないだろう。

・・彼は音を「見て」いたのだ。


すぐさま僕は、携帯音楽再生機から適当にピアノ曲を選んで、
彼に聞かせた。

16小節くらいの所で止めて感想を聞くと、彼は今度は少しだけ楽しそうに、

「42個だね」

と答えた。そして

「綺麗な数字だ」

と付け加えた。

学生時代に、嫌というほど評論家気取りの音楽論というものを読まされたことがある。
だけど誰一人として、「音符の数が美しい」と言った人間はいなかった。

いや、この世に今までいなかったんじゃないか、とも思う。


次の日から、彼は仕事中ずっと僕が渡したピアノ個品集のCDを聞くようになり、
曲目ごとにその「数字の感想」を書くようになっていた。


バッハのインベンションで言えば、僕は1番と4番が好きだった。
1番の完成された建築物のようなフーガと、
4番の悲哀に満ちた物語のようなフーガ、その対称的な長調と短調が美しいと思ったからだ。
でも、こういう感想はそれこそ評論誌には何ページにもわたって書いてあるようなことだ。

インベンションを15番まで聞き終えた彼は、
「1番は、1番らしい数だ。なんていうか、数字として割りきりやすい。
 4番は、不思議な数だ。なんていうか、素数が絡みあって、この世の矛盾を押し込めたような。
 この2つは印象深いね」

そう、満足そうに答えて、
またCの大勢でキーボードを叩きはじめた。




次の日、彼は会社に来なかった。

次の日も、彼は会社に来なかった。
ただ1つ、彼の個人アドレスからメールが来ていた。
「僕も、君のように数字を作る方に回ることにしたよ」

なにか嫌な予感だけが走った。

次の日も、彼は来なかった。
メールが来ていた。
「楽譜というものを知ったよ」

次の日も、来なかった。
メールの内容は、
「今まで数字を数えていたことの、なんと無駄なことだったろう!」

次の日。
「楽譜なんてこの世に必要ない。美しい数字を、僕は作ってみせる」

次の日。
メールは来なかった。

次の日。
警察から会社に連絡があったそうだ。

関係者のみ立ち会う、という話だったが、
無理を言って僕も同行させてもらった。


彼の部屋はぐしゃぐしゃに丸められた、
市販のもの、手書きのもの合わせたいろいろな楽譜が散乱しているだけで、
本人はいなかった。

そして壁に大きく5本の線があり、

下から一番目と二番目の間に横長の楕円形があった。

そして側面の壁には大きく、
”tasto solo magnificamente!"と書かれていた。

彼は、そのたった一つのファを。
もっとも美しいその音程の「数字」を、
見つけたようだった。

その後の彼の行方は、誰にもわからなかった。



僕は今でも、ファの鍵盤を押すたびに、彼のことを思い出す。

そしてあの、この世の数字を見透かしたような表情を、少しだけ頭に浮かべながら、
ピアノからありきたりな音を出しては、少しだけ、ため息をつく。

コメント(4)

おっと、これは。よみのがしてました。面白かったです
元々、音楽は数学に属してましたからね。
このリヒテルおじさん、ある意味素晴らしい。

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