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構造・概念・システムコミュのそろそろ本気で

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大分、「自分の意図」が判ってきました。

最初は、よく判っていなかったです。

こういう視点では、「筋・けじめ」と「義理・人情」の二本立て、という日本社会の「システム」は、けっこうよくできています。

このコンセプトをうまく理解して、きちんとそれに準拠した、「ふるまい」の建設的意味もよくよく判ったりもします。

理不尽かつ不条理な、「システム仕様」ですが、案外考え抜いて作られています。

とくに「義理・人情」というアイデアは、日本が世界に自慢できる「宝」だと感じます。

この日本の美しい宝である「義理・人情」をせいぜいみんなで守りましょうとは、言い得ます。

コメント(26)

ここで、もう一度、最初のアイデア「モチベーション管理」を、もう一度あげるのも、悪くはない。

「モチベーション」なしで、こんなに面倒なことが、考え抜けるか?

これを冷静に思っていただきたいところである。

ほとんど、わたしの学問は、「これ」というジャンルのない、汎用性の高いもので、敢えていうと「鳴笛学」としか、言いようがない。

哲学にも「応用可能」であるし、哲学から学ぶところもある。

宗教学などとも同じ関係にある。社会学や、科学に対してもである。

わたしの作業は、「哲学」だけには納まりきらないので、「哲学」とは、言い切れない。

わたしは名誉心で、「鳴笛学」と言っているのではなく、「適切な必要」から、「鳴笛学」と呼ぶだけのことである。

ご意見があれば伺いたい。


わたしは、コンピュータ歴はそこそこですが、ちゃんとしたのは、アップル�競廛薀垢痢屮戞璽轡奪�」だけで、「桃太郎のフローチャート」ならば、書いた経験があります。

いわゆる「コンピュータ・オタク」ですが、プログラミングはまずしません。

こういう文章を書く方が好きです。

「アイデア鑑賞家」です。

たとえば、「FORTHの魅力について」ならば、言いたいこともなくはないです。

ただ、「あまりにもあけっぴろげ」で、まずいソースだと、ひどいことには、なりやすいことも知っています。

あっちこっちに、データ参照が手間取って、肝腎の作業が、なかなか捗らないので、困るのもたしかです。

ただ、Cで「ポインタ」がわからなかったらFORTHの構造を知るといいです。

すぐにわかるでしょう。

FORTHのいいところは、なんでもかんでもあけっぴろげなところです。

これは、実にすごいと思います。

FORTHで、FORTHを記述できます。

たぶん、「メタ・プログラミング」と、FORTHは、深い関係があります。

ところで、わたしの時代の問題は、「構造化プログラミング云々」でした。

ツウでしか知らないことですが、この「構造化プログラミング」を図にする「PAD」というのがあり、メジャーにならなかったのが不思議です。

これを、ずーっと引き伸ばすと、多分「オブジェクト指向」や「デザイン・パターン」になるかと思います。

アラン・ケイさんのすごいところです。

アラン・ケイさんのコミュにも書いてもいいですが、この人の偉いところは、表向き、「現実の比喩をプログラミングに採用した。」ことのようです。

しかし、全く逆の発想ありです。

「プログラミングの発想で、現実を見る」これは、すごいアイデアです。

繰り返しですが、これはすごいアイデアで、現実世界の問題を、コンピュータでデバッグできるということです。

ただ、「アルゴリズム」とか「データ構造」などの、完全には判らない部分もあります。

こういう「現実をコンピュータ上で構成して、デバッグする」ことができたら、大変にいいことと言えるでしょう。

こういうポジションも、またありです。

これが、コンピュータの「底力」で、「ノイマン型」の構造ならば、全部に応用できるはずです。

ここが、「限界」でもあるでしょう。

巷の「人口知能」よりも、重要な話題だと思います。

人工知能は、要するに「アルゴリズム問題」ですが、この「現実コンピュータ説」は、衝撃度でも、また、適用範囲でも、ずっと強い「知的革命」であるはずです。

これに共感する方が、おられたら、是非お話がしたいと願って、やって来ました。

わたしは、「アマゾン」という「システム」の「バグ取り」を、本能的に試みている自分に驚愕しました。

ここまで、「コンピュータ・オタク」の知性には、「アルゴリズムとデータ構造」が入り込んでいるものです。


困った男ですが、宜しくお願いします。
わたしは、もちろんLISPもリスペクトしていますが、二進木の構造に特化しすぎているような印象もあり、あの「カッコの山」をうまくハックする皆さんは、実に偉いと思います。

とりあえず、御挨拶だけで、失礼致します。

鳴笛


(つづく)



はじめまして。よろしくお願いいたします。

Forthという言語は、20代の後半にソフトウェア開発社員への職転研修でインストラクターをしてくれた人が好きな言語だという話を聞いた程度で、名前だけは知っているという感じです。

逆ポーランド記法は、プログラミング言語C(K&R)のelisp版を書いた際に出てきたので少しプログラムを書きましたが、普段はあまり馴染みがありません。

emacsのGNU計算機がまさにそれだと思います。

構造化分析は一応ちゃんと修得したと思います。

トムデマルコやエドワードヨードンの本も読みました

実業務ではデリックハートレーのリアルタイム構造化分析もやりました。

書いたチャートはデータフローや制御スペック(イベント状態マトリクスとか)。

今でも込み入った要求仕様を考えるときにそういった図を書くことがあります。

オブジェクト指向に関しては、職転後の最初の業務でC言語によるオブジェクト指向という、ほとんど学会ネタのようなプロジェクトで少し触れたくらいで、その後はプログラムを書く仕事から離れるまで関わっていません。

プログラムをイメージするために実世界に例えることは多かったと思います。

マルチタスクシステムではタスクを人に例えることが多かったような。

現実世界をコンピュータ上に構築するというのは、たとえば核実験をコンピュータ上でシミュレートする、といったことですかね。

いまだに地下核実験なんてやっている某国のような国はもうほとんどありません。

ただ、現実をコンピュータ上で表現できるといっても、それが人手による者であれば思い込みが混入するという欠点もあるでしょう。

南極が温暖化すると氷が増えるという現実を知らないで、氷が解けると思い込んだままシミュレートしても正しい結果は得られません。

他にも恣意的に誤った現実が多く浸透してしまっています。

これらの誤謬は、現実の認識が時間軸上の目に見える物事の移り変わりではなく、エネルギーの動きなのだという根本原理を忘れてしまっていることにより起きています。

ノイマン型が逐次実行の方式であるならば、現実を構築するのには非効率かもしれませんね。

今流行のVRとは次元の違う話です。

人工知能に関しては、最近になって冗談半分のツイートをいくつかしました。

個人的には人間の操作に応じて動くシステムでも瑕疵を潰しきれないのに人工知能の品質をどう担保するのか、ハッキングを防御する仕組みはあるのか、そもそも人工知能の値段はいくらくらいなのか、人工知能が人間に代わって労働した場合の報酬は人間と同等になるのか...など、疑問や不安はいくらでもあります。しかし、

ツイッター上で見かける発言の多くは、それとは別のいささかお花畑的なものが多いように感じます。

最後に、二分木は再帰で考えた方がシンプルだと思います。

括弧の中にどんどん潜っていくイメージです。私はそういうロジックが好きではないので、二分木構造のデータはイメージしません。

別に普通のリストで十分です(笑)

ではでは。
まっとうなコメントをいただけたのは「某」さんさんが、始めてです。

様々なご指摘には、なるほど思うところもあり、またわたしの考えの至らないところもあるようです。

たしかに、「現実のコンピュータへの投影」では、ある程度「恣意性」の問題があること。

これは、実によく判る、重要なご指摘です。

これは、よくよく考えたいテーマですが、あまりに複雑な実装をするつもりではありません。

必要に応じた、実用本位での実装ならば、この「恣意性」は、「ある程度」クリアしうるのではないかと楽観的に考えています。

コンピュータの「ノイマン型」という宿命、これはどうしようもありません。

諦めるしかないです。

コンピュータで、なにをするにしても、この「フォン・ノイマンのボトルネック」には、泣かされます。

たとえば、この問題は「人口知能」でもという、ご指摘の通りです。

ですから、人工知能や、「人工現実」のハードルは、かなり高いというご指摘も、また賛成です。

 また、わたしには、まだあんまり理解できない、難しいうんちくにも感謝します。

再帰というのは、一種のループ構造の、スマートな表記法だろうと、漠然と考えます。

このあたりは怪しく、ちゃんと勉強はするつもりです。

やぱり、天下のLISPだけのことのある、さまざまなお話には、実に実に感謝します。

やっぱりわたしも若干、LISPを勉強するのもいいかもとも思いました。

また、「clisp」という、common lisp 系のプログラムが、パソコンにいれてあり、今日からでも勉強は、可能です。

ただ、「現実をコンピュータに反映」させるケースでは、おそらく、「オブジェクト指向」の方がうまく表現できるのではないかと、思います。

この辺は、おおよその勘です。

LISPの方が、役に立つ場合、わたしはLISPを使うつもりですし、「何が何でもオブジェクト指向」という義理も、特にありません。

たとえば、ゲーム「シムシティ」は、そういう「実装」の一例です。

かなりアバウトな「実装例」ですが、ある程度の「意味」はあります。

またたとえば、音楽であれば、楽譜を使い(音楽の実装も「現実の実装」の一例です。)

いわゆる音楽畑での「DAW」も、そういう側面があります。

数学的な意味のある現象では、MATHEMATICAでもいいかもしれません。

この辺になると、「データ構造にふるまいを与える」つまり、プログラミングの問題になってきます。

わたしの「一番弱い」部分ではあります。

多分、「アルゴリズム」が、うまく考えられないのだと思います。

人に頼むか、自分でクリアする筋合いの問題ではあります。

それはともかく、忙しいお時間をわざわざわたしのために割いていただき、本当にありがとうございました。

なにかご縁があったら、その際には、また宜しくお願い致します。

***

「ただ、比喩は比喩にすぎず、同一性ではない。類似と同一を一括りにはできない。これが、わたしなりの自分への「突っ込み」ではある。 」


これが、適当なお答えになるかと思います。

いかがでしょうか?

これは、「科学」においては「鉄則」だとは、思います。

つまり、「科学の「仮説性」という側面」です。

このあたりは、どう考えられますか?
書き忘れましたが、巷の「ロール・プレイング・ゲーム」も、立派な「疑似現実」であることも、付け加えていいでしょう。
「無構造、非構造、構造否定」への「構造的な側から」のアプローチについて。

これらをいかに「構造サイド」で、どう受け止めるかは、案外重要なポイントで、不良息子や不良娘を、まともな親がどう扱うか?とも通じうるテーマでもある。

つまり、老荘や禅をどう扱うか?

というテーマともストレートに通じる部分ではある。

また、これは、「無意識」という概念へのアプローチでもある言っていいと思う。
また、もう一度「モチベーション管理」こそが、わたしのアイデアの出発点でもあり、また絶えず機能しており、おそらく終止点でもあることを、何度でも、何度でも、強調しておきたい。

この「モチベーション管理」が、全ての「種子」であることを明記しておきたい。
(別トピの再録で、読みやすくしました。)

ところで、わたしのしていることが、「コンピュータにおけるシュミレーション」と「同一」かは、ちょこっと考えるべき筋合いの問題です。

たとえば、「古式剣術」のシステムを考えるとか、「旨い蕎麦」を鑑賞するとか、また酒や寿司の元々となる「プロセス」を考えたり、「いい女」について解析したり、といったこともわたしの「仕事」の重要部分で、おそらくこれはコンピュータ任せにはできないでしょうし、コンピュータに旨い寿司を食わせるよりも、自分で食うほうが、「適切なふるまい」だとは思います。
「いい女」においても、これは言えることです。

まだまだ、自分のしようとしていることの「ごく一部分」しか、どうもわたし自身にも判っていないようでもあります。

これは「パイオニア」の宿命ではあります。
「たまごっち」や「ポケモンGO」も立派な「実装例」ではあります。
どうも、わたしの「コンセプト」が理解しづらいことだけは「理解」できました。

これにどういう「処方箋」を書くかも重要で、理解される努力の大本も「モチベーション」にあります。

これほどかみ砕いて話してもわからないと、今のところ理解される技術は不足していることだけは「理解」できますし、それくらいの「壁」をクリアすることは、そんなに難しいことではないかと、おぼろげに「期待」します。

しかし、このアイデアのどこが「理解不能」なのかは、実に興味深いことで、好奇心もそそられるところです。

実に面白い実例です。

これこそ、「モチベーション」の「威力」ではあります。

かくも「モチベーション」とは重要なキーポイントなのだと、理解したところではあります。
ここまで、あえて「非構造的」構造を扱ってきました。

此処で、今度は、「構造らしい」構造を扱います。

まずは、アリストテレスの「形而上學」の大系です。

つぎに、「朱子語類」などのような、「形而上學」もあります。

そして、易は、とても構造的です。

また、数学や、物理のシステムも大変に構造的であり、コンピュータ技術は、極めて構造的です。

ですが、たとえば、錬金術は、「似而非科学」であり、化学は、「科学的」です。

なぜ、こういう事態が生じるのでしょうか?

数学、および物理学、ことに天文学は、大変に「科学的」である。

科学的であることは、アプリオリに賢明とは言えないが、明らかに宋儒の「形而上學」は、倫理的な色彩を帯びている。

では、科学を踏まえたうえで、「格物窮理學」を構成できないか?

此処は考える必要があります。

どうして、科学は、普遍的に事実性を帯びるのか?

実験があるからですが、理論物理と、実験物理が分化したことは注目すべきです。

また、何故に数学的思考は成立しうるか?

これは、現代数学のテーマです。

ここと、「形而上學」の類似点と、異なる点。

格物窮理には、理想がありますが、物理學には、倫理性は、極めて小さい。

これはなぜか?

こういったことを考えてゆくつもりです。
また、数学における「極限」は、わりと簡単ですが、物理、ことに理論物理、素粒子物理となると、手に負えないです。

また、数学においては、ゲーデルの「不完全性証明」で、証明できない問いがあることも判っています。

ただ、大体の問いは、証明できるらしいのですが。

物理では、既に、光の性質上、計測不可能な対象があることも事実です。

時間の問題をどう扱うかは味噌で、「ビッグバン以前は?」という問いを沈黙させられる時間論があるはずです。

光は時間と密な存在だからです。

ただし、光よりも基本的な存在が観測される可能性もあり得ます。

つまり、物理は「閉じた」大系ではないでしょう。
しかしここで、観察している「人間」の問題が出てくることは、間違いはないです。

人間には、冷静な知性だけではない、さまざまの喜怒哀楽があります。

これを物理が無視することは、いささか変です。

これは数学でも言えることです。

ここに理学と、文学の接点は、あるかもしれません。

また、数学や物理は、極めて抽象度が高く、現実世界をそのあるがままに見ているにではなく、ある「モデル化」をしていることも事実です。

これについて、意識的であるべきです。

知性があることと賢明であることは別問題であると、原爆や、ダイナマイトが教えています。

賢明というと、「中庸」です。

科学者は、いささか「中庸」に欠けているものです。
また、ヨーロッパ音楽史においては、「五線譜成立史」と、「平均律成立史」が問題となります。

純粋倍音で構成されているキーという存在を、転調自由のために犠牲にしてきた歴史があります。
また、七音音階のほかにも、六音音階や、五音音階もあります。

また、人間の体構造、運動構造は、基本的にあり、治療や武術も、ここを上手く使っています。

この場合でも、物理法則には、従っています。
武技についていうならば、いかに柔らかいかと、全身の連関、精密さの研究とならざるを得ないでしょう。

自分に合った稽古は、ある程度以上は、自分で工夫するもので、昔の稽古は、おおよそそういうものだったでしょう。

遊びで、モップなどを掌に立てて、バランスを取るなどをされていますが、あれはとてもいい稽古です。

さらに、朴歯の一本歯に乗りながら、あれができたら、かなりからだはこなせていると言えるでしょう。

単純な稽古なので、公開します。
また、中国には、干支というシステムと、五行というシステムと、陰陽と、易のシステムがあります。

おおよそ、別個にバラバラに成立したのではないでしょうか?

強引に一箇のシステムに統合しようとすると、無理があります。

また、暦というシステムは、かなり早期に成立しましたが、どうしても誤差が生じる仕掛けです。

茲は、宣長の「真暦考」を読みたいと考えます。

(筑摩版全集・第八巻にあります。)
平成31年3月18日(月)

ひさしぶりに戻ってきました。

自分のテキストを見てとても面白いと思いました。

現在は、ずっと興味がある「朱子學」の中の「理學」という側面に注目しています。

理窟のある學問がすべて「理學」だということです。

物理學、心理學、などはみな「理學」だそうです。

「理學」でない「學問」があるか?

というと儒學のなかでは「心學」(王陽明)というのがあります。

あとは江戸時代の日本の學問(儒學)で、「古義學」(伊藤仁斎)や、「古文辞學」(荻生徂徠)、「古學」(本居宣長の學問です。)があります。

徂徠の「古文辞學」は中国思想の影響があります。

もちろんご存じの通り「国學」というのもあります。

また、儒學以外の宗教にまで広く知見を広げてみると、「歎異抄」(浄土真宗の教理)に見られる「絶対者」つまり「理」の構造が朱子學とはかなり違うことがなんとなくわかります。

いまのところではこれぐらいです。

禅や念仏は朱子學のヒントになったはずです。

朱子學自体が佛教の影響下にあるのは確かだからです。

この辺で頑張っています。

これから見て「どちりなきりしたん」(キリシタン文書)などの「絶対者(イコール「理」)の構造がどうなっているかは興味があります。

「理(イコール「絶対者」)」に人格性があるかないか?

という問題は「古事記傳」の「かみ」と関係する問題です。

参考文献を挙げます

( いまのところなので多く不備があってすみません。

もう少し原稿ができた段階でもうちょっと詳しい参考資料を書き直すのではと思います。)

___


「中国思想史「上・下」」森三樹三郎、レグルス文庫(第三文明社)

(中国思想の入門としてとてもいい本です。)

「朱子学入門」 垣内景子 、 ミネルヴァ書房

( 朱子學に興味がある方にはまずお勧めします。)

「「朱子語類」抄」 三浦國雄 講談社学術文庫

( 朱子の思想というとこれは外せないと思います。)

「歎異抄」 金子大榮、校注 岩波文庫

(いうまでもなく浄土真宗、親鸞の信仰についての本で、わかりやすくコンパクトです。)

「本居宣長」「本居宣長・補記」小林秀雄 新潮社(現在では「小林秀雄・全作品 27、28」が入手しやすいと思います。)

( 江戸期の日本思想が面白く書いてある本で、読んでいて楽しい本です。)

「古事記傳」本居宣長、岩波文庫(一から四)(ただし「神代(一之巻から十七之巻)」のみ)

( 上に同じ ) 本居宣長全集 筑摩書房 より 第九巻から第十一巻

( 宣長の古學というとこれは外せないと思います。 )

「本居宣長「古事記伝」を読む」1〜4 神野志隆光 講談社 

(「古事記傳」を読むのはけっこう大変なので参考にしています。わたしはアマゾンのKindleで買いました。)

「古事記はいかにして読まれてきたか」斎藤英喜 吉川弘文館

( 宣長を起点として、古い時代まで遡っての様々な「古事記」受容史が「神話」という言葉をキーワードにして書いてある面白い本です。)

「古事記」校注・訳 山口佳紀 神野志隆光 、小学館 (日本古典文学全集 1)

(「古事記」テキストはあちこちから出ていますが参考に一冊あげました。)

「漢詩鑑賞事典」石川忠久 講談社学術文庫 

(徂徠の「古文辞學」が起源を中国明代の「古文辞派」に持つことなどがわかりやすく書いてあります。読んでいて楽しくてためになる本です。)

以上です。

おやすみなさい。



















平成31年4月23日(火)

「歎異抄」をわたしは「わかりやすくコンパクト」と批評したのですが、読んでみるとそれほど簡単な思想ではないように感じています。

感想風な文章をメモしておきます。

構造として明らかに明確ではなく、構造否定的、没構造です。

こういう種類の思想は東洋にはかなり多く、わたしもまずは非構造を扱ってきました。

ですがものには「説得力」というものがあります。

念仏宗の教えを要約すると「念仏一回唱えれば極楽ゆき間違いなし。」

だと思います。

最低限わたしはいまのところそう解釈しているのですが。

違うのでしょうか?

ですが、これは圧倒的に説得力のない教義で、なぜこんなに多くの人に信頼されているのかはよくわかりません。

ですが、似たような例を挙げることは可能です。

以前に挙げた本、「朱子学入門」のなかにある「心学」という教えは念仏にかなり近いと思います。

朱子学では「聖人」という概念を大衆化して「だれでも努力すれば聖人になれる」という教えに訂正しましたが、心学ではさらに「だれでももともと聖人なのだ」というくらいにまで大衆化し、かつ聖人というものの価値をそこまで貶めているとも言えます。

また老子の唱えた「無為自然」という教えも、孔子(儒教)の教えのひっくり返しです。

いま、「老荘と仏教」森三樹三郎、講談社学術文庫(2003年)を読んでいます。

この本を読むといろいろなことがもうちょっと整頓できるようになるのではないかと期待しているのですが。

仏教でも「中国的な仏教」は「念仏」「禅」なのだそうです。

最低限、なぜ念仏(浄土宗)があのようにわかりづらい教えを極端に大衆化しえたかはわかるのではないかと期待しています。

そして仏教のなかに、なぜ知識や教養に対して否定的、拒絶的な心性が植え付けられたか?

つまり極端な「体験主義」ですね。

こういう傾向になぜ仏教がなったか?

ということも考えてゆこうと思います。

今日は、ふっと思いついてメモをしにこのトピックにやってきました。

では失礼します。





「根本的にはシステムというのはハウツーだろう。

つねに何かを指向しているだろう。」

2019年6月24日(月)

よってシステムではハウツーではないものは扱えない道理だ。

なにがハウツーでなにがハウツーでないかは非常に難しいだろうが、この世の文化はすべてハウツーとハウツーでないものに分岐し続けているだろう。

ハウツーではない文化もなんらかの結果(現実)を出すとたんにハウツーの対象になるだろう。

それはおそらく好ましいハウツーと避けたいハウツーだろう。

あるいはあとはどうでもいいものだろう。

ハウツーのハウツーはあるだろうが、ハウツーではない部分はハウツーであることには論理上なりえない。

ではなにがハウツーではありえないだろうか?

よくわからない。

ほとんど全ての現実がハウツーの対象だろう。

それは昨今のハウツー文化を見れば非常に明らかだろう。

しかし、ハウツーがハウツーとして十全に機能していないような種類のハウツーがあるだろう。

これは偽物のハウツーだろう。

これは「である」ことと「であるべき」、「であるべきではない」の混同だろう。

「であるべき」ハウツーが「である」ハウツーではないことが多々あるだろう。

ではハウツーはいかにしてハウツーたりえるか?

ハウツーとはどういうものであり、どうあるべきか、あるいはどうあるべきではないか?

これはおそらく問えるのではないか?

これは実用性が高いハウツーのハウツーだろう。

参考文献

「文明論之概略を読む」上 「序、古典からどう学ぶか〜開講の辞にかえて」丸山眞男 岩波新書(1986年)
ここで考えたいのは無論「浄土宗」がどの程度厳密に「ハウツー」かです。

あるいは浄土宗が「ハウツーではない」ならば「いったい何なのか?」ということです。
わかりずらかったかも知れないので注釈しますが「ハウツー」とは英語の「HOW TO ? 」の日本語訳で、この現代でも「ハウツー」ではない情報は珍しいのではないかと思います。
「現代における朱子學」

再録

2019年8月29日(木)

わたしの父親は科学者で科学啓蒙については極めて楽観的でした。

科学文明の無限の発展に対して極めて楽観的だった。

わたしは科学啓蒙の明るさには強く惹かれるがそれには大きな限界があると思う。

科学啓蒙にとって牧歌的な時代はすでに終わったようだ。

科学技術というものは無条件でいいものではない。

それは現代文明を見れば誰にでも自明だろう。

ではそのあとにはどういう可能性が人類にあるのかを考え直す時期に入っているだろう。

知性や學問精神というものはいまでも非常に重要だが、そのいくつかの要素はすでに朱子學の「格物窮理學」にも見られると思う。

形而上学や宇宙論などは非常に現代科学の思考体系と似ている。

朱子學は評判が非常に悪いがこの点は改めて評価できる部分があるのではないかと思う。

ここに現代において朱子學をもう一度考える意味がある。

朱子學はよく言われるよう極めて厳格な思想でありまた楽観的、強気な思想だと思う。

それは現代科学思想の持つ数学的な厳密さや強気さ、楽観性に酷似している。

朱子學はそのあとの思想家たちの激しい批判の的にはなってきたが朱子學の本当の意義は現代思想と並べてみて初めてわかるのではないか?

朱子學によって現代科学、科学文明を大きく批判する必要があるだろう。

端的に言えば易にあるようなミクロコスモスとマクロコスモスの調和だ。

また倫理と物理の調和の思想だろう。

また心の問題の尊重だ。

これらはニューサイエンスの大きなテーマだろう。

そして現代科学思想によって朱子學をここで弁護する必要もあるのではないかと思う。

朱子學は事実と論理に特化したという点ではヨーロッパ思想に匹敵する秩序体系を持っているのではないだろうか?

臨床心理学者の河合隼雄の主張する「新しい科学」というものの研究には朱子學は非常に貢献するのではないか?

ここにもう一度朱子學を新しく考え直す契機があると思う。

朱子という學者は現代に生まれたらおそらく自然科学者になるのではないかと思う、

それくらい朱子學の思考は現代科学思想に近親している。

こういう視座に立ってわたしはいま朱子學を學んでいる。
なにか参考になるのではと思い、拙稿を一個提出します。



イマジネーション・トレーニング法の概要

2020年3月12日(木)

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「イマジネーション・トレーニング(法)」というものをおおよそ説明するお約束でしたが

どう説明するかをずっと考えていました。

わたしにとっては、あまりに単純なので却って説明するのが難しいテーマです。

まずこれは「絵でするメモワール法」と置き換えることができます。



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では「メモワール法」とはなにか?ということですが

メモを取るということは誰でも当たり前にすることでしょう。

これを意識して継続的、組織的にする訓練を、わたしは「メモワール法」と呼んでいます。

わたしはスマホやiPadやコンピュータでこの「メモワール」を分類整理して管理しています。

それを「クラウド」というところにまとめて保管してあります。

一箇所にメモをまとめておいて、いつでも見ることができるのが非常に重要で、

メモワールを簡単に読み返せることが必要です。

だいたい現在では10,000件以上の「メモワール」があり、毎日増えています。

たとえば、いまわたしは「メモワール法」を使って、このお便りも書いています。

「メモワール法」とは簡単に言うと「一種の知的生産性の方法論」です。



�� 「イマジネーション・トレーニング法の実際」その1

「イマジネーション・トレーニング法」でも「メモワール法」でもだいたい同じ原理で、「ことば」を扱うか、絵を描くか?の違いだけです。

メモワール法とはことばを使った「イマジネーション・トレーニング法」で、

イマジネーション・トレーニング法は、イメージのメモワール法です。

とりあえずは「イマジネーション・トレーニング法」の方で説明します。

イマジネーション・トレーニングは、絵をなんでもいいから描くということがその、そもそもの出発点です。

ですが、それはとても当たり前で、どんなやり方でも「絵を描く」ということが

「絵画」の技術の出発点のはずです。

ですから若干奇抜であっても、まったく理不尽な方法論ではないと思います。

では「イマジネーション・トレーニング法」の特徴や個性はどういうところにあるでしょうか?

ほとんどすべての技術をさしあたりは放棄しているところが大きな特徴だと思います。

石膏デッサンやスケッチなどは、わたしはまったくやっていません。

それは個人的な趣味の問題だと思います。

「絵を描く」ことの能力自体を、絵を描くことによってエクササイズするというアイデアが、この方法論の大きな特徴であり、これを「アイデア・デッサン、イマジネーション・デッサン」と呼んでいます。

それを「イマジネーション・デッサン・ノートブック」という形にまとめています。

この「イマジネーション・デッサン」がイマジネーション・トレーニング法の基礎になりますが

これは雨倉充さんに指導された方法で、

現在ではらくがき帳の小さな冊子(イマジネーション・デッサン・ノートブック)が四冊目で

大きな冊子はまだ一冊目

最近必要があり、スケッチブックを買いました。

またわたしは水彩半紙にするのも好きで、クロッキー帳も買ってあります。

とりあえずは絵を描くことでアイデアというものをはっきりさせてゆくのが特徴です。

つまり、漠然としたものをなるべく現実的な形で具体化してゆきます。

それでこの方法を「意識的・無意識訓練」と呼んだこともあります。




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それ以外では、この方法論を、

「イマジネーション・アート」とか「イマジネーション・メソッド」、「イマジネーション・エクササイズ」、「イマジネーション・ゲーム」、「イマジネーション・メディテーション」、などと呼ぶこともあります。

それらはイマジネーション・トレーニングのさまざまな機能を象徴しています。

初めはわたしはずいぶんと迷いましたが、現在のところ、

「イマジネーション・トレーニング法」と呼ぶのが妥当だと感じています。

では「イメージ」と「イマジネーション」はどう違うか?

おそらくイメージは「印象」でイマジネーションは「想像力」でしょう。

イマジネーションの方がわたしはより能動的だと感じます。

想像力を意識的に訓練することがイマジネーション・トレーニングでしょう。

イメージとイマジネーション、イメージとインスピレーション、

イメージとクリエイションの関係をこれをやりながら考えています。

またその上で「モチベーション」という課題には頻繁にぶつかります。

これはこの方法論の宿命だと思います。

またさらにわたしはこれを応用して「音のメモワール法」という実験も始めています。


�ァ 屮ぅ泪献諭璽轡腑鵝Ε肇譟璽縫鵐伊 廚函屮瓮皀錙璽詼 廚痢崛衒篝�」概念

また、ここで「イマジネーション・トレーニング法」と「メモワール法」との「相補性原理」というものをわたしは発見して、

絵を描くことを具体的な言葉で書くこともしています。

これは実際にやってみないとどんな感じかよくわからないかもしれません。

たとえば「元気に楽しく」「自由で愉快に」などのかなり漠然とした抽象的なメモワールもあり、

「黄色と青のコントラスト、白と黒のコントラスト、

程よい滲みや濁り、

この「色の緊張関係」を画面構成することが「魔」の作業の特徴である。」

などの細かい具体的なもの。

「紙が充分にないと安心して作業ができない。」

「赤と青と黄色のポスターカラーが欲しい。」

「ジェッソやナイフ、アクリルの技術を勉強したい。」

「いったいこんなことをして絵など描けるようになるのだろうか?」

「ここのところイマジネーショントレーニングの作業が滞っている。」

( 「イマジネーション・トレーニング法」の作業は頻繁にストップします。  )

などの細かいメモワールをまとめている部分があります。

これは「イマジネーション・メモワール」と呼んでいます。





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また、「イマジネーション・デッサン」を描くという作業では、

これは下手でも、最悪デタラメでも、とにかくなんでもいいのです。

うまく描けることもあり、またまったくうまくいかないこともあります。

すぐに優れた作品を作る必要はありません。

つまりこの方法は、その人なりの、どうすればいい絵が描けるかを探求する方法です。

そして、これを継続することが訓練の訓練たる所以です。

ですからこれを「トレーニング法」と呼んでいます。

その上でぶつかった課題に「イマジネーション・デッサン」や

「イマジネーション・メモワール」などの方法を使って、自分の力で考えることがその大きな特徴となっています。

 つい最近のトピックでは、「イマジネーション・ルーティンワーク」といって、

毎日ちょっとずつ、似たような単純な図形(丸や四角など)を、描く作業を始めました。

これは「イメージの筋トレ」「イメージのジョギング」「イメージの柔軟体操」にあたると思います。

しかし、「イマジネーション・ルーティンワーク」も、要するに一種の「イマジネーション・デッサン」です。


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イマジネーション・デッサンをして発見した原理や技術を意識的に分析することも非常に重要で、

その方法はメモワールの形式やイマジネーション・デッサンの形式、あるいはその混合体の表現を取ります。

絵の中に簡単な言葉を入れてみることもしています。

過去には描画自体の大雑把な基礎的分析をわたしなりにやって

つい最近の例では「「あやとり」による画面分割」という技術を発見しています。

理論をふっとひらめいたときに記録することが必要です。

なんらかの形式で「具体化」することにしています。

ですからかなり考えることが必要で、

科学的精神というものが必要です。

科学における研究のように、

必要があれば必要なだけ、さまざまな「イマジネーション・デッサン」を繰り返して、

疑問点を「イマジネーション・メモワール」という形で考えるのが

だいたいの方法論になると思います。

根本のところは意志力の問題であり、その意志が重要な出発点です。


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ちょっとわかりづらかったでしょうか?

することは割合と単純なのですが、理窟を書くとけっこう長い文章になり、わたしも驚きました。

わかりやすくするためさまざまな用語を使ってみましたが、

やってみるとさして難しいことではないと思います。

こんなことで絵が描けるとはちょっとよくわからないと思うかもしれませんが、

わたしはいまのところこういう方法で絵を描いています。

絵が描きたい人はこの方法論を使って、自分の絵を描く能力を向上させることができると思います。

わたしはこの方法論の発案者として、自分の作品にちょっと責任を感じています。

これが「イマジネーション・トレーニング法」のだいたいの概要になると思います。




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