ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

大日本帝国(現日本政府)の犯罪コミュの三竈島事件: 日中戦争下の虐殺と沖縄移民

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
BARANEKOさんのtweetから。

‏ @BARANEKO0409
14時間14時間前

三竈島事件: 日中戦争下の虐殺と沖縄移民
蒲豊彦・ 浦島悦子・和仁廉夫 現代書館
マカオ南西部・三竈島(さんそうとう)。その島で、1937年日本軍が大量虐殺を伴う占領を行なったことは、ほぼ知られていない。沖縄からの三竈島への移民は1939年から始まった

コメント(5)

>>[1] コミュ参加、コメントありがとうございます。割と新しい本なんですね。バラ猫さんのtweet気になったのでコミュ立てて見ました。
三灶島事件に関する記述 - 誰かの妄想・はてなブログ版 http://scopedog.hatenablog.com/entry/20131027/1382885263

(「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」NHKスペシャル取材班、P344-354)

興味深いのは、農業移民が送り込まれる先の三灶島の名前が黒塗りになっていたこと。三灶島は海軍航空基地の島として、当初国内では軍事機密扱いになっていたことが窺える。昭和十四年暮れになると、ようやく黒塗りが外され、新聞記事に「三竈(灶と同意)島」という島名が記載されるようになる。

 さて、新聞記事にあった「住民は一人もいない」との記述が気になった。
(略)

そのうちのひとりが、
「島に行った時期は骨がね、畑なんかにあちこち転がっていて、泣いていましたよ、お母さん達は。恐ろしい恐ろしいって言ってね」

(略)

現地取材から見えてきた海軍支配の実態

 三灶島は中国本土南部、香港の西およそ八十キロに位置する周囲約十数キロの小さな島だった。沿岸開発の結果、いまは大陸と地続きとなり、島ではなく三灶鎮と呼ばれる行政区となっている。中国人民解放軍の兵舎が置かれるなど、軍事施設も含まれるため撮影の難しい地域であることが事前取材で伝えられていた。
 取材班は、ここまでの全ての取材を共にしてきたカメラマンの佐々倉大、音声・証明マンの森山正太に加え、通訳コーディネーターの楊昭氏と私の計四名。番組放送の四ヶ月前にあたる二〇〇九年四月初旬に広州経由で現地入りした。
 経済特別区・珠海市金湾区三灶鎮は現在、北京や上海などから直行便が乗り入れる、中国本土最南端の空港を抱え、順調な経済成長を続けていた。この珠海空港は、七十一年前に海軍が作った滑走路を土台に整備されたものだった。
 三灶鎮の中心地に入って我々がまず驚いたのは、多くの日本企業の工場が並んでいるその光景だった。日本の食品メーカーや機械メーカーが進出し、地元の雇用創出に貢献している。案内役の三灶鎮共産党委員はそう解説してくれた。これから自分たちが取材しようとする内容を考えたとき、非常に複雑な思いに至った。
 一見、近年の経済成長で様変わりしたかのように見える島。しかし、空港の他にも、住民やゲリラを監視するために設置された、集落を見下ろす丘上のトーチカなど、海軍が島を占領していた当時の痕跡が今もあちこちに残っていた。

実態窺わせる日本側資料『三灶島特報』

 中国入りの直前、私たちは、占領直後の島の様子を僅かに窺い知ることができる海軍側機密資料を発見していた。東京・恵比寿にある防衛研究所の収蔵資料の中にあった『三灶島特報』。三灶島に建設された第六航空基地司令官の手による報告書で、上陸占領から五ヶ月後に第一号(一九三八年六月十五日)報告がなされ、第五号(同年十月一日)までの計五巻が存在した。毎月の戦闘機の出撃状況や戦果、島の治安の様子などが、作戦報告として海軍省人事局に送付されていた。
 報告書によれば海軍の上陸から三ヶ月で、島民は一万二千人から千八百人弱に激減。島民自身の逃亡に加え、島北部の集落への大規模な「掃討作戦」が行われたためだと記されている。当時、各地で抗日ゲリラが組織され、三灶島でも島北部を哨戒していた日本兵が襲われ、死亡。その結果、スパイ嫌疑で掃討したとある。

 島でのもう一人の証言者は、島北部の集落に暮らしていた李義興さん、八十三歳。事件のあった当時は十二歳だった。夜明け直後に突如やってきた数十名の日本兵グループが村の成人男性全員を一斉に捕まえたと証言する。李さんの父親も同じく捕まった。
 その翌日、村に十数名の日本兵が戻ってきて、今度は残っていた女子供・老人を川沿いに並べて、一斉に射撃したと李さんは証言する。李さんは、死体の間に倒れたことで九死に一生を得る。そのとき、たまたま村はずれにいた母と、八歳と四歳になる二人の妹を連れ、家族四人で山中に逃れたのだという。
 実際に一斉射撃を受けたという集落内の川沿い。そこに立ち、記憶を語る李さん。収録する私たち取材班は、あまりにも重い告白に圧倒されていた。しかも李さんの、感情の起伏を感じさせない淡々とした語り口が、証言する者の口惜しさを際立たせていたように思う。しかし、耳を傾けるのも辛いような思い証言は。これだけに留まらなかった。
 李さんたち一家四人の、日本兵の影におびえながらの山中生活は、四ヶ月にも及んだ。家族は木の実を食べ、雨水で飢えをしのいだが、四歳の幼い妹が、次第に憔悴していったという。そんなある日、家族が息を潜めるそのすぐ近くまで、山狩りをする日本兵が迫った。そして、李さんは、戦後も誰にも話したことがないという告白をする。
「突然妹が泣き出したのです。お腹が空いたか何か別の理由があったのかもしれません・・・このままでは家族四人とも終わりでした」
「何度もためらいました。でも心を鬼にして妹を絞め殺したのです」
 その時まで淡々と、むしろ穏やかともいえる口調で証言を続けていた李さん。このときばかりは声を詰まらせ、そして大粒の涙を浮かべながら嗚咽した。そして、何度も何度も「妹を絞め殺した」と懺悔のように繰り返した。通訳を介して私たちに伝えられる、あまりにつらい告白に、私たちはカメラを止めることもできず、一同茫然とその場に立ち尽くしていた。
 海軍が占領してから終戦に至るまでの七年半、三灶島でどれだけの住民が命を失ったのか。正確な数字を明らかに出来る資料は、現段階では日本側にも中国側にも残されていなかった。
 一方、大井元大佐が反省会で証言するような、飛行場建設に関わる大虐殺が起こったのか否かも、今回の現地取材では、全体像を明らかにすることは出来なかった。
 しかし、私たちが、ほとんど知ることのなかった不幸な出来事が、かの地で確実に起こっていた。この継承されなかった負の歴史をどう清算するのか、重い宿題が浮かび上がった。そんな思いで中国での取材を終えた。
↑上が引用
ここからがブログ主さんのコメント

事件を時系列に並べてみると以下のようになります。

1938年1月、日本海軍が三灶島に上陸占領。
1938年4月、第十四航空隊基地として飛行場を建設。
1938年6月〜10月、三灶島特報1号〜5号を作成。
1939年4月、日本海軍、三灶島内での2000人規模の虐殺。
1939年5月、三灶島内での食糧増産のため、沖縄から農業移民の派遣方針決定。

私は番組でざっと聞いていただけでしたので、漠然と日本海軍が上陸直後に住民を虐殺し、残った住民に飛行場建設の為の強制労働を課したように認識していましたが、時系列的なスパンを見るとそう単純な事件ではないようです。
三灶島特報には「海軍の上陸から三ヶ月で、島民は一万二千人から千八百人弱に激減」とあるようですが、おそらくは元の島民人口が1万2000人だという資料と3ヶ月後の1938年4月時点で海軍側が掌握していた島民の数が1800人だという資料があるのだと思われます。
実態としては、以下のようだったのではないでしょうか。
1938年1月の上陸直後、多くの島民は逃げるか山中へ隠れ、日本軍が労働力として利用できる掌握下の島民は1800人だった。少なくとも4月までは飛行場建設が最優先で、日本軍も飛行場用地とその周辺のみの警戒に専念していたと思われます。その警戒していた歩哨が山中に逃げた元住民らにより組織された抗日ゲリラに襲撃されるなどしたのでしょう。山狩りや集落での強制的な点呼などで対応したものの、むしろ民心離反させる結果を招き治安は回復しなかったと思われます。
こうした日本軍の苛政によって逃亡する島民も相次ぎ、その中で日本側が思いついた対策が、日本人を移住させて食糧生産と警戒の補助をさせようという移民計画でした。しかし、いかに屯田的な性格を持たせると言っても民間人ですから、治安の悪い状態の島に送り込むわけにはいきません。移民募集までに治安改善のためにも抗日ゲリラを一掃する必要を軍当局を感じたと思われます。その結果が、1939年4月の2000人規模の大虐殺となった、とすれば上記の時系列をよく説明できると思います。
とは言え、現時点では、やはり史料が不足していると言わざるを得ませんので、何らかの新史料の発見が望まれるところではあります。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

大日本帝国(現日本政府)の犯罪 更新情報

大日本帝国(現日本政府)の犯罪のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング