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世界史・日本史・歴史好きコミュの第一次世界大戦前後の軍事史

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第1次世界大戦前後の軍事や兵器に関してのトピ。
あまり型にはめず広く深くって感じでお願いします。



武器や防具に関してのトピはこちら。

「武器、武具、防具の歴史」
https://mixi.jp/view_bbs.pl?id=95235485&comm_id=6360699


コメント(1000)

テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【レプニン議会】

議会で宗教問題が議題として取り上げられると、議会各党派・諸派は逆にカトリックの特権的地位を確認し非カトリック派を排除する「排斥法案」を可決させるに至ります。ここにおいて非カトリック派の保護者を自認するエカチェリーナは「排斥法案」を容認できない旨を通告し、ロシア軍約4万を増派。またロシア全権大使レプニンは、非カトリック派の不安を煽り、リトアニアでのプロテスタント団体「スウツク連盟」とポーランドでのプロテスタント団体「トルン連盟」という2つの団体の結成を支援し、その援助を約束しました。しかしプロテスタント諸派は自身の地位・待遇向上を望む以上に、ロシアの内政干渉に反感を抱いていており、思ったほどには利用価値が高くありませんでした。




そこでレプニンは、カトリックの権利の擁護と貴族の伝統的特権を守るための団結を奨励して、「ラドム連盟」結成を支援。援助を約束し、彼らの不満を利用して、その攻撃の矛先を国王スタニスワフや改革派に向けさせます。ロシアの非カトリック派の待遇に関する要求はあくまで形式上のものであり、取りに足らない改革で終わることを約束し、むしろ現政府の諸改革の意図を貴族の特権はく奪であることを強調し「ポーランドを救えるのは君たちしかいない」と反国王派を扇動するのです。



この頃レプニンは、ロシアの力によって王位に就くことが出来たこと、であるならばその廃立もまたロシアの一存で可能であることを告げ、「ラドム連盟」参加者名簿(約6万人)をスタニスワフに示し『…陛下の地位は、ただ従順であることのみによって、ようやく王位を保つことが出来るのです。』と述べています。国内情勢は(ロシアの尽力もあって)悪化しており、自身の地位の危うさを嫌と言うほど思い知らせ、ロシアの意に沿うように仕向けた訳です。

テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【レプニン議会】

カトリック擁護と貴族特権の保持のため反改革・反国王を標榜した「ラドム連盟」は、よりにもよってロシアに保護を求めました。そしてサンクトペテルブルクに代表団を送り、「ポーランドの自由」を保証し、ロシア全権大使が適切な立法で問題を解決できるようにエカチェリーナに請願するのです。その請願を受け入れる形でロシアは「ポーランドの自由」、そして少数派である正教徒を保護することを大義名分として大軍を派遣することになります。こうしてロシアはマッチポンプ式に自ら問題を作り出し、その問題解決を現地勢力に懇願され、不本意ながらその解決に乗り出すという形式を整えることで、自らの介入を正当化していくことになります。



さて来るべき議会に向けた「ラドム連盟」の幹部会議は、ロシア軍による強制の中で行われます。議場は兵士と大砲で取り囲まれ、指揮官カー大佐は命令書を示します。内容は、1,ロシアの干渉権を承諾すること。2,ポーランド王への忠誠の誓いの破棄。その見返りは貴族特権の回復でした。いっぽう各議員にも書面にて1,ロシア全権大使の意に逆らわないこと。2,議会における発言を控えること。3,あらゆる会合・集会などの禁止。4,万が一違約の場合は、貴族称号のはく奪・財産の没収あるいは死刑等あらゆる刑罰を与えること。これを誓約させられることとなります。ここに「ラドム連盟」の皆さんは、ロシアに騙されていたこと、利用されていたことに気が付きますが時すでに遅しでした。

テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【レプニン議会】

議員の買収等あらゆる手段を用いて準備を整えたロシアからの要請に従って国王スタニスワフは議会を招集します。このときの議会は異様な熱気に包まれていました。当時のローマ教皇がポーランドにおけるカトリック教会の窮状に心を痛め、信者を激励するため使者を遣わして親書を届けさせていたからです。開会された議会においてその親書が奉読されるに至ると議員一同は、跪いてその祝福を受け『教会のためならば、自らの生命と財産を犠牲にしても惜しくない!』と議場には反ロシア的気運が高まり、激烈な反ロシア演説が次々と行われます。。



このような議会の反ロシア行動に業を煮やしたロシア全権大使レプニンは、その中心人物らを一斉に拉致し、ロシア本国に連れ去ります。またロシアは前述の誓約書のとおり地位剥奪・財産没収、逮捕・拘禁など各種の威圧・脅迫的手段に出て、議員たちが恐怖におののくなか、非カトリック派(プロテスタントや正教徒)にカトリックと平等な権利を与える動議を迫り、それを可決させました。これによりロシアは『ポーランド正教徒の復権とロシア正教会によるその保護』を高らかに宣言します。そして議会においては、親露派グループを形成しつつ、ポーランドの傀儡国家化の総仕上げとして――改革しようとする試みが二度と起きないよう――条約締結を迫ることになります。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【永久友好条約・基本法】

1767〜68年にかけての「レプニン議会」において、一部議員の抵抗にあったことでロシアは新たな計画を立てます。つまり交渉相手を議会全体ではなく、さらに少数に絞った代表団との交渉に切り替えるのです。こうして議会は71名の代表団を選出し、ロシア全権大使レプニンと交渉する委任状を与えます。もちろん、そのメンバーのリストはレプニンが事前に作成したものでして、ロシアが用意する金と地位に心動かされた者たち、そして自己保身に走る者たちを選抜したのは言うまでもありません。また抗議する議員たちには、厳しい処分が待ち受けていました。



さてさて1767年10月、ロシア軍はワルシャワに集結。軍事力を背景にして、国王スタニスワフらはエカチェリーナが「ポーランド貴族の自由守るため」に掲げる「永久・不変の原則」を認めざるを得なくなります。この原則とは、1,国王自由選挙制、2,自由拒否権、3,国王への臣従拒否権と反乱する権利、4,貴族による官職・領地の不可侵、5,貴族の領主権です。これにより国王・政府の権限は大幅に制限され、現状の「無政府状態」が永久不変の政治体制として固定化されることとなります。あわせてロシア政府の承認を得なければ国制改革は出来ない、ということも取り決められます。



かくして1768年、ポーランド・リトアニア共和国は法的にロシア帝国の保護国とあいなったのでした。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【バール連盟とポーランド内戦】

ロシアの圧力の下での議会(通称「レプニン議会」)は、ロシアの言いなりとなるのを余儀なくされました。ポーランドの保守的貴族の多くは、そのよなロシアの干渉と傀儡となっている国王スタニスワフの下での非カトリックの宗教的少数者(プロテスタント、正教徒)に権利を与える改革に憤りを感じていました。特にロシアが敵対的と考えた有力者ら(例えばカトリックの聖職者や大貴族、軍人ら)を拉致し連行していった行為への怒りもあいまって、ついに1768年2月、ポーランド・オスマン国境に近い町バールで数百名の貴族が反ロシア・反改革・反国王を掲げ「バール連盟」を結成、武力蜂起に及びます。



ポーランド各地で同時多発的に起きる武力衝突に、ロシア全権大使レプニンはロシア軍を出動させ、調停と平和解決に躍起になっている国王スタニスワフを尻目に武力制圧に乗り出します。自国で戦う「連盟軍」には地の利がありまして当初はロシア軍を何度か撃破するのですけれども、圧倒的兵力差の前に劣勢となり、現在のポーランド南部・西部ウクライナ地域での壮絶なゲリラ戦に突入していきます。1768年6月、ロシア軍は「連盟軍」の根拠地・バールを占領、残存勢力はオスマン領(正確にはクリミア・ハン国だが)に逃げ込み、そこで再起を図ることになります。おや、オスマンが巻き込まれ始めたぞ。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【ポーランド内戦とコリーイの乱】

「右岸ウクライナ」と呼ばれる地域、ドニエプル川から西側の地域なんですけれども、この地域はポーランド・リトアニア共和国の領土でした。ポーランドのカトリック系貴族に支配されるこの地域に住む人々の大半は正教徒のウクライナ人でして、彼らの待遇ってのは酷いもんでした。まあまともな扱いはしてもらっていなかった訳です。不満は既にあって、バール連盟の結成から内戦へ、その権力の空白がその不満が爆発するキッカケとなりました。こうして現地ウクライナ人たちは反ポーランド武装蜂起を引き起こすのです。内戦とウクライナ人の武装蜂起の渦中にあって各地のカトリック系ポーランド人、ユダヤ教徒、ムスリムなどの――ウクライナにおける――宗教的少数派のコミュニティが根こそぎ殲滅されていきまして、これは「ウーマニの虐殺」(ポーランド人約1万5千人、ユダヤ教徒約3万人が犠牲となる)で頂点に達しました。



さて、このようなウクライナ人による武装蜂起と反乱の広がりはロシアにとっても好ましいものではなく、彼らの反乱はロシア軍によって次々と鎮圧されていき、反乱に関わった者たちは見せしめのため極刑に処せられ、やがては終息していくことになります。いっぽうこのウクライナ人たちの反乱、通称「コリーイの乱」は、ポーランド貴族たちの敵愾心を刺激しまして――これはロシアが扇動した反乱に違いない、彼らは事態をそう捉えた――、こうしてそれまで日和見的態度をとっていた貴族たちも次々に「バール連盟」に身を投じることになりまして、内戦はむしろ激化していくことになります。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【ロシア軍のバルタ侵入事件】

1768年夏、反乱軍(「バール連盟」)の鎮圧にあたっていたロシア軍のコサック部隊は、国境を越えて逃げていく敵を見過ごすことができず、追撃を開始。こうして反乱軍を追って国境を越えたロシア軍はオスマン帝国領に侵入し、バルタという町に住むユダヤ人、タタール人を虐殺しました。この事件の報告を受けたスルタン・ムスタファ3世は衝撃を受け、またロシアの態度もあいまって――オスマン側からの抗議に対してロシアは、そのような虐殺があった事実および関与とその責任を否定した――オスマン側の態度は著しく硬化します。かくしてオスマン国内で開戦論が急速に高まっていくことになるのです。




【開戦前の国際情勢の概観】

ポーランドの伝統的な友好国フランスと、ポーランドに隣接し大きな利害関係を持つオーストリアにとって、ロシアがポーランドを保護国化する過程、その勢力拡大に警戒感を強めます。フランスとロシアの関係は、ポーランド王位継承問題に関連し益々悪化しましたが、ロシアは孤立化を避けるためプロイセンと提携(「露普同盟」)。このときフランスは英国との関係が著しく切迫した状況であったので、仏・墺vs英・普・露なんて事態になることを避ける必要がありました。そのためプロイセンを牽制する目的を以てフランスはオーストリアとの連携をさらに強化し、他方でロシアを牽制するためにスウェーデン、ポーランドの「バール連盟」、オスマン帝国を利用しようと考えました。

テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【仏土交渉】

コンスタンティノープルのフランス大使は、オスマン側に対してエカチェリーナの侵略的意図を指摘して『トルコは最も有効にロシアに打撃を与えることの出来る』絶好の立地にあること。またタイミング的にもロシアがポーランド問題にかかりきりになっている今がチャンスであること。ポーランドを救うことがオスマン帝国の安全保障上きわめて重要であることを説明して、事態への積極的介入を求めます。



これに対しオスマン側は『ロシアとポーランドの対立は、ポーランド国内におけるカトリック教会と正教会の争いであって、我々が介入すべき性質の問題ではない』として、あくまで非介入の立場を堅持し、フランスの勧誘に容易に応じる姿勢を見せませんでした。ところがオスマン側のスタンスを変える出来事が起きます。前述のロシア軍による「バルタ侵入事件」によってオスマン政府内は主戦論、開戦論一色に染まっていくのです。



【非戦論を貫く大宰相】

ときの大宰相ムフシンザーデ・メフメト・パシャは前任者たちの対外融和政策を継承しており、先述のフランスの働きかけにも冷静な対応に終始しました。彼の父はかつて大宰相職を務めておりまして、その関係で若い頃から国政に携わり、また各地(バルカン半島から地中海方面、アナトリアなど)の地方総督や地方軍事官職も歴任したので地方の実情について十分知り尽くしておりました。また中央政府に復帰してからは、ヨーロッパ情勢を注視し情報収集に努めていましたから、オスマン帝国の置かれた極めて脆いその立場をよく理解していました。彼は自国が直面する諸問題の解決には内部改革が必要であって、ゆえに外国の争いに巻き込まれないで済む方法を模索していました。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【地方反乱に苦しむオスマン】

大宰相ムフシンザーデ・メフメト・パシャが直面した問題の一つは、バルカン半島の正教徒とロシアとの関係が益々密接となっているという事でした。かつてピョートル大帝が露土戦争(1710〜11年)の折りにモンテネグロ、セルビア方面の正教徒に向かって異教徒の支配からの解放を布告して以来、同方面におけるロシアの啓蒙活動は継続され行われておりました。特に18世紀半ばからヨーロッパ諸国が戦争の連続(オーストリア継承戦争、七年戦争)に忙殺され、バルカン方面への関心と関与する余力を失うと、ロシアの活動は活発化していきました。



さて、バルカン半島に住む正教徒たちは、古くからヨーロッパ勢力(たとえばオーストリアやヴェネツィア)と組んで地方反乱を起こして来ましたが、反乱の広がりに重要な要素となったのが「予言」でした。新聞すらない時代ですし、民衆を動員しようと考える場合、やはり宗教が持つ(情報伝達・組織力・資金力など)ネットワークというのは大きな力を持ちます。ですからイスラム支配の終焉とキリスト教世界(ビザンツ帝国)の復活などが聖職者によって「予言」され、信徒たち(大多数は無学の農民たち)がそれを信じて立ち上がる、というのを何度も繰り返してきた訳です。時代が移り変わり、ヨーロッパ最大の正教国家ロシアが大国化していくと、お告げや予言の類は急速に現実味を帯び始めます。例えばこの時期には『北方から金髪の戦士たちがやってきてコンスタンティノープルを取り戻し、ムスリムを追い払う』というお告げが流布しました。明らかにロシアでしょ、それ、流したのアンタたちだよねと言いたくもなりますけれども、自然発生的に生まれたモノかも知れませんし、そうじゃないかも知れません。本当に真相は分かりませんけれども、間違いないのは人々は「お告げ」として「予言」として、純粋にそれを信じ、その実現を期待したという事です。



実際1766年秋、モンテネグロにロシア皇帝ピョートル3世だという謎の人物が現れ、モンテネグロ諸部族を統一し反乱が勃発、動乱は広がり続けボスニア・ヘルツェゴビナからセルビアへと波及する勢いとなっていました。

テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【地方反乱に苦しむオスマン】

地方反乱が頻発するオスマン帝国。バルカン方面における不穏な情勢にはロシア側の関与、扇動がありました。これは間違いなのですけれど、扇動したからといって反乱が簡単に起きる訳でもありません。反乱の最大の理由は、そこに人々の不満が既にあるからです。オスマン側は、そのあたりの事情を外部勢力による扇動の結果として捉えるよりは国内問題に起因するものであると理解していました。



ちょうどこの時期は「アーヤーン」と呼ばれる地方有力者たちが台頭しておりました。後の時代に「アーヤーン」は自立化していきますから、ちょうどその過渡期になります。広がり過ぎた帝国の統治に欠かせないのが地方における協力者です。彼らの中でも主に徴税を請け負う方々、彼らはそこで私腹を肥やすことが可能となります。民衆から実際に徴収する税は規定より多くとり、国に収める税は少なくという、まあ横領なんですけれども、それが可能なものだから彼らは蓄財にせっせと励みます。蓄積された富は、彼らの土地の購入(大規模農場の経営)や通商・物流・金融などの経済活動に利用され、これがさらなる富を生み出します。この徴税請負権は美味しい利権であって何とかしてこの権利の獲得、さらに有利な立場(地方官職などのより高い地位)を獲得したい訳です。そうなると人事権を持ってる上役への利益供与、あるいは多額の賄賂が必要となります。という訳で、さらなる富の収奪が民衆から行われる訳です。


テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【地方反乱に苦しむオスマン】


地方有力者たちは住民に勝手に税を課し、手数料を徴収し、あるいは財産を没収するなどで徴税権や地方官職獲得にかかる必要経費を賄いました。しかもこの徴税権や官職を巡っては、各地域で争いごとの原因にもなります。こんな美味しい立場はない訳ですから、各地方有力者は私兵を雇って、武力でもってその地位を争うことになりました。



勝者がいれば敗者も誕生します。例えば武力闘争で負けた側は匪賊集団となって各地を荒し回ったり、またはその地域の正当な支配者を追い出したり傀儡化して匪賊集団の頭領が「アーヤーン」として君臨することにも繋がりました。もちろんこれは不法な行為ですけれども、お金さえあれば正式な任命を買えるのでなんとかなるのです。こうして各地方は政情不安と混乱、治安悪化に苦しみました。最大の被害者はそこに住む住民たちです。重税や生活難に耐えられなくなった人々は土地を捨て流民となりますが、それが地域社会のさらなる混乱に拍車をかけていきます。。



このような地方政府の腐敗・不正の横行について、人々は請願や嘆願によって、より上位の組織(実際コンスタンティノープルへの直訴となって現れた)に訴え出て改善を要求しようとします。ところが統治機構の腐敗(あるいは無能)は進んでおりまして、その中心にはイェニチェリ問題[1]があるのですけれど、とにかく事態の改善は見込まれずさらに悪化していきます。という訳でございまして、地方支配の混乱が、この苛烈な圧政から脱したい、という欲求に繋がりました。地方反乱――バルカン半島においては正教徒系住民の反乱――が頻発した理由の一つです。。いずれにせよですがオスマン帝国は地方も中央も、内部から腐っていくことになります。




―――――――――――――――――――
[1] 16世紀末からバルカン半島等でイェニチェリが国境警備の任務についたが、彼らはその地域に勝手に定住し、勝手に支配階級となり、その地位を世襲化していった。彼らは住民を虐げた(重税や賦役を課した)からキリスト教系住民はおろか、ムスリム系住民からも恐れられた。地方のみならず中央政府においてもイェニチェリは政治に介入しスルタンを何度も廃立しているんだから、地方においての存在感は圧倒的。

>>[971]、

次の2の0コメントの原案をスカイラインさんが考えますか?一応管理の方でも少し考えています!どちらでも良いですが、現在一般参加者のトピック建てが規制されておりますので、スカイラインさんに原案ありましたら、そろそろこちらのトピックにお願いいたします!

トピック原案を投稿するトピック!!
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=6360699&id=99032522
>>[972]

ありがとうございます。第一次大戦から遠ざかっていくばかりで。まず1000めざして頑張ります。
>>[973]

原案についてですけれど、こうしたいとか特にありませんので、出来ればお任せしたいです。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【開戦への道】

大宰相ムフシンザーデ・メフメト・パシャ(以下「大宰相」)は地方反乱にロシアの影響があることは承知していましたけれども、その根本的原因は地方統治側にあるのであって、ゆえにその解決を目指した中央政府の権限強化(アーヤ―ン職の任免適正化)を含む改革に取り組み始めたばかりでした。このような地方の実情からも、自国の劣弱な軍事力からも戦争回避の道を模索しますが、ロシアとの関係は日に日に悪化していきます。



主戦派は、ポーランド問題に忙殺されるロシアには用意が整っていないであろうから先制奇襲的に戦争を始めるのが有利だと主張します。大宰相はロシアが準備できていないのと同様に、あるいはそれ以上にこちらも準備不足な点と、国境地帯の手薄な防備状況からみて、敵の侵入をやすやすと許してしまうに違いなく、開戦は絶対反対である、と。



いっぽう主戦派は、先の露土戦争(1735〜1739年)の経験から準備不足でもなんとかなるのではないかと判断していました。過去ロシア軍は、未開の地を踏破し結局は補給困難に陥り、飢えと疫病によって占領地を放棄して撤退していったではないか、国境地帯が占領されたとしても今回もまた同様の経過を辿るであろうから心配は不要である、と。非戦派にとってそれは現状の認識不足も甚だしいものとなります。かつて無人の未開であった地域も、ロシアが次々と入植地を建設し今や開発が進んでいる、今回の彼らが当時と同様に補給困難となるとは限らない。しかも軍事技術もまた当時とは違っていて、ヨーロッパの軍隊は進化を遂げているのだ、と。だからこそ慎重なる準備が必要なのであって、戦争するのは今ではない、と。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【開戦への道】

オスマン側にとって重要な争点の一つとして1711年のプルト条約および1712年のコンスタンティノープル条約、1713年のアドリアノープル条約、1724年のコンスタンティノープル条約、1739年のニシュ条約に関連する問題がありました。これら条約はオスマン帝国が(珍しく)勝利した露土戦争(1710〜11年)、または引き分けで実質的に勝利としても良い露土戦争(1735〜39年)の結果としての条約であり、また不明確であった国境線を明確化し、またそれを再確認するための諸条約となります。他方プルト条約を中心に考えるならば「ロシアはポーランド・リトアニア共和国の内政へ干渉しない」こともまた定められていました。



もちろんポーランドに関する取り決めは、古い条約なので1760年代において其のまま適用できるものでもないのですけれど、伝統的友好国ポーランドの現状(王位後継問題から国王選出過程、議会への介入、そして内戦と、ロシアによるあからさまなポーランドの内政への干渉)に、オスマン側は大いに憤慨していました。このままで良いのか、と。



もちろんロシア側にも言い分はあります。これは内政干渉ではなくて、ポーランド側からの要請であって、ロシアは協力しているに過ぎないのだ、と。いずれにせよその過程で(長年に渡り両国の国境委員会が設定し、条約により何度も再確認して来た国境線を越えて)ロシア軍は(誤ってか意図的かは別にして)不法に侵入し無辜の住民を虐殺したのでした。少なくともオスマン側の主戦論者から見れば、ポーランドへの内政干渉も領土への侵入も住民の被害も、国家の沽券にかかわる許容できない事態です。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【開戦への道】

さて、戦争回避のために孤軍奮闘する大宰相ムフシンザーデ・メフメト・パシャ(以下「大宰相」)も、勢いを増す主戦派の勢いにその立場を後退し、開戦延期、つまり『十分な準備なしに戦争に乗り出してはならない』『慎重な行動と、必要な準備が整ってから、初めて開戦か否かを再考すべき』との立場へ転換します。和戦両様の構えで事に当たるというか、せめて準備だけは整えたいと考えた訳です。



この開戦を少しでも先送りしようとする努力は、地方の窮状に疎く、また自国軍隊の実力と現状に幻想を抱いていたコンスタンティノープルの高官たちの間では評判が悪く、大宰相は必要以上にロシアを恐れている臆病者、ただ戦争回避を主張するだけの腰抜け、無能な大宰相はクビにすべきだ、との声が大きくなります。こうしてロシアを攻撃する言説と同等の大宰相を非難する声にスルタンであるムスタファ3世は1768年9月に大宰相解任で応え、いわば「開戦内閣」を成立させます。
>>[977]

なにとぞ宜しくお願いいたします!
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◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【対露宣戦布告】

こうして国内戦争支持派の熱狂とクリミア・ハン国とポーランドの「バール連盟」からの救援要請、そしてフランスに促されたオスマン帝国は、1768年9月25日にロシア大使を拘束しコンスタンティノープルのイレディクレ要塞に収監した上で、ロシアに対し宣戦を布告します。その布告のなかにロシアの対ポーランド政策を非難し、ポーランドの独立および政治的自由を回復させるための戦争である旨が述べられています。ちょっと関係なさげなポーランドに寄り道したのは、1768年の露土戦争の開戦事由の一つが「ポーランド問題」でして、これは前段階の諸事情を簡単にでも触れておく必要があるのかなと。なお一言添えるならば、後のプロイセン、ロシア、オーストリアによる三回に渡るポーランド分割に対して正式な抗議を申し入れたのはオスマン帝国のみ、ということで。この後もオスマン帝国とポーランドの公式・非公式の友好関係はずっーーと続きます。



さて、ロシアにとっては突然の宣戦布告を突きつけられた訳ですけれども、彼らにとっては好都合でもありました。先々帝エリザヴェータの時代より対オスマン交渉(黒海への経済進出)は停滞し、外交交渉によっての解決を半ば諦めていたからです。だったら実力行使あるのみですが、開戦を正当化するだけの口実も見つけられない状況でした。それなりに準備だけはしていましたが、なんとオスマン側から喧嘩を吹っ掛けて来てくれた訳です。国内的にも、そして対外的にもこれほどまでに完璧な戦争の理由はありません。こうして露・土両国は交戦状態に入ります。
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争】

9月の宣戦布告以後、露・土両国は来春に向けた準備に入ります。季節的に軍事行動が不可能となる冬季に入るタイミングでの宣戦布告は、準備不足のオスマン側にとって時間稼ぎの意味もありました(もちろんロシアにとっても戦争準備完成までの貴重な時間稼ぎとなった)。さて年が明けて最初の大規模な軍事行動は1769年2月のクリミア・ハン国によるロシア南部への襲撃から始まります。この成功にコンスタンティノープルの主戦派は戦争の先行きを楽観します。あ、こりゃ勝てるなと。



これに対し、ロシアは動員を完了し、軍を三つに分けて進発。軍主力はポーランドに対するオスマン側からの支援を阻止するためにバルカン方面・ドナウ川の河口へ(ドナウ川を渡河し、最終的にはコンスタンティノープルに攻め込むつもりであった)、もう一軍はクリミア方面へ(黒海・ウクライナ南部の支配権獲得が目標)、さらに一軍はコーカサス方面グルジアへ。エカチェリーナ大帝も――オスマン側と同様に――戦争の成り行きを楽観視しており次のように書き記しています。



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『…我が兵士たちは、まるで婚礼の披露宴に招かれたかのように、嬉々としてトルコとの戦争に出かけていく…』
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テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/ホティン要塞攻防戦】

1769年4月30日、雪解けと春の訪れにより進撃を開始したロシア軍はバルカン半島を目指しドニエストル川沿いにある要衝「ホティン要塞」(現在のルーマニア・ウクライナ国境付近の町「ホティン」)への攻撃を開始します。そのころ大宰相メフメト・エミン・パシャ率いるオスマン軍主力はコンスタンティノープルを出発してドナウ川の手前に到達したばかり。従ってロシア軍を迎え撃つオスマン軍は国境地帯に配置されていたごく少数の兵力のみでしたけれども、激しい攻防戦の末にロシア軍の撃退し要塞防衛に成功。5月初め、予想外の損失に驚いたロシア軍は態勢を立て直すためドニエストル川の対岸へと後退しました。



いっぽうオスマン側にはクリミア・ハン国からの援軍が到着しホティン守備隊と合流。北上を続けたオスマン軍主力もイサクチャ(現ルーマニア北部の都市)を経由して現在のモルドバからさらに北へと進み「ホティン要塞」付近に布陣。こうして7月までに、ロシア軍約6万とオスマン軍約6万がドニエストル川を挟んで対陣するに至ります。


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◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/ホティン要塞攻防戦】

1769年7月、態勢を立て直したロシア軍はドニエストル川を渡河し「ホティン要塞」への攻撃を再開しますがオスマン軍の激しい抵抗により戦況は芳しくなく、8月末までにはドニエストル川の対岸へと再び引き上げます。いっぽうオスマン軍は後退するロシア軍の追撃に失敗、これを取り逃がしてしまいます。こうして両軍は川を挟んでのにらみ合いの状況へと戻るのですけれども、オスマン軍司令部では戦況に関して楽観的なムードが漂います。既に「ホティン要塞」への攻撃を2回撃退し、その結果としてロシア軍は対岸に後退した訳です。そうなれば積極論が出てきます。こちらから攻勢に出て、ロシア軍を撃滅すべし!と。という訳で、9月に入りオスマン軍はドニエストル川を渡河し全面攻勢に出るのですが、今度はロシア軍の反撃によって壊滅的打撃を受け、潰走。態勢を立て直すことの出来なかったオスマン軍はモルダヴィア、ワラキア方面を目指して敗走。



これを見たロシア軍はすかさず追撃を開始し、まず「ホティン要塞」(友軍に見捨てられたと思った守備隊は混乱のなか逃げ出した)を無血占領。総崩れとなり散り散りに逃げるオスマン軍を追いかけるロシア軍はモルダヴィア、ワラキア両公国へ電撃的に侵攻。同年冬までに主要部を占領することに成功し、その「解放」と未だオスマン側の領域に住む民衆へ向けオスマン帝国への反乱を呼びかけることになります。こうして1769年におけるバルカン戦線「ホティン要塞攻防戦」はオスマン軍の一方的な敗北で終わり、ロシアにとってはピョートル大帝以来の念願、ドナウ両公国への進出を果たしたのでした。



いっぽうドニエストル川を挟んで両軍が対峙していた1769年夏頃、膠着した状況を打破すべくロシア海軍バルト海艦隊(バルチック艦隊)が出撃していました。ドーヴァー海峡、ジブラルタル海峡を越え地中海に進出する艦隊が目指すはエーゲ海、目標はオスマン帝国本土の攻撃であり、オスマン帝国内の正教徒とアラブ人を糾合し反乱を起こさせること。ロシア史上初の地中海遠征の始まりです。
トピック2を作成致しました!!

第一次世界大戦前後の軍事史2
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ちょっとこれも出しておこう!!

【ゆっくり解説】世界史でも稀な完封勝利の艦隊決戦|日本海海戦
https://m.youtube.com/watch?v=EkKENk4Pc_8
テキトーに綴るWW1への道。
◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/バルト海艦隊の出撃】


1769年7月、グリゴリー・スピリドフ提督の指揮する第一遠征隊がバルト海艦隊基地クロンシュタットを出撃。続いて同年10月に英海軍将校ジョン・エルフィンストーン率いる第二遠征隊、遅れて第三遠征隊が出撃し地中海・エーゲ海へ向かいます。さてこのロシア艦隊の遠征に多大な支援を与えたのが英国です。遠征に参加する艦船は英海軍の指導により建造されたものでしたし、艦隊指揮は「実質的」に英海軍軍人により行われていました。他にも乗組員の募集を英国内で許し、バルト海艦隊の英仏海峡通航を承認し、ジブラルタル等の基地への寄港(補給・修理・休養)をも許可するなど、英国はロシア艦隊に数々の便宜を与えその活動を支えたのです。またフランスの妨害(ロシア艦隊を英仏海峡で迎撃しようと計画していた)を各種圧迫により放棄させたのも英国でした。



当時、英国はフランスとの対立関係が続くなか北米東部の13植民地との関係が悪化しつつあり有力な同盟国を欲していました。「敵の敵は味方」理論から言えば、英国の主敵フランスと対立関係にあるロシアを援助することは、簡単に言えばフランスに対する嫌がらせとして最適な手段でした。なによりこのときの両者は、後の時代に対立するような諸問題(ロシアは黒海に進出する遥か手前であったからダーダネルス・ボスポラス両海峡問題は起こり得ないし、そもそも英領インドへの道=地中海航路防衛の問題も、英国がインドに目を向けるのは北米13植民地を喪失してからだからこの時代に存在しない)を抱えてはいなかったのです。

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◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/ギリシャ反乱】

1770年2月、ロシア艦隊がギリシャ南部のマニに到着すると同時に二つの反乱軍がギリシャで蜂起します。一つはピョートル・ドルゴルコフが指揮する軍でギリシャ西部で活動し、もう一つはバルコフ大佐率いる軍でギリシャ東部で活動することになります。このようにしてロシア軍到着から始まるギリシャの反乱はペロポネソス半島全体のみならず、やがてギリシャ本土以外の地域(クレタ島など)へと波及するのですが、実は開戦前の1760年代半ばからロシア側は――オスマン帝国を弱体化させるため――ギリシャを独立させようと、現地の有力者らに接触し、反乱に際しての軍事支援を申し出ていました。その過程で反乱軍の組織化のためにロシア軍将校をギリシャに派遣させその指導にあたらせましたし、反オスマン活動に最も熱心であったギリシャの正教関係者は情報や物資・人員の提供をロシアに約束し、詳細な「開放計画」が練られていきました。こうした不穏な情勢をオスマン当局も探知こそしていましたが、ロシア軍が地中海側から出現することは想定外・大誤算でした。



他方でギリシャ側にとっての誤算は、やってきたロシア軍の規模が事前の約束(約1万の兵員による支援)と違い小規模(数百名)であったことであり、ロシア側にとっての誤算は反乱の規模が事前の取り決め(約10万人規模)より遥かに少ない規模(最初の反乱軍は1000名)であったことでした。つまり両者とも相手を過大評価していて、いざ相手の姿を見て落胆・失望する訳です。ありゃま、思ってたのと違う、聞かされてたのと違う…。とは言え、始まった以上やるしかありません。問題は広がる反乱を援助できるほどの兵力をロシア軍が持っていなかったことでした。例えば、ロシアが約束した援軍を得ることが出来なかったクレタ島での蜂起は、態勢を立て直したオスマン正規軍によってすぐさま鎮定されました。
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【第一次露土戦争/ギリシャ反乱】

ロシアからの援助は極めて微弱なものでしたが、ギリシャ本土での反乱は広がり、膨れ上がる反乱軍はムスリムを虐殺しつつ各地を「解放」します。いっぽう開戦に反対し続け中央から追われ流刑地ロードス島に幽閉されていた元大宰相ムフシンザーデ・メフメト・パシャは恩赦の後、ペロポネソス半島ナフプリオの守備隊司令官職に就いておりました。彼は与えられていた指示、オスマン正規軍の到着と合流に従わず(反乱軍に時間的猶予を与えれば手に負えなくなる恐れがあり、至急これを撃破する必要があったため)急ごしらえの約1万の民兵・義勇兵を率いて出撃、約2万の反乱軍を撃破。以後、ギリシャにおける火消し役として転戦し、「解放」されていた都市を奪還していきます。このような状況に、上陸した少数のロシア軍は艦隊内へ逃げ帰ることとなり、他方で見捨てられる形となったギリシャ反乱軍の活動は終息に向かい、やがて完全に鎮圧されることとなります。



この反乱の失敗を巡りロシアとギリシャは相互に非難し合うことになります。ロシア側はギリシャ人の無能さを強調し、その失敗をギリシャ側に転嫁し本国に報告しましたし、ギリシャ側はロシアに扇動されるまま、また約束通りの援助もなく孤立無援での戦いを余儀なくされたことに大いに憤慨しました。いずれにせよ、ロシア側はギリシャ方面での反乱が全くの期待外れであったため、コンスタンティノープルとエジプト、シリアなどとの連絡線遮断、またオスマン艦隊の撃滅へと方針を転換します。なぜなら開戦後、オスマン領エジプトの有力者アリー・ベイがオスマン帝国からの独立を宣言(アリー・ベイの反乱)していたからです。さて、戦争の前後で起こる地方反乱(モンテネグロ、ギリシャ、エジプト、セルビア、ドナウ両公国)に苦しむオスマン帝国ですけれども、より大きな苦境が訪れます。

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【第一次露土戦争/1770年戦役】

1770年7月7日、ロシア艦隊はチェシュメ湾に停泊中のオスマン艦隊を攻撃、爆薬を満載した船を湾内の突入させます。湾内のオスマン艦隊は密集していたためロシア艦隊からの砲撃と焼討船の爆発により誘爆を次々と起こしまして、その多くは轟沈、乗組員約1万1千人が戦死しました。こうしてオスマン帝国海軍は壊滅します。英国軍人エルフィンストーンはこの機会に乗じてコンスタンティノープル直接砲撃を主張しますが、ロシア艦隊司令官は独断でこのような重大な決定を下す訳にはいかないと躊躇し、ダーダネルス海峡の封鎖のみを決定します。これはコンスタンティノープルに対する食糧供給を断つ目的でして、また他方で東地中海の制海権を獲得したロシア艦隊は、シリアの各港を砲撃したり、あるいはエーゲ海の島々を占領し(ギリシャ反乱の拡大には失敗したが)着実に戦果を拡大していきます。戦争終結へ向けた軍事的圧力です。



いっぽうオスマン帝国海軍が壊滅した同日、陸上でもオスマン軍は壊滅します。名将ピョートル・ルミャンツェフ率いる約4万のロシア軍は、約8万のオスマン軍を相手にラルガ(現ルーマニア国内)で戦いこれを撃破。この「チェシュメ海戦」と「ラルガの戦い」はほんの始まりに過ぎませんでした。

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【第一次露土戦争/1770年戦役】

さて戦局は悪化していましたが、大宰相イヴァザデ・ハリル・パシャ(以下「大宰相」)は過去の露土戦争の経緯から、ロシア軍の作戦展開能力がそろそろ限界に達していると考えており、戦争の主導権をロシアから取り戻すことがまだ可能だと判断していました。その判断の正しさを証明するように、複数名のロシア兵捕虜への尋問の結果、ロシア軍では糧食や弾薬が枯渇しつつあることが明らかとなります。我々も苦しいが、敵も苦しい。あともう一押しで勝てる。



『戦勝ハ将帥カ勝利ヲ信スルニ始マリ、敗戦ハ将帥カ戦敗ヲ自認スルニ因リテ生ス。故ニ戦ニ最後ノ判決ヲ与フルモノハ実ニ将帥ニ在リ』『敗レタル会戦トハ敗者ガ敗レタルヲ自認シタル会戦ナリ』とは日本陸軍の『統帥綱領』の一節(第4章 統帥及幕僚)ですけれども、その点ハリル・パシャは勝利を諦めてはいなかったですし、もちろん戦局打開のためには攻勢に出るしかない。ロシア軍の進撃停滞と敵情から判断するに、反撃の良き機会が訪れた思われた訳です。そこで大宰相は第一線から急ぎコンスタンティノープルへと戻り「御前会議」を開催し、次期攻勢作戦を決定します。こうして1770年7月末までにオスマン帝国各地からかき集めた約10万の軍勢がドナウ川へ向け進撃します。さらにクリミア・ハン軍の増援を得た大宰相と司令部幕僚および各軍司令官らはその勝利を確信しました。



いっぽう、ロシア軍は「ラルガの戦い」に間に合わなかった無傷のクリミア・ハン軍を追撃しており、オスマン軍が大挙してドナウ川を渡河してきたことに気が付いていませんでした。ロシア軍司令官ルミャンツェフは、この新手のオスマン軍の出現に驚愕します。こうしてロシア軍は、後方から接近するクリミア・ハン軍約6万、正面からやって来るオスマン軍約10万に包囲されようとしていました。
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【第一次露土戦争/1770年戦役】

敵情を探知してからのロシア軍の意思決定は迅速そのもので、司令官ルミャンツェフはクリミア・ハン軍が到着する前にこの包囲網を打ち破る必要があると判断。オスマン軍を先制奇襲の上で押し切るしかないと即行動を開始します。



いっぽう大宰相イヴァザデ・ハリル・パシャ(以下「大宰相」)の作戦指導は慎重そのものでして複数の塹壕線を構築させつつ、8月1日午前10時を攻撃開始時刻と定め指示を出しました。さてロシア軍はと言いますと深夜から密かに移動を始め同日払暁、オスマン軍陣地への攻撃を開始します。夜明けと同時に突然現れたロシア軍に混乱するオスマン側は無秩序に攻撃を開始しますが、ことごとく撃退され、またロシア軍の圧倒的な砲撃により戦意を喪失。撃ってくる量、発射速度はオスマン軍の比ではないのです。ロシア軍の兵士たちの多くは「七年戦争」を経験しており、その司令官も実戦経験豊富な名将でした。対してオスマン軍の兵士は訓練不十分で、装備は時代遅れであって、しかも指揮官たちも経験不足でした。この差はでかいのです。



パニックはやがてオスマン軍全体へと広がり、敗走が始まります。大宰相もまたその混乱のなか、少数の司令部職員とともに後退、これがさらに全体の混乱に拍車をかけ一気に潰走状態となります。こうして18世紀最大の陸戦「カグル会戦」はオスマン軍の大敗北に終わりますが、これが一連の軍事的破局の始まりとなります。本会戦での敗北によって、各地でいまだ踏ん張っていた各要塞(ベンダー、イズマイールなど)も次々と陥落していくことになり、多くの悲劇が起こります。それは救援の望みが絶たれ孤立無援となった要塞の玉砕戦であり、要塞内に避難・保護していた民間人の集団自決です。
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◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/講和条件提示】

陸と海での圧倒的勝利を背景として1770年9月、ロシアは和平条件を提示します。まず第一に将来オスマン帝国がロシア本土を攻撃できないようにするための保障として、(1) カバルダ地方のロシアへの割譲。(2) アゾフ、タガンログのロシアへの返還。(3) クリミア・ハン国の独立承認となります。


第二に賠償金支払いです。提示額は2億5千万ルーブルとされましたが、オスマン帝国の支払い能力から考えますと到底支払えるものではなく、そのため支払完了までの(4) ドナウ両公国の保障占領。ただしオスマン側が賠償金支払いおよび保障占領にも難色を示す場合は(5) ドナウ両公国の独立承認。まあ独立させることが本命で賠償金を吹っ掛けてるともいえるのではないでしょうかネ。第三に黒海における自由航行権および商業の自由。これこそロシア側の絶対譲歩できない条件となります。他にはエーゲ諸島の割譲など、とにかく過大な講和条件となりますけれども、戦場での勝利で有頂天となっていますから、あらゆる要求を盛り込んだと言えそうです。



さて、ロシアは前回の露土戦争(1735〜39年)での失敗、つまり中近東に利害を持つ西欧諸国の意向を無視するという過ちを再び繰り返すことになります。今回も第三国の仲介や調停はロシアの不利になると考えて、二国間の直接交渉にこだわり列強各国へ和平案の全容を公式ルートを通じて明らかにしなかったために関係国の猜疑心と警戒感を招く結果となるのです。

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◎コーカサス戦争/南下政策の展開

【第一次露土戦争/墺国の立場】

ロシアの圧倒的な勝利の数々は――オスマン帝国の地方反乱の拡大も――列強各国の予想を遥かに超えていました。そのなかで改めて予想されるバルカン半島におけるロシアの勢力拡大に最も懸念を示したのがオーストリアになります。ワラキア、モルダヴィア両公国(以下「ドナウ両公国」)と国境を接するオーストリアは、同地域がロシアの影響下に入ることを極度に警戒しました。オーストリアにはドナウ両公国への領土的野心はありませんでしたが、少なくとも他国、特にロシアがその支配権を獲得することは安全保障上の脅威となると考えたのです。ロシア外交当局がオスマン側に提示する講和条件案に関連して、内密にオーストリアの意向を探ったとき、墺宰相カウニッツは自国の立場について誤解を生む余地がないようハッキリとロシア側に対して通告しています。



*******************
『…両州の主権が、強弱のいかんを問わず他の国に移ることは、オーストリアの安全および平和と相容れない…』
*******************



このようにロシアのドナウ両公国占領に危機感を持つオーストリアは1771年に「墺土同盟」[1]を締結するに至ります。内容としては、1. ロシアが占領中のオスマン領を返還させるためのあらゆる努力(外交交渉および実力行使を含む)の約束。2. ポーランド・リトアニア共和国の独立および政治的自由の確保です。第一次ウィーン包囲(1529年)以来、オスマン帝国の脅威からヨーロッパ・キリスト教世界を守る役割を担い続けたオーストリアは、今やロシアの南下政策の脅威からオスマン帝国を守る側に回りまして、その立場を大きく転換しようとしていました。



―――――――――――――――――――
[1] オーストリアはオスマン帝国に軍事的援助と領土保全を保証したが、その見返りに最恵国待遇や派兵経費支弁、国境地帯の係争地の割譲などを認めさせている。
>>[993]、

玉砕や民間人巻き込みは日本だけではなかったのですゆね?
>>[996]

そうですね。例えば、オスマン軍の報復を恐れたギリシャ人の一団、特に若い女性の集団になりますけれども幼い子供を抱えて崖から身を投げてます(日本で置き換えればサイパンのバンザイクリフみたいな話でしょう)し、要塞に立てこもったオスマン軍はロシア軍の報復を恐れ、自分らの家族に手をかけて「自決」したり、と。その行動が敵に捕まったら最後、ヒドイ目に会うという「恐怖心」だったり「集団パニック」によるものだとするならば、時代や人種や宗教に関わりなく同じ人間ですから日本人かどうかに関わりなく、どこでも起こり得る普遍的なお話と思います。あ、個人的にそう思うだけで、議論の余地はあると思います。
>>[997]、

ユダヤ反乱についてはあまり詳しくなかったのですが、無抵抗での自決以外にもローマの攻撃法が大変だけど合理的すぎて興味深いですね!また、アラモは兵士だけかと思っていたので驚きました!
>>[998]、

〉その行動が敵に捕まったら最後、ヒドイ目に会うという「恐怖心」だったり「集団パニック」によるものだとするならば、時代や人種や宗教に関わりなく同じ人間ですから日本人かどうかに関わりなく、どこでも起こり得る普遍的なお話と思います。

なるほど、その通りかも知れません!

では次にいきましょう!

第一次世界大戦前後の軍事史2
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