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構造・概念・システムコミュのイントロダクション

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なにがなんやらさっぱりという方々に、一応、一個アイデアを提供します。

基本的には、コンピュータ周りを意識した文章かもしれませんが、汎用性はあると思います。

「モチベーションとアイデアの関係について」


どんなジャンルの活動でも、最も重要な問題は、モチベーションであると思います。

逆に言えばモチベーションさえあれは、いろんなアイデアはあり、それを具現化する方法は探せばかなりあります。

また、作ることも、ある程度は可能です。

それが文明の発展です。

コンピュータ類似の技術(スマホやタブレット)は、とりあえず具現化には便利な道具ですが、モチベーションには中立的で、コンピュータを使うことにモチベーションを感じるケースと正反対のケースがあります。

限定して使うなら、確かに便利なものだと思います。

モチベーションの質はまだ謎の部分が多く、いいアイデアと強いモチベーションは深い関係があります。

パフォーマンスの問題もモチベーションに帰ってきます。


いい仕事と強いモチベーションは大変深い関係があります。

いいテクノロジーはいいモチベーションをうまく吸い上げる傾向があります。

これはジャンルを問いません。

しかし、アイデア以上にモチベーションを評価するのは、特定のアイデアは常に限界を持つからで、アイデアに関係している人はよく知っています。

射程距離の長いアイデアはいいモチベーションと関係があると思います。

間にあわせのアイデアでなく、いかに遠くまで行けるアイデアを産出するかとは、そのアイデアが広い意味で「古典」 になるかどうかだと思います。

モチベーションは持っている人には自明の問題ですが、ないもの、足りないものには、是非とも知りたい部分でしょう。

そういう教育は聞いたことがありません。

実用的な立場があれば、おそらくモチベーションは自然と出てくると思います。

しかし、その場合、「方法論」つまりアイデアが雑になるケースもあるます。

必要は発明の母とはよく言いますが、モチベーションは必要性かもしれません。

つまり、特定の締め切りなどのストレスなどがいいアイデアの原因になることはよくあります。

しかし、それは、ご存知の通リ、すごく愉快な方法ではありません。


そういうストレスを望むなら、組織人になることはいい選択肢です。


資格などを取ることは、そこそこ意味があるのはそういう理由ですが、資格を取れる種類の能力は、競合性が強く、労働力に近くなります。

また、あまりにアイデアばかりを要求されることは精神衛生の上でも、最終的なパフォーマンスの面でも、マイナスになると思います。

つまり、組織迎合的なアイデアしか試せないのは、個人としてはマイナス要素です。

これは現代の組織の問題です。

平穏無事な幸福を願うなら、所属する組織については慎重である必要があります。

組織を自己調達する場合も、構成員の幸福に関心を持つことは、結果としては重要です。

簡単な例では、バンドを組むなどの場合も同じことです。

必要に応じて、目的適合的な緩い組織を組み立てることはモチベーションにはいいかもしれません。

必要がなくなったら、解散できるような状況を維持することは重要です。

そういう意味でも、ネット環境というものは、大変合理的な選択肢のひとつです。

しかし、フェイストゥーフェイスの組織も要ると思います。


組織を作るなら、目的意識が重要です。

それを無視すると、幸福を失います。


フリーな立場の場合、モチベーションが最も重要な問題になるとは確認しています。


豊富にある時間という財産を生産的に使うことは重要なポイントです。

幸福に生きるためにも重要だと思います。

フリーの立場では、いいアイデアを産出する方法論を立てなくてはいけません。


社会の状況にマッチした還元が必要です。

理論としては、完全にフリーの立場というものはないと思います。

ロビンソン・クルーソーのようなケースではアイデアは死活問題です。

それは ちょっと極端ですが。

いかにモチベーションを維持するかというのは大事だと思っています。

単純作業をしたり、気分転換をしたり、コミュニケーションをするうちに、自然とモチベーションもアイデアも出てきます。

なんらかの形で「学ぶ」ことも大切です。

学ぶことは真似をすることで、これはある程度必要で重要です。


興味を積極的に持てるかどうかと関係なく、とりあえずできることは手間を惜しまずやることは大切で、プラスでもマイナスでも、実体験を積むのは訓練として重要です。

極端に単純なものをバカにせず、極端に複雑なものを恐れないことは重要です。

なにかピンときたら積極的にアプローチするのはいい選択肢です。

とにかく馬鹿馬鹿しいと言わず、一応打ち込むことはいい効果を挙げます。

それをなんらかの形で表現することも大切です。

また矛盾ですが、好き嫌いに徹底的にこだわることがいい結果を生むケースもあります。

それはその好き嫌いが積極的な意味を持つ場合です。

嫌いよりも好きが重要だと思います。

それも大好きならば、モチベーションに直結します。

すごーく嫌だと思ったら、別のアプローチを積極的に考えるべきです。

なかなかうまくはいかないことですが。

わたしの場合はこれは決定的に意味がありました。


現在は、適当な選択肢の組み合わせを選択しています。

こういうことを総括して反省することは人生そのものの反省です。

例えば、今やっているような作業は、そういう意味があると思います。

のんびり書きましたが、重要な環境や必要な土台を構築するのは賭博性も多く、犠牲も多く必要です。

あんまり理解されることを望んではいけません。

つまり、理解されないアイデアに理解される技術を適用することが社会還元というものだからです。

そうでなければ、理解されやすく、真似もしやすい安価な労働力を社会に提供するのはいい選択肢です。


しかし、それでもモチベーションは重要な課題です。

なんらかの形で、判りやすい形で社会還元すれば、そこそこの見返りは期待できます。

社会参加は必須で重要だと思います。



わたしは、モチベーションが根本的に重要だということにこれを書きながら気付きました。

また、想像以上にモチベーションの管理が、仕事を左右することも書きながら気付きます。

もしかしたら収入も左右するかもしれません。今のところそういうことになっていませんので、責任は持てない部分です。


常に考え続ける態度を維持すること、なにかを面白いと思えるのは訓練できる能力だと思います。

直感は多くの場合は、経験値の問題です。

その経験からいかに遠くまで行けるかは、思考力の問題です。

なるべく広い範囲を学ぶことの意味はそこにあります。

そういう態度を維持する限り、健康な精神さえあれば、モチベーションは自然と生まれると思います。


金銭はそれほど要らないものです。

また、あまりにアウトプットに多忙だと、いろんなジャンルをトライすることが難しくなる傾向はあります。

しかし、アウトプット、つまり具現化は重要な課題です。

そこはバランスかもしれません。

これは思想や宗教の問題でも大いに言えることです。

わたしの場合はコアとなるフィールドが、今のところ今ひとつはっきりしていないのは、いい面と悪い面があります。

これは努力するべき点です。

つまり、わたし自身で、自分のフィールドを開拓する必要があります。


つまりコア自体を自分自身で作ることを試みています。

しかし、一つわたしの立場から発言できるのは、能率中心の社会よりもモチベーション中心の社会の方が幸福な社会だという指摘です。

これはみなさんに同意して頂けると思います。


いろんな面で話が散漫になりましたが、主にモチベーションでお悩みの方の参考になるといいです。

OKARA

コメント(14)

ついでに、思いついたアイデアを一個提供します。

「汎用論理言語」

なるべく普遍性を持った、必要程度に難しい概念をシンプルに表現しうる、そういう意味で強力であり、完全に厳密な文法を持った、万国向けの実用的コミュニケーション言語の要求は、プログラミング言語の要求以上に求められる。それは、全ての思想体系をハックするために良いもので、各個人は、この言語で自分のアイデアを自由に記載することにより、普遍的な貢献を全地球的な規模で行える。

このアイデアの限界は、論理の限界、数学の限界で、詩をこの言語で表現することは、原理としてできない。つまり、ニュアンスというものは、多分に非論理的なもので、人間の生活 には必要だが、アイデアの表記には向かないものだからだ。

こういう事態は理学者やエンジニアにはよく理解できるだろう。

また、世界の大思想 の理解から翻訳の問題を排除したいと願う学者の切実な要求に応えるべき努力の方向である。

また、あんまり沢山こういうシステムはいらないだろう。

というか、あんまりこういう哲学言語が氾濫することは、明らかにその目的と 違う方向である。

そういう意味で、エスペラント語や、ベーシック・イングリッシュで、十分かもしれない。

そういう十分に成熟した言語を利用し、必要な概念をシンプルに表記するよう拡張することは現実的な選択でもある


要は必要な概念が表記できることと、多数の人間に学ばれる状況次第である。


自己の民族言語と普遍言語のシンプルな組み合わせでコミュニケーションが行えるならば、全地球的な 文化にはのぞましいと思われる。

時間の概念や性の概念などの要素を定義した上で利用することはいいことで、自己民族の発想に意識的なことが最も大切である。

そういう種類の実学的応用の可能性が言語学にはある。


これは実学的問題であると同時に本質論でもある。

そういう立場で、なるべく世界の言語の文法の可能性を検討する必要はあるだろう。

また、そういう言語では追求できない、各民族の民族言語の尊重もあるだろう。

例えば、俳諧を世界化することは絶対不可能で、日本語をマスターした程度と、正しい俳諧の理解力は正比例する。


俳諧という文化はあまりにも日本語のシステムに本質として依存していすぎるからだ。

又、國學のシステムを理解するは日本人に無批判になることで、これは致し方ない前提でもある。

これは政治的な意識でも完全に日本人になりきることで、 日本人ですらためらうことである。

外国語の論理で日本人の文明を分析することの無意味なことは、簡単には理解する必要はない。

日本人とはこういう形で一つの文明を作ったのだ。

それは、日本文化の特権であると同時に全く特権ではない。

日本人に思想が可能なのはそういう根拠がある。

これは、難しい問題である。

英語俳諧というものは否定はしないが、とりあえずは日本語の俳諧とは絶対に違うものだ。

文学がとりあえず、民族言語によって表現されることはこのような理由で正当である。ジェイムス・ジョイスを理解するのは、日本語訳であるは足りず、マルセル・プルーストを理解すること、リルケを理解することも、それらの表現される民族言語の習得度合いに依拠することも、同じ理由がある。

日本語によるマラルメ理解という種類のこころみは、純粋に日本語の枠内の努力である。

ヘッセを理解することはドイツ語の理解の努力の問題で、翻訳は本質として創造的なものだ。

つまり、ヘッセを高橋健二訳で読むことは、純粋なヘッセ理解でない。

むしろ、高橋健二のヘッセ理解の観賞である。

これは「翻訳王国」である日本では、よく理解するべきことだろう。

(つづく)


また、なるべく普遍性を持った文明を作ることは、 日本人が最も必要とするはずだ。


正法眼蔵なり、西田哲学のエッセンスを、適切にそういう哲学言語で表記し、その土俵で世界的に論議できるならば、それは素晴らしい事で、まずは、権威ある、オープン・ソースの形で、優秀な技術が実現されると、システムが説得力を持つのは、コンピュータ言語と同じ理由がある。

そういう点では 日本文化の鎖国的な状況を打破する努力でもある。

それはグローバル化とは絶対に違う方向である。

また、そういう表現力を持つ普遍哲学言語を作ることが難しいこともこういう例で理解できるだろう。

しかし、そういう表現力を持つ言語は可能かという発想自体は、翻訳に意味がある立場に立つならば、絶対不可避な状況であるだろう。

つまり、外国語に翻訳する技術、外国語より翻訳する技術よりも、普遍性を持った文明を作ることが大切になる。

あるアイデアを世界が共有し批判しうるという状況を作り出すことが最も大切なことで、技術はその目的の一つの回答である。

また、それは民族相互の絶対的な異質性の尊重という方向にも向かうはずだと思う。

つまり、最も重要なアイデアは世界的にはなかなか共有できないという理解である。

例えばニューギニア高地人の概念構成はシンプルであるが、実用的な意味で強力な表現力を持つ。

エスキモーやインディアンの言語に独自の概念展開があり、これらを否定することはアイデアの否定でもある。

それらのアイデアを受容することはそれらの生活様式や価値観を受容して、食生活を受容、信仰することが必要だと思う。

また、これらの世界にキリスト教などを紹介する必要がそれほどないのも事実でもある。

つまり、共有的な言語とは、現代的な発想でもある。


特に全ての世界が共有的になる必要はなく、日本邦楽が西洋楽理とは違うことは特に不自由ではない。

また、世界化する必要がない。

しかしお互いに、そういう 認識から始める必要はある。

そういう視座から出発するならば、世界化と民族尊重は何ら矛盾しない視座を展開すると思う。

これらは、ある意味グローバル化でもあるが、ある意味民族主義で、多元的な発想でもある。


民族主義は本来無意識のものだが、意識的な民族主義は現代的な意識でもある。

ある意味、大変面倒な発想で、こういう発想自体が極めて現代的な、ポストモダンの発想でもある。

おそらくレヴィ・ストロースなどのポストモダン思想の難解性はこういう事態からくるのだろう。

それに、シンプルな論理で処方箋を書く作業はいると思う。

つまり、難解な論理の乱立は、極めてシンプルな発想で解決できるはずだ。

所謂、構造主義はこういう方向で、うまく接合可能であるかもしれないし、それぞれが自分独自の論理に万国向けの理解を求めることは限度があり、うまく束ねる大思想が要るだろう。

つまり、ポスト・ポストモダンの発想でもある。

大思想とはこういうシステムで、大思想がないことが現代哲学の問題の大問題である。

フォームとしての古典がないことは現代の問題である。

それゆえ

大思想はなるべく普遍性を持つように設計する必要がある。

そういう視座をクリアする ならば、極度に実用的な発想が極度に本質的な意識に接合可能である。

そういう意味で必要以上に難解な表現力を排除することは特に重要なアイデアでもある。

ラカンなどの 、難解であることが商業的な意味を持つ存在は、基本的にフロイト思想と言語論の形で解けるはずだ。

これはオブジェクト指向アイデアの哲学的な展開である。

学問は極度に安価である必要が、大変にある。

学問は庶民のものだからだ。

つまり普遍哲学言語論とはこういう形で、大変多面的な意味を持つ。

ついには、商品としての思想まで行きうる。

こういう点ではマルクス思想とも接合している。


これは思想の商業的な意味を改変する意味を持つ。

つまり、今までにあった、諸思想の現代的な総括という機能がある。

将来思想がどのような表現力を持つかということの可能性を示唆している。

現時点では、これだけ考えておけば十分である。

2016/02/20

いわゆる「哲学」の問いの多くに、既知の概念を、わざわざ改めて「〜とは?」と問う作業が見られることがある。

これはなるべくたわいないものの方がいい。

例えば、現在とは?とか、人間とは?とか、死とは?とか、よくわかるようなわからないようなものが、素人受けする傾向がある。

そういうものには、単純な答えでない方が受ける。

何がなんやら、判ったようなわからないような答えが受ける傾向がある。

しかし、そういうアイデアの中で、現実的に意味があるケースがある。

時間とは?という問いは、光物理の範囲では意味がある問いである。

あとは、言語学的に意味があるケースもある。

現在という概念は、なかなか複雑な問題で、よく考えると、未来も過去も、現在に含まれる。

こういう場合は、どういうアプローチを取るべきだろうか?

いわゆる「時制」の問題として処理してもいいし、なんらかの「哲学的」構造を利用する方法もある。

つまり有意義な答えが出るなら、問いも有意義である。

なにがなにやらわからない結果が出る提供ならば、無意味な問いである。

そういうことは一般的に言えるのだろう。

幼稚で不明瞭なものしかものしか提供できないならば無意味な試みである。

答えが問いの質を決定する。


自明であるカテゴリーに未知の領域を認める努力は有意義かもしれないが、なかなか普遍性を持たない。

つまりあまりな構造とは言えないものしか持たないならば、無意味である。

そのためには、擬似宗教でないならば、自明の構造を利用する方法がよい。

また、ちょっと寄り道するならば、曖昧という概念もそれなりに有効である。これはいつか使いたい概念である。

例えば、エイリアンにまんじゅうの概念を教えるなら、公理系から演繹的に定義するのは相当困難で、実際に美味いまんじゅうを食わせることがいいだろう。

子供も一種のエイリアンなので、美味いまんじゅうを食わせることで、帰納的に定義する方法がよい。

とにかく「〜とは?」とはなにか?について聞かれたら、まずは考える必要はある。

どういう答えを期待しているのかは心理学、社会学、倫理学、言語学、などなどの問題となる。

要するにジャンルはどうでもよく、現実化することが重要である。

また、類似のケースでは、「なぜ?」という問いもある。

これは、数学が発達した勝因で、「自明である」と言わない立場が有効だったという結論である。

しかし、全ての「なぜ?」が有意義な問いかどうかは疑問である。

無意味に、「〜とは?」とか、「なぜ?」とは問わない方がいい。

問うときには、答えについて、どういうアプローチを期待するか、ハッキリさせる必要がある。

それによって有効なカテゴリーが決まるので、重要である。

それをなんらかのハッキリした構造で表現するならば有意義である。

そのあたりは、まだ未解決の部分はある。

厳密な記号化の手続きである。

日本語はそれに向かないように思う。

いろんな条件があまりに「曖昧」すぎて、何を言いたいのか、よくわからないケースが多い。

最低論理構造と感情は分離する必要はある。

OKARA


おはようございます。

「概念」というものも、一応説明します。

(こんな説明がいるでしょうか??)

また、普遍性を持たすには、シンプルに考える方がいいのではと、漠然と考えます。

とりあえずは、「概念」とは「概念」である、という定義はいかがですか?

これは、プログラム言語で、オブジェクト指向のジャンルで言うと、「オブジェクトはオブジェクトである」というアイデアに結びついていて、生産性と可読性の両方をカバーできる利点があります。

必要以上に難しい定義をしてしまうと、自分でも訳のわからない状態になりがちです。

あとは、考えすぎずに、何らかの思想的古典を読むのはいいことでしょう。

古典なら、最低読者間ではアイデアのコミュニケーションは原理的に可能ですよね?

コミュニケーションとか、社会性も、思索には要ると思うのです。


OKARA
「構造・概念・システム」というものを、とりあえず可読的なものとするために、「記号化」するアイデアは発表しました。

前にも述べた、「汎用論理言語」というアイデアですね。

しかし、こういうもので、「生産性」を挙げることも目標にしています。

つまり、数学が物理のジャンルで生産性を挙げたようにです。

そんなに手持ちの知識はないのですが、充分に「概念・構造・システム」の実装ができるのは、パソコンの仕掛けがいいのではと思っています。

例えば、数的構造の実装では、「MATHEMATICA」の評判は高く、また、人工知能の分野では、「LISP」などは評判がいいです。

つまり、得手不得手があるようです。

とりあえは、要するに何でもいいようなのです。

例えば、音楽の構造なら、楽譜はいいシステムでしょう。

しかし、「概念」という「概念」を記述する場合、どういうアプローチがいいか迷います。

例えば、有名な例では、「オブジェクト指向」という方法論があります。

これも、一種の「ツリー構造」なのですが、「クラス」と「インスタンス化」と、「オブジェクト」の三つで、構造を記述します。

例えば、「概念」というのが、「クラス」だとして、そこから具体的な概念のいろいろは、「サブクラス」になり、具体例は「インスタンス」という訳です。

これは、「プログラミング」の技術ですが、プログラミングとは一種の「概念の具体化」なので、これはけっこういけるアプローチかもしれません。

また、実働例も、安価にあるのがいいところです。

ちょっと「MATHEMATICA」は高価ですからね。

また、ツリー構造を明確に記述するなら、やっぱり「LISP」は、「ずばりそのもの」なので、大変便利なのですが、ご覧になると判りますが、「括弧の洪水」という感じで、ちょっと可読性に難がある気もします。

これは、正直に言って、全く趣味の問題ですけれどね。

要するに、抽象的な論議を、実際に形にして、体験できることが重要なのです。

今、魅力に思っているのは、先ほどの「オブジェクト指向」の純粋な実装である、squeak smalltalk というものです。

でも、これじゃないと表せない構造というものもないです。

趣味といったのも、そういう意味です。

先ほどの例では、音楽の構造なら、楽譜のほうが、うまく表現ができます。

実際に、「楽譜製作ソフト」などでは、音も聴けるようになっています。

「フィナーレ」や「シベリウス」が有名です。

また、様々の図形構造なら、それに向いたものもあるでしょう。

また、アイデアスケッチのための専用のソフトもあるようですね。

こういう訳で、どういう実装でもいいので、具体化することが大切です。

曖昧な概念を曖昧なままで、自分しか判らないルールで、考え続けるのは、あんまりいいことではない気がします。

宗教のアイデアでも、社会性は重要で、普遍性と可読性は重要です。

対話性もです。

こんなで今は、実験をしています。

「概念・構造・システム」に興味があったら、なんらかの「実装」を考えてみてください。

「有効性」とか「生産性」という見地というのも、重要だと思います。

ただ、曖昧にしておく意義がないわけではありません。

曖昧なアイデアをうまく曖昧なままで使えたら大したものだとは思います。

一種の「直観」とはそういうものだと思います。


OKARA
とりあえず、道具が何でもいいから欲しい人のために、squeak をお薦めしておきます。

決して、ベストという意味ではなく、とりあえずの例です。

まだ、そういう用途にはあまり使われてはいないのですが。

そういう点は勘弁してください。

http://mixi.jp/view_community.pl?id=44730

OKARA
そうですね。

そう言われると「酔っぱらい」的発想という指摘を考える必要はあるでしょう。

最低、どういうコンテキストに置くと「酔っぱらい」なのかは考慮する必要があります。

そうしないと、発言が、生産性を持ちません。

しかし、そうなると「酔っぱらい」とは?

という定義の問題と、おそらく実際の「酒を呑む」経験からの示唆がいるでしょう。

参加された方は、これを熟考していただきたい。

これは、一個の円環で、事実から始めてもいいし、概念から始めてもいいわけです。

そして、その両者が、バラバラなものではなく、有機的な関係性を持つことが重要です。

たとえば、記号において、大変に抽象的な操作を行っても宜しいが、必ず具象に反映させることなしに抽象は「生産性」を持たない。

また、具体的な様々の事象を体験することで、いろいろの概念を豊かにできる。

そして、またそれを抽象化して、改めて考え直す。

そういう位置づけとして、「構造・概念・システム」という発想が生きるのです。

これは、根源的な汎用性を目指す、当コミュの位置づけから重要だと思います。

それは、一種の「哲学」といっても宜しいが、「いわゆる」哲学は、そういう機能をうまく担当していないようにも思われる。

「思想」というカテゴリの特殊性はそういうところから来ているようにも、とりあえずは思われる。

もちろん、哲学畑からの、有意義な発言も、沢山あります。

森有正氏の「経験と思想」という文章には、大変に、社会科学的な背景があるように思われる。

最低、熟読するとそういう結論が出せる面がある。

また、熟読に価する文章で、未完なのは残念です。

感情は大切であるが、特に否定的な感情は、どうも建設的ではないと観察される。

これは全ての感情の否定ではないですよ。

感情と観念の関係については、考えてゆきたいと思います。

なぜ、純粋の抽象操作の場で、「感情的水掛け論」が起きるかというと、「実装」がないからでしょう。

こういうハードルを越えることも「概念・構造・システム」コミュの課題です。

こういう観点に共感して頂けるとは楽観視しています。

こんなところで、いかがでしょうか?

お返事になっているといいです。

おから







ところで。

わたしは、コンピュータ歴はそこそこですが、ちゃんとしたのは、アップル�競廛薀垢痢屮戞璽轡奪�」だけで、「桃太郎のフローチャート」ならば、書いた経験があります。

いわゆる「コンピュータ・オタク」ですが、プログラミングはまずしません。

こういう文章を書く方が好きです。

文章上の智慧も、なくはないです。

こと、プログラミングについては、わたしは「アイデア鑑賞家」です。

たとえば、「FORTHの魅力について」ならば、言いたいこともなくはないです。

実際、FORTHは、鑑賞家には、とてつもなく面白い。

徹底してオープンな仕様です。入門書にそれが詳しく書いてある。

たとえば、レオ・ぶろでぃー(どうしてもカタカナに変換してくれません)さんの「「FORTH入門」です。

ただ、「あまりにもあけっぴろげ」で、まずいソースだと、ひどいことには、なりやすいことも知っています。

あっちこっちに、データ参照が手間取って、肝腎の作業が、なかなか捗らないので、困るのもたしかです。

能率は悪い。

ただ、Cで「ポインタ」がわからなかったらFORTHの構造を知るといいです。

すぐにわかるでしょう。

FORTHのいいところは、なんでもかんでもあけっぴろげなところです。

これは、実にすごいと思います。

FORTHで、FORTHを記述できます。

たぶん、「メタ・プログラミング」と、FORTHは、深い関係があります。

ところで、わたしの時代の問題は、「構造化プログラミング云々」でした。

ツウでしか知らないことですが、この「構造化プログラミング」を図にする「PAD」というのがあり、メジャーにならなかったのが不思議です。

これを、ずーっと引き伸ばすと、多分「オブジェクト指向」や「デザイン・パターン」になるかと思います。

アラン・ケイさんのすごいところです。

アラン・ケイさんのコミュにも書いてもいいですが、この人の偉いところは、表向き、「現実の比喩をプログラミングに採用した」ことのようです。

しかし、全く逆の発想ありです。

「プログラミングの発想で、現実を見る」これは、すごいアイデアです。

繰り返しですが、これは、現実世界の問題を、コンピュータでデバッグできるということです。

ただ、「アルゴリズム」とか「データ構造」などの、完全には判らない部分もあります。

こういう「現実をコンピュータ上で再構成して、デバッグする」ことができたら、大変にいいことと言えるでしょう。

こういうポジションも、またありです。

これが、コンピュータの「底力」で、「ノイマン型」の構造ならば、全部に応用できるはずです。

ここが、「限界」でもあるでしょう。

巷の「人口知能」よりも、重要な話題だと思います。

人工知能は、要するに「アルゴリズム問題」ですが、この「現実コンピュータ説」は、衝撃度でも、また、適用範囲でも、ずっと強い「知的革命」であるはずです。

これに共感する方が、おられたら、是非お話がしたいと願っています。

わたしは、「アマゾン」という「システム」の「バグ取り」を、本能的に試みている自分にある時点で、驚愕しました。

ここまで、「コンピュータ・オタク」の知性には、「アルゴリズムとデータ構造」が入り込んでいるものです。

いかがでしょうか?

データ構造に、一歩進んで「ふるまい」を付けると、立派な「プログラミング」になるかとおもいます。

ただ、こうなると実に厄介で、わたしの「不得意分野」です。

アルゴリズムを考え抜く、ある種の「才能」がわたしにはありません。

データ構造と、それの「ふるまい」は、要するに「オブジェクト指向プログラミング」になるかと考えます。

つまり、「特定の構造」に「特定のふるまいを与える」ことは、簡単にいうと「シュミレーション」ということになるかと思います。

であるから、このコミュは「なんでもシュミレーション」コミュと言い換えても、差し支えないとも言えます。
たとえば、「ロール・プレイング・ゲーム」はある種の「シュミレーション」ですし、「シムシティ」もまた、「シュミレーション」あり、「ポケモンGO」は、ただのシュミレーションではなく、実世界にも強く関係します。

「たまごっち」も記憶に新しいところです。

こういうものが、将来でるだろうと、高校生時代に思い、それに「プレイグラウンド」という名前を与えていました。

プログラムがその時点で、できなかったことは、残念ですし、インターネットもまだなく、8ビットのコンピュータでは、どうしようもなかったのも事実です。

これは、疑われても仕方の無い話しでもあります。

ただ、こういう方向性は「コンピュータの必然」であるとは思います。

つまり、なにか現実をを疑似的に実装することは、コンピュータの「本質論」とも関係しうると思います。
ところで、わたしのしていることが、「コンピュータにおけるシュミレーション」と「同一」かは、ちょこっと考えるべき筋合いの問題です。

たとえば、「古式剣術」のシステムを考えるとか、「旨い蕎麦」を鑑賞するとか、また酒や寿司の元々となる「プロセス」を考えたり、「いい女」について解析したり、といったこともわたしの「仕事」の重要部分で、おそらくこれはコンピュータ任せにはできないでしょうし、コンピュータに旨い寿司を食わせるよりも、自分で食うほうが、「適切なふるまい」だとは思います。
「いい女」においても、これは言えることです。

まだまだ、自分のしようとしていることの「ごく一部分」しか、どうもわたし自身にも判っていないようでもあります。

これは「パイオニア」の宿命ではあります。

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