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2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」コミュの源義経 演:菅田将暉(2022年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」出演者トピック)

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コメント(43)

チラッとだけ出てましたね。
スゴイ身体能力ですね。
一瞬で、子供たちの人気者だってことも分かりました。
感動しました。
◆ 『鎌倉殿の13人』未発表キャスト「絶世美女」「宿敵」役に挙がる本命俳優
https://www.news-postseven.com/archives/20220131_1723186.html
> 菅田将暉(28)演じる源義経の相手役、静御前の配役にも注目が集まる。愛する義経のために舞を披露したことが有名な、絶世の美女という役どころ
【コメント】
2005年大河 義経での静御前は 当時10代の石原さとみ でした。 これがきっかけで彼女のファンになりましたが、今や大女優ですね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A9%E7%B5%8C_(NHK%E5%A4%A7%E6%B2%B3%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%9E)
◆ 平手友梨奈、土屋太鳳、川口春奈の三つ巴 NHK大河「鎌倉殿の13人」静香御前役は誰か?
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/300975
> 視聴者が最も楽しみにしているのは、近々に登場する菅田将暉(28)が演じる源義経の妾、静御前を誰が演じるかということだ。
義経! ついに出陣!
弁慶もお供する!
走っていく姿がカッコいい!
きょう2月21日は菅田将暉さんのお誕生日です。
28歳になりました。
まだ若いですね。
お誕生日 おめでとうございます。
義経! いいですね!
「富士山 のぼるぞぉ〜!」
「海 見るぞぉ〜!」って
まるで修学旅行の子供みたい。
「いくさ」を楽しんでる。
最高じゃない?
判官贔屓な日本史だけど、義経は戦は上手でも、政治の駆け引きは無知だったから、頼朝の怒りを買った。
ご対面になった時は、また頼朝が、もはや枕詞になった「よく来てくれた!」連発するだろうけど。

意外と情け知らずな、野生児に見えた。
それまでの義経像は「悲劇のヒーロー」って感じでしたが
今回の義経は「増長した天狗」というイメージですね。
ですから「出る杭は打たれる」になって当然という感じですかね?
◆ 「鎌倉殿の13人」注目の静御前は石橋静河!大河初出演 不安も同名“しずか”「力湧いて」菅田義経を虜に
https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/03/01/kiji/20220301s00041000331000c.html
>>[12]
確かに、判官贔屓で従来は、悲劇のヒーローな義経でしたが、まさしく天狗になりそうですね。
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経以外にもいた。源頼朝を助けようと奮闘した3人の弟
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220317-00286521
> 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」10回目では、菅田将暉さんが演じる源義経が目立っていた。しかし、義経以外にも3人の弟が奮闘していたので、深く掘り下げてみよう。
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が無断で官職を授けられ、源頼朝の逆鱗に触れたわけ
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220503-00294258
> 義経が無断で朝廷から官職を授けられ、頼朝の勘気を蒙ったのだが、これは序章にすぎなかった。頼朝は以後の平家追討を範頼に命じたが、期待に応えられなかった。やはり、義経を起用せざるを得なかったのである。
◆ 一の谷の戦いで「鵯越の逆落とし」を行ったのは源義経ではなかった!?
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/94864?page=2

> 『平家物語』は一の谷に平家の本陣が存在したかのように描き、『鎌倉殿の13人』もこれを踏襲しているが、平家の大本営は当然福原に置かれたはずで、西の一の谷と東の生田の森に福原防衛のための陣地が築かれたというのが実情だろう。

鵯越は鹿しか通れない断崖絶壁ではなく、摂津国昆陽野(こやの。現在の兵庫県伊丹市北部)から福原に向かう際に必ず通る山中の間道である。昆陽野を勢力下に収め、かつて平家に従っていた多田行綱は、鵯越など福原周辺の地理を熟知していた。

搦手軍の源義経が西の一の谷を、大手軍の範頼が東の生田の森を攻めて平家の注意を引き付けている最中に、多田行綱が鵯越を突破して、平家の大本営たる福原を衝く動きを見せた。行綱軍は少数であったが、背後に敵を抱えた平家軍は動揺し、その隙を見逃さず義経が一の谷を攻略した。これが一の谷合戦の実像であろう。
◆ 鎌倉殿の13人:九郎義経、“鵯越の逆落とし”を「響きがいい」と捏造 「歴史はそうやって作られていく」の真理
https://mantan-web.jp/article/20220502dog00m200043000c.html
> 景時はすかさず「法皇様は誤解しておられます。九郎殿(義経)が下りたのは、鵯越ではござらぬ。一の谷と鵯越は全く別の場所」と話を正そうとする。
しかし、義経は悪びれず「構わぬ。鵯越の方が響きがいい。馬に乗って駆け下りた方が絵になるしな」と説明。さらに「平三(景時)、歴史はそうやって作られていくんだ」と自らの発言を正当化
今回と次回の義経。無断任官と腰越状の話になりそうです。
予告を見る限り、頼朝の推挙によらない検非違使任官&腰越で足止め、という通常ストーリー(吾妻鏡)になりそうです。

ただし、吾妻鏡自体が、のちに、検非違使より遙かに格上の伊予守に頼朝が推挙するという矛盾を含んでいたり、腰越での足止めはなく頼朝と会っていると書いているもの(平家物語、玉葉?)もあったりなど通説も怪しい。その矛盾を解く研究も進んでいるようです。

三谷脚本は、新説や新解釈を採用することもあるので、この点もひとひねりあることを期待しています。
>>[21]

あの場面で、法皇様に「正確には「鵯越」ではなく、○○です」なんて説明しないですよね〜

「平家を追い落とした!ようやった!」と褒めてくださっているところに、細かい訂正は無粋かも

義経と景時は、相容れない性質なんでしょうねえ

◆ 源平絵巻:義経奇襲の神戸「一の谷合戦」、戦場は「須磨」ではなく「鵯越」か
https://www.nippon.com/ja/japan-topics/g02116/
> 神戸の地形をよく知る地元の郷土史家、歴史愛好家らは、同市北区から兵庫、長田区にかけての鵯越説を研究。矛盾解明に取り組んできた。
「古文書の著者は神戸の地形をよく知らなかったのではないか」と分析。戦いの場所を神戸電鉄鵯越駅付近を北西から南に走る山麓バイパス付近と推定し、夢野方面へ進撃したとみる。
◆ 5月4日午後10時から放送されるNHKの歴史番組「歴史探偵」(総合)では、平家が滅亡に至った「壇ノ浦の戦い」を特集する。
https://mantan-web.jp/article/20220504dog00m200008000c.html
◆ 源義経の歴史 - 刀剣ワールド
https://www.touken-world.jp/tips/8097/
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】屋島の戦いで、源義経と梶原景時の間で起こった逆櫓論争とは
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220510-00294936
> 義経は「最初から逃げる準備をしていては、勝てる戦にも勝てない。それならば猪武者で結構だ」と言い放ち、逆櫓の取り付けを採用しなかった。大将としての決断だった。このときの遺恨により、景時は頼朝に対して義経の讒言を行い、陥れたのである。

> 義経は暴風雨をものともせず、船頭を弓矢で脅して、無理やり出航させた。
 義経が阿波勝浦に到着すると、屋島の平家は伊予水軍を討伐するため、軍勢が出陣していた。屋島の軍勢が手薄と知った義経は、周囲に火を放ちながら、背後から屋島を急襲したのである。
 その結果、平家軍はたちまち総崩れとなり、最後の舞台となった壇ノ浦へと逃亡したのである。戦後、暴風雨が収まったので、景時の軍勢が上陸した。しかし、戦いはすでに終わっていたのである。
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】屋島の戦いで、那須与一が扇の的を射抜いたのは史実か
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220510-00295104
頼朝と義経の決裂は、検非違使への「任官」ではなく、検非違使「留任」によって起こった。
平家追討終了により、頼朝は義経を自分の配下へと戻そうとしたところ、義経が検非違使に留任し京に留まり続けたために、両者の関係は破綻した。

義経の官位問題について、今回の脚本はそのように解釈しており、最近の研究に沿っていますねえ
三谷脚本は、新しい解釈を取り入れるので、興味が尽きません。

これでは、頼朝にしてみれば、義仲その2の出現ですね。
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経が頼朝に詫びを入れた腰越状は本物なのか
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220513-00295212
菅田将暉、なんだかんだいって、演技がうまいなと思いました。やんちゃな、戦しか、能のない???
弟。政子の膝枕に、毋のいとしさを思う。後白河院に、まんまと踊らされ。イケメンは、かわいそうにみえる。
◆【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝は義経の所領を没収し、叔父・行家の追討の命令を下した
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220516-00295281
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経の追討に舵を切った、頼朝の真意を考える
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220517-00295296
> 近年になると、頼朝は義経が一ノ谷の戦い後に無断で任官したことを怒っていなかったとしたうえで、平家追討後に義経が鎌倉に来た時点では、まだ両者の関係は決定的に破綻していなかったという。
> 関係が破綻する原因になったのは、義経が伊予守に任官したにもかかわらず、検非違使として京都に残り、鎌倉に来なかったからだったという。これが頼朝への敵対行動とみなされたのである。義経は、頼朝の配慮がわからなかったということになろう。

> 同年10月17日、頼朝の命を受けた土佐房昌俊が京都に忍び込み、義経の邸宅を襲撃したが、これは失敗に終わった。義経は危うく難を逃れたが、もはや両者の対決は避けられなくなっていたのだ。

> 10月18日、後白河は義経に対して、頼朝追討の院宣を与えた。それ以前、義経は伯父の行家と盛んに連絡を取っていたという。義経は、頼朝による伊予守任官の真意を測りかねた可能性がある。
◆【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が土佐坊昌俊に命じて、義経を討たせようとした裏事情
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220518-00296277
>頼朝が鎌倉に下向した義経を腰越で追い返したのは、同年6月のことである。これで両者は決裂したと思いきや、同年8月に義経は伊予守に任官された。頼朝は、まだ義経とよりを戻そうとした可能性があろう。

 その後、頼朝は義経に対して、叔父の行家の追討を命じたが、病気であることなどを理由にして拒否した。このことが引き金となり、頼朝は義経を討とうと決心したのだろう。

 しかし、義経は昌俊を返り討ちにし、後白河から頼朝追討の院宣を得て、行家とともに挙兵したので、むしろ頼朝には義経を討つ口実ができた。以後、義経はイバラの道を歩むことになる。
◆ 義経の最後と奥州合戦の背景と戦況|「奥州征伐」を解説【日本史事件録】
https://serai.jp/hobby/1065171
> 奥州合戦の勝利の結果として、鎌倉の御家人は地頭として奥羽の各地に入部し、津軽・糠部(ぬかのぶ)のはてまで、その支配が及んだとされます。つまり、頼朝は九州から奥羽の果てまでを軍事的に制圧したことになり、名実ともに全国で唯一の軍事権力になったのでした。その意味で、この合戦の鎌倉幕府成立史上での意義は大きいとされます。
◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】吉野山で愛する源義経と離れ離れになった静御前
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220523-00296847
>  文治2年(1186)3月、静御前は母の磯禅師とともに鎌倉へ連行された。同年4月、鶴岡八幡宮で頼朝・政子夫妻、多数の御家人が臨席した中で、静御前は白拍子の舞を命じられ、次のように謡った。
・しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
・吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 前者は、昔を今にできないのか(義経との関係を元に戻せないのか、の意)を詠じ、後者は義経を恋しいと歌ったものである。これを聞いた頼朝は、義経を追慕する内容だったので激怒したという。一方、妻の政子は静御前の気持ちを理解し、頼朝を宥めたといわれている。

同年閏7月、静御前は不幸にも男子を生んでしまった。安達清常は泣き叫ぶ静御前から、むりやり男子を奪い取ったという。そして、その男子は由比ガ浜で海に沈められ、殺されたのである。 
◆ 義経を愛した静御前とは、いったいどんな女性だったのか?
https://www.rekishijin.com/20054
> 本来なら、源氏及び頼朝を讃えるべきところを、あろうことか頼朝が最も忌み嫌う弟を慕うようかのように歌ったのだから、頼朝が激怒したことは言うまでもない。断罪に処すと、声を荒げたのである。幸いにもこの時は、御台所である北条政子がたしなめたことで、なんとか難を逃れることができたようである。
> それが、100人目の静が舞い始めるや、にわかに黒雲が現れ、以降3日間も雨が降り続いたという。これを見た後白河上皇から「神の子」と讃えられ、「日本一」の宣旨までたまわったのだ。
> その静が、一ノ谷の戦い後に凱旋してきた義経に一目惚れ。上皇にねだって、仲立ちしてもらったといわれることもある。この頃の義経は、数えきれぬほどの女人と交わりがあったとされるが、彼としても、心を通わせたのは、どうやら彼女一人だったようだ。

◆ 【深読み「鎌倉殿の13人」】源義経は生き延びて、ジンギスカンになったのか
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220529-00297954
>  「義経が生きていた」という説の根幹には、「判官びいき」がある。「判官びいき」とは判官=義経への同情、愛惜の感情である。転じて、弱者や不遇なものに同情し、肩を持つことの意として用いられた。
 つまり、「義経が生きていた」という説は、悲劇的な英雄だった義経に対する同情であり、「義経なら衣川館を脱出し、きっとどこかで生きているはず」という期待へとつながったのだろう。

> 大正13年(1924)、牧師の小谷部全一郎が満州やモンゴルを調査した結果、義経がジンギスカンであることを突き止め、『成吉思汗ハ源義經也』(富山房)という本を出版した。この本は「判官びいき」の影響もあり、大衆の心に突き刺さり、大ベストセラーになった。
 しかし、この本はアカデミズムに属する歴史学者から徹底的に批判され、学術的に成立しないことが明らかになった。現在、義経=ジンギスカン説を支持する研究者は皆無である。 
◆ しづやしづ…悲運の舞姫「静御前」義経を恋い慕う決死の舞い
https://favoriteslibrary-castletour.com/kurihashi-shizuka-gozen-no-haka/
> 静御前の後半生については、公式に記されたものはありません。
ただ、埼玉県久喜市栗橋に、悲運の舞姫・静御前の伝説が残っています。
もともとの地名は「静村」。市町村合併によりその名は消えましたが、静御前の没地という謂れが残る地です。
当地には、その静が眠っているという「静御前の墓」があります。
諸説ある静御前の晩年ですが、当地にある案内板にはこのように記されています。
「静は義経を慕って京都を発ち、平泉へ向かいましたが、途中の下総国下辺見付近で"義経討死"の報を耳にして悲しみにくれ、仏門に入り義経の菩提を弔いたいと再び京に戻ろうとしました。しかし、重なる悲しみと馴れぬ長旅の疲れから病気となり、文治5年(1189年)9月15日、この地で死去したと伝えられています」。

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2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」 更新情報

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