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ほんとうのスピリチュアルコミュの「魔」について

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スピリチュアルの道を歩んでいると、
それを邪魔するさまざまな存在と遭遇することがあります。

始めのうちは自分の欲望とか執着だったりと自分の内面からのものが多いのですが、それらを制御できるようになって意識が自由になってくると今度は外からの干渉が起こり始めます。

邪な存在たちは、私たちを仲間に引き入れ餌食にしようと甘い言葉で誘ったりあるいは脅かして意に従わせようとします。

同じようにこの現実の社会でも魔的な行いをする人々がいます。

その人々は悪魔の手先になってしまっているのです。

個人に限らず集団や組織、宗教や国家までもが魔的になってしまう状況を私たちは目の当たりにしているはずです。

最近では偏ったナショナリズムを掲げた指導者とそれに同調してしまう国民。またそれに影響を受けてしまう他国の指導者。

現代は魔的なものにみんなが影響されやすい時代なのかも知れません。
そしてそれに無自覚なことも多い。

ネット上ではいかに自分が得をするかを説く自己啓発とか、差別的な発言を繰り返す人たちとかが溢れています。

科学技術や文化や経済が発達してそれによる豊かさを享受できる人々はその立場を守ろうと他人を踏みつけ、享受できない人々は憎しみを抱き敵対心を燃やしたり自分より弱い者への攻撃でそれを晴らしたりしています。

…上記の人々は悪魔の手先になってしまっている人々ですが、ついには悪魔そのものになってしまう場合もあるのですね。

そういう人たちが増えてしまったら…人類が滅んでしまうような状況になるかも知れません。

なんとかファーストとか言って自分たちを優先する者同士が対したら争いが起こるのは必然だからです。

感情が大きく動いた時、何かに執着が生じた時が魔につけ込まれやすくなっている時です。

魔を跳ね除けることができるのは、しっかりと正しい方向を見据えていく自身の心と、物事をありのままに観てみんながお互いに成り立つように愛をもって動ける客観的な視点。

揺れ動く時はあります。人間だもの。

でもたとえ揺れ動いても完全に道を踏み外さずにまた戻れるようにしておくには正しい方向を意識の中におさえておかなければなりません。

そうしないと、自分が成長するに応じて魔も強いものが現れるので自力だけではどうにもならない状況になりいつか負けてしまうからです。

そういう私たちを守り救ってくれる存在…神さまへ向かう心を忘れないようにすることが唯一の方法なのだと思います。

コメント(30)

魔とも言いますが、
魔と言えば、対立みたいな意味にもなり、
それは、人間側からの視点と言えると思われます。

神の理に就かせて頂き、至りませんが学ばせて頂いていますが、
神の視点は親の視点となり、
魔といえども、親にとっては子でしかない。
全ての存在は、貴き我が子であり、
では、何と表現することになるかとなると、

材料であると捉える様に御指導頂いています。

生きる上での、自らを律する為、真の道を学ぶための、
生きる真の材料ですから、
真材料と呼ばせて頂くことになります。

勿論、自分自身が、誰かの真材料になっていることもあるでしょうから、
互いに鍛え合い、磨き合い、高め合えれば、
きっと最後に残るのは、素晴らしき感動の味わいであり、心震わせた歓びの思い出となることでしょう。

しかし、渦中では、そんな悠長なことは言ってられません。
それこそ必死で乗り越えなければ。
真剣に立ち向かうからこそ、魂に響いて来るのですから。

今の私の真材料は、
ネット漫画の配信だ〜(ToT)

乗り越えられない壁〜。
取り込まれる〜。
邪魔されると人が変わるぞ〜(>_<)

それで体力まで削って、ほんと馬鹿じゃん。
こうして自分の本性が炙り出されて来てる時に、
そこからえいやっと離脱出来れば、生きる達人なんですけどね。
>>[1]
これ書いたらその意識の外に出られました(°°;)

助かりましたm(_ _)mありがとうございます。
>>[1]

なんだかいろいろと大変そうですね(^_^;)お疲れ様です。

対立…その通りです。さすがめりるさん。
神さまの視点にほんとうに辿り着くまでに、そういう存在との対立が生じるのです。

作用と反作用、物質と反物質、というように進化を歩んでいるとそれと逆の働きの存在との遭遇はあるのです。

神さまの視点=客観という思想が総論とすれば、魔との遭遇、対立は各論になるのかも知れません。

実際にその人が成長して霊的な体験として遭遇することになるので怖がらせるようなイメージは出さない方が良いかなとも思ったのですが、近年のスピリチュアル界隈ではもっぱら「ワクワク」とか「体験を楽しむ」というようなプラスイメージだけを広げていると感じ危惧したのでトピックを作ってみました。

物事には表裏がありプラスマイナスがある。この世でも聖者のような人もいるかと思うと反社会的な行動を取る人もいますよね。神さまの名の下に殺人を行う人々も存在するのです。それを踏まえた上で進化の道を歩む事を見直すのも意味があると思うのです。

そしておっしゃるように、魔との対立に打ち勝つためには神さまの視点…というか全託をするしかないのです。
神さまに全てを委ねてしまわないとそこからは進めない…そういう場面が出てくるのですね。

真の材料というお話がありましたが、それは自分と縁あって関わり合う人・霊・魂との関係を仰っているように受け取りました。

それと「魔」はちょっと別のものとして考えた方が良いかも知れません。
私は個人的にそう感じました。

・・・・と、ちょっと深刻な話題でしたので付け加えさせて頂くと今の私たちの段階ではそんなに怖い魔に出会うことはあまりないと思います。
本当に怖い存在が現れる人は聖者のような人なのだと思います。

私たちはしっかりと神さまの方を向いて歩んでいれば将来魔が出てきても負けない信仰心ができてくると信じています。

それこそ魔的なものに惹かれて自分から近づこうとするような人は別ですが。

引き寄せの法則なども間違えるとそういう働きを引き寄せてしまう危険性を感じます。楽して金儲け的なことを広めようとする人たちを見るとそういう気配を感じるのです。

そういう警告も含めてこのトピになったというわけです。
魔のこと。
魔についてのトピですものね。
悟りを開こうと瞑想していたら魔境に気を付けろみたいな、
あの様な辺りを連想してましたが、

そうか!と、膝を打ちました。

家事をやりながらでも、同じ事が言えるのだということです。
自分がやらないとどうにも回らない。だから自分がやる。そこまでは普通。
でもその先、
自分が居ないと駄目じゃん。自分スゲー。
とか思い始めると、それが勘違いに
あら投稿タグを触ってしまった?(‥;)

自分スゲーになりだすと勘違いのループにはまって行く。
何だか自分中心に回っている様な錯覚の家事になって行く。
誰もが関われる家事にして置かないと風通しが悪いのに、
自分が優先されて、周りには合わせて欲しいと思い始める。

自己中心な自己判断。
これが、魔境か。

何も、崇高な意識のどうのこうのというものに限ったことではなさそうですね。
それは日常の全ての場面にあるものなんだろうな。

去年、あることがあり、
神の理としてなのですが、高い貴き理を授けて頂きまして、
その意味も、自分達の理次元では持ち合わせない観念なので、改めて御指導下さり授けて下さる訳ですが、

自分の気持ちは要らないのだ、と。

それが最も大切なことだと心に染みまして。

果たしてその時、私は膝を壊してびっこを引いていたのですが、
農場作業の手伝いを行っていて、壊した膝が曲げられずに片脚伸ばした状態で畑を回っていたのですが、
御指導があるからと総員が駆け出す中、びっこを引き引き駆け付けて、その御指導を頂きました。
そうしたら、そうか自分の気持ちは要らないのだと腑に落ちて行くと、脚の痛みが何だか消えて、
その後畑に戻って、周りの参加者の前でスクワットをして見せることが出来ました。

肉体的な不調も、自己中心な自己意識から来ているというのは、
知識や判断では解っていても、気持ちでそれを確認したのは初めてでした。

この後、地球も理の段階を高めて行かなくてはなりませんが、
神様に向かう気持ちというのは、
神様は、事実しか行っておられないので、
事実は信じなくても事実であり、
信仰の必要は無く、
その事実そのものを、如何に気持ちで捉えて行けるか、悟って行けるかは、各自に問われている。
気持ちで捉えるには、その前提として、体験が必要になります。

様々な体験を、せっかく与えられながら、
自分の考えや気持ちのループにはまり、味わって居ない、勿体ない生き方を私達は日々行っている。

家事を行うにも、自己判断や自分勝手では、味わっていないから実に成らないということになるのでしょう。

どの瞬間も、体験であり、味わいです。
きちんと味わえば、文句よりも、感謝が湧いて来る筈。
だってそれは、自分だけの為に神様が与えて下さっている、特別な瞬間だから。

日々感謝が足りないとちょっと悩んでいたけど、そうだったなと吹っ切れました。

そうか魔境に入っていたのか。
味わいと感謝を忘れていたのだな。

今日も一日頑張ろう。
そう思いました。
どうもありがとうございました。
>>[5]

こちらこそありがとうございました。

素晴らしい体験と気付きだと思います。
体験がありそれを自分の中で気付きとして受け入れることができる同士だと話もお互いに通じ合うように思います。

表現の言葉が違ってもきっと同じことを言っているのだと思います。

「事実は信じなくても事実」…地球上のどんなものにでも分け隔てなくお日様の光は降り注いでいる。動物がいて植物がいて酸素を作り出してくれて生きていられる。私たちが意識するしないに関わらず神様はその恵みを与えてくれている…私はそんなふうに理解しました。

「信仰」についてはまたトピックを立てたいと思っています。
>>[6]
信仰も、段階なのだろうと思っています。

子供の頃は、ぬいぐるみ達とお喋りしていたかもしれない。
本当に動いて、一緒に生活していると思っていたかもしれない。

でも、ぬいぐるみはぬいぐるみなのだと解り、
自分の気持ちは自分の中のものなのだと理解して行く。そういう過程はある。

信じていたというのは、各自の気持ちの問題なのだけど、
それも大切な時もあったということだと、

そんな風に捉えれば、
ちょっと優しい気持ちにもなれます。
先日、仲間内の、実体験を聴かせて貰えました。

その人は、長年、座骨神経痛が治らず、
若い身空でいつもびっこを引き引きちょっと痛々しかったので、
度々揉み解しを施術したこともありましたが、
訳あって関わるのを辞めて数年。
それが、先日治ってしまったという話です。

実は、今、日本にというか、この地球に、本当の神様が肉体を以て誕生して下さっています。
そして、この世の事実、真実についてを、人間の言語で授けて下さっていて、
これもその一環になります。

前記で挙げた私の、膝が治った体験は、
誰でも同じ様になるかと言えば、そこは当人の感性に依るものもありそうなので一般的な体験とも言いにくいですが、
この人の座骨神経痛の治癒に関しては、これは一般的な体験になり得ると思われ、
私の場合よりも解りやすいと思いました。

その方は、ご兄弟が医師で、身内だから高価な薬剤も使って治療しているのに、これでも治らないのかと文句を云われる数年間だったそうですが、
このほど、野草の収穫に随行させられ、
「他の役に立て」と、
痛いのを考える場合ではない状況で、必死に収穫作業を行ったそうです。
そうしたら、
そこが本当の神の理なので、
この世の決まり事として、生きるとは生存であり、存在するとは役割機能であり、
他の役に立つ為に存在しているので、
その為に頑張る者があれば、
神様は、御親意に叶う者として、
他の役に立てる様にして下さるのだとのこと。

ここではつまり、座骨神経痛のままでは他の役に立ち難いとなれば、
他の役に立ちたいという真心をお受取り頂ければ、その障害になるものは消して下さるのだということでした。

本当、この人、世が世なら魔王みたいな魂の人で、
私もほとほと頭に来て、暫く治療は別の人に依頼して下さいとお断りした程でした。
それで暫く距離を置いたのでした。

本当の神様の御指導なのだと、頭では解っていても、
今回みたいに、自分を見失うほど真剣に他のために必死にやるという体験は、この人もあんまり無かったと思います。

自分を離脱する時は、一瞬ですが、次元を超える様な、不思議な空間を通る感覚になります。
そこには、言語が無い。時間も無い。空間も消える、そんな感じ。
ただただ自分の本音だけがそこに浮き彫りになる感じです。

その、本音が、「自分の為」であればそこまでですが、
「他の為」であれば、それは御親意に通じます。

何故なら、私達は、そのことを学び、能動的にその為に生きる様に、慈しみ育てられているのだから。

きっと、その、自分の為なのか、他の為なのか。
そこに、「魔」であるのか真心であるのかの、境目があるのかもしれない。

取り敢えず今回は、一昨日聴けた実話を書き込みに来てみました。
>>[8]

重ねて素晴らしい体験のお話をありがとうございました。

自分のやるべき事、神様から頂いた仕事をみんなのために一生懸命に行うことが大切なのですよね。

我を忘れるくらいにただひたすら、その仕事と一体になるほど打ち込むと「小さな自分」から離れられるのですね。

心身の不調というものは多くは「小さな自分」が原因で起きる場合も多いのです。

何かの仕事を一生懸命にするようになったら病気が治ってしまった、という話はよく聞きます。

・・・神様や高いところからこの世に肉体を持って降りてくるということはあると思います。それも1人だけでなく同時に何人も。私も神様のような高いところから身体を持って降りてこられた人を知っています。

めりるさんもきっと良いご縁を頂いたのですね。

これからもっといろいろなことを指導されると思います。

私が提示した「信仰」はおっしゃる通りたくさんの段階があります。

ご縁のある神様の指導を仰ぎながら「ほんとう」の方を向いて歩んでいこうと思っています。
>>[9]
本当の神様は、高いところから降りて来られた方々とは全く違って、
一番下から全てを抱え、包んで下さっておられる、
そんな感じです。

何故なら、
大自然に大いなる生命の営みがあり、
大自然に大いなる生命の力と働きがあり、
その力と働きにより全ての生命は生かされ生きており、
その生命の力と働きが無ければ何ものも生きられない。
その、大自然の大いなる生命の力と働きのこそが、本当の神であるからです。

なので、高いところから降りて来られた方々とは、かなり真逆のことを仰います。
人間側におもねると、事実を見失うということかもしれません。

人間は、何を得たかを問題にしてますが、
生命は、何を与えたかの方が本当は問題。

勿論、最初から本当のことを聴かせても人間側には解らないので、
私が御縁出来た時迄には何十年も掛けて御指導が高まり深まって来た経緯があったそうです。

兎に角、地球にその種が蒔かれれば、きっと芽が出て結実するでしょうから、
そうなれば、誰もがその事実で生きられる様になる。
だから焦ることはない。

ただ、今は、不安の中で生きて迷子になっている人達に、
生命を与えられて生きているという事実、
生命が無ければ生きていないという事実、
生命を与えて生かして下さる御存在があり、全てを抱えて頂いているのだという事実に目覚めて、
安心で生き、安心で生まれ変わり、
安心の中で生きることを謳歌出来ることになるように。

生命とは何かを感じ合えれば。
今大事なのは、そのことなのだと思われます。
>>[10]

仰る通りだと思います。
今大切なのは生命=魂に目覚めることなのだと思います。
方向性はめりるさんと私は違いはないと思うのです。

高いところから降りると表現したのは私たちに分かるようにしてくださったということです。

天孫降臨や民族の移動の話では国津神や天津神とかの神々の話がありますがそうではなくて、

私は神様は愛の働きだと思っているのです。もちろん与えること、支えること、そして生み出すこと。

そういう働きがあって私たちは神様を感じることができるように思うのです。

愛を為すために神様は本来の状態から私たちのところまで降りてきて下さる。

太陽が天から光を注いで下さり大地は命を育んで下さる。どちらも神様が作られ支えられている世界です。

方向や思いが共有できれば言葉の表現の違いはそれぞれのこの世での個性になると思うのですがいかがでしょうか?

私はめりるさんも他の方々のコメントもそのように受け入れようと努めています。
神の愛の働きを、
生命の働きとして捉えられるか、
それとも、護られていることだと捉えてしまうかが、

常に生かされている感動で生きられるか、
この世には「魔」があり護られていないと不安だと感じながら生きるかの分かれ目なのかな。

何だかそういうことを感じました。

「魔」について、風通し良く誰もが解りやすくなると良いですね。
そうしたら、生きやすく素敵な世界になることでしょうから。

というより、「魔」について真正面から考えて、
自分の「魔」を考えたら解りやすくて、
何だか最近毒気が抜けたみたいに、
また一段、楽になりましたので、
このトピ、助かりました。
ありがとうございました。
>>[12]

いつも真摯にコメントを頂きまして感謝しております。
思いやりのあるお言葉もとてもありがたいです。

このコミュでは何かの結論を出すことが目的ではないので、テーマについてそれぞれに感じるところや得るものがあり少しでも共有できるものが見つかれば意味があると思っています。

めりるさんにとって何らかのお役に立つことができたのであれば管理人としてこの上ない喜びです。

ありがとうございました。
>>[14]

ご参加、コメントありがとうございます。

「魔」については私はまだまだ経験も浅く手探り状態ですが、現代の世の中の状況を見ていると、やはり何か発言をしなくてはと思い今まで学んできた段階で自分なりに納得できたことを提示させて頂いています。

…もし皆さんに共有できることがありましたらご提示して頂けると幸いです。
>>[16]

とても貴重なお話をありがとうございました。

最近のスピリチュアルでは自分が何とかなりたい面ばかりに意識がいってしまい、カルマについてやそれによって捉われてしまう霊とか、この世とあの世との密接な関係についてあまり目を向けない傾向なのかなと感じていましたがtamaさんのようにそう言う存在にも心を向けていく事はとても大切だと思いました。

執着・捉われの状態にある霊と同調してしまう現象は確かにあると私も体験的に感じています。

「徳」についてもお聞きしたいところですが、また機会がありましたらお願いします。

霊の存在となっても、自分の状態を自覚して執着から自由になって霊的に成長できるよう心がけたいと思っています。
>>[18]

ご指摘の通りだと思います。

霊の世界では思ったらその通りの状態になるので、強い思いに捉われてしまったらその状態から抜け出す事は困難なようです。

この世では肉体を持っているので、どんなに悲しくても怒りまくっていてもお腹は空いてくるし食べたらトイレにも行かなきゃならないし、周りの他の人たちとの関わりなどで今の自分の状態を客観的に反省する機会がある。

この世は様々な段階の状態の人々が一緒に存在して、そういう気づきや反省の機会があり成長ができる貴重な世界なのかも知れません。

そう考えると苦しんでいる霊のために捉われから自由になり自分の状態を自覚して次の段階に行けるようにこの世で私たちが祈り供養をする事は大切であると思えます。

この世でも苦しんでいる人や困っている人に手を差し伸べる人たちがいるように、捉われている霊が救われるよう私たちが働きかけることで霊の世界が安定しそれがこの世の安定にもつながっていくように思います。

今のこの世の争いや差別や奪い合いは、霊の世界の状態と無関係ではないと思うのです。

あの世とこの世とで捉われから自由になるようにお互いに助け合うことで私たち人間の大きなカルマを果たして次の段階に進めることになるのではないかと思っています。
何だかストンと腑に落ちました。

魔って、つまり、単に主観のことでは?

今週頂けた御指導があり、
うらめしやと言うのは主観しか無い状態のことなのだそうです。
霊的な生存になると、各自は主観しか持ってない。
霊界から来て霊界に戻るんだから、赤ちゃんや老人は霊的生存に近く、主観的になり、周りに対して配慮が出来ないのが特徴なのだそうで、
そういう見方は、私も人間だから教わらないと気付くことも出来ないし、知らなかったです。

うらめしやと言ってる相手に、そんなこといつまでも言ってても仕方ないでしょと言い聞かせても解らない。
しかし、それがつまり、単なる主観だとは。
御親からの御視点とは途方もなく広大なのですね…。

霊界では主観でしか生きられないから魂としての成長が出来ないので、
物質界に誕生させて客観を学ばせ成長させることを繰り返して養育して下さっている。

その視点を頂くと、
魔なんて可愛いものでしょうか。

この世の全てを可愛い愛おしいものとして慈しみ育てて下さる御神意に対し奉り、
本当、生きる感謝しか無いですよね。
>>[22]

さすがメリルさんです。素晴らしいご指摘ありがとうございます。
まさにそういう事なのですね。全く同感です。

うらめしや…恨みや苦しみの感情に落ちてしまうと一時的に周囲が見えなくなってひたすら恨みの念に捉われますが、この世で生きているとやはりお腹が空いてきます(こればっかりで恐縮です;)。あるいは親しい人たちが心配して「そんな怖い顔して大丈夫?」と声をかけてくれます。この世は主観から抜け出す機会があるのですね。

しかし、恨みの念が強過ぎて友人の声も耳に届かずご飯も食べずに身体が弱って死んでしまったとしたら…恨みの念から抜け出す機会が無くなってしまうので自身の恨みの念にがんじがらめになって何十年何百年と苦しむことになってしまいます。

あるいは、戦争で死んでしまった兵士がいまだに戦い続けていたり・・・。同じような感情に捉われた霊は引き合い影響し合います。そして大きな力を持つようになってしまう。

そしてこの世に生きる私たちもまた霊なのですね。この世で戦争をして相手を殺してでも屈服させたい感情に捉われてしまった人間はそういう霊たちと引き合ってしまう。そんな人間が国の指導者だったら・・・・。

個人の霊が自身の思いの中で誰かに恨みを抱いているうちはまだ当事者同士の問題でマシなのかも知れませんが、私たちはお互いに影響しあってこの世界で生きているので他人事ではないと思うのですね。

神様へ向かう意識が大きく深く客観的になっていく過程で何かに捉われてしまったら・・・例えば家族を国を正義を守るために戦い勝利していくうちに次第に相手を力で屈服させる誘惑に負けてしまったら・・・。

ですので「魔」にも段階があるように思います。

そういうものと引き合わないためにも、めりるさんがおっしゃるように日々の生きる感謝が大切なのだと思います。
>>[23]

この世では、先ずは雑多に種を蒔き、種々様々芽が出て開花し謳歌する中で、
良いものが出れば他は不要になり刈り取る。
その方が、良い種だけを蒔いて肥料や農薬駆使して育てるよりも、強い種が残り、更に良い種を育てるというのがあり、

それは植物だけの世界の話ではなく、普遍的なこの世の営まれ方だそうです。

種々雑多な者が個々に勝手を言える時代は、途方もなく長く見えても、生命活動という永遠に対しては一時的なもの。

みんな、鍛えられている道中ですから。
そこから価値あるものを掴めば良いのです。
手放して良いものと、手放してはいけないものを見分けて、
必要以上に振り回されず、
ただその存在によって鍛えられた日々に感謝して、
収めれば良いのだと思います。
なので。
魔というのは、一時的に力を与えられていた間だけは影響力がありましたが、
役割を終えたらもうやることも無いので、
おそらくその力だけは失われることになり、
影響力を失えば周りも巻き込まれませんので、
後は必要以上に構わないことが肝要だろうと思います。

この世では、様々な体験を通して気持ちを発達させて成長して行くのが私達の道だから。

自分達で珠玉を探して、
探している間は混沌が大事で、
探し当てたら混沌は要らない。

でも、その混沌があったからこそ鍛えられた自分達が居ることは事実だから。

きっと、感謝に至れば手放せる。
手放してお互いを自由にすることで、
各自のそれぞれ相応しい道へ向かえば良いのだと思います。
>>[25]

とても大きな視点からのお話だと思います。

様々な経験を経て鍛えられて成長していくことで感謝に至る…ということでしょうか。

魔についても、何千年かけてもいつかはその役割を終え力を失う時が来る…

…ごめんなさい。私にはちょっと文章全体を把握することが難しかったです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今、世界は混沌としていると私は感じます。

北半球で起こっている侵略戦争、覇権争い、独裁国による脅威・・・。

今この瞬間にもその犠牲になっている人々がいます。

そういう人々の苦しみや悲しみ恨みの念は、結局また次の戦争の種として残っていくものだと思うのです。

そうやって争いは続いてきました…今の争いも過去における遺恨や捉われの感情が現れたものです。

肉体が無くなってもその思いは残り続け来世やこの世に影響を及ぼします。そしてまた次の争いの種を生む。

口では平和を唱えながらその行動は正反対の事をしてしまう。

そうやって残り続けてきたその思いを手放すことは当事者にはとても難しい・・・

・・・だからこそ、私たちはこの世で様々な段階の魂がみんな一緒に生きているのだと思えるのです。

刃を交えている者たちを宥め、どうしたらその思いを癒し、魔の影響から解き放つことができるのか、人類全体で考えて行動していきなさいと神様は仰っているように思えるのです。

この世で奪い合いではなく分かち合うことでお互いを成り立たせる世界を作り上げる努力をしていきなさいと。

それが成長や進化になるのではないでしょうか。

ほんとうに魂を救いより高みに引き上げることができるのは神様にしかできないけれども、救われるように努力をしていくのは私たち自身です。

戦争に限らず、この世界には様々な魔的な誘惑や罠がありそれに捉われる人もいます。

そこから抜け出すためには自身の努力はもちろん、周囲の人や社会全体、みんなで助け合う心が必要だと思うのです。

この世とあの世を生まれ変わりながらお互いに影響し合い、助け合いながら私たちは成長して神様の心に近づいていくものだと思うのです。

…みんながそうなった時、魔はその役割を終えるのかも知れませんね。
>>[26]
実はとても言い辛いことを話題にしてみたので、
結局言葉を濁して終わってしまいましたが、
私達が人間に生まれたのも、絶対ではなく、選択肢の1つだったということを含めて、

私達が生きているのは役に立つ為で、
では何の役に立つのか。
人間という役は何の為にあるのか。

悩んだり苦しんだりするのも、人間という段階が、それによって生み出して行くものがあるからで、
それが全体に寄与して行くから。

でも、もうその段階の寄与が不要になる位の変容が全体に起きれば、
新たに役立つ段階へと自分達も変化しなければ、
別の役割が振られることになる。

悩んだり苦しんだり出来る能力の必要無い段階で生き直すことに切り換えて頂けるとなれば、
もうそれらの問題は解決となるのですから。
そこは、人の関われる段階ではないですよね。

私達は、この世の役に立ち、この世を良くするという仕事を、全員が担って生きて来たのに、
自分の為に周りを役に立てようと生きてしまっては本末転倒。
本末転倒な生き方から、本来の生命の生き方へ。
その転換を力強く推してくれたのが、「魔」という反物質だったのかもしれません。

魔を棄てて切り替われるか、
魔を棄てられずに別の役に切り替わるか、
今はその選択肢が各自に突き付けられていて、
気付こうと気付くまいと、
自ずから選ぶことになり、未来が決定する、
今はその転換点に立っている時なのだと思いますよ。
上記のことを書くとき、常に思い浮かぶのは、
「悩み多い蜥蜴なんて居たらどうだ?」
と問い掛けて頂いたこと。

一時、高い意識を持ってしまってから、原始的な意識の生態に戻ると、
以前の感覚を覚えているから、矛盾に悩んだりするのだと教わり、
そして上記の御言葉でした。

それ私だわと直感しました。
私は蜥蜴の生態で生きたことが多い様で、かなり実感が残っていますが、
単純な爬虫類の脳しか無くても、やはり生きにくいと自分なりに考えて色々やってみたことを思い返します。

ただ、脳が単純なので、苦しむことは無かったと思いますが、
常に常に抜け道を探っていた実感は残っています。

悩み多い蜥蜴なんて、まあなんて可愛いじゃないですか。
思い出してはクスクス笑ってしまう、御言葉なんですよね。
>>[28]

ご説明ありがとうございます。
全体的に壮大なので今の私にはやはり咀嚼力が足りないのだと思いますが、おかげで何となくですがお話を自分なりに受けとめてみました。

神様側から見た進化論…みたいなイメージなのかなと。蜥蜴のお話も出てきたり…めりるさんの先生は比喩を使って話されることが多いのですね。

・・・いろいろな視点の人たちと意見交換ができるのも、それぞれの段階の魂が交流できるこの世ならではなのかも知れませんね。
>>[29]
この世が、私達の世界なのではなくて、神様の世界に私達が生かされているのだという、
視点を本来の方向に戻していくというイメージだと捉えて頂ければ。

神様は、全ての御子らを何の為に生かして下さるのかと言えば、
良くしたいからであって、
苦しめたいからではない。

一時的に苦しんで、魔が生まれても、
その苦しむ部分の観念は、良くなる為であり、
良くならなければ別の役を振って下さるから、

そこは、ある程度は人間側からも関わりますが、
いずれ、他者からは手出しの叶わない領域へと未来は向かうから、

私達は、常に自らを問い続け、
魔を問うのではなく、
価値ある生き方をこそ問うて生きて行くことで、

魔の役割は消滅して行くだろうという、
そういう感じのことをお話ししてみました。

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