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新・クラシックが好きだ!コミュの音楽についての名言・至言トピ

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音楽とは何か?
その根本的な問いの答となるような,古今東西の音楽に関する名言・至言が多々あります。

直接音楽に携わる作曲家や演奏家,音楽評論家の言葉以外にも,例えば文筆家や哲学者,あるいは科学者の方々も,それぞれの視点から,深く心に響く言葉を残しています。

ここでは,そんな至言・名言を集めることで,「音楽とは何か?」の答がおぼろげにでも見え,そして音楽の核心の一端にわずかでも触れることができればと,そう願います。

注 メンバーの方々に下記のお願いです。  
  ここのコミュニティでは管理人さん以外でもトピックスを作成できます。
  限界の1000件に達する前に、この文面をコピペして、新たにトピックスを作成して下さい。
  宜しくお願いします。

コメント(472)

吉田秀和 僕が子どものとき、モーツァルトはベートーヴェンの陰に隠れていて、「まだ未発達な点があって、論理的にもっとキチンと展開したものがベートーヴェンだ」なんていわれていた。でも、ご承知のように、その後どんどん、人はずいぶん違うモーツァルトを弾き出してきて、それもみんなモーツァルトだっていうことになった。
たとえば往年の名指揮者であるブルーノ・ワルターは、美しいというよりも、もっと愛しくて、大事にしたくなるような、まるで孫でも抱き上げているようにモーツァルトをやってました。それは違うなんて誰もいえない。いまの指揮者はモーツァルトをそんなふうに可愛い子どもだなんて思わないで、もっと違うものとして演奏しているかもしれない。で、どっちが正しいかってことはない。
本当のモーツァルトはどこにいるかっていえば、どこにもいない。ただ、クリエイテイプな力をもった人は、モーツァルトから何かをつかまえる。

茂木健一郎 そもそも僕の専門の脳の立場からいうと、脳のなかに音楽を理解する「音楽の回路」というものがあるわけではなくて、そこには言葉の回路やリズムの回路などが複合的に関わっている。そう思うと、ある人の音楽性というのは、その人の発話と非常に結び付いていると思うのです。そして、一人としてまったく同じように喋る人はいないんですね。それぞれの人にはそれぞれの音楽があって。そういう意味でいうと、かなり根深くわれわれ個々人に染み付いたものがあるように思うのです。

吉田 ええ、「生命」っていうものは、そう。それは、僕が音楽についてほかのものに増してとくに惹かれる理由だと思う。建築や彫刻も立派な芸術ですけどね、でも何か違う。音楽は論理的な思考の表れでもあるけれども、その枠のなかにいつも収まっているというわけじゃないですから。僕は、論理がなければ音楽もないと思う。けれども論理に終始していったら、やっぱり音楽にはならない。どこからそういうほかの力が入ってくるのか知らないけど。 こういうことこそ、僕はあなたに聞いてみたいことなんだけどな。やっぱり脳の働きなんですか、それも?

茂木 これは経験主義的にしかわからないことなのですが、脳の各領域の回路は、一つの回路が一つの役割しかしないわけではなくて、使い回しをされている。つまり全部つながっていて、綺麗な区分けはないのです。脳の機能地図なるものが、もう百年来描かれているんですけど、それは人間の描いた勝手なマップで、脳のなかは不定形でつねに何かうごめいていて、単純に「ここが論理で、ここが感情」などと分けられない。ある営みが、人間が勝手につくったカテゴリーを超えて、いろんなものを呼び覚ますのは、脳のアーキテクチャーから見ると、当然のことのように見えるのですね。
そして、人間の脳のもっとも発達した能力の一つは、「感情」の部分です。人間ほど感情的な動物はいないわけです。「音楽」という、物理的にはたんに音の振動でしかないものが人間の脳の報酬系快楽回路を活性化させて、生存のために必要な飲食などと、まったく同じような反応を引き起こすというのは、動物から見ればやはり驚異なんです。人間の脳は、感情の届く範囲を拡げてきた。人間にとって論理的な思考がすべてではなくて、感情のダイナミクスもかなり振れ幅が大きいからこそ、音楽という芸術が存在している。
そのような意味でも、音楽の一つの表現として評論文を書かれていたというのは、吉田さんの創造のもっとも本質的な秘密ではないかとも思います。それはわかる人にはきっと、暗黙知としてはわかるんでしょうけれど。

吉田 そう思います。もし僕の書いたものを読んで面白いと思ってくださったとすれば、そしたら僕の音楽を聴いてくださっていることだと思うから。

茂木 楽器で弾くのか、歌で歌うのか、話し掛けるのか、文章で書くのかという違いは、脳の言葉でいえばモダリティの差でしかないわけで、その背後にある感覚の一般原理みたいなものは共通なんです。当然、言葉も音楽として見られるし、音楽だって言葉として見られる。それを分けるのは、たんに人間の勝手な慣習にすぎないですからね。

吉田 そうです。まあそうしないと、 いろんな点でもっと先へ行かれないから、人間は分けたんでしょうけど。ある意味では、言葉的精密さというのは音楽じゃやれないですから。メンデルスゾーンは、「だからこそ、音楽のほうが精密なんだ。言葉では 『悲しい』としかいえないけど、音楽でやったのはもっと具体的なこと。言葉のほうが抽象的なんだ」って主張してましたけどね。

〜吉田秀和対談集「芸術の喜び」から「「創造」の秘密  脳と言葉と音楽と」より
「ドビュッシーは、始まり方さえ不確かなのに音楽がどのようにして終ることができるのかという問いに、独自な答を与えた。
彼は音楽を絶え間ない響きとして前提し、その音響領域に突如として立ち入り、同じく唐突に音楽を置き去りにして、
まるでその音楽がまだ続いているかのような幻想を私たちに与えるのである」
〜アドルノ(哲学者・音楽評論家)「哲学のアクチュアリティ」

「自然は不思議の文字のうちに閉ざされた詩である。
この感性界からは秘めた言葉を通し意味が覗いている。但し半分しか見通せない靄を通し。
それに対し芸術家の創造する絵画は、現実界と理念界を区別する不可視の壁が取払われた時に成立する。
この絵画は、現実界を通しては不完全にしか現れない想像界の形姿と光景を現前させる」
〜シェリング(哲学者)「超越論的観念論の体系」

シェリングの言葉中、現実界を通しては不完全にしか現れない想像界の形姿と光景を現前させる「絵画」を「芸術全般」と置き換えて読むことも可能だろう。
「現実界と理念界を区別する不可視の壁」、その結界をいともやすやすと飛び越えさせてくれるのが芸術の力。

「まるでその音楽がまだ続いているかのような」、まるで現実界と感性界がつながっているかのような「幻想」を与えてくれる。

しかし私たちは芸術を現実の中において認識する。
「きく、よむ、みる」は現実界の中での出来事。

それは、果たして幻想なのか?
それとも胡蝶の夢、邯鄲の夢の続き? 
あるいは夢ともうつつともつかぬ、現実と幻想とが判然とせず明確な境界を失い、渾然一体となって続き交錯する場所?
「美しいものを見ておけ。
深い心の痛みどころか、自分のことさえ忘れてしまうような美しいものに出会っておきなさい。
芸術でも自然でもかまわないから、一瞬でいいから美しいものを見ておきなさい。

この人生には必ず悲哀がある。悲惨もある。
それらは雨のようにやって来ては去りゆくだろう。
しかし、きみが目にした美しきものはきみの中でずっとずっと続いて消えないのだから。」

〜ヘルマン・ヘッセ「美しきものの持続」より

絵画でも音楽でも文芸、工芸でも、優れた美しいものに接したとき、現実の自分が実体を失って、液体のように溶け出して、作品と一つになり、そこに取り込まれていくような感覚を覚えることがある。
願わくば、その世界に取り込まれ、そのまま出てこられなくなっても構わない。
だがそれは、「悲哀がある。悲惨もある。それらは雨のようにやって来ては去る」現実界という、帰ってくる場所、帰還する世界が必ずあるからこそ、そう思えるのかもしれない。

「音楽と生命はとても似ている。
音楽は楽譜、生命は遺伝子というロゴスで記述できる。
しかし、同じ楽譜でも演奏家によってまったく違う曲になる。
遺伝子の発現も同じ。同じ遺伝子をもっていても、その生物がどのように生きるか、
そのピュシス※は一回性の出来事としてある」
〜福岡伸一(生物学者)

※ピュシス:ロゴス(論理)に対する「自然そのもの」の意。フィジクス(物理学)の語源

心に巣喰う、「言葉にできない」モヤモヤを「言葉にしてみる」、ロゴス化してみることで、「ああ、オレはこんなことで悩んでいたんだな」と、意識下に置き支配可能、取扱可能なものにする。
すると、モヤモヤが晴れて視界が広がりスッキリする(ようになった気がする)。
心の中に棲む野獣のような、取扱困難、支配困難なもの(≒ピュシス)を取扱可能なものに変換する手段がロゴス化の役割ではないだろうか。

音楽を聴いて一瞬ハッと心奪われる「何とも言えない響き」は、例えば「Cm7-5♭11」などとコードネームに変換しロゴス化することで、「理論づけられた響き、名前の付いた和声」として理解、認識される。

一方、芸術:アートとは、取扱困難なものをその取扱困難な状態のまま、いわば「困難の純度」を保ったまま取扱可能なものとして伝達、認識する手段のように思える。

例えば、無味乾燥にコードネーム化された和声の響きをもう一度「名前を持たない、何とも言えない響き」に還元するための。
あるいは、耳には聞こえない「景色・色彩」を可聴化し、目では捉えられない「音」を可視化するための。

あまりにも人工的:アーティフィシャル(artificial)なものに囲まれすぎ、失われゆく生物としての自然を感じ察知する本能・感覚・野性といったものを取り戻すのも、また「アート」(art)の力。

「私は音楽に餓えていたわけではない。むしろ(信州の山奥にある)仕事部屋の崖下の川音や、落葉松の林の中の小鳥の声、それに日課のようにやってくる烈しい夕立と雷鳴とに、音楽以上の耳の慰めを得ているつもりだったのである。

しかし(東京から訪ねてきた来た若いフォークソンググループの)音楽は、それら自然の音とは最初の一音から別物だった。それは思わず顔が赤らむほどぶしつけなものだった。あつかましく図々しく高原の空気の中に響きわたり、私を犯した。ひとつひとつの音が、人間の肉の訴えに満ちており、トルストイがクロイツェルソナタについて言ったことを、私はまざまざと想い起したのである。'

ベートーヴェンも、バッハも、そしておそらくは我々の国の音楽も、音楽のこの官能性に先づ根ざしているということ、そのあたりまえの事実を、私は都会の音楽の洪水の中にいて失念していたのだった。時には人を自殺にすら追いやり、時には人をファシズムの集団ヒステリイに導く手助けさえする音楽の危険に、私は麻痺していた。

その危険が悪と結びついて悪に染まらず、その本質ではむしろ美と快楽と慰めに結びついているからこそ、音楽はますます奥深いものになるのである。

音楽そのものが本来、理性への挑戦という一面を含んでいるのだ。 音楽の精神性も、それを踏まえて考えることなくしては、単なる通俗的教養主義に堕してしまうだろう。」

〜谷川俊太郎「音楽のとびら」
「時間は永遠の娘 歓びは哀しみの息子
あの人のかたわらでいつまでも終わらない音楽を聞いた」
〜谷川俊太郎「あの人が来て」
(谷川俊太郎詩集「聴くと聞こえる」より)

詩集に寄りそうかのような、言葉を守るかのような表紙、カバーにあしらわれたのは、武満徹が谷川の息子の誕生を祝い贈った楽曲の自筆譜。

音楽は響き、伝わる。水面の波紋のように、ラジオの周波数のように、山々をわたるこだまのように。

時間と空間を、言葉をも超えて、終わらない音楽を聞くその時間は永遠の娘、聞く歓びは悲しみの息子。
「見えるものは、見えないものにさわっている。聞こえるものは、聞こえないものにさわっている。
それならば、考えられるものは考えられないものにさわっている」
〜ノヴァーリス(18世紀ドイツロマン主義の詩人)

絵画は視覚として見ることのできる線画、色彩、形態などの表象を依り代に、そして音楽は物理現象としての、聴覚に伝わる、聞こえる「音」を依り代に、必ずしも目には見えないものや、耳には聞こえないものに触っている。

絵画や音楽を見聞きして思ったこと、考えたこと。すなわち意識化・言語化できたものは、
きっと、それら意識や言語を依り代に、考えられないものとも繋がっているのだろう。

「暗闇にしか見えぬものがある。暗闇でしか聞こえぬ歌がある」とは、ドラマ「カムカムエブリバディ」の名言。

音楽を聴くことで耳が開かれる。
微細な音まで聞き取ろうと、感覚が研ぎ澄まされ、鋭敏になる。
視覚優位の情報の海の中で、視覚を一度遮断し、そこで「暗闇でしか聞こえぬ歌」を聴く。
その歌は、きっと「聞こえるものは、聞こえないものにさわっている」、その「聞こえないもの」。

耳を澄まし、目を閉じる。
必ずしも目には見えないもの、耳には聞こえないもの、考えられないものもまた、確実に存在する。
絵画を見る、音楽を聴くということは、その存在に気づかされることでもあるのだろう。

「われわれが考えることのできるものの世界は、限られていてささやかである。
しかしその考えられるものが考えられないものに、じかにさわっているということは、
有限なるもの、ささやかなるものが、じかに無限なものにさわっているということである」
〜大岡信
「他人の眼からすれば、私の作品は、黄昏時の雲や星みたいなもので、つまり無用なのだ…
君の歌から現実を抹消せよ、なぜなら現実は平凡だからだ…
詩人のなすべきことは、眼を非現実に向け、神秘的に仕事をすることだけだ」
〜マラルメ(ドビュッシーと深い交流のあった詩人)

この姿勢は、ドビュッシーの音楽、そしてドビュッシーに深い薫陶を受けた武満徹の音楽にも通じるものがあると思う。
ショーペンハウアーにとって音楽とは、「現象界から全く独立したもの」であり、「意志そのものを複写したもの」であって、それゆえにこそ、「音楽の効果は、他の諸芸術のそれよりもずっと力強く心に徹するのである。」つまり、他の諸芸術がただ影について語るのに、音楽は本質について語るから、そのような効果を生ずるというわけである。

ヘーゲルにとって音楽とは、「魂の最も奥深くにある主観的で自由な生活を、内容としてもつもの」である ―といっても、 弁証法の巨匠たるヘーゲルのことゆえ、音楽の具体的で特殊な要素については、ショーペンハウァーよりずっと多くの言い分をもつであろうが。

弁証法的唯物論に拠る人々の場合、何を音楽の「内容」とみなすべきか、と問われても、そう容易に答えるわけにはいかない。とりわけ、一般的な公式でそれを定義するわけにはいかない。かれらは、各作品を数多くの具体的な方法で調べ、音楽の歴史的発展を、そして音楽全体に、また個人個人の音楽的形式にみられる機能の変遷を、事細かに究めなければならない。

最初から、集団的感情を呼びさましたり、労働・ 酒宴・戦争のために刺激を起こしたりすることが音楽の目的であった。音楽は、感覚を麻痺もしくは興奮させ、聴衆を魅了して行動へと拍車をかけるための手段であった。すなわち音楽は、外部世界の諸現 象を映し出すためでなく、人間を異なった精神状態に陥らせるためのものであった。したがって、初期の音楽がどのような「内容」をもっていたかを問うことはできない。まちがった問いは、無意味な答えを招くものである。太鼓をドンドコ、木片をカチカチ、 金属をジャンジャカ鳴らす音には、内容などない。組織された音の人間におよぼす効果が、その唯一の意味である。音楽の社会的機能は、この効果を発揮することであって、現実を再現することではなかった。ハンス・アイスラーの指摘するように、一定のリズム・音調の反復進行:シークエンス・音響のイメージから、「自動的な結合」が生じたのである。今日に至るまで音楽の効果は、(たとえば行進曲・葬送行進曲・ダンス曲などのように)この種の「自動的結合」をつうじてえられることが多い。だからこそ、音楽の素養をもたない聴衆でも、直接に鑑賞することができる のである。集団的な感情を起こさせ、しばらくの間 人々を感情面で平等にさせる音楽のこの力は、とりわけ軍隊や宗教団体にとって有用なものであった。

あらゆる芸術のなかで、音楽は、知性を曇らせ、陶酔をもたらし、無我夢中の服従や、ひいては欣然たる殉死を生じさせるのに最も適しているのだ。あらゆる宗教団体なかんずくローマ・カトリック教会は、組織的に音楽のこの特殊な力を利用してきた。中世初期のカトリック教会は、「美しく」あることよりも、むしろその逆を音楽に要求した。当時における音楽の機能は、信者たちを悲惨な悔悟と完全な自己卑下の状態に陥らせ、個性を跡形もなくおしつぶして、かれらを一つの従順な集団に固めてしまうことであった。なるほど各々の人間は、自分の個人的な罪を思い知らされたが、再び音楽をつうじて、普遍的な罪深さ、救済への普遍的な 願いへと連れ戻されたのである。このような音楽の「内容」は、いつも同じであった。つまり、お前は 価値も力もないばちあたりな人間だ、しかしキリストの受難に心を致せば救われるであろう、というの である。ヘーゲルは、古い教会音楽に窺われるこのような機能について、こう述べている。

古い教会音楽で、クルツィフィクス・エスト(ミサの信仰宣言〈クレド〉の一部をなす。〈十字架に付けられ〉の意味)が歌われる瞬間を例に挙げよう。キリストの苦悩・死・埋葬、すなわち受難という中心的観念に示された深い意味は、おのおのどのように表現されているかと言えば、それらの事実を巡って単なる各自の同情や個人的な心痛だけが表わされるのでなく、これとともに、それらの事実そのもの、換言すればそれらの意味の深さが、この音楽の和音・旋律の 進行によっておのずと悟られるようになっているの だ。もちろんこのような場合でも、印象が、音楽をきく人々の感情に作用していることは事実である。われわれは、十字架につけられたキリストの苦痛を実際に知覚するわけではない。われわれは、その概念をうけとるだけに止まらないのだ。目的は徹頭徹尾、われわ れに、自分の存在の奥深くで、この死と、この神々しい苦難の観念的本質を体験させ、全身全霊でその実体を吸収させること、さらにはそれを、われわれ自身の一部と同様のものに発達させ、われわれの意識的生活全体に浸透させて、他のあらゆるものを排除させるこ とにあるのだ。
すなわち、この強力な教会音楽は、(たとえば現代の交響曲みたいに)個人の精神内部で多くのさまざまな連想を生み出す不確定な感情など呼び起こさないのだ。逆にそれは、主観性など一切認めない特定の反応を、傾聴する人々に迫るのである。
したがって、このような教会音楽の「内容」は、 典礼文のテキストとそれから生ずる連想― つまり 神々しい苦難、人間の罪深さ等々によって決定 される。しかしもう一つ重要な要素がある。それは、けっしてただの「聴衆」でなく、真の共同体で ある会衆のことだ。これらの聴衆の感受性は、不定で主観的な感情でなく、均一で集団的な感動を生み出すように、ヘーゲルの言葉をかりれば、「作用」されるのである。そのような音楽の目的は、特定の、意図された精神状態をつくり出すこと、終始一貫その精神状態に近づこうと努めることであり、その機能は、感情を表わすことよりもむしろ生み出すことである。このような音楽の「内容」は、その内部だけでなく外部にもあるといってよかろう。 それは、表現と効果の総計、感銘を与える音と感銘を受けた聴衆の総計なのである。同じことは、世俗的なダンス曲や行進曲においてもあてはまる。ダンス曲そのものは、内容をもたない。その機能は、ダンスしようとする願望を刺激することにあり、ダンス曲は、ダンスする人々の運動と興奮をつうじて内容をうるのである。 ダンスの特殊な性質は、儀式的舞踊であれメヌエットであれ、ウィーン風のワルツであれロックンロールで あれ、社会的に決定される。奇妙なことだが、この場 合社会的要素は、音楽の形式だけに現われ、 ―すなわち、社会的「内容」は全く形式をつうじてのみ伝えられ― それ以外のいかなる「内容」も、きわめてまれにしかありえないのである。

〜エルンスト・フィッシャー「芸術はなぜ必要か」より

「詩のようなことばの芸術は、反省的だ。それは立ちどまって考える。
音楽は直観的だ。それは生成し続ける。」
〜 W・H・オーデン(20世紀アメリカの詩人)

言葉はロゴスを具体化し、音楽はピュシスを生成する。
言葉は人間を人間たらしめ、音楽は人間を生き物たらしめる。
音楽も、言葉も、大切なのではないでしょうか。(最近では、大切なものがいくつもあると思うようになっています。) 
私は音楽を続けていましたが、音楽は感覚の世界なので、言葉を必要とするようになり、そして本を読むようになりました。
――音楽は感情が喜ぶものであり、――言葉は生き方に働きかけるもの、と私は思います。
>>[447]
ロゴスとピュシス
言語と音楽
論理性と感性。

私はそれらは、互いに拮抗するものではなく
同じ方向を向いて進むための車輪の両軸のようなものと考えます。

何かを「良い」と思える感性が、
「それはなぜ良いのだろう?」と考えることで論理性を育み、
そこで得た知見が、また新たな「良い」と思えるものと出会う感性を育むように思えます。


そうですね。

言葉は、そしてあらゆるものを包括する。言葉は生き方に関わるので、人間全体に波及すると思います。音楽は言葉とは違う世界で、どちらも大切なものと思いますが、私は音楽をとります。これは感性的な美を人間は最終的に選ぶのではないか、という問題です。ダ・ビンチも、最後に傍らに置いていたのはモナ・リザであったようです。(グレン・グールドは、晩年に文章を書きたいと言っていたようです。)
>>[449]
グールドも漱石の「草枕」を愛読していましたね。
一見すると結びつかない漱石とグールドですが、
「四角な世界から常識と名のつく、一角を摩滅して、三 角のうちに住むのを芸術家と呼んでよかろう」という感性は、2人を結びつける共通項のように思われます。
「草枕」は私も好きな小説です。これは確か、絵描きを主人公にしていたと思います。知に働けば角が立つ、…に始まる有名なものですが、私によれば(?)女性の美を最高にした小説ではないかと思いました。時に、ようかんの美しさも書いています。日本の食べ物の、見た目の美しさを言っているのですが、実に、感性を大切に言っている小説かと思いました。(夏目漱石は、私にとって最も手応えのある作家でした。西洋のシェイクスピアに匹敵すると私は門外漢ながら、思っているところです。)グールドは若くして亡くなってしまいましたが、それ以後の展開が見たかったピアニストです。グールドは、言葉を求めていたのですね。異常に感性の優れたピアニストでしたので、そうだったのかと思います。坂本龍一がそのピアニズムを「哀愁を帯びたロマン」等と言っていたと思いますが、本当に希少なピアニストであったと感じます。やはり、『感性』が大切ですね。
>>[451]
グールドと言えばバッハですが、ブラームスも素晴らしいこと。
まさに「哀愁を帯びたロマン」
曇りある真珠のくすんだ輝き。
あるいは、ホロ苦さの中に微かな甘さ漂うダークビターのチョコレート。
私はベートヴェンもよいと思っています。グールドも、伝統の代表であったベートーヴェンでしたので、当時の前衛の流れを汲んでベートーヴェンを好きだとは言わなかったのではないか?と私は思いますが、実はかなりよい演奏をしていると思います。協奏曲もソナタも交響曲も面白いと私は思います。 ただ弾き方がハープコードを写したようにピアノを弾いたので、バッハが合っていたと思います。あるいは、バッハが好きであったから、当時のハープシコードのように弾いたのかもしれません。    グールド本人はしかし、バードとギボンズが好きだと言っていますけれど。(実は私は、世間が好きだという、グールドの演奏のバッハの変奏曲とブラームスの間奏曲は、そんなに好きではありません。バッハは変奏曲に関心がなかったようですし、バッハが好きな?衒学趣味は私は嫌いですし、ブラームスですと、自分で弾いてみたい。そんなに難しくありませんので。)
>>[453]
グールドは、以外にもベートーヴェンのソナタをほぼ全曲録音していますね。

特に30番〜32番の後期ソナタは本当に素晴らしいこと。

黄昏時に空の色彩が移ろうグラデーションを「聞く」かのように。

あるいは、戦いの人ベートーヴェンが、晩年王侯貴族からのフリーランスを勝ち得、戦う相手が不在となったその耳が、彼自身の内省の声を「聞く」ように。

そのような思いがいたします。
そうですね。
グールドのベートーヴェンの第30、31、32番は、私も好きな演奏です。とても独創的で、かつ詩的なピアニズムと思います。この演奏に、哀愁を含んだロマンを感じます。 
ポリーニも、若き日にベートーヴェンの後期ソナタにチャレンジしていますが、ショパンやシューマン等、ロマン派のピアニズムを先取りしたかのような、そしてもちろんベートーヴェン独自の音楽を感じさせる――。ベートーヴェンは耳が聞こえなくても音を創造することのできた、真の天才であったったのだと感じます。――優れたピアニストは魅力を感じるのですね。若き日のポリーニは楷書のような弾き方で、後年再び後期ソナタを取り上げるのですが、これはすべてを表したような演奏と思います。
私はベートーヴェンにみずみずしさを感じます。枯山水の石庭に朝露があるような。また、個人の音楽になっているように思います。何者でもない自分自身のような。
>>[455]
同感です。単なる諦念や枯淡のセンチメンタリズムに陥らず、微かな甘さ、ほの暗い色彩と光を帯びたロマンティシズムが見えますね。
同じことを、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲にも感じます。
「その者にしか見えぬものがあろう。
絵師はそれを写すだけでいい。写してやらねばならぬとも言えるがな。
見える者が描かなければ、それは誰にも見えぬまま消えてしまうだろう。
その目にしか見えぬものを表してやるのが、絵師に生まれついた者の務めだ」
〜NHK「べらぼう」より 師の鳥山石燕が後の喜多川歌麿を諭した言葉

「誰しもが見えぬものを見よ。そして見えたなら、誰しもが分かるように伝えよ」若き日の黒澤明に、先輩の映画監督が残したこの言葉とも共通するように思う。

「見えぬもの」を「聞こえぬもの」に置き換えれば、音楽にも共通するのではないか。
ベートーヴェンの後期弦楽四重奏につては、今少し遠ざかっているのでお話しませんでしたが、後期弦楽四重奏についてもお話したいものです。読んだところでは、ベートーヴェンは後期に形式としてはバッハ、精神的にはヘンデルに近づいた――第九交響曲を私はそう思いますが、モーツアルトに近づいたという考え方があるようです。みずみずしさはモーツアルトと思いますが、モーツアルトの交響曲(管弦楽曲)の初期形態は多楽章制であったとのこと。そして変化音の情感…。後期弦楽四重奏で私が好きなのは、『大フーガ』、第14番。第16番。最近名古屋で第12番を聴きましたが、この作品も好きです。
>>[458]
誠に恐縮ですが、このトピックスは「音楽についての名言・至言」について語る場となっております。
コミュニティ内には、ベートーヴェンについてのトピックスなども既にありますので、次回からはそちらにてお願いします。
※以前、再三の注意にもかかわらずトピズレを繰り返す某メンバー(貴兄も以前、そのメンバーから被害を被ったことがありましたね)によって、荒らされたことがありましたので。

恐れ入りますが、コミュニティ及びトピックスの趣旨をご理解いただけましたら幸いです。
弦楽四重奏はあなたが言われたので。名言としては、『ベートーヴェンが後期にモーツアルトに近づいた。』も名言と思います。反論するつもりではありませんが。『ブラームスもモーツアルトに近づいた。』と言った人があったと思います。モーツアルトは、私は音楽学に詳しくありませんが、20世紀に見直されたようです。
「芸術の機能は、開いているドアを叩き壊すことより、閉まっているドアを開くことにある。しかし芸術家が新しい諸現実を発見するのは、彼のためだけでなく他人のため―いま自分たちはどんな世界に住んでいるのか、どこから来てどこへ行くのかを知ろうとしている全ての人々のためでもある」
〜エルンスト・フィッシャー「芸術はなぜ必要か」より

行間を読む、間合いを計る、余白に何かの存在を感じる。
目に見えるものの間には、目には見えねど、しかし確かに何ものかが存在する。
一時の流行語「空気を読む」もそれに近い感覚だろう。
それは目に見えないものだけに、芸術家には何かを捉える目・耳と、それを可視化あるいは音(音楽、サウンド、響き)にする2つの技量が試される。

行の間:行間、
波の間:波間、
瞬きの間:瞬間。
人の間:人間。
その間をたゆたうように、見えるものとその背後にある見えないもの、聞こえるものとその背後にあるものの間を彷徨い歩く、
フィッシャー語るところの「自分たちはどんな世界に住んでいるのか、どこから来てどこへ行くのかを知ろうと」するために。

時の間:時間、空の間:空間の中で。


ベートーヴェンの弦楽四重奏曲を言われたので書きました。ベートーヴェンがモーツアルトに向かったというのは名言と思います。ブラームスもモーツアルトに向かったと言う人もいます。
それから、音楽とは何かというのは、問題提起がおかしいと思います。音楽とは何か?ではなく、これが音楽、これも音楽、というように、音楽を考えていくのが、正しい音楽への理解と思います。
「音楽は、万物の根底にある“意志”を直接に語る。
他の芸術が事物を模倣するのに対して、音楽は“存在そのもの”を響かせる。」
〜ショーペンハウアーは『意志と表象としての世界』より

人間関係でも「波長が合う、合わない」という言い方をすることがある。
音楽の「存在そのものの響き」の波長(音はまさしく波である)と
それを受信する聴取者の心の波長が一致した時、
ラジオのチューニングが合ったかのような、芳醇で豊かな響きが、そのままでも見えも聞こえもしない“存在そのものの意志”を直接に語りかけてくる。
こういう文章は面白いのでしょうか?
美とは何かでなく、これは美である。

花は美しい。――そう思うところを、何故花は美しいのかと考えるのですか?
――それは解らない。

疲れてくる。私はあまりよい考え方ではないと思います。

世界は解らない。しかし世界は時として美しい。――と書かれた方が確かあったと思います。
私も賛成です。

「晩年にベートーヴェンがモーツアルトに向かった」とを少し前に、私は書きました。このように、音楽に接して書くことが、考え方として正しいと思います。
「芸術の機能は、開いているドアを叩き壊すことより、閉まっているドアを開くことにある。
しかし芸術家が新しい諸現実を発見するのは、彼のためだけでなく他人のため―今自分たちはどんな世界に住んでいるのか、どこから来てどこへ行くのかを知ろうとしている全ての人々のためでもある」

〜フィッシャー「芸術はなぜ必要か」
「なじみの音楽は、私たちの頭の中で映し出される心の映画のサウンドトラックになるようです。
それは特別な人や場所の記憶を呼び戻すので、突然、心の目にその人の顔が映るでしょう。音楽と記憶の間のつながりを感じることができます」
〜ペトル・ジャナタ(認知神経科学者) 

音楽と記憶は分かちがたく一体のもの、記憶の海の奥底に宿る「自分」という物語の映像そしてサウンドトラックになる。
「日本では『お察し下さい』と言いますが、欧米にそういう文化はないんです。皆さんの演奏は『察して下さい』と言っているようなもの。もっと表現しましょう」
〜水戸芸術館 室内管弦楽団公開レッスンより。

秘すれば花」の「察する文化」と「最初に言葉ありき」の「ロゴス」の文化。あるいは一つの音や線それ自体が世界を構築する「引き算」の文化と、単独では音楽にならない音符、それ自体では言葉にならないアルファベットの素材の「足し算」の文化。

差異は決して優劣ではないが、表現は伝わってこそ意味あるもの。
「シェイクスピアは、アートは『卑しいものを貴いものに変えてみせる』とリア王に語らせている。

不愉快きわまりないほど凡庸なものを、みごとに、すばらしくすることができる活動であるとシェイクスピアは教えてくれる。
アートが何かの質を改善し、さらに力強い体験にする。

ギュスターヴ・フローベールはさらにドラマティックに『人生は悲しい見世物… 醜く、過酷で、複雑だ。芸術の目的は… 人生の重荷と辛苦を追い払うことにほかならない』と述べ、オスカー・ワイルドが『芸術の道徳は、不完全な媒体を完全な方法によって処理することにこそ存する』、芸術評論家のクライヴ・ベルが、 アートとは、『ある状況から逃れてエクスタシーにいたる』 手段であると言い、人類学者のエレン・ディサナヤケは、『アートとは、何かを特別なものにすること』という。

こうした見解をまとめると、アートとは、それがなければ退屈になるであろう生活にめりはりをつけてくれる活動と考えられる。

アートは、ありきたりのものを印象的に、つまらないものを楽しく、そして、穏やかなものを強烈に、粗野なものを優雅にもしてくれる。」

〜「人類と芸術の300万年 アートするサル」デズモンド・モリス著 より

著者は動物行動学者兼シュルレアリスム画家にして、TV動物番組の人気キャスター。
アートを美学や哲学の観点からではなく、初期人類でいかにアートへの衝動が生まれ、そして世界に花開く驚くべき現象となったのか。学者、画家にしてキャスターが親しみやすく語る。

アート:artとは”artificial”:人工物に由来する言葉。
人の手の作りしもの、アートとは、「悲しい見世物」である辛い憂き世にあってもまだ「こんな世界があるのなら、生きてみるのも悪くないか」と思わせてくれる力、そしてそんな「不愉快極まりない凡庸な」憂き世すら変化させる力を持つ作用と言えるだろう。
「色は鍵盤、目はハンマー。魂は無数の弦を持つピアノである。画家は次々と色の鍵盤に触れ、魂の振動を呼び起こす」〜カンディンスキー

ある日彼は、何が描かれているのか分からないが、アトリエに美しく輝いて見える絵があることに気付く。
それは自分の作品が横に置かれているものだったという。

またモネの「積みわらの連作」を目にした直後は「何がなんだかわけがわからない。じれったいといったらなかった。画家にはあんなにぼんやりと描く権利はない。」 しかしその後、はっきりしない絵ながら、ただその強烈な色彩にぞくぞくするほどの衝撃を受けたことに気づき、衝撃を受ける。「それは私の記憶に消すことのできない印象を与えた」。
カンディンスキーは、何であるか識別できるものを描かなくても、視覚的インパクトを与えられることを痛感し、そして「何も形を再現する必要はない」との考えに至る。
さらに、音楽を抽象的だと批判する人はいないことから、絵画を「視覚音楽」としてとらえるようになる。

具体的な形を提示し得なくても、それを眼にする者に「魂の振動を呼び起こす」
それは、具体的に対象を明確に指し示す言語なくしても(あるいは、ないがゆえに)、音響、響きをもって「魂の振動を呼び起こす」音楽とも共通する。

カンディンスキーは、色彩と形態、そしてその配置でその響きを可視化しようとしたのだ。
“composition”:「配置」には「作曲」の意味もある。

五感が相互に繋がって対象を認識する共感覚の持ち主でもあったカンディンスキーは、例えばフルートは青、チェロは濃紺、コントラバスは黒といったように、音に色を見出していた。
まさに音色(おんしょく、ねいろ)である。
「心を動かされたり、疑問を持ったり、心をかき乱されたりすること自体を楽しむというのは、人間(の脳)にとってはとてもぜいたくで、本来は、どんなにお金を積んででも欲しい、究極の剌激でもあるのです。
そんな心の動きの一つひとつが、『アートを体験する』ということなのです。

そのため その世界にふれればふれるほど、おどろきの表現に出合える機会が増えていきます。少し難しくいえば、価値観をゆさぶられるような体験を大切にしている、ということもできるかもしれません。

びっくりさせられたり、モヤモヤした気分にさせられるたりすることを、大切にする、「わからない」という気持ちにふたをせず、その状態を楽しむ。
理屈ではうまく説明できないようなものを、すぐに切り捨てたりせずに、自分なりに考えて受け止めてみる。そして、それを丸ごと味わってみる。
それが、本当の「知のトレ—ニング」であり、高IQ脳をそだてる過程なのです。

こうして本当の知性をみがいていく道のりそのものが、『アートを体験する』ということだとわたしは思っています。」

〜「中野信子のこどもアート脳科学」より

未だ聞いたことのないような音楽の、未聴の響き。
既視感や既聴感とは全く無縁なものと出会った時の新鮮な驚き。
その新鮮な驚きと「心を動かされたり、疑問を持ったり、心をかき乱されたりする」喜びのために、今まで聞いたこともないような未聴の響きを今日も探している。
「自身の無意識な願望を満たす空想世界を創造する点において、芸術家と白昼夢を見る人には共通点がある。

しかし白昼夢を見る人とは異なり、芸術家は芸術的創造物の中で現実へと舞い戻る道を見つける。

そしてそれは子供の遊びに似ている。子供は遊びで外界を使用し、自分たちの願望に見合うようにその形を変化させるからである。

フロイトは遊びの反対は真剣さではなく現実と言う。遊びは子供にとって真剣なものである。
遊びの中で自分たちが創造する世界は現実ではないことを子供は知っている。
芸術家も彼が創造する空想世界が現実ではないことを承知している」
〜ハンナ・シーガル「夢・幻想・芸術〜象徴作用の精神分析理論」より

芸術家はありふれた日常を、特別な意味を持つ世界に変える。作品は空想世界という異界への扉、現実世界と空想世界の結界。一枚の絵画、一曲の音楽、一編の詩や物語がその扉を開く。私たちは作品を依り代に、窓を通し屋内と屋外を吹き抜ける風のように現実世界と空想世界を行き交う。そしていつでも現実世界に戻ることができる。

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