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初心者の為の創価学会同志の集いコミュの体験のお話

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こちらでは仏法を通じてとても確信になった体験など
載せていただければ見ていただけた方の励みになるので、
どうかよろしくお願いいたします(^^♪

コメント(103)

このお話が一番好きです。個人的に。かなり昔のお話らしいです。

【親切の輪】
 
 
終電の発車間際に切符なしで飛び乗り、車掌さんが回って来た時に
切符を買おうと財布を出そうとしたが、財布がなかった。小銭入れもない。

どこかで落としたのだろうか。

途方に暮れたけれども、そのことを正直に車掌さんに言いました。

「すみません。明日、必ず営業所まで行きますから、今日は乗せてください」

ところがこの車掌さん、よほど虫の居所が悪かったのか許してくれない。

次の駅で降りろ、と言うのです。次の駅で降りても家に帰る手段はない。

ホームで寝るにしては、北海道の夜は寒過ぎる。

どうしようもなくて困っていたら、横に座っていた同じ年格好の
中年の男性が回数券をくれたんです。

お礼をしたいからと言って、その男性に名前や住所を尋ねたけど、
ニコニコ手を振って教えてくれない。

最後は借りたことを忘れて、なぜ教えてくれないのかと文句を言ったら、
次のような話をしてくれたんです。

「実は私もあなたと同じ目に遭って、傍に居た女子高校生にお金を出してもらったんです。

その子の名前を何とか聞き出そうとしたけど教えてくれない。

『おじさん、それは私のお小遣いだから返してくれなくて結構です。

それより、今おじさんがお礼だと言って私に返したら、
私とおじさんだけの親切のやり取りになってしまいます。

もし私に返す気持ちがあったら、同じように困った人を
見かけたらその人を助けてあげてください。

そしたら、私の一つの親切がずっと輪になって北海道中に広がります。

そうするのが、私は一番嬉しいんです。

そうするようにって私、父や母にいつも言われてるんです』

と私に話してくれました」

終わり


実は、自分もお世話になった人に、お礼に言ったら同じことを言われました。

その方は、こういわれました。
俺にお礼なんていいんだよ?
俺も苦しかったときに、学会の先輩に助けてもらった、だから恩返しのつもりで
やっただけだから気にするなよ。

だけど、一つだけ頼みがある。
お前の周りで苦しんでいる人がいたら、何もできなくてもいいから、
傍にいてあげてくれな。人間はたった一人でも辛い時に傍にいてくれるだけで
心強いんだってね(^^)

この話を聞いて自分も頑張って、今オフ会・内部のグループをやってます。
まだまだ学ぶこともあり、凡夫だしミスもあるけど、同じような気持ちで
付いてきてくれる人がいるといいなぁなんて思いながら活動しています^^

私、ウエディングプランナーをしてて沢山の幸せのお手伝いをさせてもらったけど

忘れられない結婚式があります。

新婦は私より大分年下の10代で可愛らしい子、新郎は彼女より20歳ほど年上の優しい方でした。

年の差カップルは珍しくないけどこれが一筋縄では行かなかったのよね…。

新婦はお父様に育てられて、そのお父さんが「結婚は勝手にしろ。でも式には出ない」。

でも2人は「みんなに祝ってほしい」と。

ええ、頑張りましたよ。新婦のご実家に2人と一緒に何度も行きました。

頭も何回下げたかわかんない。

「お前は関係ない」と言われました。その通りです。

でも私は2人の結婚式を2人が望むものに、最高の1日にしたかった。それが私の仕事。

意見や愚痴がどっちも私に集まってきて正直キツかった。面倒くさいと思ったこともある。

でもある日「お前一人と話したい」と電話がかかってきたんです。

すごい怖かったよ。何を言われるんだろう?と。

でさ、約束した日に指定されたところに行ったらさ、お父さんいつもは顔も話し方も怖いんだけど、

その日はすごく大人しく小さな声で、娘さんが生まれた日の話、

小学校の運動会で張り切ったら「お父さん恥ずかしい」と言われた話、

中学の頃は話し掛けてもろくに答えてくれなかったのに

娘さんが修学旅行から帰ってきた日に仕事から帰ったら

テーブルにお土産の携帯ストラップが置いてあって本当に嬉しくて今でも付けてること、

「結婚したい人がいる。」と初めて言われた日のこと…。色々話してくれました。

「娘が本当に可愛い。娘が選んだ男に間違いはないと思ってる。でも気持ちの整理がつかない」

って。泣いたね、あれは。

最後にお父さん、恥ずかしそうに

「結婚式ってどんな服を着ればいいんだ?もう何年も服を買ってないからわからないんだ」って。

夜、娘さんに電話してその日のことを話したら娘も新郎も号泣。
私も号泣w

数日後、娘と私とお父さんとで服を見に行ったよ。

で、結婚式は無事に開かれて大成功!

かと思ったんだけど、ブーケトスで娘がブーケを投げない。

??? なにこっち向いてきょろきょろしてるの?と思ってたら娘、

すたすたと歩いてきて私に手渡しでブーケをくれたの。
まわりの人たちは拍手。

どうやらお2人とお父さんは結婚式に至るまでのことや私のことを参列者に話してたみたい。

もう・・・本当にあれは嬉しかった。涙が止まらなかった。

今でもあの時の体の震えと彼女の笑顔が忘れられない。

正直、出過ぎた真似なんじゃないか?とか

自分のやってることは正しいのか?とか 考えてしまうこともあったんだけど、

たくさんの人が「いい結婚式だった」と言ってくれたから良いや。

もうそれだけでいい。

今年、2人から「赤ちゃん生まれました」の年賀状が届いたよ。

赤ちゃんを抱いたデレデレのお父様の写真付きで。
ある女の人が学生の頃に強姦されました。  男性不信になった彼女はずっと男性を避けていましたが、会社勤めをしているうちにそんな彼女に  熱烈にアタックしてくる人がいました。

 その男性の優しさや「こんな自分でも愛してくれるんだ」という気持ちから、彼女も彼と交際を始めました。  そして交際を重ねて二年、ずっと清い交際を続けてきた彼が彼女をホテルに誘いました。

 彼女は「大好きな人とできるのだから怖くない」と自分に言い聞かせましたが、やはりベッドの上で  パニックを起こしてしまったそうです。  その時、彼は彼女が泣きながら切れ切れに語る辛かった過去を辛抱強く穏やかに聞き、最後に  泣き伏してしまった彼女に

「ずっと大変な事を一人で抱えてきたんだね」

と頭を撫でたそうです。

そして彼女の頭を一晩中撫で続けながら、彼女に語りかけていたそうです。  

「これからはずっと俺が守るから。もう怖い思いはさせないから」  
「焦る事は無いよ、ゆっくりと分かり合おう」  

「君はとてもキレイだよ、ちっとも汚れてなんかいないよ」

「ごめんなさい」と繰り返す彼女に、彼は一晩中優しく語り掛け  

「いつか、君が僕との子供が欲しいと思う時まで、心で深く分かり合っていこうよ。   僕が欲しいのは君の体じゃなくて君自身だよ」  

と言い、その後彼女と結婚するまでの五年間、おでこにキスくらいまでの清い交際を続けました。

そして結婚してからも焦る事無く、 ようやく初夜を迎えることができたのは結婚後二年経ってからだったそうです。  

そして、私と弟が生まれました。

 弟が二十歳になるのを待って、母が初めて子供二人に語ってくれた話でした。  その話を聞いたとき、母の苦しみや父の愛情、そしてそれに母がどれだけ癒されたのか、今ここに  自分の生がある事のありがたさを知って、ボロボロと泣きました。

さらにその後、父とその件について話した事があったのですが、ホテルでの一件の後  父は結婚してから母を一人にする事のないように自営業を始めるため、五年間貯金をしたそうです。

 開業資金、結婚資金が貯まって、母にプロポーズをした時も

「一生子供が作れなくてもいい」  と思っていたそうです。

実際、振り返ってみても父と母はいつも一緒にいた所しか思い出せません。  

そんな両親も今はこの世にはいません。

二年前に母がすい臓ガンで、昨年父が脳卒中でこの世を去りました。  
母の命日に位牌を抱いたまま冷たくなっていた父を見て、弟と二人号泣しました。

「お父さん、本当にお母さんのことが大好きだったんだね」

と大の大人が葬式で  わぁわぁ泣きました。  

法事まで母を一人にできなくて同じ日に亡くなったんでしょうか。

私たちを叱る時、精一杯厳しくしようとして、出来なくて、目に涙を浮かべながら  一生懸命大きな声を出していた父と、大きくなって

「恥ずかしいよ」

と文句を言っても 私たちの頭を良く撫でてくれた母。  

本当に最高の両親でした
【救助から生まれた恋】
 
 
5年前のある日、ある病院から火災発生の通報を受けた。

湿度が低い日だったせいか、現場に着いてみると既に燃え広がっていた。

救助のため中に入ると、一階はまだ何とか形を保っていたので、そこを同僚に任せて先輩と二人で階段を昇った。

二階は見渡す限り火の海になっており、煙が廊下を覆っていた。

先輩は西病棟を、俺は東病棟の病室を回り要救助者を探した。

出火場所は二階のようで、フラッシュオーバーの可能性も考えられ、時間との戦いだった。

東病棟を回って行くと、一番奥の病室にだけ女性が一人居た。

声を掛けたが、気を失っていて反応が無く危険な状態だったため、急いで抱きかかえて救助した。



数日後、俺は不意にあの女性がどうしているのかが気になり、病院に連絡を取ってお見舞いに行くことにした。

看護師に連れられて病室へ行くと、彼女はベッドの上で会釈した。

改めて会ってみると、とても可愛らしい人だった。

「お体は大丈夫ですか?」

と聞いたが、彼女は首を傾げるだけだった。

看護師が少し困ったような顔をしながら、紙に何かを書いて渡すと彼女は笑顔になって、

「ありがとうございました。大丈夫です!」

と書いて俺に見せた。

彼女はろうあ者だった。

暫く二人きりで筆談し、趣味のことや小さい頃のことなど、色々なことを話した。

耳が聞こえないということを感じさせないほど前向きな人で、本当に楽しいひと時を過ごすことが出来た。

彼女は、

「もし良かったら、また来てくださいますか?」

と少し心配そうに聞いてきたので、

「では、またお邪魔します」

と答えて病室を後にした。



彼女と話すために手話を勉強し始めたり、好物のお菓子を持って行ったり…。

そんな関係が続いて二ヶ月ほど経った非番の日。

俺はようやく、どうしようもないほど彼女に惹かれていることに気付いた。

彼女のことを考えない時が無い。

俺はこの気持ちを告白することを決意した。



彼女の病室の前まで来たのだが、いざ取っ手に手を掛けると、緊張のあまり手が震えた。

一度、深呼吸をして気持ちを落ち着けてから引き戸を引いた。

その日は冬にしてはよく晴れた暖かい日であり、柔らかな日差しが窓から差し込んでいたのをよく覚えている。

彼女はその光に包まれながら読書をしていた。

いつもの童顔で可愛らしい雰囲気とは違い、どこか大人っぽい感じがして、思わず見惚れた。

俺が来たことに気付いた彼女は、いつものようにニッコリ笑って本を閉じ、それからはいつもと変わらない時間を過ごした。

その中で、

「大事な話があるんだけど、聞いてくれるかな?」

と切り出した。

彼女が頷いたので、思いの丈を紙に書いて渡した。

彼女はそれを見て不安そうな顔をし、何かを書き付けて寄こした。

紙には、

「私、耳聞こえないんだよ? 一緒に居たら大変だよ?」

と書いてあった。

凄く寂しそうな顔をしていた。

返事を一生懸命に考えてはみたが、残念ながら気の利いた言葉を言えるような素敵な男ではないので、思っていることをそのまま書いた。

「ただ傍に居たい。いつだって力になりたい。そんな理由じゃダメかな?」

ダメ元だった。

それを見て彼女は泣き出し、震える手で

「ありがとう。お願いします」

と書いた。



付き合って行く内に、茄子と稲光が苦手だとか、実は甘えん坊で頭を撫でられたり抱き締められるのが好きだとか、知らなかった沢山の面を知ることが出来た。

付き合い始めてちょうど二年が経った日にプロポーズした。

相変わらず飾り気の無い言葉だったが、嫁は顔を赤らめて、少しだけ頷いてくれた。

ご両親には既に結婚を承諾してもらっていたが、一応の報告と式のために二人の故郷、能代へと帰省した。



もうじき結婚生活3年目だけど、感謝の気持ちを忘れたことは無いよ。

どんな時でも笑顔で送り出してくれる嫁が、こうして傍に居てくれるからこそ、死と隣り合わせの火災現場でも俺は頑張れるんだから。

今からちょっと抱き締めて来る。
女性の体験です。                    珍しく早く仕事が終わった日の夕方になん抜け無しに舞浜駅に降りシーに行ってみたことがあります。
ひとりディズニーとか何やってんだろとか思っていました。

パークを巡っているとキャストの方が会う度にいってらっしゃい!と明るく声をかけて下さり恥ずかしながら手を振りかえしました。
それを何回も続けているうちだんだん慣れてきて抵抗が無くなってきました。
橋を渡っているときゴンドラが橋の下を通り抜けていきました。

その時小さな男の子がこっちに向けて手を振ってきたのです。
私は反射的に手を振り返しました。

するとゴンドラに乗っている男の子の御家族やゴンドラに乗っている全員が手を振って来たのです。
周りを見ると老若男女問わず橋からゴンドラに向けて手を振っていました。
普段生きてきて手を振り返し合うなんて家族でもしないのに、なんて温かい世界なのだと感じました。

その日から数年後、私はキャストになるための面接を受けキャストになりました。
次はこの温かい気持ちを他の人に伝えられる良い仕事だと感じたからです。


今は家族の事情で退職してしまいましたが、働いている時に印象に残っている事があります。
私が閉園間際のパークで帰ろうとしているゲストの方にいってらっしゃい!
と声をかけていると小さな女の子がモジモジしながら歩み寄ってきました。


女の子はキャストになるにはどうしたらなれますか?と質問してきました。
私はあまりにも唐突な質問に驚きはしましたが
「笑顔が素敵なおねぇちゃんならきっとなれるよ!パークで待ってるね!」
と答えました。


なんの保証も根拠もなく言った言葉です。
でも私は魔法にかかったようにすんなりとその言葉が出てきました。
女の子は満面の笑みでお母さんと帰っていきました。


なんだか次の世代にバトンを渡せたようでなんだか泣けてきて、
でもパークで涙は見せられないと踏ん張り、いつもより大きな声で
ゲストの皆さんの背中に向けていってらっしゃい!と声をかけました。
今でも素敵な思い出です。


歳をとってもまだ働ける体ならまたパークで働くことが私の夢です。
ディズニーがかけてくれた魔法がまだ私の中に残っています。
もしかしたらここにコメントしている方の中に私がいってらっしゃい!
と声をかけた方がいたら、なんて素敵なことだろうと感じます。
お仕事やお家のことで大変な方や人間関係で悩まれてる方も多いと思いますが、きっと明日はいい日になりますよう祈っています。
いってらっしゃい。
男性の体験

初めてディズニーシーに行ったのは僕の誕生日。
当時お付き合いさせていただいてた彼女に連れられて行きました。
何も知らない僕はただひたすらに手を引かれて、
初めての乗り物やパレードに心が渋滞しました。


楽しくて楽しくて、それはもう園児のようにはしゃいで、
でかい声で彼女と歌いながらパーク内を沢山歩きました。
その夜の閉園後「帰りは運転するよ」と告げると「お誕生日はまだ終わってないよ」
と言い、彼女が車を出したんです。


少し走らせて到着した場所はパークからすぐそこのホテルでした。
それはもう豪華なロビーで、僕は呆然と立ち尽くしていました。
そんな僕の手をまた引いてくれた彼女は、せっかくだから飲み直そうと
ホテル最上階のスカイラウンジへ。


若い僕にはあまりに背伸びな空間で、彼女が頼んでくれたシャンパンの味は正直わからなかった。
そんな僕に気を使ってくれた彼女は「部屋で飲もう」と言い、
左手にはシャンパン、右手には僕の手。


そのまま部屋まで戻ると、テーブルの上にガラスの靴の置物。
「うわぁ、素敵だね!」なんて僕が抜かすと、
彼女が「良かった、まだ0時じゃないね」と言い、ガラスの靴を僕に手渡してくれた。
「誕生日は誰もがシンデレラになれる日だから!」と言う満面の笑みの彼女。
涙が止まらなかった。


更にガラスの靴の下に小さな紙が挟まってて、それを開くと彼女からの手紙だった。
普段僕に愛を囁くことの無い彼女が短い文章の中に沢山の愛を散りばめた言葉が綴ってあった。
「ここが私たちの特別な場所になりますように。また一緒に来ようね。愛しとるよ!」と。
声を出して泣いた。それから数年。

彼女も僕も夢を追う為に別れる形になって、今は別々の道を歩んでいる。
彼女は素敵な家庭を築き、僕も恵まれた人生を送れていると思う。
「人を幸せにする力」の凄さを教えてくれてありがとう。

そして、ディズニーシーは僕にとってかけがえの無い場所になりました。
誰でも魔法がかかる場所。
次は僕がエスコートをしなきゃいけないな、と思いました
食べ物に感謝
ある方の言葉です


牛を殺すとき、牛と目が合う。
そのたびに坂本さんは、
「いつかこの仕事をやめよう」と思っていた。

ある日の夕方、
牛を荷台に乗せた一台のトラックがやってきた。
「明日の牛か…」と坂本さんは思った。

しかし、いつまで経っても荷台から牛が降りてこない。
不思議に思って覗いてみると、10歳くらいの女の子が、
牛のお腹をさすりながら何か話し掛けている。

その声が聞こえてきた。
「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ……」

坂本さんは思った、
(見なきゃよかった)
女の子のおじいちゃんが坂本さんに頭を下げた。
「みいちゃんはこの子と一緒に育てました。  
 だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。  

 ばってん、みいちゃんば売らんと、お正月が来んとです。  
 明日はよろしくお願いします…」
(もうできん。もうこの仕事はやめよう)
と思った坂本さん、

明日の仕事を休むことにした。
家に帰ってから、そのことを小学生の息子のしのぶ君に話した。
しのぶ君はじっと聞いていた。

一緒にお風呂に入ったとき、しのぶ君は父親に言った。
「やっぱりお父さんがしてやってよ。
 心の無か人がしたら牛が苦しむけん」
しかし、坂本さんは休むと決めていた。


翌日、学校に行く前に、しのぶ君はもう一度言った。
「お父さん、今日は行かなんよ!(行かないといけないよ)」
坂本さんの心が揺れた。
そしてしぶしぶ仕事場へと車を走らせた。


牛舎に入った。
坂本さんを見ると、
他の牛と同じようにみいちゃんも角を下げて威嚇するポーズをとった。
「みいちゃん、ごめんよう。  みいちゃんが肉にならんとみんなが困るけん。  ごめんよう」
と言うと、みいちゃんは坂本さんに首をこすり付けてきた。
殺すとき、動いて急所をはずすと牛は苦しむ。


坂本さんが、
「じっとしとけよ、じっとしとけよ」
と言うと、みいちゃんは動かなくなった。
次の瞬間、みいちゃんの目から大きな涙がこぼれ落ちた。

牛の涙を坂本さんは初めて見た。
『いのちをいただく』西日本新聞社より
*********************************
『いのちをいただく』のあとがきに、
福岡県で助産婦をされて
いる 内田美智子さんはこう書かれています。

「私たちは奪われた命の意味も考えず、
毎日肉を食べています。  
 自分で直接手を汚すこともなく、
坂本さんのような方々の
 悲しみも苦しみも知らず、
肉を食べています。
『いただきます』『ごちそうさま』
も言わずにご飯を食べることは  
私たちには許されないことです。
 感謝しないで食べるなんて許されないことです。  
 食べ残すなんてもってのほかです…」
〈第7回本部幹部会・兵庫総会〉 活動体験 西神戸総県・西須磨光彩本部 須留原光浩さん(本部長)

ケーキ作りで地域に尽くす

須留原光浩さん
 一、私は神戸市長田区でケーキ店を営んでいます。父が1969年に創業。2代目の私は82年、高校卒業と同時に店に入り、父のもとでケーキ作りを学びました。84年、世界平和文化祭に折伏を成就して出演し、池田先生にお会いできたことが信心の原点です。
 
 一、95年の阪神・淡路大震災では、男子部の部長だった私は“バイク隊”の一員として、すぐさま救援に奔走しました。月日がたつにつれ、水や電気などのライフラインが復旧し始め、店舗再開のめどが立ちました。しかし、ためらいもありました。同じ商店街にも店はおろか、住む家までも失った人がたくさんいました。
 
 自分だけ前に進んでいいのか――悩みに悩みましたが、復興には商店街の復活が欠かせないと、思い切って営業を再開しました。
 
 ある日の夕方、一人のお客さんに言われました。「店を開けてくれてありがとう。避難所にいる家族に何も買うてやれんかったけど、これで喜ぶ顔が見れるわ」との涙ながらの一言は、今も忘れることができません。
 
 喜ばれるお菓子を作り続ける。これが自分の使命なんやと心が定まりました。
 

ケーキ店を営む須留原さん(左から2人目)が愛する家族と共に。店内には、バラエティーに富んだケーキが並び、来店者の笑みがこぼれる
 一、2004年に壮年部に進出してからは、池田先生のご指導の通り、徹底して地域の発展に尽くそうと決意。店舗のある「西神戸センター街」でも会計係となり、地域振興のイベントがあれば、運営や司会など何役もこなしました。「とてもケーキ屋さんとは思われへんわ」と皆さんに驚かれた時、初めて学会の薫陶のありがたさを実感しました。
 
 思いがけない出会いもありました。イベントで大手百貨店のバイヤーと知り合い、“デパ地下”の催事にケーキを出品できることに。評判が評判を呼び、その後は神戸と大阪の九つの百貨店の催事に出店できるまでになり、大きく売り上げを伸ばすことができました。
 
 さらに震災から10年となった2005年、神戸港のシンボルであるメリケンパークの神戸海洋博物館で開催されたイベントで、数ある神戸のケーキ店の中の10店に選出され、オリジナルケーキを出品できることになりました。題目を唱えては創作を重ね、美しい神戸の夜景をイメージした「ハーバーナイト」が完成。ケーキは好評を博し、主催者に「一番売れた」と言っていただくことができました(拍手)。
 
 一、しかし、このコロナ禍で状況は一転しました。百貨店の催事が次々と中止になり、売り上げの大幅な減少が続きました。先行きが見えない中で、徹底して御本尊に向かいました。「大変だからこそ、大きく変わる」――先生のご指導が心に浮かびました。振り返れば、催事のたびに店を空け、高齢となった両親に大きな負担をかけていました。“店が愛されてこそ、街も活性化する。経営も長く続けられる。今こそ変わらなあかん”と思い切って催事を断り、本店一本での営業に切り替えました。
 

“SNS映え”すると話題沸騰の「たぬきケーキ」
 そんな昨年2月、思いがけないことがありました。ショーケースの隅っこに並べていた「たぬきケーキ」が次々と売れ始めたのです。どうやら、この前日に放送されたテレビ番組の影響のようでした。
 
 たぬきケーキは、常温保存の利くバタークリームを使った昔ながらの商品で、昭和の頃には、全国どこのケーキ屋さんでも売っていました。しかし、冷蔵技術の発達に伴って生クリームのケーキが主流となり、たぬきは、やがて街から姿を消していきました。私の店では、シンプルだからこそ、ごまかしの利かないたぬきケーキを、父の代からこだわりをもって作り続けていました。詳しい方によると神戸で売り続けていたのは、うちの店だけだったようです。
 
 1カ月後、今度は地元の新聞社から取材依頼がありました。とても感じのよい女性記者が、熱心にたぬきケーキを取材して帰られました。あまりの急展開に“実は、あの記者さんはたぬきで、私は化かされとんちゃうかな”(笑い)と思ったほどでした。
 
 しかし新聞を見て驚きました。何と夕刊1面のトップ記事で私とたぬきケーキが、でかでかと紹介されているではありませんか。記事では、“懐かしさとSNS映えするかわいさが、広い世代に受け入れられている”と紹介されていました。記事はインターネットでも配信され、話題は全国区に。その後も、ラジオやテレビの出演依頼が相次ぎました。
 



 
 店舗には連日、たぬきを“捕獲”しにくるお客さまが訪れ、10匹、20匹と飛ぶように売れていきました。父の代から大切にしてきた味によって、コロナ前の売り上げを本店だけで回復することができたのです。
 
 一、感謝を胸に、同志の皆さんとも体験を語り合い、励まし合いながら前進してきました。本部幹部会に向けた拡大でも、わが西須磨光彩本部は青年を先頭に10世帯の弘教を達成。地区1を超える拡大を成し遂げることができました(拍手)。
 
 これからも、どこまでも池田先生のご指導の通りに戦い、皆さんに喜んでいただけるケーキ作り、自分づくりに全力で取り組んでまいります(拍手)。
ボクシング世界チャンピオンになった方の体験


ひどいイジメだった。胃潰瘍ができた。

毎日毎日、恐怖が続いた。いまもそのトラウマが残っている。

僕がボクシングを始めた理由。



それは、中学のときのイジメだ。相手に仕返しするためじゃない。


自分の身を守るため。パンチを打つのではなく、

相手のパンチをよけるため。

僕は強くなりたいと思った。

僕は北海道の豊浦町で生まれた。

家は貧しかった。



毎年、冬の寒さをしのぐため、ビニールを打ち付けて、

窓をふさいでいた。僕には父親の記憶がない。

僕が生まれてすぐに離婚したらしい。



母親は、自宅の離れで食堂兼民宿を営み、

朝から晩まで忙しく働いた。

なにも買ってもらえなかった。



中学時代当時の僕は、身長が140センチくらい。

相手は170センチ以上あるやつもいて、

喧嘩してもかなわないと思った。



僕は笑いのものにされ、使いっぱしりをさせられ、

それでもご機嫌をとり、媚を売りながら生きていた。



母親には隠していたけれど、ある日、お腹が痛くて

病院に行くと、胃潰瘍ができていた。



中学三年になって、さらにイジメはエスカレートした。



モノを隠され、靴を捨てられ、服を脱がされた。

もう、限界だと思った。



カラスやスズメ、虫でもいい、人間以外のものになりたかった。

学校に行きたくなかった。

そのとき、佐々木先生が異変に気づいてくれた。

先生は、小さくて運動神経がよくて、サッカー部の顧問。

歳は25歳くらい。



生徒との距離が近くて、冗談が通じるやわらかい

雰囲気を持った人。その佐々木先生が

ホームルームで、こう切り出した。
「最近、誰かが、

 誰かをからかっている。 特定の人に、

 ひどいことをしている。 誰がやっているか、

 思い当たる人は手をあげろ!」
誰も答えない。

すると先生は、

大声であいつの名を呼んだ。

「おまえのことを言ってんだよ!!」

シーンとなった。

僕は、ビックリした。すごいと思った。

こんな大人もいるんだと思った。



先生が叫んでから、イジメはおさまった。

僕は、ボクシングを始めた。
不思議なことに、強くなると、やり返そうという気持がなくなった。
「先生のひとことで、
 救われたんだよ」

フライ級の日本一になって北海道に帰ったとき、先生にそう言った。

先生は、変わらぬ優しい笑顔で、

小さくうなずいた。



内藤大助さん
所ジョージさんの言葉です



ちゃんと学校には行ってたんですよ。        
でも、2年に進級するための必修科目を取ってなかったんです。
          
これでは、どんなに頑張ったって2年生にはなれない(笑)。
         
普通ならメゲるかもしれない。落ち込むかもしれない。
      
       
でも、僕は違った。イベントにしちゃったの(笑)。
これは、何かのきっかけだ、人生の転機だ、なんてね。
              
だって、出来事そのものが猛烈に面白いじゃない。
     
いろんなことで泣く人は、自分をいい位置に置いてるから泣いちゃうわけ。
                     
もともと自分は愚かで、愚にもつかない人間だと思っていれば、笑えるのね。
                  
もっと言うと、人はそもそも愚かだと思えばいい。
             
そうしたら、全部笑える。
       
       
立派な肩書持っている人だって、道端に落ちているゴミを
見て見ぬフリしたりすることもある。
肩書がすべてじゃないんだから。
      
人間なんて、みーんな大したことないんだから。
       
だから、みんなが賛同することって、往々にして大したことじゃなかったりする。
          
両極端なことが面白いんだもん。
     
大人なのに小学校3年生みたいなことを言ったり、
小学校3年生なのに大人みたいなことを言うところに、面白さがある。
    
    
たとえば、
100メートルを10秒で走れるとして、全力で走っちゃったらそこまでじゃん。
        
10秒が精いっぱいの人は11秒にしとかなきゃダメなの。
       
あの人は11秒が限界だって思わせてといて、何かのときに10秒を出す。
      
そしたら、「え、なんなのこの人は」ってなるでしょ。
     
だから、僕なんか、浅〜く見られてて結構だもんね。(笑)
       
結局ね、自分の考えひとつなのよ。
       
人生をつまらなくしているのは、自分なの。
     
会社だって仕事だって同じ。そして、お金がなければ
楽しいことはできないと勝手に思い込んでる。
         
アンタはお金があるから、言うんだと思う人もいるかもしれないけど、
僕はお金がなくてもそう言うから。
          
だってそうだもん。ゴミ捨てだって楽しいもん。
     
ベランダのプランターの土づくりひとつでも楽しめるもん。
     
不安になっても、いいことなんてない。
       
誰も近づかないから。だから笑うこと。
      
不安でも堂々とする。そして隣の人と比べない。
       
いつも自分だけを見つめる。僕はデビューのころから、
自分が世界でいちばん幸せだと
思ってた。給料が7万円だったときも幸せだった。
      
給料だと思えば安いけど、小遣いだと思えば
.7万円はすごいじゃん。(笑)
      
今は、スピーディな時代。目の前にあるちょっとした幸せ感や
生きている実感を、みんなが忘れてる。大きな目標ばかりに目がいっている。
         
幸せや才能の芽は、そのへんにたくさん転がってるのに。
みんな見えてないだけなんだよ。
        
「便利だから楽しいんじゃない。不便さの中にこそ、幸せはある」
        
         
        
       『プロ論。情熱探訪編』
        徳間文庫
【ジミー大西の切ない初恋のお話】
今、僕は三十二歳です。彼女はいません。でも、その三十二年間に恋はしました。

初恋も小学校三年の時でした。
小学校の二年生まで、僕は友達にも父母にも、まったく口をきかない少年でした。
話が、できない少年でした。


そんな僕が、話をできる相手が一人だけいました。
その女の子がしゃべりかけてくると、その時だけは、
しゃべれるのです。その子が、初恋の人でした。

僕はその女の子としか、しゃべれなかったのです。
ほかの子がしゃべりかけてきても、まったくしゃべれなかったのです。

僕はその子としか、遊ぶことができませんでした。
その子はみんなと仲よく遊んだり、しゃべったりしていたけれど。
僕はいつも、ひとりぼっちでした。みんなの輪の中には、入れなかったのです。
輪の中に入ろうとも思いませんでした。

でも、みんなで、花いちもんめをする時だけは別でした。
その初恋の子が、僕の手をひっぱって、輪の中に入れてくれたからです。
終わりはいつもいっしょでした。僕一人だけ残って、
「花いちもんめ、まきさんがほしい」
と、その子の名を言う。


「花いちもんめ、大西君はいらない」
それで終わりでした。

でも、まきさんは、
「花いちもんめ、大西君がほしい」
と、僕の国語のノートに書いてくれていたのです。

僕はそれからずーっと、まきさんのことが好きで好きでたまらなくなり、
遠足の時でも、まきさんのそばから離れなくなりました。ほかの子からは、
「大西君、女の子どうしでごはん食べているから、むこうに行って食べて」
と言われても、ぜったいにまきさんのそばから離れませんでした。

それから、朝の朝礼の時でも、本当は背の低い僕は前から
二番目に立っていなくてはいけないのですが、
真ん中のほうへ行って、まきさんのよこに立っていました。みんなから、
「大西、いつからそんなに背が高くなってん」
と、背中とかつねられても、その場所から離れませんでした。

先生にも怒られましたが、次の朝礼の時には、また、まきさんのよこに立っていました。
僕は本当に、まきさんのことが好きだったのです。


そして、長い夏休みに入りました。
その夏休み、僕は何回か、まきさんの家をたずねました。
でも、いつもみんな出かけていて、誰もいませんでした。たまにおばちゃんが出てきて、
「いなかに帰っているの」
と言ってくれるだけで、まきさんとは、夏休み中、会えなかったのです。

いよいよ夏休みも終わり新学期が始まる日、
僕は母の化粧水を服につけて学校へ行きました。まきさんと会える、と思ったからです。
でも、まきさんは学校に来ていませんでした。
僕は、「明日は会える」「明日は会える」と思って、母の化粧水を服につけて、学校へ行きました。

でも、まきさんは来ませんでした。
夏休みは終わったのに、まきさんは学校には来ませんでした。
そして九月十六日の朝のことでした。先生が、
「実は悲しいお知らせがあります。昨日、まきさんは病気のため、
お亡くなりになりました。みんな、目を閉じて」
と言うのです。僕は、何の意味かわかりませんでした。

先生に聞いたら、先生は、
「まきさんは死んでしまったのです」
と言うのです。僕は生まれてから、この時まで、
知っている人が死ぬことがなかったので、人が死んでも、
また会えるとばかり思ってました。

みんなでお葬式に行くことになって、教室に集まっていると、
まきさんが教室の外の廊下のところに立って、僕を見て笑っているのです。僕が、
「まきさん。まきさん」
とさけぶと、みんなから、
「きもちわるー」
と言われました。

おそらく、幽霊を見たのは、あの時が最初で最後だと思います。
それから、みんなと葬式に行きました。それまで、
葬式と言えばタダでお菓子をもらえるところだとばっかり思っていました。
でも、まきさんの葬式では、お菓子をもらってもうれしくなかったし、
食べようと思ってものどに通らない。

−−まだ、会えるような気がしてたまらなかったのです。
そして次の日、学校に行くと、まきさんのつくえの上に花がかざってありました。
僕はみんなが帰ってから、一人だけのこって、まきさんのつくえにすわり、
まきさんが国語のノートに、「花いちもんめ、大西君がほしい」
と、書いていてくれたことを思い出してました。

そして次の日から、だれよりも早く教室に行って、
花の水をかえて、一度家に帰って、それからみんなといっしょに登校することを始めました。

僕はその日から、そのことがバレるのがこわくて、
みんなにむりしてでもしゃべりかけるようになりました。
それで、人としゃべれるようになったのです。

毎日、毎日、花の水をかえていました。
花がかれかかったら、自転単に乗ってしぎ山の下まで行って、
雑草の色のきれいなのを三本ほど抜いて、かびんに入れてやりました。

クラスのみんなは、
「花がかってにふえている」
とか言うので、もしバレたらどうしようと思っていました。
そうしたら、先生が、
「みんなが帰ったあと、先生が花をいけているのです」
と言ってくれたのでホッとしました。


そしてクリスマスイブの日、先生に職員室によばれて、
「大西君がまきさんの花をいけていることは、だいぶん前からわかっていたのよ」
と言われたんです。

僕は、はずかしくてたまりませんでした。先生は、
「この二学期で、つくえの上に花をかざるのはやめて、
席替えをしようと思っているの。いい? 大西君」
と言いました。僕は、首を、たてにふりました。
二学期最後の席替えをしたら、前にまきさんが使っていたつくえに、
偶然、僕がすわることになりました。

つくえの中を見ると、奥のほうにハンカチが残っていました。
おそらく、まきさんのハンカチだと思います。僕はそのハンカチを、
小学校を卒業する時まで、ずーっと持ってました。
これが、僕の初恋でした。
体験談

今の彼氏とはディズニーシーで出会いました。
お互い高校生で、互いの友達と来ていました。

きっかけはタワテラで隣の席に座ったことでした。
私はタワテラが苦手で、落ちる瞬間友達だと思って彼の手を握ってしまいました。

終わった時は何も言われなかったのですが、夜、ディズニーシー入口の地球儀の前で再会し、
彼から話しかけられて連絡先を交換しました。

交際が始まり、早11年。彼との恋人としての最後のデートもディズニーシーでした。
明日からは夫婦として次にディズニーに行ける日を楽しみにお仕事頑張ろうと思います。

皆さんにもたった一人のプリンス、プリンセスが現れますようにぴかぴか(新しい)
あの時彼から話しかけてもらった、彼のちょっとした勇気に感謝です♪
病気で戦ってる方の言葉

過去の自分へ
21歳で癌になり、病室で目を瞑って聴いてます。
当たり前の生活が当たり前じゃなくなる前に、今の幸せに気づいて欲しい。
その幸せに気づけたら、少しは後悔はしていないはず。

みんな生きてて偉いよ。明日も頑張ろ。何とかなるよ
女性の言葉です^^

ディズニーで一人で座ってる時に辺りを見回したら
それぞれにいろんな理由の笑顔がそれぞれの人たちにあって、
みんなが笑ってる空間も素敵すぎるし、他人の幸せそうなのを見て
自分まで幸せを分けてもらえるような空間ってディズニー以外に
ないなって思いました。

そして音楽を聞いてると今までのディズニーの思い出が蘇ってきて
いつも胸がきゅーっとなります🥺素敵な音楽をありがとうございます♡
男性Tさんの体験です

僕は今は19歳です。
7歳の時に父と母と1回だけこのディズニーランドに来たことがあります。

この時は何も知らなかったのですが、母が末期の癌だったらしく
あと余命1ヶ月程と言われ、急いで最後の旅行として行ったらしいです。

もうだいぶ昔で僕はあまり覚えていませんが、
最近、父がビデオカメラで僕達を撮影したものを見せてくれました。

それは帰る日の前夜、母と僕がベッドで一緒にリラックスしていた時のものです。
母も父も余命が1ヶ月程度のことを悟らせないようにしていました。

母が、「また来ようね」とか「家帰ったら宿題しなあかんで笑」
...などなどいつもと変わらない談笑をしていました。

でも、父が耐えきれずに泣きながら相槌を打っているのが
ビデオ越しでもわかりました。

それを見た僕が「お父さんなんで泣いてんの?」と言った時、
母が声を震わせながら「お父さんね、みんなと旅行するの
明日で終わっちゃうから悲しいんだよきっと」と言っていました。

そして、「〇〇、あんたはお母さんの宝物やで。
たまに失敗することもあるやろうけど自分のペースで頑張っていくんやで。」
と言い、ビデオはそこで終わっていました。

最後の言葉は今でも確かに覚えています。
お母さん、僕はちゃんと育ってます。
なんと、大手の企業から内定も貰えました。

これからの人生まだまだ色んな苦労をしていくと思いますが、
どうか見守ってください。

ここまで読んでくださった方々、ありがとうございます。
これを読んでくれた人にも読んでない人にも幸せがありますように!
タイガー尾藤さんの体験

元プロミュージシャン
当時は金髪のリーゼントだったという。28歳の時、ライブハウスで出演時、
たまたま来ていた客に「歌はイマイチだけど、しゃべりはいいから、
うちのフライパン売ってみない?」と熱心に誘われたことがきっかけで、
テレビ通販に初出演

芸名の由来は、『男はつらいよ』の寅さんの大ファンであることから。
おかま言葉で実演販売をする「カマ売」が特徴。

主に通販番組で出演し、商品の紹介を実演しながら行う。
ジューサーの販売でテレビ通販キッチン用品部門では
日本一となる4時間の生放送で2億5000万円の売上を記録したとされる


私は元々バリバリの共産党員家に生まれました。
創価学会で言うと県長さんの家に生まれたようなものです(笑)

中学時代・高校と両親の思想のもと、宗教は完全否定で、ああいうのは弱い人間が
やるものだと思っていました。

しかし、高校の友人で空手で全国大会3位をとれるような友人が
いきなり俺、創価学会に入ったんだと僕のところに言いにきました。

え?なんでこんな強い奴が宗教なんかやんないといけないんだ?
絶対に洗脳されている俺がこいつを救ってやるんだと、何回も友達に
説得をしましたが、その度に友人は、聖教新聞や大百蓮華をもってきては
ここが凄いんだよと俺に言ってきたのです。


あまりに熱心さゆえに、だったら俺が学会員の人と話を付けるといい
友人に学会員の幹部の方を呼んでもらいました。
その中でお互いの主張をしてもなかなかわかってもらえなかったです。
埒があかないので、だったら俺を学会の会合に連れてってみろと言いました。

その時の幹部さんはさすがにいきなりは・・・・と言われたので、
ほれ見たことか、学会はなにか疚しいことをしているから会合に連れて行けないんでしょう?
と食い下がりました。

幹部の方が何か今会合がないか確認していたところ、一つだけ、本日行われる
会合がありました。


なんとそれは創価班の定例会でした(笑)

何も知らず行ってみた私は愕然としました。
なんだここは・・・軍隊か?と思うくらい凄い強そうな男性ばかりでした(笑)
こんだけ強いのに宗教やる必要ないだろ・・・と思っていました。

創価班の方ならわかりますよね?マジで軍隊です(笑)

その会合の中幹部の方幹部指導・池田先生のご指導をいってくださいました。

その時の言葉が私の心に刺さり、見事にミイラ取りがミイラになり、
11/18に入会することになっちゃいました(笑)(笑)(^^)/
【ダウンタウン浜ちゃんの心あたたまる子育て】

お笑いコンビ・ダウンタウンのツッコミ役、浜田雅功。

どつく、キレる、そんなイメージが強いかもしれないが、
“後輩思いの芸人”としても名が高い。

テレビスタッフや仲間に対する心配りも忘れず、
美術や照明の助手さんたちの名前まで覚えるという。

そして、もうひとつの顔「良き父親」としての浜田雅功がいる。
 
妻は、タレント・小川菜摘、長男は、ロックバンド・OKAMOTO’Sのベーシスト、
ハマ・オカモトして活躍。


2人のなりそめから始まる。「おもろい」「気が合う」
「一緒にいても疲れない」の3要素で結ばれ、1989年に2人は結婚。

 結婚後1年ぐらいは2人っきりの生活を楽しもうと決めた浜田夫妻。
「おかえりっ!」と笑顔で迎えるのが鉄則。

夕食は、週5回は菜摘さんの手料理を食べるそう(当時)で、
「お腹がすいたと思うとパッと出てくる料理が最高や」
の信条で手の込んだ料理は必要なし。


 その後、計画通りの妊娠となったが、菜摘さんは日々変化していく
自分の体型に悲しみが増していく。そんな妻をみて、
「産んだら元の体に戻るやん。

そんなん、いまだけやから、大丈夫やって」と浜ちゃん。
 
長男・次男2人の出産に立ち会い、「ヒッヒーフー」
と一緒になって出産を経験する。

つらそうな奥さんにあえておどけた言葉をかける浜ちゃん。

加えて、事前に分娩室での位置関係まで決めていたという徹底ぶり。

最後に、「先生、どうもありがとうございました」と泣きながら、
お礼を言い、その後はいつもと変わらぬ顔で『笑っていいとも!』に出演し、
笑いをとったそう。
 
そして…。生まれたばかりの長男に心臓病の疑いがあると
医師にいわれ愕然とする妻に「たとえ、どんな病気だったとしても、
オレとオマエがついているやんか。
一生懸命育ててやるしかないやろ」と励ます。

2人目が生まれる前には、「郁未(長男)にとって、
両親の愛情を一人占めにできる最後のチャンスを作ってやろう。
仕事があるから一泊しかできへんけど、連れてってやろうな…」と旅行につれていく。

学校での子供同士のいさかいに対し、
「相手の立場とか気持ちがわからん人間には、友だちができない――
そいでやなあ、友だちのいない人生ほど、不幸な人生はないで」と諭す。

子どもを怒ったときは、自分が悪いと思ったこと、
これからどうしたらいいかを、子供自身で考えさせ、
自分の言葉でお父さんに話すようお母さんが促す。
 
浜田家には「仕事の3大ルール」がある。
(1)家庭を最優先にする
(2)泊まりの仕事は極力避ける
(3)夫の休みの日には妻の仕事は絶対に入れないようにする
 
休みが1日だけの日は、忙しいお父さんを労わって
菜摘さんは子ども達に「お父さん、たくさん寝かせてあげようね」と声をかける。

しかし子ども達とできる限り一緒にいたい遊びたいという
浜ちゃんの性格もあって、お昼すぎたあたりでじっとしていられず、
子ども達を遊びに誘う。

 行くのは、「コンビニ」「本屋」。子ども達にとっては、
お父さんと一緒に歩けたら十分だそう。

何やらこそこそと「おとこ同士の約束な!」
と3人で話しながらでかける姿を見送るのが菜摘さんは大好きだったとか。

そしてプリンやヨーグルトを山ほど買って帰ってくるのがお決まり。
 
浜田家のようにお父さんの仕事が忙しくて、
子どもとの接点がない家庭では、お母さんの演出の腕が見せどころ。
「ちゃんと見てくれている」「褒めてくれてたよ」。

子どもがやったことに対し、間接的でもそんな言葉の積み重ねが
父親という存在への尊敬や共感に繋がるという。
「人間性の部分」と「仕事人としての部分」の両面で尊敬できれば、
最終的なところでのたがははずれないと。
 
家のこまごまとしたことはお母さん、大きな決定や判断はお父さんが担当。
そんな『浜田家式お約束』には、「菜摘の悩み相談室」という形で、
子育てママたちのさまざまな相談に菜摘さんが答えている。

「あとがき」には、夫・浜田雅功が妻・小川菜摘に贈った言葉が綴られ、
「ほんまにごくろうさん」という言葉がやけに響いた。

浜田家は家訓「おもしろくなきゃダメ」通り、
笑いの絶えない暖かい浜田家であり続けるんだろうなと思わせてくれると
同時に、浜田家の活躍ぶりに合点が行く。
 
幸せをお裾分けしてもらったような、ずいぶん満たされた気持ちで本を閉じた。
文=中川寛子
話す時に言葉の最初の音が出ず、繰り返したり、詰まったり、引き伸ばしたり。120万人いるといわれる吃音(※)の人にとって、大切なのは周囲の理解です。「どもるのも自分らしさ」と言い切るのは、神奈川県平塚市の吉野哲男さん(39)=圏男子部長。「どもってもいいから自分らしく。ありのままをぶつけていくほうが人間として成長できるんで」。その歩みの隣には、大勢の応援団がいました。

 3歳の頃。「お、お、お」。母〈立子さん(69)=支部副女性部長〉を呼ぶ時、こぶしを握り締め、足を踏み鳴らした。力んで絞り出すように言葉にした。
 
「お、お、おかあさん」
 小学生になると自己紹介する機会が増える。

吉野の「よ」が出ない。言えても笑い声がする。

授業で朗読をする前日は家族会議。家ではすらすら読めても、本番はダメだった。
 
子ども時代に身に付けたのは、「吃音を隠して生きるための技術です」と吉野さんは語る。
 「なんで自分だけって思っていました。
どもったら恥ずかしいから笑ってごまかして。
吃音が、ばれないように生きていきたかった」

学校での会話。ドラゴンボールの話題になり、「ナメック星人」を言いたい。
でも、「ナ」がどもるのが分かる。「緑色のなんだっけ」と忘れたふり。
周りが言うのを待った。

 サッカー選手に憧れ、Jリーグのユースチームに入った。
なのに――。試合でパスを回した時、味方の後ろに相手選手が迫っていた。
“後ろ!”。言葉は出ない。試合後、「なんで、声を出さなかったんだ?」
と監督に指摘された。「すみません。見えていませんでした」とだけ返した。
 
大学生になり、アルバイトはスーパーで黙々と総菜を並べた。
就職活動では面接が最悪。すらすら会話する学生がまぶしかった。
学生部で副部長として活動し、もがいていたある日。聖教新聞の記事が目に留まる。
〈敢えて困難に 挑戦せよ! 真剣と執念が 最大の力を生み 勝利を開くのだ!〉。心が動いた。
 「自分をごまかしながら逃げ回ることに疲れていました。苦手なことに飛び込もうと思えたんです。池田先生に応えたくて“やってやる!”って」

 引っ越し業者の営業職に挑戦し、就職が決まった。
だが研修が始まると――。電話が鳴っても手が動かない。
周りの同期の社員が何度も受話器を取った。
 「なんで出ないんだよ」「タイミングがなくて……」。
電話を取ると支離滅裂な対応になり、あまり覚えていない。泣いて家に帰った。

 もともと明るい性格で、一対一の対話には強い方。
だから営業成績が良く、一目置かれた。

それでも、吃音を隠し通す生活が続く。
外食の時は言葉で注文をしたくなくて、食券の店を選んだ。
 
転機は2007年(平成19年)、家業のプラスチック工場を継いだ。
心機一転のスタートを切ったある日の会合。
司会をしていた男子部員の立ち振る舞いに衝撃を受けた。
 「よく堂々と話せるなと思い、心からうらやましくて。
自分もいつかあんなふうになると決めました」
 

翌年、創価班大学校(当時)に入った。
「吃音から目をそらさない戦いが、創価班で始まりました」
 
初めての任務の日。夜の駐車場で会員が近づいてくる。
「………こ、こ…」。目の前を通り過ぎてから「こんばんは」と言えた。
頭から足の裏まで汗が出る。

 「正直、台風でも来て任務がなくならないかなとか最初は思ったりして(笑)
でも、毎回しがみつく覚悟で臨んでいました」

 学会活動をするほど、話す場面は増えた。座談会で「大白蓮華」
を1分ほどで読むはずが、3分、4分。途中で思わず、周りに視線を向ける。
うんうんとうなずいてくれていた。

終わると「素晴らしかったよ」と笑顔で。
不安も緊張も吹き飛ぶような喜びが、いつもあった。
 
「吃音だとはまだ誰にも言えずにいました。
でも、男子部では苦労を皆がさらけ出し、そこに決意もあって。
僕の中でも逃げたい気持ちが変わっていきました」

 2010年から総本部で任務に就く創価班の一員に。ある日の会合で、
文章を読み上げる人が当てられる場面があった。

手を挙げたものの、当てられたくはなかった。
 指名されたのが近藤悠介さん(38)=総県男子部書記長=だった。
読み始めて、とても驚いた。聞くうちに心が震えた。

 「吃音の僕がこんな人いるんだって思うくらい、めちゃくちゃどもっていたんです。
でも、めちゃくちゃ感動して。その後、お互いにどもりながら自己紹介したんです」
 
同世代の近藤さんは22歳の時に入会。
吃音と向き合い、介護施設で働いていた。
「すしネタは『タコ』が好きなんだけど、やっと言えても『シャコ』
に聞こえてしまうんだ」。おおらかに笑う近藤さんとすぐに打ち解け合った。
 
「強いから笑えるんだと思いました。近藤君と出会い、
皆に“本当の自分を知ってもらいたい”という感情が爆発したんです。

吃音を隠したい気持ちがなくなり、孤独な世界から抜け出せました」
 19年、圏男子部長に。登壇する時、「胸中で祈っているよ」
とほほ笑む女性部員や、話し終わった時には「涙が出たよ」
と言ってくれる壮年がいた。

 「慈悲というか、人の痛みを分かってくれる人が多くて。
いくらどもったとしても良かったよって言ってくれる人がいる。
その安心感が常にあるんです」

 会合での活動報告や、大勢の男子部員が集まる大会での司会。
どんな場面にも温かい先輩がそばにいた。

 「僕、言うんです。『何言ってるか分からなくなるかもしれませんが、
大丈夫ですか?』って。そしたら、『俺がついているから大丈夫!』と返してくれ、
とてもありがたくて。『自由にやっちゃってください!』
とリラックスさせてくれる方もいました」

 何回どもろうが、登壇するだけで120点と褒めてくれる先輩も。
そして近藤さんとたたえ合ってきた。

 「吃音は別に悪くないし、恥ずかしくもない。違う話し方なだけで、
吃音の自分も大切にしてあげたい。そう思えるようになりました」

 今月8日、人生で一番緊張した会合があった。「創価班の日」
記念の首都圏創価班総会。ここで活動報告に立った。

 会合前、今は牙城会でリーダーを務める近藤さんに電話をかけた。
「大丈夫って言っても、大丈夫じゃないのは分かってるし。
やるしかねえ!」と背中を押された。
 
登壇の緊張は、心臓の音がマイクを通して聞こえてしまうと思ったほど。
話し始めると何度か言葉が出ず、静寂が流れる。温かい空気。

応援のまなざし。最後、詰まりやすい言葉を思い切り言えた。
「ありがとうございました!」と。

 「リハーサルでは言えなくて、やめようかと思ったんですけど、
池田先生に最大限の敬意と感謝を込めて、どうしても言いたかったんです」
 
近藤さんは、吉野さんとの出会いをこう振り返る。
 
「知り合った時、僕が救われた思いでした。
吉野さんは前向きにどもっている。だから、僕も頑張れています」

 近藤さんが好きな、心が楽になる吉野さんのセリフがある。
 「とことんどもってやれ!」

 吉野哲男さん 1983年(昭和58年)生まれ、入会。
プラスチック部品の製造工場で父・文男さん(74)
=副支部長=と共に働く。父は元輸送班。その誇りに満ちた背中を見て育った。
吃音と向き合いながら明るく生きる。創価班では総県副委員長(県委員長兼任)。

【福岡県大牟田市】壮絶ながんとの闘いは、治療を終えた後も不安が尽きない。
野田竜矢さん(34)=男子部本部長(部長兼任)=は、18歳の時に「急性骨髄性白血病」
を発症した。

骨髄移植で一命を取り留めるも、合併症や母の死に直面し、
人生の絶望を味わう。そんな時、信心と出あい、“希望”を見いだした。
今は感謝の人生を、真っすぐ歩んでいる。

 “普通の幸せ”を思い描けなくなったのはいつからだろう。
 明るくて、目立ちたがりの性格。両親の愛情を一身に受けて育ち、
高校では吹奏楽部の仲間と全国大会に出場。卒業後は公務員を目指し、専門学校へ進学した。
 
2カ月後の2006年(平成18年)6月、体調に異変を感じた。口内炎が治らず、
倦怠感が続く。高熱を発し病院へ運ばれると、即検査入院に。

告げられた病名は「急性骨髄性白血病」。頭の中が真っ白になった。
 
すぐに抗がん剤治療が始まった。副作用で髪が抜け、
気持ち悪さで眠れなくなる。幻覚にもさいなまれた。

半年間の治療を経て、数値は正常になったものの、
それから6カ月後に再発した。

 残された治療法は骨髄移植。幸い、確率が低いとされる
母親の型が合い、移植することができた。
 
治療の苦痛は想像を絶し、療養のため学校は中退した。
学ぶことも働くこともできず、病院と自宅を往復する日々。

同級生の活躍や結婚したという話が、嫌でも耳に入る。
周りがキラキラ輝いて見えた。いつの間にか22歳に。
自分の時間だけが止まっているよう。


 “俺は、このまま死んでいくんだ……。
死ぬ前に、人が驚くことをしたい”
 
そう思って向かった先は、地元で有名な、
風変わりな店長がいるという“おかまバー”。

震える手で店のドアを開けると、体格のいい、
ひげ面のおじさんと目が合った。ニヤッと一瞥すると、
オネエ言葉で「あなた、いいじゃない」と。“何か”を感じたのか、
「あなた、何もしてないでしょう。ここで働きなさい」と。

呆気にとられ、思わず「はい」と返事をしてしまった。
 翌日から店に通った。ひげ面の店長は話し上手で聞き上手。
優しくて懐の深い人だった。
 
“もう少し生きてみよう”。そう思い始めた矢先、最愛の母が亡くなった。
 泣きながら店長に、やり切れない怒りをぶつけていた。

 「何で、自分ばかり、こんな目に遭わないといけないんですか! 
何のために僕は生まれてきたんですか!?」
 店長は黙ってうなずき、目を真っすぐ見て、語りかけた。

 「私は創価学会員なの。この信仰を貫けば、宿命を必ず転換できるし、
あなたは絶対に幸せになれるわ」
 “幸せになれる”。その一言が冷え切った心を温めてくれ、11年1月に入会した。

 題目を唱えると、不思議なことがあった。接客中、
相手が求めている言葉や飲み物、“間”に気付けた。

 “この信心はすごい!”
 多くの経験を積みたくて、店をやめ、建築業や飲食店に勤めた。
“働くこと”さえ奇跡だと思っていた自分が、
いつしか“やりがい”を求めるように。

そうした変化に驚き、ワクワクした。
 一方、病の影がちらついた。
 これまでにステロイド治療の影響で両膝の骨が壊死、
自家移植した。肺気胸を何度も起こし、入退院を繰り返す。

 さらに移植後に起こる「移植片対宿主病(GVHD)」
の不安に駆られた。これは、生着したドナーの細胞が、
患者の体を他人と認識して起こす免疫反応。

約4割に発症するという。すぐに現れる急性症状と、
時間を経て現れる慢性症状がある。

 “頑張っても、いつかまた倒れてしまうかも……”
 誰にも言えない孤独。支えてくれたのは学会の同志だった。

 深夜、仕事から帰ると、ドアノブに袋が掛かっていた。
手製のジュースやおにぎり、ある時はギョーザが。

そして手紙が入っていた。婦人部(当時)の方からだった。
会合にも誘ってくれた。

 “なぜ、僕にこんなにも尽くしてくれるんだろう”
 ある時、理由を聞いてみた。婦人部の先輩は遠くを見ながら、
野田さんと同年代の息子を事故で亡くしたことを打ち明け、
「自分が大変な時に、たくさんの同志が話を聞いてくれたの。
隣で時間を過ごしてくれた。だから、今度は私がって」。

 涙があふれる。慰めや同情ではなく、同苦。悩んで立ち止まるたび、
一歩踏み出すまで祈り待っていてくれた。

 ていきたい」
「僕は、目に見える結果を求め、分かりやすい方法に飛びついてしまっていた。
そのたびに失敗して。先輩は“祈る”ことをたたき込んでくれました。
『願兼於業』の法理を通して、『私たちは今の悩みを願って生まれてきたから、
必ず乗り越えられる』って。

まずは祈るんだって。“治してほしい”という“お願い”が、
“治すんだ!”との決意に変わっていったんです」

 本年初頭から、せきが続き、病院で検査すると、右肺がほとんど
機能していないという。慢性GVHDの症状だった。

ステロイド剤を毎日服薬することになった。
 そんな状態になっても池田先生の言葉があったから前を向けた。

 「病気だから不幸なのか。決して、そうではない。
病に負けて、希望を失ってしまうから不幸なんです。
広布の使命を忘れてしまうから不幸なんです」

 これまで、父や友人ら5人を入会に導いている。
 入会して、二つの大きな願いがかなった。
 一つは夢が見つかったこと。

 知人の紹介で老人ホームで働いた際、厨房の仕事を任された。
作った料理を食べた時の利用者の笑顔がうれしくて、調理師免許を取得した。

昨年、給食センターに転職し、いつか飲食店を開店
するという夢に向かって努力している。

 二つ目は、結婚できたこと。
 相手は高校の後輩である好恵さん。
野田さんのこれまでの苦労をうわさで聞いてきたという。
 
「夫は今も病と闘っています。なのに自分が大変な時でも
人のことを考えています。家では、たくさんの友人の名前を掲げて、
幸せと健康を祈っています。
そんな夫を尊敬していますし、それが信仰の強さなのだと感じるんです」
 
いつも仕事に学会活動にと、全力な夫の健康を好恵さんも祈念している。
最愛の妻に感謝して、野田さんは祈りに誓いを込める。

 「病を恨み、自分の人生を恨んできました。
いつも“死にたい”と思っていました。今は違います。
“生き抜くんだ”って決めると、希望が湧いてくる。
病があるから真剣に祈ることができるし、同苦できる。
病という自分にしかない“武器”に感謝して、一人でも多くの人と
一緒に幸せになっ
[人の幸せを考える」
私は皮膚の難病に12年間悩まされていました。

身体は弱り、満足に歩けもせず、いつも家族に頼るばかりの日々で、
人生には絶望していたと思います。

そんなとき、たまたま地元に住む仏教僧と会う機会があったのです。

彼に自分の悲惨な状況を話した私は、同情のまなざしと思いやりの
言葉を期待したのですが、僧侶は穏やかにこう言っただけでした。

「自分を憐れむのはおやめなさい。人の幸せを考えるようにするのです」
「無理です!こんな状態なのですよ。自分のことで精一杯です」

私は「彼は何もわかっていない!」と、がっかりしました。

こんなボロボロの身体で人の幸せを願うなんて無理だと思いましたが、
なぜかその言葉が心に引っかかり、その日から少しずつ
気をつけるようになりました。

まずは家族や友人たちの幸せと健康を、
さらに知らない人たちのために、車の中から道行く人たちの幸せを、
ついでに自分の嫌いな人たちのことも思いやってみました。

ある日、電動車椅子に乗ってスーパーのレジに並んでいると、
明らかに虫の居所の悪そうな女性が私の後ろに並びました。

急いでいるらしく、いら立った目を周囲に向けています。
カートの中身はあふれんばかりで、
少しでも早くレジを通り抜けたそうにしています。

いつもなら、イヤな思いをしないように、
こういう人とはできるだけ関わらないようにしていましたし、
実際真っ先に頭に浮かんだのは、
「何て品のない人からしら。目を合わせないようにしよう」
という考えでした。

しかし、そのとき例の僧の言葉…「人の幸せを考えるようにするのです」
を思い出した私はこう思い直したのです。

「そう、きっとこの人は今日とてもイヤなことがあったのよ。
私だってそういう日もあるじゃない。
この人を幸せにしてあげるにはどうすればいい?」

私は振り向いて「お急ぎのようですね」と言いました。
女性は驚いたような顔で、ぶっきらぼうに
「ええ急いでいるんです。遅れそうだから」と答えました。

「私の前へどうぞ」
女性は私のかごの中身が少ないのを見て、サッと首を振りました。

「いえ、大丈夫です」
「どうぞ遠慮なさらないで。私は急いでいませんから。さあ、どうぞ」
変化は劇的でした。

イライラをまき散らし、レジ係をどなりつけそうな勢いだったその女性は、
人に親切にされ、気を遣われて、別人のようになったのです。

私の前へとカートを進めながら何度も「ありがとう」と言い、
レジがすむと店員にも礼を言って、買った物を袋に詰め終わると、
笑顔で店を出ていきました。


私はすがすがしい気持になりました。
周りを見ると、誰もが私に笑顔を向けて、
言葉を交わし合っているのです…「素敵ね」

「気持のいい場面だったわね」「今日もいい日になりそうね」。

それからはもっと人を幸せにしたくて、
できることはないかと探すようになりました。

人のためになろうとすれば、機会はいたるところに転がっているものです。
身体を使い、心を使い、お金を使って、
まだまだ私は人のために何かをしてあげられる、
それはこの上もなくうれしいことでした。

自分のために「人が何をしてくれるか」ではなく、
人の幸せのために「自分が何をしてあげられるか」を、
いつも考えるようになりました。

うれしいことに、それから一年もしないうちに、
皮膚の調子がよくなり、生きるパワーもみなぎってきました。
杖なしで歩けるようになり、ジムにも通い始めました。

医者は、病気がひとりで快方に向ったようだと言って、
信じられないようです。

僧侶の教えのおかげで人生の坂を転がり落ちずにすんだ私は、
愛情という永遠の力を手に入れることができました。
【結婚式場の小さな奇跡】
 
 
栃木県那須地域(大田原市)に『おもてなし』の心でオンリーワン人情経営の結婚式場があります。

建物は地域の建築賞を受賞(マロニエ建築デザイン賞)する程の業界最先端の建物、内容、設備です。

一見敷居がかなり高く感じ取る方もいらっしゃるようですが、決してそんな事はありません。

少人数の食事会や、幼稚園の発表会など、ご来館頂いた方に『おもてなし』をする事に日々魂を込めております。

この事をこちらの有限会社勝田屋代表取締役川永作衛様は『凡事入魂』と仰られています。

日々数々のドラマがありますが、そんな中から一つだけエピソードをご詳細させて頂きます。



オープンを3ヶ月後に迫ったKATSUTAYA(結婚式場)で結婚式が半年後に決まり。幸せいっぱいのカップルがいました。

その半年後に結婚を控えている幸せいっぱいのカップルから、KATSUTAYAに一本の電話がありました。

「結婚式を取りやめたいのです」

突然の出来事に、受話器を握る川永社長が

「どうしたのですか? よろしければ、何があったかお話してくれませんか?」

と尋ねると、

「実は、新郎になる彼に癌が見つかったのです。

私は結婚式をしたいのですが、お互いの両親が結婚式を中止した方が良いと言いまして…」

今にも泣き出してしまいそうな彼女に川永社長は、

「事情は解りました。中止にしますが、折角楽しみにしていた結婚式です。来月には式場が完成しますので、一度KATSUTAYAを観にいらしてください」

と応えて電話を切りました。



KATSUTAYAが完成し、川永社長はブライダルフェアに一組のカップルを招待していました。

結婚式を中止したカップルです。両家のご両親も一緒に。

新郎になるはずの彼は、車椅子で式場に来られました。

川永社長に車椅子を押してもらい、カップルは夢に見ていた式場を一通り案内してもらいました。

新郎が結婚式ができないと諦めていたとの事でしたが、その事を体験すると不思議と希望と勇気が湧いてきました。

そして、必ずここで結婚式をやるぞ、そのためには必ず癌を治して見せる。そう強く心に誓えたように思います。

彼女は帰り際に、

「彼の癌が治ったら、ここで結婚式がしたい」

と川永社長に言って帰って行ったそうです。



その3ヶ月後に川永社長に電話が掛かって来ました。

「KATSUTAYAで結婚式ができます」

嬉しい報告をくれたのは彼女です。

「あれから彼の体調が良くなって、癌が消えて失くなった」

と言い、喜んで電話をくれたのです。

彼女はどうしても彼と結婚がしたくて、式場を観た後に改めて結婚の約束をしたそうです。

無事にKATSUTAYAで式を終えた新郎と新婦は、一度は諦めた結婚式ができて本当に幸せだと言っていました。

それも、川永社長が結婚式を中止にした私たちを結婚式場に招待してくれたお陰だと言っています。



川永社長も永い間、結婚式を見て来ましたが、本当に嬉しい出来事だったと言っています。

川永社長は言います。私達は『おもてなし』業です。裏も表もない『おもてなし』業です。

結婚式を中止したいと言う方のお気持ちを考えると、深刻な事があるに違いないと感じまして、まずご本人様たちの事情をお尋ねし、その事に対して最大限のおもてなしをしようと思ったのです。

私は医者ではありませんので癌を治す事はできません。しかし、スタッフ全員が精一杯の『おもてなし』の心で接する事が、私たちにさせていただける唯一の事です。

スタッフにも感謝をしています。何より、新郎が健康になった事が一番良かった事です。

これからも末永く健康で幸せな生活を過ごせるように、日々おもてなしの心でお祈りをさせていただいています。
2日前
『花瓶の水』
  

ある田舎町の学校に、東京からひとりの女の子が転校してきました。
  
都会からの転校生に田舎の生徒たちは、大変興味があって、
その子の廻りにやって来ては、

『それは何?』『その服はどこで買ったの?』
『その髪型は何と言うの?』といった質問を浴びせます。

しかし、その女の子はというと、内気でおとなしくシャイな
子供だったので、廻りの質問にちゃんと

答えられず、『わかんない』『お母さんに買ってもらった』
などと、恥ずかしがって答えていました。

クラスにはどこの学校にもいるような元気で活発な男の子が
いました。
  
その男の子は、勉強がそんなに出来る訳ではないのですが、
スポーツは得意で明るく、クラスのムードメーカーといった
立場でした。

時には、悪戯や悪ふざけが過ぎて他の子供を泣かせる
場面があり、先生も手を焼いているのですが、
何故かクラスの人気者でもありました。
  
そんなクラスである日その事件は起こったのです。

それは授業中でした。「先生、花の水を代えてきます」
その男の子は言うが早いか、教壇の横に置かれた花瓶を
手にすると走り出しました。

今まで花の水を気にしたのを見たことがありませんし、
ましてや静まり返った授業中の出来事です。

「コラ!何やっている、今授業中だぞ。
 花の水なんかあとでいい。」

呆気にとられながらも反射的に先生が大声を出したとき、
不運にも事件は起きました。

クラスの中でも大人しいその転校生の女の子の席で男の子
が止まったかと思うと、彼女の頭の上に花瓶をひっくり
返したのです。

一瞬、教室内が凍りついたように静まり返りました。

花瓶の水がスカートを伝って女の子の足元まで
水浸しで、床には花瓶に差してあった黄色やピンクの花が
散らばっています。

静まりかえった教室は次の一瞬「あーあ!あーあ!」の大合唱。

女子児童は男の子に対して非難の声を上げ、男の子たちは
面白がって囃子立てます。

「わざとやったんだよ」「かわいそー」「ひどいよー」

しまいには口笛を吹いて面白がる始末です。

こうなると先生が幾ら言っても無駄です。

普段から大人しくて恥かしがり屋の女の子は、みんなの注目を
浴びてかわいそうなほど小さくなっています。

先生は2人の所へ駆け寄りました。

「どうしてこんな事をやったんだ」と先生が怒っても、
 
男の子は何も答えません。

ただ、「ごめんね。ごめんね」と言いながら、男の子は
申し訳なさそうに、俯いている女の子に頭を下げると、
花瓶を持って走り出したときと同じような素早さで、
教室の後ろからバケツと雑巾を持ってきてこぼれた水を拭き
始めました。

びしょぬれのスカートで座ったままの女の子は本当に気の毒
なくらいに押し黙っています。

先生が女の子を着替えさせるために保健室に連れて行った時、
大騒ぎするクラスの中でも、

男の子は黙りこくって床にこぼれた水を拭いていました。

この時、生徒たちの気持ちの中には、
  
「人気者だったのに、あんな事をする奴なんだ」

と男の子を非難する思いが残りました。
  
そしてこの事件は、このクラスで「花瓶の水」事件として、
永く記憶に残る事になったのです。

それから数年後、生徒たちも20歳になりました。

田舎の成人式には、町を出て行った子供たちも帰ってきて
いたので、久し振りにクラス会が行われました。

あの時水をかけた男の子もいました。
  
水をかけられた女の子も東京からやって来ました。

そして、会も盛り上がり、集まったクラスの一人一人が
小学校時代の思い出を話しだしました。
  
その時、水をかけられた女の子が、小学校時代の一番の思い出
を語るときに、この「花瓶の水」事件を話してくれました。

そしてその話を聞いたとき、クラスメートも先生も
びっくりしました。

その話を聞いて、「思っていた話とは違う!」と誰もが
思ったのです。

女の子は話し始めました。

なんと女の子は、あの時、トイレを我慢していたのです。

内気でおとなしく恥ずかしがり屋の女の子は、先生に
「トイレに行きたい」と言えなかったのです。

しかし、どうしても我慢できなくて、おしっこを漏らしていた
のでした。
  
そのことに誰よりも早く気付いたのが、あの男の子だったのです。

男の子は、女の子を助けようと一生懸命考えました。

そして、必死になって考えついたのが花瓶でした。

花瓶の水をその女の子のスカートにわざとかけ、おしっこを
漏らしたことを周りのみんなに気付かれないように気を
配ったのでした。

自分が先生や友達から変に思われようとも、その子を助けた
かったのです。

周りの子からは、「わざとやったんだよ」「かわいそー」
「ひどいよー」という声を浴びせられたけど、
一言もその事実を語りませんでした。

先生もこのクラス会までその事を知らなかったのです。
  
その子の話が終わったとき、大きな拍手が湧き、
クラス会は大いに盛り上がりました。

「ついてもいい嘘」と「言ってはいけない真実」
広島の女子高校生のA子ちゃんは生まれた後の小児まひが原因で足が悪くて、平らなところでもドタンバタンと大きな音をたてて歩きます。

この高校では毎年7月になると、プールの解禁日にあわせて、
クラス対抗リレー大会が開かれます。


A子ちゃんのクラスでは男二人、女一人は決まったのですが、残る女一人が決まらなかった。

そこで、早く帰りたくてしょうがないそのクラスのいじめっ子が
「A子はこの三年間体育祭にも出てないし、水泳大会にもでていない。

A子に泳いでもらったらいいじゃないか」と意地の悪いことをいいました。

男子が言えばいじめっ子のグループからいじめられることになり、
だれも味方してくれませんでした。

結局そのまま泳げないA子ちゃんが選手に決まりました。

家に帰りA子ちゃんは、お母さんに泣いて相談しました。

ところが、いつもはやさしいお母さんですがこの日ばかりは違いました。

「お前は、来年大学に行かず就職するって言ってるけれど、課長さんとか係長さんから
お前ができない仕事を言われたら、今度はお母さんが
『うちの子にこんな仕事をさせないで下さい』と言いに行くの?

たまには、『いいわ、私、泳いでやる。言っとくけど、うちのクラスは全校でビリよ』
と、三年間で一回くらい言い返してきたらどうなの。」とものすごく怒ります。

A子ちゃんは泣きながら二十五メートルを歩く決心をし、
そのことをお母さんに告げようとしてびっくりしました。

仏間でお母さんが髪を振り乱し、「A子を強い子にしてください」と
必死に仏壇に向かって祈っておられた。

水泳大会の日、水中を歩くA子ちゃんを見て、まわりから、
わあわあと奇声や笑い声が聞こえてきます。



一人の男の人が背広を着たままプールに飛び込みA子ちゃんの横を一緒に歩き始めた。

それは、この高校の校長先生だったのです。

「何分かかってもいい。先生が一緒に歩いてあげるから、
ゴールまで歩きなさい。はずかしいことないじゃないか。
自分の足で歩きなさい」と励まされた。

一瞬にして、奇声や笑い声は消え、みんなが声をだして彼女を応援しはじめた。

長い時間をかけて彼女が二十五メートルを歩き終わったとき、友達も先生もそして、あのいじめっ子グループもみんな泣いていました。

出典元:(読売新聞 窓)
【火災現場から燃え上がった恋】

五年前のある日、ある病院から火災発生の通報を受けた。

救助のため中に入ると二階は見渡す限り火の海になっており、煙が廊下を覆っていた。

俺は東病棟の病室を回り要救助者を探した。

東病棟を回っていくと一番奥の病室にだけ女性が一人いた。
声をかけたが気を失っていて反応がなく危険な状態だったため、
急いで抱きかかえて救助した。

数日後、俺は不意にあの女性がどうしているのかが気になり、
病院に連絡をとってお見舞いに行くことにした。

「お体は大丈夫ですか?」
と聞いたが彼女は首を傾げるだけだった。

看護師が少し困ったような顔をしながら紙に何かを書いて渡すと彼女は笑顔になって、
「ありがとうございました。大丈夫です!」
と書いて俺に見せた。

彼女はろうあ者だった。

しばらく二人きりで筆談し、趣味のことや小さいころのことなど
色々なことを話した。

耳が聞こえないということを感じさせないくらい
前向きな人で本当に楽しいひと時を過ごすことができた。

彼女は
「もしよかったらまた来てくださいますか?」
と少し心配そうに聞いてきたので
「では、またお邪魔します。」
と答えて病室を後にした。

彼女と話すために手話を勉強し始めたり、好物のお菓子を持っていったり・・・。
そんな関係が続いて二ヶ月ほど経った非番の日。

俺はやっとどうしようもなく彼女に惹かれていることに気づいた。

彼女のことを考えない時がない。
俺はこの気持ちを告白することを決意した。

彼女の病室の前まで来たのだが、いざ取っ手に手をかけると緊張のあまり、
手が震えた。一度、深呼吸をして気持ちを落ち着けてから引き戸を引いた。

その日は冬にしてはよく晴れて暖かい日であり、
やわらかい日差しが窓から差し込んでいたのをよく覚えている。

彼女はその光に包まれながら読書をしていた。

「大事な話があるんだけど聞いてくれるかな?」
と切り出した。

彼女が頷いたので思いの丈を紙に書いて渡した。
彼女はそれを見て不安そうな顔をし、何かを書き付けて寄こした。
紙には
「私、耳聞こえないんだよ?一緒にいたら大変だよ?」
と書いてあった。
すごく寂しそうな顔をしていた。

返事を一生懸命に考えてはみたが、残念ながら気の利いた言葉を言えるような
素敵な男ではないので思っていることをそのまま書いた。

「ただ傍にいたい。いつだって力になりたい。そんな理由じゃダメかな?」
ダメ元だった。

それを見て彼女は泣き出し、震える手で
「ありがとう。おねがいします。」
と書いた。

つきあっていく内に茄子と稲光が苦手だとか、
実は甘えん坊で頭を撫でられたり抱きしめられるのが好きだとか、
知らなかったたくさんの面を知ることができた。

つきあい始めてちょうど二年が経った日にプロポーズした。

相変わらず飾り気のない言葉だったが、
嫁は顔を赤らめて少しだけ頷いてくれた。

ご両親には既に結婚を承諾してもらっていたが、
一応の報告と式のために二人の故郷、能代へと帰省した。

もうじき結婚生活三年目だけど、感謝の気持ちを忘れたことはないよ。

どんな時でも笑顔で送り出してくれる嫁がこうして傍にいてくれるからこそ、
死と隣り合わせの火災現場でも俺は頑張れるんだから。
男性の体験談


私は生まれつき言語障害があり、医師からは手術すれば多少は
良くなりますが、劇的に良くなるということはないかもしれませんという診断でした。

生まれつきの障害があった為に、子供のころから、言葉に対していじめにあってました。
何言ってるかわからない・宇宙人みたいだ。

そんな言葉を投げかけられて、中学入学をキッカケに
学校には全くいかなくなってしまいました。


私の母はそんな自分に対して、学校に行きなさいとは一言も言わない人でした。
別に学校に行かなくても立派になった人は大勢いる。
お前が行きたくなったらいけばいいよと言ってくれた言葉が
あー、母だけは味方でいてくれるんだなって
安心感がありました。


中学を卒業してからは、家の家計を助けたい気持ちで、
16歳から働ける土木屋さんで仕事をしていました。
しかし、コミュニケーションというのは、必要最低限にしていました。
仕事の休憩時間になっても一人で過ごすことも多かったし、
その方が気持ちが楽だったんです。

でも、本当は自分も人と話したい気持ちはありました。
そんな時期に男子部の方が激励に来てくださいました。


その時に色々激励していただきました。

会合に誘っていただいた車の中で、自分のことを少しお話しました。
なかなか人との関りを持てないといったときに
男子部の地区リーダさんが自分が言った言葉をメモしていた手帳をふいに見たときに、
あー、こんな自分のことを考えてくれてるんだという気持ちになりました。

それから男子部の方を信じることができ、会合にも少しずつ参加できるように
してもらえました。

22歳の時に牙城会のお誘いをしてもらった時に、牙城会ってなんですか?と
聞いた時に、会館を守るグループだよ、そんなに難しくないから、ちょっとチャレンジするつもりでやってみようよという軽い感じでお誘いをうけました

会館での初めて任務付いたときに、知ってる方は知ってると思いますが、
当時の牙城会室の裏には木刀が置いてありました(笑)

なんじゃこらって思って、やばいとこなの牙城会って?思って、これ何するんですか
って質問したら、これは会員さんを変な人から守る為だよって笑いながら答えていました(笑)

ただ、初めての牙城会だったんですが、衝撃的なことに気が付きました。

会員さんが来たら、こんばんは。の挨拶を他の人はしていました。
え?マジか??出来ないと思いました。
本当に出来ないと思いました。他の方は普通に挨拶してるのに、自分ができないことに
もどかしく思いました。

結局私は初の任務の時、一言も挨拶が言えませんでした。

しかし、人間と言うものは慣れなんでしょうか。
徐々にではありますが、挨拶ができるようになってきました。
私にとって牙城会は、不特定多数の同志の人に
挨拶ができるようにしてもらえた場所でした。


24歳の時に初めて選挙遊説のお誘いがきました。
もちろんこの時は人前にでるなんて飛んでもないと思い、
即決でお断りをしました


28歳の時に再度選挙遊説のお話もありましたが、その時もお断りをしました。

転機が訪れたのは、29歳の時5月
弟と一緒に船の中で仕事をしていた時に、弟が高さ7Mの高さから落下してしまい、
腰の骨を粉砕骨折する事故にあってしまいました。

その事故を聞いてすぐに地区の方が激励に来てくださり、
一緒に回復のお題目をあげてくださいました。

おかげ様で皆さんの祈りが通じて、弟は一生歩けないかもしれない。
良くて車いすと医師から言われておりましたが、良いお医者さんにも巡り会い、
今では職場の方にも復帰し、元気に働いております。

それから選挙の遊説にもチャレンジさせていただき、沢山の同志の方と
活動を通して色々学ばせていただきました。

あれほど人間関係に悩んでいた、私が人間関係で強くなれました。

今では、不特定多数の人達の交流し、趣味のディズニーや、
沢山の全国の同志の人達と一緒に集まってご飯食べたり、学会本部に行ったり、
ディズニーに行ったりできるようになりました。


こういう自分になれたのも多くの同志の方がいたからだと思います。


弟が入院している時に、男子部の方からいただいたお手紙の中の内容を
紹介して私の進行体験とさせていただきます。

譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩みを運びて
今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき

一つ一つの事には意味があると思います。幸せを万里の外より、
あつむべしの信心をしているのです。

貴方だけの使命があるのです。病気や怪我は失うことばかりではないと思います。
そして悩むのは決して、一人、貴方だけではないはずです

右の御書を是非何かあるたびに読んでみてください。
そして同時に祈って「1日も早く元気になります」との
強い勇気を!心を!
男性の体験の一つです。


何かの参考になればと思い、私の体験を書かせていただきます。

私は決して立派な学会員ではありません。信心を始めてから何年も、愚痴を言ったり、人のせいにしたりということが、私の傾向性でした。

あるとき、それを幹部に指摘され、自分はそう思っていなかったもんだから、すごく頭にきて、「何でお前にそんなことを言われなきゃいけないんだ。」
と怒鳴って、帰ってしまいました。でも、よく考えるとその幹部の指摘は間違っていなさそうです。

しょうがないからお題目を上げ、池田先生の指導を読み、またお題目をあげているうちに、「そうだ、もし自分に原因があるなら、自分が変わればいいんだ。
この信心は人間革命の信心じゃないか。」と、気がついたとき、心がとても軽くなりました。

心の中で文句ばかり言っていたのに、その文句が消えたのです。
それからは生活がどんどん変わり、結婚して子供も出来て、なにより、大変なことや問題が起こったときに、「さあこい!!」と言う感じで、挑戦できるようになりました。



 大切なのは、他人のせいにしないこと。愚痴を言わないこと。
自分の中にどんな苦しい状況にも負けない、すごい力と知恵があることを信じること。

ご本尊はそのすごい命である「仏界」そのものであり、信じてお題目をあげれば自分の中にもともとある仏界の命が現れることを信じぬくこと。

まず、自分が変わること。こういうことではないでしょうか。

自分が変わるとすべてが変わります。自分の中にある、光り輝く命をあらわしていけば、みんなが寄ってきます。

異姓を追っかける必要なんてありません。自分の中の大生命力と知恵を現していけば、乗り越えられない問題なんてありません。
それどころか、そんな状況を楽しめるようになります。


全部自分です。絶対にこの信心で変わることが出来ます。

ただ、自分が変わろうとしないで、回りのせいにしていれば、何にもかないません。
お題目をあげようが、まったく変わらないでしょう。私がそうでしたから。大聖人の言われるとおり、「心こそ大切なれ」です。




ある女の子の物語です。

その子は小さい頃から股関節脱臼をくり返して、
さらに小学校5年生のときに交通事故にも遭っていました。


でも、高校で陸上部へ入部。
そして卒業後も、走ることを続けたいと彼女は実業団入りを考えます。
しかし、入れるわけがありません。

そんなときに助けてくれたのが、友人のひとことでした。
「リクルートという会社に、新しく陸上部ができた。

今5人ぐらいいるけど、走りたい子をほしがっている。
誰でもいいみたいよ。」でも、もちろん誰でもいいわけではありませんでした。


彼女は断られます。

それもそのはず。
彼女はそのへんの中学生や高校生よりも、足が遅かったのです。

当時の監督とその子の会話です。
「ところで国体何位?」
「すみません、でてないんですけど」
「あ、そうか、インターハイ何位?」
「インターハイ、でてないんですけど」
「あ、そう、そうか、あと何があるかなぁ。
京都の駅伝、高校の時あったでしょう?」
「3年間補欠だったんですけど」

監督はこのときのことをこう語っています。
「実績がないからしばらく放っておいたんです。
でもしつこいんですよ、あいつ(笑)
何回も電話をかけてくる。

さらに大学の先生の紹介状まで書かせてきて
その先生が僕の知り合いだった」

ひとまずその子を練習で走らせてみると・・
案の定、みんなの最後をトコトコ走っている。
でもその子は、監督にこういいました。

「私はオリンピックで走るためにこの会社に入りました。
そのためだったらどんな練習にも耐えます。
私は他の人が1時間練習するなら、2時間頑張れます」


そこらの高校生よりも遅かったという彼女の名前は、あの有森裕子さん。

この後に、オリンピックでメダルを獲得するほどに成長しました。
日本の陸上競技女子選手で、オリンピックで2大会連続でメダルを獲得できたのは、
彼女だけです。

そして、有森裕子さんが
リクルートで出会った監督は、

後に、
鈴木博美選手、
高橋尚子選手も輩出した、あの、小出義雄監督でした。
「初めて自分で自分を褒めたいと思います」
という名言を残した有森選手。
彼女の、何にも屈しない志が名監督との出会いをひきよせ、
誰にも負けない努力が、メダル獲得の夢を実現させたんですね。
「才能がなくても、努力をすれば夢が叶う」
ということを彼女は教えてくれました。
2007年
結婚をしたいと思い、どうしたらいいかと思い、内部の先輩に相談したら
出逢い系をお勧めされてラブサーチという出会い系サイトにはいりました。

3ヶ月ほど行いましたが、メールをしようが、イイネをしようが何も反応がありません。
数えたわけではないですが、200人にメールして5人くらいお返事があるくらいの確率です。
もうね、やばいですよ。メールうつのもどうせ返事がないんだろうなと思って書いてたくらいです。

他にも日記やブログなどサイトに機能があり、チャットなどもありましたので、
色々チャレンジしてみました。おかげさまで、何人かの方とやりとりを始めましたが、
自分が見栄を張って知らないことを知ってるような知ったかぶりをしたりしたせいで、
何人かの方とは縁がなくなることになりました。色々失敗しました。

2年ほどたち、オフ会といういものに辿り着きました。
最初はリアルで会うということに抵抗もありましたが、
チャレンジしてみないと何も変わらんで!という激励も受けて
チャレンジしてみました。

そこでは同性の知り合いや友達もできました。これにはビックリしました。

オフ会っていいな。楽しいなと思ったのが最初の印象です。
最初のオフ会は映画オフ会で内容はインディージョーンズでした。
今思うと、最初はディズニーで始まり、ディズニーで結果を迎えたという意味があるオフ会
だったのかもしれません


オフ会に参加し知り合いは増えますが、何故か好みの方が現れませんでした。
そんな時にオフ会の幹事をしていた、ごんちゃんさん・カエルさんという方がいました。
70人規模のオフ会を行っている方で、その方がクリスマスオフ会を行って、
そこで知り合った女性とお付き合いするというお話を聞きました。
その時にメンバーさんに向けた言葉を紹介します


初心者の為のオフ会


当時の幹事だった方の言葉です


【かゑるさん】




2009年大規模クリスマスオフ。

80人中で、ドタキャンが20人。(爆)


一見、ただ大人数で散々なオフにも見えるけど、でもねぇ

あのオフ会で何組の寿が生まれたかって、

実は、うふふっ…てな感じなんですよ。


オフ会を仕切ったり、盛り上げ役を買って出る人を中心に軒並み・・・ですよ。


やはりそういう人は輝いているし、他人の為に努力をいとわない人が多いぶん、

寿していくのは、当然の事なんですよ。



これから寿を目指す男性は、目先の事だけじゃなくて、オフ会を盛り上げる、コミをまとめる等の事から、信頼を得ていくほうが、ここでの出逢いには向いているのかもしれません。

ぜひとも、素敵な恋をGETしちゃって下さいねっ。



あの大規模クリスマスオフをみんなで力を合わせ、ドタキャンにもめげずに作り上げた実力は、

今のラブサーチには無いかもしれませんが、初心者オフ会なども盛況ですし、意外と楽観視してみてます


自分達はこれで卒業しますが、上が抜ければ下が自然と育つ。

それに、必ずそういう人が次々と現れ、結集するようになっているんです。



人は巡りますから。


【ごんちゃんさん】
◆オフ会は、履歴書だけで判断してもらいたくない!という男女にオススメ。

オフ会へ出ている男性・女性の大まかな人柄は、一目で分かります。

真面目に恋人や友人を探す男性・女性にはオススメの方法。


幹事連中は、「女性の安心と安全」を一番大切に思って開催していますから、
安全性に関して言えば、自信を持って随一だと言い切ります。


というより、実社会より常識的な人が集まっていますんで、当然です。
もう一度言います。実社会より常識的な人が集まっていますんで、当然です。

他人に危害を加えたり、不快にさせるような変な奴は、リピートさせていません。


時々思いも寄らないハプニングも起こって、それがまた楽しいのですが、
みんなの雰囲気を盛り上げる人、機転を試されるような場面で活躍する人、
参加者の不安を受け止めたり、思いやり・気遣いで活躍する人、
下準備や目立たない役割で地道に活躍する人・・・

様々な人達でオフ会は成り立っており、参加者全員で作り上げている一つの作品です。

オフ会の成分は、思いやりと愛で出来ていると言っても過言じゃありません。


唯一残念なところは、その人間関係が親密になったり、常識的な人が集まるが故に、
チャンスは山ほどあるのに、出逢いへのチャレンジが遠のいていること。

せっかく楽しい世界なのだから、「波風立てたくない」、「雰囲気を壊したくない」
「幹事に迷惑を掛けたくない」・・・単なる飲み会なら、それでOKです。

でも、幹事共通の想いは、参加したみんなに、きちんと出逢いが有ること。
寿の出ない飲み会なんて、苦労して企画したくないわ!

女性は参加する際、清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を出していますんで、
男性のみんな!自分から気遣いのある言葉で声を掛けましょう。

優しい言葉の一つで人は安心するものです。

このお二人との出逢いが自分の価値観を変えてくれたと思っても言い過ぎではないです。
人の為に尽くすこと、それが信頼に繋がる。
外部の方が仏法者のようなことを言っていたのが衝撃的でした。
2009年12月のオフ会でこの言葉に出会い、

そして2010年6月自分自身のオフ会をやってみようと思ってチャレンジしてみました。
もちろんやったこともないので、どうしたらいいか全くわかりませんでした。
なので、知り合ったメンバーさんにお話をして、色々アドバイスをいただけました。
そのおかげで初めてのオフ会にも関わらず25名の方が集まってくださいました。

初オフ会では、自分は幹事だとは思われてなかったくらい存在感が薄い感じでした(笑)

でもねー、オフ会をしてもなかなか上手くいかず、周りがカップルになってるのを
見てある意味嫉妬してたんだと思います。

だけど、なんだかんだで、やっと彼女が出来きたんだけど、
2012年1月初めて出来た彼女とディズニーで遊ぶ予定で、
自分が用意していたバレンタインナイトというショーのチケットをもってまってたんですが、
結局ディズニーで振られてしまったんですよね。

でも、そのバレンタインナイトと言うショーの中で、ゲストの方の結婚する報告をする場面や
友達に感謝するメッセージだったり、結婚30年目のご夫婦のメッセージだったり、
そのようなメッセージを聞いていたら、自分が降られたことなど忘れてしまいましたね。

そしてそこで気がついたんです。
あー、俺、人が喜んでくれる姿を見るのが好きなんだってね。
だから、出逢いは2の次でいいや。まずみんなのことを優先で考えよう。

そういう風に考えが変わった2カ月後に今の奥さんと出逢いました。


大事なのは自他共の行動だと。


以下は、当時悩んでいたときに教えてもらった言葉のいくつかです。


新しいことは、人の縁が運んでくれる。

まわりを優しい目で見れば、優しい目で見てくれる人が現れる

まわりの成功を心から喜んでいれば、応援してくれる人が現れる。

こんな人と出逢いたいと思ったら、自分がそういう人になれば、
そういう人が現れる。

人の「縁」は、あなたの鏡のようなもの。

素敵な縁に巡り会いたかったら、まずは自分が素敵になろう。



自分が欲しい時、先ずは、人に施しなさい
人に施すだけ人に求めるだけは、エゴなので
キリスト教になる

我々は自他共に幸福になるのが、理想となる

あくまでもギブ アンド テイク
となる人のために動くから自分が幸せになる

何故なら、自他ともの幸福だから



そして以下は私が、お世話になった人の言葉です

何かが叶ったから、
手に入れたいものが手に入ったから
感謝するという感謝は、
実はほんとうの感謝ではありません。

それは感謝ではなく、
我欲が満たされたというに過ぎない



本当の感謝とは
誰かに親切にされた「ありがとう」という気持ちを
他の誰かに恩返しをするということ。



↑これ今実践中です(*'ω'*)
私自身、信心をしていく上においては、よく目標を立てて取りくむようにしています。

大なり小なり、決意と目標がないとやはり信心は惰性になり、
ピントがぼやけてしまいます。

仕事や生活にしろ、学会活動にしろ、具体的に祈っていく。

ほかにも自分の生命を見ていて、これは直さないといけないと思うと
具体的な変革を祈ります。

その方が祈りが叶っていくかどうかより明確にわかるからです。

 
そんな中、実は自分の信心において、ある時から同志への怨嫉がでていました。
以前にも書いたのですが、大変傲慢な壮年の方がおられ、
私だけでなく、ほかの会員さんや地域の方からも嫌われている方がおられたのです。

お金の貸し借りなどの問題もよく耳に入りますし、
婦人部などの会員さんを見下げたり、それは目に余る行状が多い人だったのです。
その上、自分ほど信心強情なものはいない、たくさん折伏をしてきたなどと
自慢されるというので、みんな陰では対応に困っていました。


 「あの人が学会におられる限り、創価学会には入らない」といった人もおられます。
いつしか私もこちらが正しくて、向こうはおかしいというスタンスで
長らくその壮年と付き合っていました。

当然、嫌いなわけですが、反面、信心としてそれで終わってよいのかと
思うところもありました。

なぜなら、嫌っている間、こちらの心も楽しくないですし、
ご夫婦で学会活動も長年やってこられたことも事実でありましたから、

地区部長としてこういう方とどうおつきあいしていいか、手を焼いていたのです。

 それがここ数か月、私自身が変革してきたのでしょうか?
前とは違う感じになってきました。相手のことを嫌ったりというよりは、
自然とその方が人間革命されますようにと祈れるようになってきたのです。

 
自分は一生、この人の幸福なんて思うことなんか
できないだろうとも思っていました。

あれだけ傲慢にやってきた人だから、少し痛い目にあっても仕方がない・・・
心のどこかで罰が出ても仕方ないと思ったことさえあったのです。

 
しかし自分もこの境涯を乗り越えたいと思い、
御本尊様に「自分を大きくして、相手を憎まない自分になります」
と決意して拝むようにしました。

 
そして今、私はその壮年の幸福と人間革命を祈れるようになったのです。

地域で一番嫌いだと思っていた人物の幸福を祈れるようになったのですから、
自分でも拍子抜けしたみたいに「あれ?」という感じです。

不思議なことに怨嫉が消えていったのです。
それどころか今度はその人の幸福を誰より祈っていこうと思うのですから、
生命は不思議なものです。

私は自身の生命の怨嫉に打ち勝てたと思いました。
相手が悪かったり、間違っていても同志である以上、
怨嫉すれば罰はこちらに出ます。福運も消えていきます。
まして相手の罰など思えば、それこそ還著於本人(げんちゃくおほんにん)
そのものの行為となってわが身を損じます。


お恥ずかしいお話ですが、私も地区の人達とその人の悪口を言ったことがありました。

相手がどうであれ、陰で悪口を言うのは、同志への誹謗行為です。
松野殿御返事には十四誹謗が説かれます。
その中に誹謗=正法を謗り、悪口をいうこと。

軽善=正法を信受している人を軽蔑すること。
憎善=正法を信授している人を憎むこと。
嫉善=正法を信授している人を妬むこと。

恨善=正法を信受している人を恨むこと。とあります。

邪宗を尊崇するのと同様、同志誹謗は絶対にしてはいけないことなのです。
(御書や学会指導に照らして相手が間違っているときは、
本人に直接いうことは謗法ではありません。)



ですから私は信心あるように見えて、功徳を消す同志誹謗を心のどこかでやっていたわけです。
それも長年・・・これでは思うような功徳は望めません。

ゆめゆめ肝に銘じていかねばと思うのと同時に、過去から命に沁みこんだ
謗法の害毒というのは実に根深いものだと思いました。

それを乗り越えて相手の成長を願えるようになったことは、
私にとって命が浄化された一つの証となったのです。

私達は凡夫ですので、清廉潔白などという人はまずいません。
みんな叩けば埃の出る体です。(笑) 誰が正しいとか、
悪いとか功罪善悪は御本尊様にお任せすればいいことであって、
私たちの凡眼で決めることではないのです。

私たちはどこまでも他者の幸福を祈っていかねばならない立場だと思います。


 「間違っているから、あの人は嫌い」というのもいけませんが、
「嫌いだから、あの人は間違っている」という考え方に人は気が
つくとはまりやすいものです。

人間にはそんな偏見が強く染みついています。

どの人にも仏性や使命があると学びながら、
嫌いな人の仏性は信じようとしない・・・それでは反仏法です。

 広宣流布は歓喜と希望をもってこの世の中に
幸福の種をまいていく仕事です。

それを地区部長でありながら、怨嫉や、こちらは正しいんだという独善を、
ほかの人達と一緒になってやっていた自分を反省することとなりました。

 仏法は厳しいです・・・自分や周りの人がいいと思っても、
仏様がそうだと認めてくださらないとどうしようもない。

依法不依人の言葉をよくよく思うべきです。
仏眼でも開かないと人間の善悪などそう簡単に見えないものかもしれません。

 
仏法者はどうあるべきか、こうした体験もすべて自分を
人間革命していく肥しとして、また自分を見つめる鏡として出てきます。

自分の身に起こってくる出来事は、すべて自分を変革していくために
意味があると見るのが人間革命の一歩です。相手ではない、
信心は自分だということをまた教えていただきました。


パークにいくと一部の自分たちさえよければなんでもいいという人達がいるのが
非常に残念

でも、ディズニーの中では誰でも笑顔になれて、自然と誰かに手を振ったりできる
優しい気持ちで楽しめる場所。


以前、2011年に付き合っていた彼女とバレンタインナイトのショー見ようと思ってとったチケット。
結局来なくて振られてしまったときに、一人で見たショー。

でも、そのバレンタインナイトのショー見た時、心が震えました。そしてゲストの大切な人に贈るメッセージを見たときに
何とも言えない優しい気持ちになりました。

ディズニーって悲しい気持ちを笑顔に変えてくれる素晴らしい場所。

何歳になっても他人を思いやれることを思い出させてくれる場所

大好きです。パークが。

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