ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

解放の神学の行方コミュのテキスト「荊冠の神学」

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
テキスト「荊冠の神学」について。
具体的に、どのような内容になっているのですか?
出版年、著者はどのような背景を持った時、人物なのですか?

コメント(8)

 講義でサクっと触れた程度ですので、記憶があいまいです・・・確か日本の部落を扱っていたと思います。
なるほど。日本における解放の神学はまさに部落問題においてその役割が期待されていると行っても過言ではないかもしれませんね。多くのそのような事例を耳にしています。
日本のいわゆる部落地域において活動を行っている司祭や宣教師にとって、解放の神学とはどのような影響をもたらしていると思われますか?
果たして、活動家たちは解放の神学を意識しているのか、それとも明くまで潜在的なレベルで捉えているのでしょうか。
こうした議論は、そもそも解放の神学とは意識すべきものであるか否かという命題に帰着してしまいます。
今一度、この議論を通して、まずは解放の神学とは何なのか問い直してみませんか?
無論、こうした議論が面倒くさいと思われるのであれば、
また別のテーマへ移行しましょう。
 亀レスで申し訳ないです。私の考えでは、日本における「解放の神学」はあまりなされていないと思います。
 それは部落問題やハンセン病問題は、確かに過去はキリスト教的な捉え方がなされており、「平等」を基軸に問題点が提唱されていましたが、現在では既に行政の手に委ねられていると考えるからです。

 活動家とは、聖職者も思想家も含めているのでしょうか?いずれにせよ、意識と実践を顧みた場合、同時に「キリスト教精神」と、ウェーバー以降の「宗教の定義」を考えるべきではないでしょうか。すなわち、宗教は非世俗的の立場を取るべきである、ということです。しかしキリスト教は世俗の中にありすぎるため、解放の定義が曖昧になっている感があります。

 何から解放するのか。目的はあっても、手段が世俗に干渉するのであれば、宗教性を備えた社会活動、極論すれば、テロにもなりうるのが「解放」の特色です。
 それぞれ宗教がもつ教理。この場合はキリスト教がもつ教理を基軸に、「解放」と「現実」を見直すことが、ヤマジーさんがおっしゃるところの「見直し」に至るのではないでしょうか・・・?

乱文失礼。
きらく様
メッセージありがとうございます。貴重なご意見本当にうれしいです。早速、いろいろ書きたいのですが、今日は非常に疲れているのでもう寝ます。ごめんなさーーーーーい。
お待ちアレー。
 リョーカイでありまするよん。
あまり無理はしないで下さいましまし。
きらく様
お待たせいたしました。ご意見ほんとうにありがとうございます。
さて、早速ですが、なるほど日本では「解放の神学」が明確に具現化されたものがあまり見られないのかもしれませんね。むろん、南米や欧州などのように、地域社会にキリスト教およびその亜種がある程度深くまで根ざしている地域と比較すると、その差は歴然としてくるのかもしれません。
代わって日本では行政組織がその一役を担っているというご意見にもうなずけます。ただ、地域によっては行政が地元のNGOやNPOの組織に援助を委託している場合もあり、そのような委託を受けてカトリック系の援助団体が活躍している例もあるのではないでしょうか。そして、そのようなカトリック系諸団体の中には、行政組織が取り組む前から、もともとその地域に根ざし、援助活動を行ってきた団体もあるのではないでしょうか。私はそのような現場を直に訪れたことが無いので、あくまでこうした意見は見聞から推測するしかないのですが。

先に使用した「活動家」という表現ですが、唐突に導入してしまいまして申し訳ありませんでした。前書では、教会関係者で援助活動をに携わる人々一般を指しています。漠然としすぎてましたね。ごめんなさい。ゆえに、援助活動を行う人々にとって解放の神学はどのように意識され、また意識されるべきなのかということを問うたのです。
で、感動したのは、これに関するきらくさんの大変興味深いご考察です。
すなはち、意識すべきであるというお立場から、同時に宗教ないしは宗教に基づく全ての活動が世俗とどのような係わりを保つべきなのかという問題をご提唱くださっていますね。
これは、非常ぉーーーーーーーーーーーーーーーーうに面白い考察だと思います。これは、「解放の神学とその実践」という神学全体から見ればミクロ的な領域を超えた、より大きな次元=根本的な神学の問題であり、おっしゃるとおり、解放の神学の意識の問題を考える上で決して避けては通れない問題だと私も思います。この点に関して、きらくさんのご考察をぜひぜひお聞かせください。
私見を申し上げれば、宗教はより世俗に近づくべきであると考えます。キリスト教に関連して言えば、そうすることでその存在意義をより実践していくことになるのではないでしょうか。
 宗教と世俗。またもウェーバーを用いるのであれば、宗教は社会現象なのではなく、むしろ社会こそが宗教現象である、と考えられます。

 したがって、宗教と世俗における遠近的認識を考えるよりは、世俗には既に宗教が入っており、どの宗教が自分に合っているのか、これをアラカルトするといった「宗教的飽和」が既に生じている気がします。
 
 宗教的飽和によって、古代〜現代までの主流宗教、「公式セクト」と呼称しますが、すなわち、キリスト・イスラム・仏教も、現在は信者数が減少しつつあります。
 この数値的事実は、これらが世俗内において力を失っていると考えても良いでしょうね。

 セクトの減衰と反比例して、隆盛してきたのが、俗にいう新興(新新)宗教、「カルト」です。カルトについて特徴を挙げるのはキリがないので、ハショりますが、要は従来の宗教ではまかなえなかった「人心」を惹きつけるわけですね。
 宗教とは往々にして、世俗における苦痛を、超世俗的に解決するものですから、カルトは、新しい「解放」の可能性を有しているのかもしれません。そして逆にセクトは、既にその力が限界に来ているのかもしれませんね。

 ウェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本論」にある通り、キリスト教は、宗教でありながら、その苦痛からの解放と、救済は世俗に深入りしています。この時点で、既に世俗と宗教(キリスト)は一体化していると考えられます。
 しかし、「解放」はむしろ「世俗への束縛」あるいは「解放から次の拘束」へと向かっている気がしてなりません。こうなると、原理主義者によるテロ活動は、純粋な解放衝動における実践として見ざるをえないのかもしれません。

乱文スマソ。
ん?どうも問題から外れた見解を挙げている・・・

 神学と実践ですか・・・少なくとも宗教的実践には経済や商業ではなく、倫理的な実践が伴うわけですが、現代のそれは何において表出しているのか・・・
 阪神大震災の折、一部の教会は炊き出しをしたり、プロテスタントも避難活動をアシストしていましたが、それは緊急時だったからであるので、日常的には何が実践されているのか、これを考えにゃいけませんな。
 
 個人的には。教会って日常においては典礼をこなすだけで、何か人々に貢献するような行動、まして「苦しみからの解放」なんて自発的にはやっていないと思いますね。
 世俗内に浸透していながら、自発的に世俗における実践的な働きを行おうとしない教会って感がありますね。

 したがって、世俗内にあるキリスト教会は、もっと意識を持って宗教運動を行うべきです。
もちろん、世俗のシステムすなわち政治体制や経済システムに介入しない方法が日本では、政教分離によって要求されますがね。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

解放の神学の行方 更新情報

解放の神学の行方のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。