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葦原風太郎想像空間天寿国の末裔コミュの9. 善財童子の記 「聖武天皇ー幼年期」

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9. 善哉童子の章 「聖武天皇ー幼年期」 悲しい生い立ち


 (大宝元年・701)

『大寶元年(701) 是歳、誕生し給う』 (聖武天皇御伝より・東大寺)
 
 <この年、夫人の藤原氏(宮子)が皇子(首皇子・聖武天皇)を産んだ。>
 (続日本記 宇治谷孟 上p.47)
 
 この物語の主人公を続日本記はこのように簡単に記している。

 書記者はこれ以上には書けなかったのだろう。

「この年」ということで、「この日、何月、何日に生まれた」、とはなっていない。書記者の怠慢だろうか。

 いや、知るべくもなかったし、この「男の子」が皇太子になるまで「歴史に印す」必要もなかったのだ。



 内裏の一室に産所が設けられた。およそ五人の巫女が宮子夫人の出産に関わっているだろう。

 宮中の夫人達にこの任務は能わないのだ。

 五人の巫女は出産に際して「身命を賭す」必要があった。この頃に「皇子誕生」は神格化されてきているだろうからだ。



 中年の巫女二人が宮子夫人の出産を促がし、若い巫女が産湯の用意をし、乳母が控える。これを高齢の巫女が祈祷しながら全体を監視し統率しているだろう。

 彼女にはこの出産を成功させ、皇子を、天皇を誕生させなければならない。

果たして赤子に何らかの身体的な不具合があれば、彼女はその赤子の口を塞ぎ、赤子に死を与えなければならない。

 そしてこのことは一つの神威であり、よって儀式である。よって「神の子」の出産は儀式化される必要があるだろう。



 隣室には持統太上天皇・?野讚良(うののさらら・うののささら−703‐没)を初め、阿閇皇女(あへのひめみこ・元明天皇)を中心に、氷高皇女(ひたかのひめみこ・元正天皇)と親族の皇女が並び、客として橘三千代らが皇子・皇女の誕生を心待ちにしている。

 およそそこには皇族の女官たちが馳せ参じているだろうが、その面子は推察できない。内裏では文武天皇(珂瑠(かる)皇子、軽皇子・(かるのみこ)が、見舞客たち相手をしている。




 およそ明け方より始まった宮子夫人のお産は初産であったのだろう。もう日は高くなり始めている。

 開け放たれた扉よりは四月の新緑の香りを風が運んでいた。



「まだなのだろうか……」

 阿閇皇女が、思うことがつい口に出た。。

「初産ゆえに難儀なのじゃろか」


 氷高皇女もつい思うことを言ってしまった。

 未明から始まった陣痛ならば、もう生まれてあるべきだと考えているのだ。

 産所は女たちの戦場でもあるのだろう。ここにある女たちは天武ー藤原、血統の繁栄を願っている。

「女の大事とはいえ辛ろうございますから……」

 橘三千代が相槌を打つ。

 

 内裏の廊下をばたばたと走る音が部屋の前で止まる。若い巫女が部屋の前でかしづいた。

「お生まれになりました。皇子様でございます」

「でかした」

 夜具の上で寝そべっていた持統太上天皇が初めて声を出して言った。

「見事じゃ」

 氷高皇女も相槌をうつ。そして聞き返す。

「宮子の具合はどうじゃ」

 氷高皇女が宮子の体を案じる。
 
「難産ゆえに疲れておられますが、気丈夫に皇子さまに乳を与えてございます」

「天晴れでございます。さぞ辛ろうござったのでしょう」

 橘三千代が宮子夫人を案じる。

「どれ、私が伝えよう」

 持統太上天皇がゆっくりと立ち上がり、内裏に向かった。産所は「小屋掛け」であった。



 内裏の客間に文武天皇は坐している。対坐するのは不比等であり、傍には房前が畏まっている。客間には茣蓙が敷かれている。扉は広く開かれ、ここにも春の風が足を運ぶ。

「……。それでお前に相談したいのは他でもない。もし赤子が皇子であった場合のことだ。儂は論語にある男女七歳と云うを五歳にして、皇子であれば広く世間を知らしめたいと考えておる。何か良い方法は無いものか、……」

「五歳ですか……。体つきを考えると、如何なものか。変性男子。男も男として生きてこそ。……」

「そこじゃ。乳母日傘は良くないと儂は思う。それも、儂をして、そう思うのじゃ。男は鍛えなければならぬ」

「七歳でも良うございましょう。まだ体が追いつきませぬで……」

「そこだ。市井の子供は逞しいぞ。何故なら早くに世間の荒波に曝されるでな」

「しかし、皇子は世継ぎ。市井の者とは違います。もし病や怪我でもすれば後に大きな憂いとなりまする」

「それも、考えた。しかし軟弱者でも困る……。どうしたものか」

 春風がいたずらに小さな竜巻を庭先で巻こうとした時、廊下より持統太上天皇がぬっと現れ、室内に踊りこんで来た。


 男たちの前に足音も立てず持統が現れた。開口一番、

「帝よ。宮子が天晴れ、皇子を得たぞ」

「おおっ、まことに……」

 文武の顔が光を得る。持統は対坐する不比等に気づく。

「不比等よ。宮子は勤めを果たした」

「ははっ、有り難き、幸せ……」」

 不比等は平伏したまま答える。

 持統天皇は振り返り部屋の前でかしづいている若い巫女に声をかける。

「若い巫女よ。許す。顔を上げて帝様にそなた達の手柄を報告するが良い」

 若い巫女は顔を上げ、座位のまま口上を述べる。

「皇后宮子さまは立派に皇子様を出産なされました。ただ難産ゆえに疲れておられます。しかし今は気丈夫に、皇子さまに乳を与えられてございます」

「おお、そうか。天晴れじゃ」

 文武の顔が笑みを湛える。

「よしよし、よう申したな。そなた達には褒美を取らそうぞ」

 持統も大変機嫌が良い。笑顔を満面に湛え、さも満足気だ。

「さてさて、赤子の顔を見ようかの。付いて参れ」

 そういうと持統は身を翻し、客間を去る。巫女は慌てて後を追う。それは春風の起こした小さないたずらが、室内に舞い込んだようなものだった。

「太上天皇様は、いよいよお元気……。私などは……」

『ははははは……』

 部屋に三人の、哄笑の起きる。

「房前、祝いの用意じゃ。武智麻呂に伝えよ」 

 一息おいて、不比等が房前に言う。

「ははっ、しかとそのように」

「房前よ。良い丈夫(ますらお)じゃ」

 房前は文武の一言に顔を赤らめ一礼し、退室した。

コメント(21)


 藤原京の設計図を描いたのは誰であろうか。(後に推理し加筆要! 665・669遣唐使?)

 その藤原宮・京は「周礼(しゅらい・中国「周」の制度を記した経書)」の思想に基づき設計されたようであるという。

 それは一辺が約5.2Kmの正方形(大藤原京と呼ぶ)であり、中心に「宮」が位置し、その規模も約一辺1Kmの正方形の規模であり、周囲は大垣で囲まれている。

 尚、その周囲には内堀と外堀(幅約5m)が水を湛え、四面に各三門がこしらえられ(計、十二門)、その門は礎石に柱を乗せている。門の大きさは間口が縦横約5mの大きさであるという。

 『藤原宮の構造の最も顕著な特徴は、朝堂院(太政官院)の正殿としての大極殿が成立したことである』

(平城京と木簡の世紀・渡辺晃宏  講談社学術文庫 p.32、p.35)

 

 これは内裏が持ち合わせていた宗教空間と政治空間をある意味区分することであり、同時に「大極殿」は天帝の中心位置を顕示しているのだ。

 また、南に飛鳥・淨御原宮、またその南に飛鳥・板葺宮が並ぶのだが、これも皇統の位置を示すものだろう。

 聖武天皇の生誕地はおよそこの地であり、この宮にて幼年期を過ごすこととなる。



 聖武天皇は、その赤子は、後の日に「首(おびと)」と名づけられた。

 産後数日は設けられた仮屋にて巫女たちの世話を受けて過ごし、この親子の健康の安全が誰の目にも明らかな時に親子は内裏に移る。

 二人は皇族たちと、厳選された祝い客のみの祝福を受ける。

 内裏の表の客間に小さな寝台が設けられ、そこに赤子の首が寝かされている。その隣には椅子が据えられ宮子がそれを見守っている。



 祝い客は日に日に増している。しかし内裏の門を潜れる者の数は少ない。それはおよそ皇族だけに限られており天皇にあっては親族のみと決めている。

 日本国は島国としてあったとて、海外よりの望まぬ来客もある。それは風土病であり、疫病である。

 ましてや日嗣の皇子の誕生であり、難産に苦しんだ婦人の姿である。内裏にあっては人の出入りに細心の注意を怠らない。



 病は「病気」として、気が病む・穢れとしての認識。または「病魔・悪鬼の仕業」と考えられている時代だろう。

 そして「誰かが、それを持ち込む」とも考えられている。よって「祝いの品・宝物」を持ち登城してもおよそ門前払いとされてしまうのだ。

 しかし、祝い客は後を絶たない。義理掛け行為と見られても、臣下としてはせずにはおれない行為なのだ。


 
 皇子の誕生の、数日の後のある日のこと。(この話の、舞台設定として)

 この日は『遣唐(実際には周)使として任命された、粟田朝臣真人(階位、民部尚書(民部卿)・直大弐遣唐執節使(天皇から節刀を賜った使い・全権大使))

高橋朝臣笠間(左大弁で直広参・遣唐大使)、坂合部宿禰大分(右兵衛率、直広肆・副使)、巨勢朝臣租(参河守(参河守、務大肆・大位)

 鴨朝臣吉備麻呂(進大壱、刑部判事・中位)、掃守宿禰阿賀留(山代国相楽郡令で追広肆・小位)、錦部連道麻呂を(進大参・大録)

 白猪史阿麻留(進大肆・小録)山於憶良(無位・小録)』等が、内裏に挨拶に訪れた。

 (続日本記(上)宇治谷孟 上  p.35〜36)



 彼らは任務によりこの日に寄り集い、次期天皇に一目見(まみ)えたく一同を生して内裏の訪問の許可を得た。

 一度遣唐使として唐を訪れたなら、次の遣唐使船の訪れる数年は、彼らは故国に戻れないのだ。

 また当時の交通手段・遣唐使船の頼りなさは言を待たない。



 そして自らの鋭意を研ぐためにも皇子に謁見したいと、彼らは考えたのだった。

 この日は朝から晴れていて、彼らが大極殿より内裏の門をくぐる頃には汗ばむほどの陽気となった。

一同は大極殿に参集するため正装して集った。 

 粟田朝臣真人を先頭に彼らは二列縦隊となり門をくぐる。

 門番が大声で彼らの到着を告げると、参道と内裏を仕切り支える僅かな石段の上、内裏の玄関前に文武帝が彼らを迎えに出た。



遣唐使一同は文武帝の姿を仰ぎ見た。一同が頭を垂れる。それを見て文武帝は彼らに声を掛けた。

「皆の者、苦しゅうない。面を上げい」

 彼らは面を上げ、粟田朝臣真人が皆を代表して祝い言を述べる。

<フォト・中ー ↑ マチガイ!>



「我が大君。この度は目出度くお后様にて皇子さまを得られたこと。皆の者が我が事のように喜んでございます。本日はお忙しい中、我ら遣唐使を憐れんで見(まみ)えていただくこと、我らが光栄の至りでございます。我ら一同、ここに謹んでお祝いの言葉を述べさせていただきたく、これに畏まりましてございます」

「大儀である。儂こそ新人気鋭の貴様らに会あて幸いである。……」

『おおお……』 

 時ならぬどよめきに文武帝が振り返る。持統太上天皇と阿閇皇女、氷高皇女が表に出てきたのだ。阿閇皇女は皇子を腕に抱いている。

 粟田朝臣真人が言う。

「太上天皇様。皇女様ら。健やかに有られまして、我らは皆さまの健やかなること、日々に有り難く……」

「よいよい。皆の者、見るが良い。阿閇皇女が抱くは日嗣の皇子である。今の名は、首(おびと)と云う」

 阿閇皇女は体を斜めにして、皇子の顔を皆に垣間見せる。そして抱きなおす。

 持統太上天皇が言葉を継ぐ。

 「お前たちが唐にて学は日本国の為であり、皆のためであり、この皇子のためである。お前たちはこの国のために研鑽を積まねばならぬ。お前たちのこの国に返るは数年の後の事。その時には、首は丈夫(ますらお)であるだろう。それはお前たちの子供たちも同じことである。お前たちが唐の国にて鋭意努力するのなら、この国の我らも同じことであると想え」

「まことに有り難き言葉と思し召し我らはここに忠誠と忠勤を、大君と皆様方に誓いましょう」

「よしよし。見上げた心意気。皆の者の、真人に見習うが良い。我は皆の者の渡航と帰還を日々に祈ろう。心置きなく研鑽に努めるが良い」
 


 文武帝の笑顔は満面に満ちている。それを見て粟田朝臣真人も安堵を覚える。

持統太上天皇が踵を返す。皇女達も付き従う。

「皆の者、大儀であった」

 文武帝の言葉に遣唐使一同は礼を返す。文武帝の内裏に消えるのを見て、皆が頭を上げて踵を返した。





「天然痘」

 文武帝への、首皇子誕生への祝いは後日も続く。皇子誕生の知らせはせずとも人々の口に上り伝播する。それは日を経るに従い遠方にも及ぶ。

 遣唐使の謁見後も文武帝は遠来の客に対応した。



 首皇子は宮子婦人の乳ですくすくと育っていた。しかしある日宮子は高熱を発した。夫人は自らの体の異常に気付くなり首皇子を官女に託し、それを知らせた。

 持統太上天皇はその発症の知らせを聞くなり首皇子の隔離を考えた。しかしそれは、宮子夫人も同じことを考えていた。



 知らせを聞いた太上天皇が宮子を見舞う。

「宮子よ。しっかりいたせ。お前は母なのじゃぞ」

「祖母さま、申し訳ありません。この期によもや病を得るとは……」

「疫病神の仕業じゃ。何もお前でなくても良かろうに……」

「悔しくござります、……」

「どうじゃ、熱があるのか、息は苦しいのか……」

「少しばかり」

「どれ、……」

 太上天皇が宮子の頬に手を当てる。頬は熱を発している。内心驚くものの、逆に手当てで病を放逐できぬものかと太上天皇は祈る。

「南無観音菩薩、南無観音菩薩、疫病神を退治いたし給え」

「祖母様、ありがとうござります。私より首(おびと)が心配です。私などは捨て置き、どうぞ首をお願いいたします。私の乳は毒の乳と成りておりましょう。誰か良き乳母をおねがいします」

「宮子よ。賢き母よ。案ずるな。ぬかりなく手配するでな」

「宜しく、お願いします。私は疫病神と闘います。観音菩薩に祈ります」



 宮子は自ら皇子を隔離した。そのことは宮子の英断だろう。疫病神の正体は天然痘(疱瘡・もがさ)であろう。

 後年、天平年間にも大流行し藤原四卿もこれに倒れる。しかし聖武天皇は無事だった。

「一度罹ったものは、罹らない」宮子夫人の「乳」が聖武天皇に免疫を与えていたのだろうか。

 ただし、後に「長の別れ」になることを、この親子は知らない。



 

天然痘は、「もがさ」もしくは「疱瘡・豌豆瘡(「わんずかさ・えんどうそう」とも云われる。

 中国・朝鮮半島からの仏教の伝来や渡来人の移動が活発になった六世紀半ばに最初の流行が有ったという。

 敏達天皇の仏教の普及を認めた時期と重なるため、日本古来の神をないがしろにした神罰とされ、仏教を支持していた蘇我氏と物部守屋とが宗仏・廃仏を巡り戦闘する。

 物部守屋は勝利を得るも天然痘の流行はいよいよ盛んとなる。

『…。疱瘡で死ぬ者が国に満ちた。その瘡(かさ)を病む者が、「体が焼かれ、打たれくだかれるように苦しい」といって泣き叫びながら死んでいった。老いも若きもひそかに語り合って、「これは仏像を焼いた罪だろう」といった。』

(日本書紀 (下) 宇治谷孟 講談社学術文庫  p.69)



 そして、文武天皇の治世にも天然痘流行に関する記事がある。

『文武天皇二年(698) 十二月二十六日 越後国が疫病の流行を報告したので、医師と薬をおくり救済した。』

(続日本書紀 (上) 宇治谷孟 講談社学術文庫  p.17)



『文武天皇二年(698) 夏四月三日 近江・紀伊の二国に疫病がはやった。医師・薬をおくって治療させた。』

(続日本書紀 (上) 宇治谷孟 講談社学術文庫  p.17)



『文武天皇四年(700) 十二月二十六日 大倭国に疫病が起こった。医者と薬を下賜して、これを救わせた。』

(続日本書紀 (上) 宇治谷孟 講談社学術文庫  p.33)



 これは皇子誕生の前年の記事である。或いは皇子はこの年に生まれていたのかもしれない。宮子夫人の出産はこの年かもしれない。

 しかし「大宝」の国号や律令制度の制定などと共に、新たな国の出発に「皇子の生誕」をも位置付けるため、一年だけ「ずらした」のかもしれない。

 また、上代の時代を指して、現代では破廉恥に見える近親相姦も、免疫という視点を得ればまた意味が違うものとなるのではないだろうか。



 大陸との交易や渡来人の来朝と共に疫病は紛れ込んでくる。この時「免疫」ということと、「血統の維持・血の濃さ」とどう関連するのだろうか。

「一度罹ったものは、罹らない」

 このことを上代の人々は知る。「血は濃いほど良い」とするのは、上代の知恵であるのかもしれないのだ。



 宮子婦人発病は宮廷内にて秘匿された。内裏の離れに風下・川下が図られ、仮屋が新たに設けられた。新たに看病のための巫女が呼ばれた。

「太上天皇様に申し上げる。我らが三人の巫女。かようなあばた面にてござれば病を克服してござる者たち。必ずや疫病神を追い払い、後顧の憂いの無きように勤めまする」

「巫女の頭よ。頭を垂れて頼む。そなた達に凭(もた)れよう。頼む、宮子を助けてやってくれ。皇子が不憫じゃでな」

「畏まりましてございます。命に代えても、必ずや」

 よって、巫女は生殺与奪権を持つ。看病禅師の登場は少し遅れるだろう。三人の巫女は自身の経験を基に看病を開始する。

 そして巫女達は任務を全うし、宮子の命を救った。しかし宮子の心の何かが変じた。宮子夫人はよほど病を恐れたのか。実に永い間、皇子を胸に抱こうとはしなかのだった。




 同じ頃、首皇子の養育を巡り、内裏に議論が始まる。それは宮子の死をも想定し、皇子の即位、未来までをも視野に含むものだろう。

 それはどこの家庭でもある親族会議であり、この内裏にあっては皇族会議であるだろう。そしてそれはこの国の行方をも決定する。

 不比等は持統天皇のみならずこの一族の信任が厚い。それは鎌足以降の功績でもある。



 持統太上天皇が話の口火を切る。

「さてさて、皇子が不憫じゃ。どうしたものかのう」

 文武帝は不比等と先ほどより政治談議に忙しい。この年に発布された「大宝律令」の事で意見を交換するのだろうか。

「私たちが皇子の世話を致しましょう」

 と、氷高皇女がこれに答える。

 文武帝は不比等と先ほどより政治談議に忙しい。この年に発布された「大宝律令」の事で意見を交換するのだろうか。

「氷高よ。私たちには乳がやれぬではないか」

「阿閇さま。乳母を与えれば良いことでしょう」

「誰か。知るのか」

 阿閇の詰めに氷高は黙る。

「官女の中より、誰か探すが良いだろうて」
 
 持統太上天皇が結論しようとする。

 この時不比等が振り向き、口を挟んだ。

「幼き頃に疫病を得て、しかし病を克服した者で、同じ頃に出産した妊婦などは……。如何なものか」

「不比等よ。妙案じゃな。良いかもしれん。一度得た病を二度も得た、とは聞かぬでな」

 文武帝が相槌を打つ。

 氷高が言う。

「そのような者の乳は毒ではありませんか」

「まことに、毒の乳とは恐ろしい」

 阿閇が追従する。

 不比等がそれを諭す。

「それがさに非ず。そのよう丈夫な女は巷には多いのです。それが嘘なら、その女たちは赤子を得ても育てられません」

「そうなのだ。市井の女たちは気丈夫での。そのような女子達の子供は強いのだ。不比等よ。その女子を見つけてくれるか」

「お任せあれ。明日と言わず本日にも必ずお連れ致しましょう」

「頼むぞ。ささ、そうと決まれば酒を飲め」

 三人の婦人を横目に見つつ、不比等は部屋を出た。

「ほほう。さすがは知恵者じゃの……。妙案じゃろうて。氷高よ。阿閇よ。不比等に任せてみよ。帝もそれが良いと言うておられる。儂もそれが良いかと思う」

 持統太上天皇はその話を括った。氷高と阿閇は、顔を見合わせるものの反論をしなかった。そして文武帝も部屋を出ると、太上天皇も立ち上がり部屋を出る。同じく、二人の皇女も部屋を出た。
「薬師如来」

 朝廷の朝は夜明けと共に始まる。昨夜に不比等は武智麻呂と房前に「乳母を得よ」と、下命している。

 そして不比等は朝集堂に向かい役人を押さえ、武智麻呂は兵武省に向かい兵士を押さえ、房前は馬料(寮)へと向かい馬の用意をさせる。

 朝集堂にて不比等は役人たちに皇子の乳母を探せと命じる。兵士が馬を引いて待つ。役人たちは指示を受けた地域に向かい乳母探しを始める。

「これは、お家の一大事」

 壬申の乱より時は流れたといえ、その記憶も余波も深いものがある。

「日嗣の皇子」の存在・不在は役人たちにとっても大問題なのである。「お家騒動」に誰一人も巻き込まれたくないのが有る。

 現代の役人でも「既得権」を大きく抱える。しかしこの時代に政変により一切を失うのは死をも意味する。

「草の根わけても探し出せ」

 ある数の役人は、京の各担当地域の「坊」(坊条制)に向かい、坊令に下命する。坊令は、戸長に下命する。

 (当時の藤原京の人口は四万人前後と云われる)

 京外では、郡司(豪族の長)に役人が言う。役人の地位は「駅伝制」の利用から兵武省の兵衛以上となるだろう。郡司は支配下の戸長に下命する。

 この日の夕方には、京内より数名の乳母が集められた。その一人は若く一人の乳飲み子を抱えていた。その女の顔を見ればあばたの痕もある。

 氏素性も調べられた。下級役人の妻であったのが発病を期に夫より離縁されていたことが判明した。女はその後に親族の力を得て出産したという。

 乳母の首実験には不比等が立ち会った。そこには巫女頭も同席していた。

「巫女頭よ。この婦人は如何か」

「良うございます。聞けば役人の妻、家柄でもあったとか。読み書きのできるのは都合がよいと申すもの。乳も溢れてござれば他に望むものも無い」

「よし。女よ。名を申せ」

「福と申します」


「福とな。福……。良い名前だ……」

「はい」

「病を得たは辛かろう」

「はい」

「実は儂の娘も病に憑かれて苦しんでおる。そして吾子(わこ)に不憫をさせておる。力になってやって欲しい。どうか助けてやってくれ。後に褒美も取らそうぞ」

「私は出戻りであれば、乳飲み子を抱えて難儀しております。乳房は二つございますれば、一つはその子に与えましょう」

 衛士の先導に、乳母の福は巫女頭と並び、裏から内裏へと向かった。

 上記のような話など、続日本記には記されていない。「記すべき」事でもないからだろう。

 よって、

「この話は、こじつけに過ぎない」

 しかし、そうだろうか。

 後年、聖武天皇は「基王」を得る。幼くして亡くなった皇子ではあるが、天皇はこれを喜ばれ「同じ日に生まれた赤子」に祝いの品を与えられた。

 何故か。

 ただ「皇子と同じ日の生まれ」が大事なのではなく、養母のへの思慕がそこにあるからではないだろうか。 



「慈母観音」


 乳母福は乳母として、しばし内裏の一室に出入りする事になる。乳幼児の授乳は間断無いことより先に居た前任者よりの引き継ぎとなる。

 しかし氷高と阿閇は福が疫病を克服したものであったとしても、その乳房にあるのは毒の乳としていた。

 福は内裏にてもう一度この二人の首実験の対象となるものの、福の抱える赤ん坊の顔を見てそのことが杞憂であることに気づく。赤子はふくよかで白い頬に朱が浮いて桃の肌をしている。
 
「よく肥えた赤ん坊だの」

 阿閇皇女が福の抱える赤ん坊を見ていう。

「ほんに……、可愛い」

 氷高皇女も相槌を打つ。

 福は椅子を与えられ赤ん坊に乳房を与えて見せる。赤ん坊は乳にしゃぶりつく。

 その時に知らせを受けて、持統太上天皇と共に前任者の乳母が首皇子を抱えて室に来た。

 皇子は腹を空かせるのか弱々しく泣いている。その先の乳母の授乳期は過ぎていたのかもしれない。

 そしてその乳母も福の乳房を見て安心するようだ。

「ふくよかな胸じゃ。私の御用もここまで」

 阿閇皇女が皇子を受け取ると、その乳母は福の赤ん坊を抱く。福はもろ肌脱ぎをして二つの乳をさらすと皇子を受け取り、もう片方の乳房を皇子に与える。

 先の乳房よりはまだ迸(ほとばし)るように乳が流れ落ちる。


「あ、……」

「たでの乳は泉のよう……」

 氷高皇女は女の生理に驚き、阿閇皇女はたでの乳房を讃える。

 乳を奪われた赤ん坊はまだ乳が欲しかったのだろう。大きな声で泣きはじめる。

「あれ、……」

 氷高皇女が福の、流れ出すもう片方の乳房に驚く。

「吾子をくだされ」

 阿閇皇女が赤ん坊を注意深く渡すと、福は何事も無きかのように、器用に二人の赤ん坊を抱きかかえる。

「福よ。天晴れな女丈夫じゃ」

 持統太上天皇が褒める。

「この赤子の名は何という」

 手持無沙汰の乳母が福に問う。

「竜胆丸(りんどう丸)と申します」

 福は赤ん坊の名を聞かれたのが嬉しかった。

「良い名じゃ」

「秋の紫の花じゃのう」

「ほんに好い名である」
 
 皇子は腹一杯に乳を飲んだのか、眠り始めた。それを見て阿閇皇女が皇子を受け取る。

 持統太上天皇が言う。

「たでよ。この皇子を頼むでな」

「はい。私こそ宜しくお願いいたします」

 三人の皇女達は皇子を連れてその室を後にした。後に残った乳母がたでに乳母の心得とここでの有様を説く。後にその乳母も去った。



 室にりんどう丸とたでが残された。役人の娘であった福はここが何処であり、自分のすることの意味を既に知る。

 福は老いた巫女より仔細を聞かされ服も与えられているのだ。
 
 福は病を得て夫に捨てられ、自身は旧家で逼塞していた。しかしここに来て福を得たのだと思った。

「禍福はあざなえる縄の如し」

 しかし、福には無力な女の立場が恨めしくもあったが、竜胆丸の存在が福を強くした。

 福は二人の赤ん坊に歯が生えてもなお、自身の乳の出る間は乳を赤ん坊に与え続けた。


「文武天皇の夢」

 『乳母探し」も一段落。文武帝と不比等の男同士の酒盛りは尚も続く。

「太上天皇さまに在られてはいよいよお元気にて、幸栄え賜いて有り難きこと」

 不比等が帝の盃に酒瓶を傾ける。

「これも皇子の連れ来たり幸よ。宮子の臨月に腹が大きくなるにつれ、血気盛んとなられたぞ」

「これでお家も安泰。有り難きこと。怪我と病の無きように願うばかり。早く大人に成れば良いというもの」

 帝が不比等の盃に注ぐ。

「ははは。全くその通り。しかし、何が起こるかどうなるか……。未来というは見えぬものよ」

「全く。去年の夏の大洪水には肝を冷やしました。まさか飛鳥川が氾濫するとは夢にも思わなんだ」

 帝が盃を飲み干す。不比等がさりげなく酒を満たす。

「その秋よりの流行り病じゃろ。治まったかと思うていたのに。宮子がの……。」

「案じなさるな。丈夫な巫女達の様子。鬼神をも追い払おうとの心意気で働き……。任せなさるが良いでしょう」

 不比等が盃を呷れば、帝が酒瓶を取る。

「どうじゃ。今も匂わぬか。儂には都が穢土に塗(まみ)れた後、この臭い匂いと土埃に参っておる。この匂いが疫病神を呼び寄せたのではなかろうか。眼を病む者も出たという」

「確かに。少しばかり匂いましょう。しかし雨風が、いずれは流し去るでしょう」

 帝は黙考する。不比等もしばし瞑目する。



 文武帝が新たな口火を切る。

「不比等よ。どうじゃろう。儂はもっと大きな都が欲しい風水の叶う処で」

 不比等は目を大きく見開き、これに答える。

「これはこれは……遷都を望まれておいでか。皇子を得られて欲が深く大きくなられたご様子……」

「駄目か……」

「いえいえ大君たるもの、大望を得られるは良きことです。後は手立てをどう尽くすのか。ここを良く図ることが肝心かと」

「そしてな。この国を表す大きな建物を、または大きな宝を得てみたい。この国には大きな宝がある。よってこの国は素晴らしいとしてみたいのじゃ」

 不比等と帝の、双方の目がその深さを見ようとする。

「大きな夢を見ておられますな。そのことは不比等も心得おきましょう」

「今宵の酒はうまい」

「ははは……美味うござる」

 陽の落ちる頃、不比等は内裏を去った。



「飛鳥川の氾濫」

 藤原京から平城京への遷都へは、その意味するところは「謎」とされている。よって「舞台設定」の一つに私は飛鳥川の氾濫のエピソードを一つ書き加える。

「穢土と疫病神」は似合いだと考えるからだ。川の氾濫・洪水は下水や糞尿を巻き込む。地図にても現場に足を運んでみても「飛鳥川の氾濫」は確信を揺るがさない。

 天然痘のみならず衛生状態はかなり悪くなるのは必定だろう。

 藤原宮は北に耳成山を得て、西に畝傍山、南東に天香具山を配置する。そして飛鳥川が畝傍山と天香具山の間を南東方向から北西方向に藤原宮の南を流れてゆく。

 ただし飛鳥川の清水は談山神社・他武峰方向よりと、栢森・龍福寺方向より集めてはいるのだが、その落差は大きい。また、当時の地勢と現代の地勢とは少し異なるだろう。

 そして「宮」は河川の下側にあるのは間違いない。飛鳥川以外にも何本かの小河川があるのだが、すべて南東方向から北西方向へと、そして大和川へと水は流れる。

 日本列島は雨に恵まれてある。四面を海に囲まれてある。大陸とも離れてある。そして大昔より「地震大国」でもある。
《 藤原京 》

 壬申の乱に勝利した天武天皇は飛鳥の地に止まった。そして天武天皇は諸制度の確立と共に「新城(にいき)」として「都」の造営を天武五年(676)頃に決意していたようだ。

 天武天皇は皇后・?野讚良が病になった時、その快癒を祈念して(本・もと)薬師寺を建立したが、発掘調査の結果、その石敷きは条坊を埋め立てて造られていることが明らかとなった。

 このことは「既に都あり」として本薬師寺の建立以前に都城・京のあることを証明している。
 
(平城京と木簡の世紀・渡辺晃宏  講談社学術文庫 p.30)



 今では広く「藤原京」とは云われるものの、この「新城」は、天平年間、持統天皇の時代には「新益京」として示されている。

『持統天皇五年(691) 十月二十七日<(略)使者を遣わして新益京(しんやくのみやこ・新たに増設された京)に、地鎮の祭をさせられた』

(日本書紀(下)全現代語訳・宇治谷孟 講談社学術文庫 p.331)



『持統天皇八年(694) 十二月六日 藤原宮に遷都された』
 
(日本書紀(下)全現代語訳・宇治谷孟 講談社学術文庫p.342)

 万葉集にはこの時の様子を伝える歌が残されている。



「藤原の宮の役民の作る歌」

やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 荒栲(あらたへ)の

藤原が上に食(お)す国を 見したまはむと みあらかは

高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 石走る

近江の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜のつまでを もののふの

八十宇治川に 玉藻なす 浮かべ 流せれ そを取ると 騒ぐ御民も 家忘れ

身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居て 我が作る

日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道(こせぢ)より 

我が国は 常世にならむ 図負(あやお)れる

くすしき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる

真木のつまでを 百足らず 筏に作り 泝(のぼす)らむ

いそはく見れば 神からにあらし

(右は、日本記には「朱鳥の七年癸巳の秋の八月に藤原の宮地に幸す。八年の甲牛の春の正月に藤原の宮に幸す。冬の十二月庚戌の朔の乙卯に藤原の宮の遷る」といふ。)

           (万葉集・上巻 伊藤博 校注 角川日本古典文庫 p.68〜69)  


                             
上記の歌は「役民の作る歌」とはあるが、官僚であることは間違いないだろう。ここに藤原京造営の様子がかいま見えて面白い。

ここに「田上山」とあるのは大津市南部の大戸川上流の山である。ここより木を切り出し、筏にして大戸川より宇治川に流し小椋池を貯木場として、泉川(木津川)遡り

藤原京へと運んだのだろうか。

藤原京であれば近隣に吉野山・宇陀などの山地が幾つもあり、わさわざ大津方面より運ぶ必要も無いように私は考えてしまう。

運搬距離が大きく伸びるように思うのだ。しかしこの「材木運搬ルート」は大仏建立にも役に立っているようだ。 

都の位置と変遷過程は後に建設される平城京とは古道によっても繋がっている。




「闘病」
 

 一方、仮屋においては皇后宮子が疫病に侵されるも、気力を振り絞り疫病神と闘っている。

 三人の巫女は祈祷をし、経験知より薬蕩を作り飲ませたり大麻を炊き上げたり、冷湿布を額に当てたりして手当の限りを尽くしている。


「皇子の母である」


 およそこのことが宮子の生を支えている。

 同じ病と手当てを得たとして、およそ気力・元気こそが生命を支え続ける。そのことは同じ大怪我をしたとして、生命への渇望の強いものほどが生き残る原理だろう。


「宮子は大丈夫なのか」


 文武帝も皇女達も心配は募るものの、見舞はしない。およそ権力者・指導者であれば私事にかまけられない。公の仕事の後にそのことを心配するしかない。


 疫病(天然痘)がウィルス感染であることを知りはしない。漠然と「移る・写る・映る・遷る」ということを知るのみである。



 地蔵様や仏像に赤い涎かけのされるのは、疫病神・悪魔払いの「まじない」である。赤い色を病魔は恐れるのは迷信に過ぎない。

 しかし、これらの迷信も書経にあればたやすく受け入れられた時代でもある。そしてなんらの特効薬も無いのだ。

 当時疫病が流行れば「二人に一人は死ぬ」と見られていた時代でもある。

 よってたやすく「見舞」なども出来ない。
 
「南無、観音……。南無、観音……。首(おびと)。首……」


 彼女は高熱にうなされても観音菩薩の慈悲にすがり、我が子を育てようとする。その意志は強靭だった。



 しかし天然痘の恐ろしさは表皮のみならず、五臓六腑の隅々までも炎症を起こすことにあるらしい。

 そして宮子は自身の肌に現れる瘡(かさ)に怯(おび)えおののいた。女性が美しさを失くすのは耐え難いものがあるだろう。

 また、あばた面の巫女達の顔が疫病神の顔にも見えるのだった。彼女は冥界との縁を彷徨う。


 …… 皇子よ、首よ。……我が吾子よ。


 高熱により掠(かす)れる意識の中で宮子は首に語りかける。



 発病して三日ほどの、宮子の体は満身創痍の後に命を取り留めた。しかしその意識は冥界の縁を超えてしまっていた。


 文武帝は巫女達の頭を剃らせてその姿を尼にかえさせた。そして後の日も宮子の看病をさせることにした。



 「八角墳」


 梅雨空に晴れ間が表れた。蒼穹の天は見つめ続ければいよいよ紺青の青さを増すような空だった。


 
 内裏の北側、猪使門に一台の御輿(みこし)と数頭の馬が用意された。内裏より持統天皇、阿閇皇女、氷高皇女が皇子を抱いて出てきた。
 


 御輿には持統天皇が乗り、皇子を受け止めた。阿閇皇女、氷高皇女が馬にのった。衛士数十人が御輿を護衛した。



 この一団は藤原宮の外郭を廻り、南へと進路を取る。そして飛鳥川をまず上り甘樫の丘の西を掠め暫くすると野口王墓古墳に到着する。


 

 檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村大字野口)である。天武天皇の墓、小さな山の頂にあり、八角墳であるらしい。このことは天武天皇が仏教に帰依していたことを示す。




 警護の者たちは陵の入口に立ち、陵には持統天皇、阿閇皇女、氷高皇女が皇子を持統太上天皇より受け取り抱いて参内する。

 持統天皇は氷高皇女より再び皇子を受け取る。そして皇子の誕生を亡き天武天皇に報告する。

「大海人(おおあま)よ。そなたの孫である。首(おびと)と言う。どうかこの皇子を守ってやって欲しい」

 持統太上天皇は、ここでは鸕野讚良(うののさらら)として、一人の年老いた女として皇子のために祈りをささげる。

「大海人よ、皇子の母、宮子の病を癒して欲しい。母が狂人では皇子が不憫じゃ」

 持統太上天皇は祖母として、宮子を労わる。それは皇子へ向かうものとしても。持統は種と血の信仰の者なのだろう。

 それは一本の大木であり、実であり種子であり、現世での信仰であるだろう。転生は持統にあっては現世利益に他ならない。

「大海人よ。我の願いを聞き入れよ。我は老いた。余生は……、この皇子に託そう」

 老女がやにわに皇子を頭上高く抱え上げる。

「あれ……」

「あぶない……」

 二人の皇女は、しかし持統の動作を止めれない。下手に動けば皇子が地に落ちるかもしれない。

 持統は皇子を抱え上げたまま、祈り続ける。それは讃良として最後の力を亡き夫大海人に示す姿である。法華経の一節を交えながら祈りと願いを口にする。それは彼女の呪術であるのかもしれない。

 警護の一団はどよめきを、後に歓声を上げる。

「見よ。太上天皇さまが手に在るは皇子である。我らが末の王である」

「まさに、太上天皇の神威である」

 ゆっくりと持統が体を、何歩もの歩数を数え体を反転する。

 警護の一団は皆ひざまずく。

「皇子を受けよ」

 その声に阿閇皇女が皇子を受け取る。持統は目眩(めまい)を覚え、崩れ落ちる。

「婆さま……」

 氷高皇女が駆け寄り、声を上げる。

 警護隊長数人があわてて駆け寄り、氷高皇女に手を貸す。



 気付いた太上天皇が言う。

「難儀ない。ただの目眩じゃ。少し疲れたのう。もう歳じゃで」

 皇子が泣きだした。幼子なりにこの事に驚いたのだ。阿閇皇女があわててあやす。

「おお、皇子も挨拶したいとか……。よしよし、良い子じゃ」



 警護隊長と氷高皇女の手を借りて持統は立ち上がる。皇女達は再び陵に向かって礼をし、御輿へと歩き出す。

 

 その年の初夏、乳母福と竜胆丸は仮屋で宮子夫人と寝食を共にするようになっていた。このことは正気を得ない宮子と赤子竜胆丸との生活が宮子夫人の自我を取り戻すことに効果があるだろうと、文武帝と持統太上天皇とで相談し決められたことだ。

 巫女達の努力にも関わらず婦人が正気を得ないため、しかし彼女たちは褒美を持たされ放免された。そして髪を伸ばすことは禁じられた。彼女達は尼寺に引き籠った。

 当初福は狂人の対応にとまどったが、竜胆丸が彼女を助けた。竜胆丸が宮子婦人の母性を呼びさまし、宮子は竜胆丸と首皇子を間違いながらも母性を取り戻し始めた。

 首皇子は内裏で健やかに育てられている。もっぱら氷高皇女が皇子を連れまわし、持統女帝と阿閇皇女は文武帝の仕事を助けているが余暇は皇子と共に皆が内裏で過ごす。



 持統女帝は乳母福と示し合せ、屋外で宮子と皇子を対面させようと目論むが、宮子夫人は屋外に出ることも首皇子を抱く事にも恐怖した。

「のう、福よ。宮子は何故に室を出ぬのか、皇子を抱かぬのか……」

「宮子さまの顔は瘡に冒されておいでです。それを誰にも見られたくない。またよもや皇子様に病を与えてはならぬとお考えなのでしょう」

「顔か……」

「言われませぬが、私にもうつむいて話し掛けられる、顔を見せられぬように話されるのはそのためかと」

「なるほどのう。女子に瘡はひどい話よの」

「皇子様の母であるなら、美しくあれとお考えのようです」

「不憫な話であることよ。ところで宮子は竜胆丸を抱き上げるのか」

「いいえ。一度も手出しなされません。ただ見ているだけです。竜胆丸と皇子様の違いを尻の青あざで区別なされておられるようです」

「なに……」

「違いを判っておいでのようです」

「なるほど……」

「でも、竜胆丸が泣くと気を揉まれます」

「女なのだ」

「さように」

 持統女帝は憂いを抱えたまま、皇子と共に夏を過ごす。


「ハレとケガレ」


 この頃「瘡=疱瘡の痕」は「汚れ=穢れ」と広く認識されている。病気が自然治癒したとしても他者はそう看做さないのだ。

 よって、およそ「晴れ(ハレ)の舞台」に出ることなど許されない。そのような差別観念が日本には深くある。これを宮子は恐れている。

 それが首皇子に降りかかる災難となることを恐れているのだ。


 このことは古事記にもある伊奘那岐命・伊奘那美命の「黄泉の国」の出来事と深くかかわる。

 伊奘那岐は死んで黄泉の国にいる伊奘那美を、国作りの途中だからと連れ戻しに行く。
 
 伊奘那美は伊奘那岐の勇気にほだされ現世に返ろうとする場面。

 彼女は黄泉の国に住み、もう黄泉の食べ物を口にしている。


『悔しきかも、速く来ずて。吾は黄泉戸喫しつ。然れども愛しき我が汝夫の命、入り来ませる事恐し。故、還らむと欲ふを、旦く黄泉神と相論はむ。我をな視たまひそ。』

 しかし彼は「我をな視たまひそ」と言う伊奘那美の姿を見てしまった。

『……(略)。蛆たかれころろきて、頭には大雷居り、胸には火雷居り、……(略)。』

 会いたさ見たさに、伊奘那岐命は伊奘那美命の変わり果てた醜く恐ろしい姿を見てしまった。
 
『吾に辱見せつ。』
 
 と、伊奘那美は辱いるものの、約束を破った伊奘那岐に怒り、

『……(略)。黄泉醜女を遣わして追わしめき。……(略)。』

 伊奘那岐が黄泉の国を脱出しようとする時、最後には黄泉の軍団で彼を襲わせようともする。

(古事記 倉野憲司校注 岩波文庫 p.26〜p.27)



 ここに黄泉醜女と「瘡=疱瘡の痕」=「あばた面」との等式が成立させられてしまうのだ。

 宮子は自身の姿を黄泉の国の伊奘那美の姿に等価させてしまうのだった。

 よって宮子は出来るだけ姿を世間に晒したくないという思いに駆られる。



 そのような親たちの苦労を皇子たちは何も知らずに育てられている。

 三人の幼子は同類を得て喜んで遊んでいる。



「宮子の気が知れぬ……」



 皇女・皇族達は宮子に同情するものの、宮子の決意の真意を知らないでいた。
「幼い約束」

 飛鳥川の上流には稲淵と名付けられる土地がある。そこには男淵があり栢森には女淵がある。

 およそ貴族たちは暑気払いに上流のこの地で男女に分かれて遊び、庶民は下流に遊んだのだろう。

 夏の炎天下に無理な労働は効率が上がらない。休日の決まって有るわけではないだろうが休養の日も適当に選ばれていただろうと思われる。また現代のような「風呂」の無い時代でも「禊・みそぎ」で体躯を清潔にしていたと思われる。



 持統太上天皇は皇女達や女官を引きつれ女淵に暑気払いのために遊びに来た。警護の衛士たちは男淵に止めた。官女と謂えども武芸に優れた者もいる。守りは何時も固めて有る。

 子供達には貴賎も男女の区別もない。小さな淵に飛鳥姫と首皇子が遊ぶ。持統女帝は自らの幼き頃を二人に見る。

 裸の幼児は「川」そのものが珍しい。官女たちが見守る中を気儘に遊ぶ。そこには陸では見えない「生き物」たちが彼らの遊び相手ともなる。まずは「水のかけっこ」から始まり、川中ならでのそれぞれの「小さな冒険」が始まる。

「カエル・沢蟹・ヤゴ」などがそれなりの石の下に隠れたりしている。まだ幼くて「土手の下に手を入れる」ことは及ばない。藤原京・飛鳥の夏は青い空、白い雲、酷暑、時折り夕立と光り豊かに過ぎ去った。



 秋になれば「収穫の時」黄金の稲穂が海の波のように靡く中、人々は借り入れに忙しい。もう蝉の声も終わり蛙の声も物悲しい。空に蜻蛉が舞っていたのも終わりを迎え、筋雲や鱗雲が空に彩を沿える。舞う風は日々に冷たくなる。



 酷暑の夏も豊饒の秋も過ぎ都は冬を迎えた。宮子は仮屋に籠ったまま出ることはない。

 文武帝は政務に忙しい。この秋(十月十二日)に全国(支配地域)に大宝律令を頒布した。

 内裏で皇子は親族たちの厚い庇護の下にある。しかし持統太上天皇は老いて衰えることを隠せない。この冬に女帝は病に伏した。
 
「婆、どうしたの」

 首皇子は片言を話すようになっているだろう。

「婆、しっかり」

 飛鳥姫(光明子)も片言を話すだろう。

 女帝の下に皇女のみならず多くの親族縁者が見舞うものの、女帝にとっては皇子と姫が何よりの喜びなのだ。

「こっちに来い」

 老いた女帝は二人を脇に置き見比べる。

 二人は怖じずに女帝の傍に寄る。女帝は二人の手を取り、幼い二人に約束させる。

「皇子よ。大きくなったなら、この姫を妻としろ」

「うん。わかった」

「姫よ、大きくなったらこの皇子の皇后となれ」

「あい」

「婆との約束じゃ。忘れるでないぞ」

「あい」

「あい」


 女帝は幼い二人を結びつけようと意図する。そのことは女帝の悔悟の遠い記憶の内にある。

「約束」とは契約であり、誓いであるだろう。女帝は吉野宮での盟約を思い出しつつ、あえて二人に約束を強いる。

 しかし女帝が悔悟の内にある誓いを幼い二人に強いるのは、大慈大悲の心根なのだろう。



 病を得た女帝に、良いことも悪いことも夢に現れる。女帝は生死の狭間で夢を見られる。良いことも悪いことも。それは幼き日のことも、恋心を抱いた日々のことも。

「崩御」


 その年の冬の最中、まだ明けやらぬ未明に首皇子が大声で泣きはじめた。ふだんそのような泣き方の無いことに氷高皇女と阿閇皇女があわてて皇子を介抱してなだめる。

 皇子の泣き声がやんでも、なにやら隣室より泣き声のすることに二人は顔を見合わせる。氷高皇女が隣室の持統の室に走る。

「どうした」

「大君様がお崩(かく)れになりました」

 官女の一人が答える。


「わかった。下がるが良い。後は我等がしよう」

 二人の官女が下がる。氷高は阿閇皇女にこれを知らせた、そして文武帝の寝室に向かう。

 その間に阿閇皇女は首皇子に別れの意味をを知らせようとする。持統の骸(なきがら)に皇子は頬を触れる。その冷たさに皇子も異常を知る。

「ばあ、ばあ……」

 持統は目覚めない。皇子は持統の頬を軽く叩き祖母を呼び起こそうとする。

「ばあ、ばあ……」

 皇子は祖母の頬の冷たさを手に覚える。そして阿閇に振り返る。

「お別れなのじゃ」

 皇子はその言葉のどうしようもない響きの言葉の意味を知ろうとする。阿閇は見かねて理解の及ばぬ皇子を抱いて泣く。

 悲しみは伝染し、共鳴りを引き起こす。皇子も意味を知らねども、悲しくなる。

 文武帝も寝間着のまま現れては隣で泣きはじめ、内裏の者が集まっては泣き声の音がいよいよ大きくなる。皇子も負けてなるかと大声で泣く。

 そこで阿閇は、ひきつけを起こさせてはならじと、皇子を寝室に連れ帰った。そして事態の分からぬ皇子に事の成り行きを教えようとする。



 (持統太上天皇の葬儀・殯(もがり)の様子も続日本記は伝えている。しかしここは省略させてもらう)



 仮屋で宮子夫人は早くに目覚めた。遠くからの甲高い皇子の声に目覚める以前に目が覚めていた。

 夢枕に持統女帝が現れた。それまでも何度も持統女帝は宮子の夢枕に立っていたが、宮子にそれがしっかりとは見えたのは今日が初めてだった。

 子供の泣き声が首皇子であることにも気付いた。そして内裏での慌ただしい気配に宮子は女帝の亡くなられたことを客観的に知ったのだ。




「宮子よ。お前は皇子の母である」

 夢の中で宮子ははっきりと女帝の最後の言葉を聞いた。いやそれは何度も仮屋を訪れては繰り返し女帝が宮子に言った言葉だった。



 …… 大君様はお崩(かく)れになる前に私に会いに来てくれた。



 それは女帝の最後の力であり、執念がもたらした奇跡だろう。宮子は覚醒し、自我を取り戻した。しかし仮屋を動かなかった。

 日々朦朧とした意識の中で宮子自身の意味を彼女は問うていた。覚醒と同時に彼女は全ての存在と時間を取り戻し、宇宙の一点の「ここ」を取り戻したのだ。

 宮子は一人涙し、さめざめと泣いた。それを感じ取ったのは竜胆丸だった。福はまだ眠いのか腕であやすばかり。

 初めて宮子は竜胆丸を抱きよせ、あやした。
「県犬養 (橘)三千代」


 その年の暮れに持統太上天皇は崩御された。病床の眠りの中より永久の眠りにつかれたのだ。ここに望まぬ波乱万丈を生き、後の半生を自ら望む波乱万丈を生きた一人の女性が冥界への旅に出た。

 葬儀の後に遺体は殯宮に附された。夥しい弔問の客が訪れ内裏は悲しい賑わいに満ちる。しかし幼児に葬儀の悲しみよりも共に訪れる未知の朋輩の方がありがたい。内裏の一室はさながら保育園の様相を見せるだろう。

 来賓を、当初は文武帝と共に顔見世として膝に抱きかかえられるものの、幼児は一処でじっとはしていられない。

 県犬養 (橘)三千代が飛鳥姫を連れて宮中の用足しに現れたなら、皇子は飛鳥姫と遊びたい。時に竜胆丸も許しが出て皇子の相手をするようになる。

 他にも皇族の子供たちが数人集まれば一室に子供たちの自由な空間が生まれる。文武帝は暇を盗んでは子供たちと遊びを共にされた。



 皇后宮子の様子を心配する者もいる。県犬養 (橘)三千代もその一人だろう。 

 彼女は文武帝の乳母でもあり飛鳥姫(光明子)の母でもある。ここに持統太上天皇に代わり、三千代が後宮に重きを成す。
 


 三千代が葬儀の暇を見て宮子の仮屋を訪れる。応対に乳母福を立てて、しかし宮子は三千代と顔を合わせようとしなかった。

 困った三千代は仮屋の近くで、福に相談する。 
 
「福よ。宮子さまはまだ病にやんでおられるのか」

「いえ三千代さま。太上天皇様に申し上げたほどに、宮子さまの病は既に峠を越えてございます。もう正気も得ておられます。それでも表に出るのを嫌がられるのは瘡のためであります」

「ひどいのか」

「私と同じ程度でございます。ただ、皇子様を案じておられます。そのことが表に出ない原因だと私などは考えております」


「なるほど。皇子の体面を考えておるのか」

「左様にございます。私なら会いたいと思うのですが」

「そうであろう。母なら皇子の成長を見たい。日に日に可愛いものを……」
 
 三千代はうらめしそうに仮屋の方に顔を向ける。

「それを頑なに耐えておられます。私にはそれが判ります」

「そなたの子は宮子と同室か」

「宮子さまの病の回復を告げた時に太上天皇様がそのようにせよとおっしゃられましたので……」

「まことにご苦労なこと……」

 福が三千代を見つめて言う。

「しかし私もそろそろ暇を得たいと考えております。いつまでも此処にいるのは良くないと思うております」

 三千代はこの事も心配だった。他人の口はどうなのか。噂に戸を立てられはしない。皇子が二人いてはならないのだ。

「そなたの子供のことか」

「そうであります。宮子さまに甘えますので……。竜胆丸と申します」

「なるほど……。私も命婦(天皇の乳母)であった。そなたと同じじゃ。悪いようにはせぬ。そなたのことも竜胆丸の名も覚えておこう」

「よろしくお願い申し上げます」



 後に三千代は文武帝に乳母福の話をする。

 文武帝は乳母福に褒美を与え「八重」の名を送る。後に八重は三千代と入れ替わるように藤原家に仕える。三千代は首皇子と後宮の面倒を引きうける。

 仮屋は取り払われ、宮子は内裏にある経庫を望みそこに住まう。

「八咫烏 」


 霜の落ちた朝、藤原宮は新年を迎えた。この年は持統太上天皇の喪に服すために朝賀の儀式は取りやめられた。皇子は二歳か三歳だろう。この悲しみの意味を知らない。

 殯宮(もがりーあらきのみや)は西殿の庭に設けられている。

 この日は朝賀に代えて皇族は殯宮にて遺体に礼拝し、百官は宮に向かい拝礼する。


 殯宮には鴉達が騒がしい。鴉・烏は死者の霊魂を天界に導く役目があるからだ。遺体は棺の内にあっても腐敗臭は誤魔化しきれない。
 
 神武天皇の東征にも鴉は「八咫烏」として登場する。古来より鴉は人里と共にあり、神武天皇は鴉の位置を見て敵陣の在り処を知ることができた。

 また鳥は天界への使者でもあり、そして鴉は太陽神の使いでもあるという。鴉の黒い羽根は光を受ければ金色の色にも輝く。



 およそこの時に殯宮は鳥葬の様子を示している。そして鴉の殯宮に飛び来るのを人々は吉兆として見ているのだろう。
 
 「殯」は他者による死者への、或いは蘇るのか一縷の望みと腐敗し白骨化する死への過程の確認作業であるだろう。

 神道であれば黄泉の国への道程であり、仏教では三途の川を渡り閻魔王の審判を受ける過程だ。



 そしてそれは英雄として、現人神として神格化された者の権利かもしれない。

 しかし殯宮は大垣で囲まれて人の目に触れぬよう工夫された。それを見るのはおよそ肉親のみの役割なのだ。


 参集した人々はその鳥葬の様子から遺体の腐敗化白骨化を想像し拝礼するのだろうか。

 それは人々に壬申の乱の記憶を呼び起こす。この藤原宮の近くにも小規模ながら戦闘と戦火があった。



 鴉の群れは戦闘に倒れた兵士の姿を否応なく思い起こさせる。戦闘の後、人々は草叢に臥して動かぬ兵士たちの姿を見ている。兵士の腐敗し白骨化し散乱する壬申の乱の姿を見ているのだ。

 今官職にある者たちは太平の世を望んでいる。もう百官も人々も刃傷沙汰には懲りているのだ。

 文武帝を筆頭に阿閇皇女、氷高皇女が幼い皇子を抱き共に参列している。そこにも宮子の姿は無い。幼い皇子にはこの儀式は無意味でもある。



 皇子は絶えず後ろを向き、人々の姿が物珍しい。

 しかし百官と人々には皇子の姿こそが珍しい。

 人々は若い指導者と幼い指導者の姿を記憶に留める。


 元旦を葬儀礼に当てた天皇は休むことなく政務に奮闘する。

 この日文武帝は「七道」(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道)に使者を使わして国司の治績を巡察させた。

 およそ前天皇の崩御はクーデターを起こす好機であり、この場合には「三関」(不破関・美濃国、鈴鹿関・伊勢国、愛発関・越前国)を、押さえるのが常套手段であるだろう。

 しかし天武帝はこのことを心配する必要は無かったのだろう。それよりも個別撃破を狙う先制攻撃に出たようだ。



 持統太上天皇の亡くなられたのは昨年の十二月二十二日、閏月としてもう十日になる。この間に何かの大規模な反乱の兆候が有れば「関を守り」その勢力の侵入に備える。

 しかしその兆候は見えない。ただし反乱軍の小規模な挙兵の報告はあったのかもしれない。



「国司の治績を巡察せよ」



 この一言で十分と判断されたのだろう。これには不比等のアドバイスも考えられる。しかし下命したのは文武帝である。若き天皇は賢明であるだろう。



 祖母・持統天皇から譲位されて天皇位に就き、文武天皇元年8月1日(697)に位を譲り受け、17日に即位の詔を宣した。

 当時15歳という若さであった。そのため持統が太上天皇(初めて)として後見役についた。

 早い話が否応なく政争に参加させられた。鉄は早い内に叩くということだろう。



 彼は覚束ぬ見識の中で朝政に参加する。持統太上天皇の政策を見聞きする、功臣達の意見を広く深く聞く、その結果を報告より知る。およそこのことを繰り返す。

 若い皇子は持統太上天皇の鉄壁のガードに守られてあり、大過なく過ごす。しかしおよそ天界より地上を見聞きしてあるのだろうか。

 いや二十歳を前に太上天皇は亡くなった。今は功臣達の意見と親族が頼りとなっている。



 文武帝は病に倒れた宮子夫人を忘れただろうか。

 否、若く美しく賢く誠実であったろう婦人を忘れることなど一時もない。彼は、彼女の身を終始安じていただろう。



 彼は何度も何度も宮子夫人に会おうとする。しかし宮子が病を理由にそれを退けた。また皇位にあるプライドが、踏み込むことを止めたのだろうか。



「帝さまに、もしや病がとりついてはならじ」



 宮子夫人のこの言葉は彼への愛の現れであり、彼は欲情をそれにより耐えたのだろう。

 彼は病床とされる経庫を何度も見舞う。しかと悉く(ことごと)く付添の尼に追い返される。しかし「愛する気持ち」を彼女たちに伝言する。



 彼は二十歳前。男であれば欲情の力は溢れてあるだろう、しかし彼はそのことに耐えた。受ける宮子夫人もその伝言の力により病を乗り越えたのだろう。

 しかし内裏であれば「人の目」も、既に病も問題は無い。彼は宮子夫人に何度も会おうとする。彼は夜更けに経庫に向かう。経庫の奥に宮子の部屋は設えられている。

「宮子よ。一目会うておくれ」

 彼は戸板を軽くたたく。この部屋は内側より、固く閂(かんぬき)で閉ざされているためだ。

「殿さま。お返りください。宮子は瘡に穢(気枯れ)れていますので」

「それは良い。構わぬのだ。お前に会いたいだけじゃ」

「堪忍下さいませ」

「何故に」

「宮子は、殿さまの愛を信ずるが故に。若く美しい宮子だけを覚えておいて下さいませ」

「それは不憫というものじゃ」

 今夜も宮子は文武帝を遠ざける。文武帝はこれを力で乗り越えることをしなかった。文武帝には宮子の気持が通じていたからだ。



「夜行」


 文武帝の夜這いは続く。幼い首皇子を伴って室を訪れても経庫の扉は開かれなかった。ただし会話は成立した。もっぱら皇子の成長を文武帝が話し何とか宮子の心を開こうとした。言葉少なに宮子婦人も皇子の話を聞きたがった。

 なお政務の話も文武帝は宮子夫人に聞かせていた。藤原不比等の娘でもある。その話を理解できるほどの素地は持ち合せている女だ。しかし宮子は皇族の婦人では無い。

 よって史実・続日本記にもさして登場しない。しかし聖武天皇の母である。よって後に記録されるのだ。

 けれどもその母は頑なに扉を閉ざしていた。自らが醜女となったため時節の慣習と差別意識の中に自らを幽閉した。文武帝はそれを憐れみ帝王の、男の意地を貫こうとする。




 ある日文武帝は、行燈の灯をも持たずに夜半に宮子の住まう経庫を訪れる。扉を拳で軽く叩く。尼は宮子夫人と同じ部屋内に床を並べて休んでいる。

「宮子よ。ここを開けておくれ」

 扉の向こうに宮子の動く気配がする。

「帝さま。何度も申すように、それはなりませぬ」

 低く、くぐもった声が文武帝に聞こえる。 

「声だけでは辛い」

「堪忍くださいませ。帝王との立場にございますれば」

「男でもある」

「宮子も女であれば辛くございます」

「一目会うのも叶わぬものか」

「それが宮子には辛くあります」

 文武帝は扉に凭(もた)れかかる。わずかに木の扉が動く。宮子も扉に凭れかかるのだろう。扉の押し返されるのが判る。文武帝は扉に手を掛けたまま、その場に座り込む。

「見た目などどうでもよい。私にはお前が必要なのだ。時には今宵のように肌恋しい時もある。お前はそうではないというのか」

「私も帝さまが欲しくあります。それを耐えております。無理を申されては悲しく……」

「無理ではない。灯は持たぬ。ここは暗闇だ。ましてお前と私以外は誰もここにいない。だから扉を開けて欲しい」

 深い夜の帳に二人は隠されている。心の扉を開いて欲しい、文武帝はそれを宮子に願う。しかし、宮子の声は冷たい。

「宮子は醜女……」

「お前は黄泉の国の女ではない。瘡の病になっただけ。福にも話は聞いている。そなたは病の峠を既に超えている。そなたの病は癒えておると、福が申しておる」

 文武帝は言葉が空しい。女一人を口説けない自身も空しいと思う。力づくでも奪いたい、そう思うのを止めている。

「もしや宮子の病の種を帝さまに……。移してはならじと宮子は考えているのです」

「そなたは病を退けた。自信を持つが良い」

「言い切れましょうか……」

「疫病神は、もう内裏の内におらぬ。それが証拠に誰も発病しておらぬ」

 文武帝も宮子も「免疫」を知らない。このことが二人を不幸にしている。

「良いか宮子よ。瘡の病は二度とは得ぬものだ。お前は病を乗り越えた強い女なのだ。だからそれを誇るが良いのだ。醜女などとはつまらぬことよ。瘡の痕などは戦傷だと考えれば良い」

 文武帝の言うことが尤(もっと)もなことなのだ。それも宮子には判っている。しかし確証がない。万が一自身の病が帝に発症してはと、宮子はそれを何より恐れている。
 
 それは宮子の帝への愛でもあるだろう。それは病に犯されてもなお、女の意地でもあるのだろう。

 そして文武帝の心根は本物なのだろう。文武帝は宮子が病を退けた強い女だと言う。この夜、宮子の杞憂は文武帝の熱に氷解した。

 宮子はその夜、扉の閂を解いた。それは短い逢瀬なのだが、二人は永遠を確かめた。

 文武帝の夜半の夜行は、後に内裏に暮らす皇族の誰もが知ることとなった。けれども、そのことを皇族たちの誰もが喜んでいたのかと言えばそうではないかもしれない。

 彼には「嬪」として寝所に侍する女官がいる。皇后・妃・夫人の下位であり、紀竈門娘(かまどのいらつめ)と石川朝臣刀子娘(とねのいらつめ)がいたという。

 しかし、文武帝がこれらの、他の女性を后とした記事は続日本記には見当たらない。



 当時の常識から考えれば文武帝が後継者に内定した段階で、皇后となるべき皇族出身の妃を持たないことも不思議なことなのだ。

 しかし記述はそうでない夫人の藤原宮子が妻の中で一番上位であった。
 
 文武帝の宮子への愛は本物だったのだろうか。それは宮子婦人が人間的にも文武帝を虜にする優れた女性であったからだろうか。

 或いは持統女帝の特別の勧めがあったからかもしれない。それは宮子夫人の総明さを愛でたためだろうと思われる。
 


 万葉集に残る文武帝の歌も、この事を暗示しているように思われる。



『大行天皇の吉野の宮に幸せる時の歌  み吉野の 山の下風の寒けくに はたや今夜も 我が独り寝む』(万葉集1巻 74)



 この歌は先の紀皇女の歌にも相応しているようにも見受けられるのだが。



 首皇子は氷高皇女が主に面倒を見る。阿閇皇女は文武帝を補佐してあるだろう。県犬養 (橘)三千代は内裏を賄っているだろうと考えられる。

 首皇子はこの三人を「母さま」と呼ぶような年ごろになっている。しかし本当の母さまを幼い皇子はまだ知らない。

 そして三人の女性を母さまと呼ぶことに彼は何の違和感も覚えない。彼は内裏の内に純粋培養されあると言って良いだろう。
 
 繰り返すようだが内裏の内のこの三人の女性は文武帝の夜行をどう見ていただろうか。彼女たちはそれを快く見ていただろうか。



 否、たぶん彼女たちは文武帝と首皇子のことだけを心配していたのだろう。尚も、「皇子は一人の方が良い」そのように考えていたかもしれない。



 もっとも文武帝は宮子夫人以外に関心を示さないし、彼女達も他の女性を文武帝に勧めはしなかったのだろう。

 もっぱら彼女達の関心は首皇子にあり、皇統の血族を守ることにしか関心が無いようだ。

 嬪を出した「紀」と「石川」は別として、それは他の貴族たちも同じなのだろう。皇位継承を巡る政争は避けたいのだ。

 夜行が文武帝の体調を狂わせるもので無さそうであれば、内裏の春は続くほうが良い。

 よって彼女達は首皇子の養育に勤しみ、文武帝の夜行は見ないふりをしていたのだろうと思われる。
 


 文武帝は朝昼は政務に没頭し、夜半からは宮子夫人に癒しを求める。

 文武帝は宮子夫人との対話を望み、それは問答の形ともなるけれども、それは二人だけ「楽しみ」ともなる。

 それは婦人の誘導話法が優れていのかもしれないし、政務問題の解決のヒントを、文武帝が何か話から得ようとしていたのかもしれない。

「宮子よ。経典の中の何が面白いか」

「はい。私には法華経が一等、面白くございます」

 およそ夜具はあるとて経庫の中。また宮子に充てられた部屋には香より、薬草の匂いが鼻に発つ。宮子は灯明を消している。しかし文武帝には宮子の面影が見えている。

「他はどうだ。この国の昔話も面白かろうに」

「いえ、宮子はそれを好きませぬ」

「唐にかぶれておるのか」

「いえ、仏の教えは遥か聖域の教えにござります」

「なるほど。儂などは古事記を好むのだが……」

「殿方にはそれが良いかと。しかし女は仏教を好みます」

「何故だ」

「私に伊奘那岐命・伊奘那美命の話は辛いのです。黄泉の国からの話は女には酷い話でございますので」

「なるほど……」

 文武帝にはこれで話は通じる。文武帝は真っ暗な宙を睨(にら)む。



 黄泉の国で伊奘那美命を捨てた伊奘那岐命は、黄泉比良坂で千引の石で黄泉の国の出入り口を塞ぐ。
 
『……(略)。愛しき我が汝夫の命、かく為ば、汝の国の人草、一日に千頭絞り殺さむ。(略)……』

『……(略)。愛しき我が汝妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋を立てむ。(略)……』

( 古事記 倉野憲司 校注 岩波文庫 p.27〜p.28 )



 およそ古事記のここは神話であり、暗喩と修辞に富んではいるのだが、ここに「男尊女卑」の見方もあるだろう。


 伊奘那岐命は「吾一日に千五百人を産む」とは書かれない。「産屋を立てむ」と有る。

 この後に伊奘那岐命は「禊」して、その行為の最中にも諸神を「産む」のである。

 よってこれ以降は、伊奘那岐命が諸神と人間を作り続けるのである。



 文武帝も、そのことには既に気づいておられるのだろう。よって「なるほど……」と言い、宮子夫人の心の傷の深さを知るのだった。

「法華経ならば、提婆達多品か」

「さようでございます。女人成仏を私は求めているのです」

「お前は救いを求めておるのだな。私ではだめなのかな」

「いえ、そういう事ではありませぬ。このように大君さまに大事にされる私に、何の不足が有るでしょうか」

「では何故にさように学問するのだ。私はお前に皇子の面倒を見て欲しいのだ」

 文武帝は思うことを言う。しかし宮子夫人は受け付けない。

「それは事の成り行きと考えます。皇子の後を案ずればこそ、私はこのように居るのです」

「それは当り前のことでは無いな……」

「はい。私の出来る大慈大悲と見て頂きたくあります」

「やれやれ、大慈大悲とは……」



 文武帝にはそう言う宮子夫人の姿の視えないことがもどかしい。

「それしか言いようがありませぬ。瘡の肌を曝して、内裏に居れましょうか」

「私にはそれが不憫なのだ。それでは、あまりにお前が哀れじゃ」

「その言葉だけで、宮子は生きていけます。しかし、世間はそれを許さぬでしょう。わたしのような、かような女が穢土を離れて浄土に行く法を宮子は欲するのです」

 暗闇の中で心と心が響きあう。



 感極まって、二人は手と手を取る。それだけで二人は満足するしかなかった。


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