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思想と哲学コミュの善のイデアとは?

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イデアとは何か難しそうに思えるが、イデアとは言葉の概念、意味と言うことである。

例えば「善とは何か?」とは善の意味とは何か?であり、善の意味とは善の本質の事であり、善の本質とは「これがあるから善であり、これが無ければ善とは言えないもの」である。あらゆる善と言われるものすべてに共通して絶対に内包しているもの「それ、本質」とは何か?、これはいわゆる善のイデアのことである。

善のイデアはあらゆる善と言えるものすべてに共通して絶対に内包しているものであるから絶対善と言える。つまり善とは何か?善の意味とは何か?と問うことは善のイデア、絶対善とは何か?と言うことである。つまり善と言うときにはそれは絶対善を示していることになる。

善い政治の意味とは、いい加減な政治を言うのではなく、絶対的に善い政治を意味するのである。
イデアは言葉の意味を言うのであるからイデアは言葉の数あることになる。そしてイデアは原始そこに在るものであり、私たちが理性で考えるものではなく発見するものである。

例えば犬とは何か? 犬の意味とは何か?誰か答えられるであろうか? あらゆる犬に共通して絶対に内包しているものが犬の意味である。セントバーナードからチワワまでこれがあるから犬と言われるもの、それを示すことが出来るであろうか? すべての犬と言われるものに絶対に内包しているものを見つけるのは困難を極めるのです。つまり私たちは犬の意味さえ本当は分かっていないのである。

しかし私はイデアの中のイデアと言われている善のイデアを発見したのである。善のイデアとは善の意味と言うことである。善の意味とは「みんなの為」と言う意味である。善い政治とはみんなの為になる政治である。善い行いとはみんなの為になる行いである。このように何の違和感もない。つまり善の意味とは「みんなの為になる」と言うことである。と言うことは上記に照らし合わせれば、善の意味、善のイデア、絶対善とは「みんなの為になること」が導かれるのである。皆さん、ソクラテスもプラトンも分からなかった絶対善がやっと解明されたと言うことである。いかが思いますか?

コメント(461)

>たとえば、ナチス・ドイツの標語であった「公共の福祉は個別利益に優先する」は、全体主義における全体の利益の優先を意味する。しかし、日本国憲法で規定された公共の福祉の観念はこの意味とはまったく異なり、あくまでも個人主義的な理念に立脚する観念である。<


このように独裁者に公共の福祉と言う言葉を利用されないためにはやはり絶対善が必要なのだ。全体の利益と個別の利益どちらを選択するのか?その絶対的な根拠が「みんなの為」だ。常に正しいのは「みんなの為」になる答えだ。だからね、国民みんなでどちらを選択するのか国民みんなで決めなければならないのだ。

ナチスがこれこそが公共の福祉だと決めてはならないのだよ。それは独裁だ。だから私は独裁国家では善の定義は機能しないと言っている。ナチスだけで決めるのではなく、本来は国民みんなで決めた事が「正しい」となるのだ。
日本でも消費増税は官僚の思惑で決まっている。これでは本当の民主主義とは言えないのだ。大事なことは最後には国民みんなで決めなければならないのだ。そして選択した結果が悪ければそれは国民みんなで責任をとらなければならないのだ。それが本当の民主主義だ。

正しいと責任、これこそが民主主義の要だ。勿論、代議士制であっても全責任は官僚や政治家たちがとりますと言うならばそれはそれでまともな民主主義だと言えるが、その責任を一切取らないのがバカ官僚やバカ政治家たちだ。だからね、正しいと責任こそがこの社会すべてにおいて必要なのだよ。権利と義務の一体とは正しいと責任とは一体と言うことなのだよ。一部の人たちがこれは正しいとしてやるのであれば必ずその全責任も取らなければならないのだ。責任をとりたくないならばやはり国民みんなで決めた事を正しいとしなければならない。そして国民が決めた事にはやはり国民がその責任を負わなければならないのだ。常に権利(正しいこと)と義務(責任)は一体なのだよ。
三平方の定理は直角三角形を、直角三角形は三平方の定理を、お互いに証明する/相互変換する関数に過ぎない。
私が言える立場ではないが、国語と数学はとてもだいじだから、やり直した方がいいと思います。
絶対性を規定しなければ、すべての論理が宙ぶらりんになることから、後付でイデアを構想せざるをえなかったshinwoodさんの心理状態について、お察しいたします。
働きアリの法則
働きアリのうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。
よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。
よく働いているアリ2割を間引くと、残りの8割の中の2割がよく働くアリになり、全体としてはまた2:6:2の分担になる。
よく働いているアリだけを集めても、一部がサボりはじめ、やはり2:6:2に分かれる。
サボっているアリだけを集めると、一部が働きだし、やはり2:6:2に分かれる。

蟻の二割は働かない蟻がいる。何故そのような法則、仕組みになっているのか? それはそれが蟻の群れが存続するために必要であり、適するからである。このように仲間の群れが生き残ること(種族保存)こそが正しい事であり、それに適う事もまたすべて正しい事なのである。

何故、私たちは群れ仲間の存続をしなければならないのか? それはいくら考えても分からない。それは理である。つまりそのようにあるもの、そのようにしか考えられないもの、なのである。種族保存、群れ仲間の保存こそは大自然の、大宇宙の、いわゆる神の意思であり法則なのだ。
その大自然の法則(種族保存)こそが絶対善であり、それを絶対善と言わずして私たちは何を絶対善と言うのだろうか。そしてその絶対善(種族保存)に適うことこそが常に「正しいこと」なのである。
私の言うところの「みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」つまり「みんなの安心・幸せの為、みんなの為」これこそが絶対善であり、これに適う、合致することはすべて「正しい」のである。

普段の生活においては「人を殺さないことは正しい事である」なぜならばそれが「みんなの為」になるからである。
非常時においては「人を殺すことが正しい事がある」なぜならばそれも「みんなの為」になるからである。人を殺すことも、人を殺さないことも条件によって「正しいこと」になるのだ。
ゆえに「人を殺すことは悪である」と決め付けてはならないのだ。問題の答えと言うのは必ず条件によって変わるのだ。問題の答えには「絶対」はないのだ。絶対であるのはその問題の根拠、理由、目的だけなのだ。絶対善である「みんなの為と言う目的」になる、適う、合致することこそが常に「正しい」と言われるのだ。
「みんな」とはその問題に関係している群れ仲間の人たちのことであり、その「みんなの為」になることこそが常に「正しい」のである。
私は自分の考えに絶対の自信がらうからもし私の言う絶対善が間違っていたら死んで御覧に入れよう。間違いであると証明されたら「絶対善は私の間違いでした、責任をとって死にます」と書いて死んでみせるよ。世間ではニュースになるから分かるだろう。

このように私は自分の考えに絶対の自信がある。それでは君たちは私が間違いであるとバカにしているがどのくらいの自信があってそういうのだい。君たちの命は要らないから「もし間違っていたらお前に全財産をくれてやる」と言える御仁はいるかい。

いいかい、私はよく言うだろう。この社会は正しいと責任で成り立っていると。これは正しいとは権利の事であり責任とは義務のことだ。常にこの社会においては権利と義務は一体のものなのだ。
君たちが自分は正しいと言うならばその責任はどう取るのか、はっきりとすべきなのだ。発言には常に責任が伴うのだ。
さあ、自分の考えが正しいと言うならばそれはどのくらいの自信があるのか。誰か言えるかい。私は命を懸けてもいいと言うのだよ。君たちはどのくらいの自信があるのか聞きたいものだ^^
>>[426]

ははは、君たちは責任を問われれば自信がないから黙るしかなくなるのだ。だって君たちが正しいと思うことなど何の確信も自信もないのだから。ただこう考えたと言う何の価値もない意見なのだからね。


三角形のイデア、本質は「内角の和が180度」であることは間違いない。
あらゆる形の三角形があるがそれらすべてにあるもの、内包しているのが「内角の和は180度」なのだ。これが三角形の本質だ。そして善のイデアは「みんなの為」で間違いはないのだよ。

すべての善いもの、正しいものは全て「みんなの為」になる、合致するものを言う。
人権が善いと言うときにはそれは「みんなの為」になる人権だからなのだ。
しかし人権も悪い時がある。それは公共の福祉(絶対善)に反するときは悪となる。悪であればそれは「みんなの為」にならない人権だからだ。
人を殺すのが正しくないのはそれが「みんなの為」にならないからである。
また人を殺すのが正しいのはそれは「みんなの為」になるからなのだ。

自由も人殺しもすべては条件によっては善にも悪にも変わる。全ての物は条件で変わるのだ。だから絶対はない。
すべての善い、正しいと言えるものはその根拠、目的は「みんなの為」であり、すべての悪い、正しくないものはその根拠、目的は「みんなの為に反する」からである。
全ての物は変わるが絶対に変わることなく善なるものこそが「みんなの安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事」つまり「みんなの為」だ。これだけは絶対に変わることなく善なのだ。一切の条件でも変化しないもの、それがイデアなのだ。
万物は流転する、しかし絶対に変わらないもの、それこそがイデアなのだ。
人は物質的であるが人のイデアは抽象的である。しかしそれは確実に存在しているものなのだ。
>>[430]

間違いというより「無意味」だと言っている。
命や財産を賭けるとかいう話もバカバカしいわけだけど、そもそも勝負やゲームや争いになっていないので、バカバカしい以前の問題なんだ。
>>[432]
絶対善が無意味? バカ者exclamation ×2 絶対善はソクラテスの時代からすべての哲学者たちが求めてきたものだ。そしてやっとその絶対善が分かったのだよ。

絶対善はこの社会を正しいものにしてくれると言うことが分からないのか? 絶対善を世界が知れば戦争はなくなり世界の平和に繋がると言うことが理解できないのかい。

絶対善とはあらゆる社会的問題において最も正しいであろう答えを導ける最高の方法でもあるのだ。何故人を殺してはならないのかの問題もすぐに答えは出せる。今までは絶対善が分からなかった為、下らん議論に無駄な時間を使わなければならないのだ。絶対善さえ分かればその目的に向かってみんなで歩いていけば一番正しいと思える答えに辿り着けるのだ。
絶対善とは「みんなの為」であり「私より公を優先すること」だ。何か問題が起きればまずは私欲を少し抑えて公(みんな)の為とみんなで考えることなのだよ。私たちの最高の目的は「みんなが安心して平穏に、そして幸せに暮らせる事、みんなの為」だ。それに合致する答こそが常に正しいと言えるのだ。

善のイデアとは「みんなの為」であり「みんなの為」があるから善、正しいと言えて「みんなの為」がないならば善、正しいとは言えないもの、なのだ。

だから善いもの、正しいものは全て「みんなの為」になる、適う、合致することなのだ。その自由が善い、と言うならそれは「みんなの為」になるからだ。その自由が悪い、と言うならば「みんなの為」に反するからなのだ。
その平等が善いと考えるのは「みんなの為」になる平等からだ。その平等が悪いと考えるのは「みんなの為」にならない平等だからだ。
常に善い、正しいは「みんなの為」に合致することなのだ。いい加減分かれよ!
>>[434]

説明になっていないという意味がわからないなら、誰にもその絶対善とやらを理解させることはできないですよ。
別に「みんなのため」を考えた取り組みなどを行うことそのものを否定しているわけではなく、むしろ肯定している。それが倫理と呼ばれるもの。だったら、それをみなが納得する形で示すことが必要になってくるわけだが、shinwoodさんはその証明に成功していない。
おそらくトピ主が語りたいのは、人生哲学や自己啓発の類なんでしょう。そう解釈せざるを得ないレベルの話でしかないかと思います。哲学や思想というよりポエムやエッセーみたいな物。

別にこのコミュではそういった発言の根拠に厳密な定義とかを求めておらず発言するのは自由ですのでお好きにどうぞ。ただ、反対の意見を言うもまた自由。
>>[437]

>だったら、それをみなが納得する形で示すことが必要になってくるわけだが、shinwoodさんはその証明に成功していない。

私は論理的に絶対善を示しているがあなた達がまだ理解できないだけだ。人のせいにするではない。まず私が間違っていると言うあなたの私欲を捨てなさい。そうすれば見えてくるであろう。

>おそらくトピ主が語りたいのは、人生哲学や自己啓発の類なんでしょう。そう解釈せざるを得ないレベルの話でしかないかと思います。哲学や思想というよりポエムやエッセーみたいな物。

私が見つけたのは善とは何か? 絶対善とは何か?だ。ソクラテスやプラトンがどんなに探しても見つけられなかった善のイデア(絶対善)だ。これを知ることこそ哲学の王道なのだ。
絶対善とは「みんなの安心・幸せの為」つまり「みんなの為」と言う目的であり、これに適う、合致する事がすべて善、善い、正しい事なのだよ。

絶対善が分かればあらゆる社会的な問題の正しい答えの明かりが見えるのだ。何故人を殺してはならないのかと延々と議論されていたがその答えがすぐに分かる。死刑は正しいのかどうかの問題の答えも時を置かずにに分かるようになる。絶対善とは優れものなのだよ。
>>[438]

文章の論理というより、理論そのものの問題点を説いているわけなんだけど、あなたがバカだから気がつかないだけです。お手上げです。がんばってください。
理性そのものを信用していないのが現代哲学ですんで、そもそもその辺の前提を形式的にというか頭で理解した上で発言してくれないと、そもそも私の興味の範疇から漏れてしまいます。

現代哲学でなくとも思想として、せめて古典文学的な面白さがあるといいなと思いますが、そう言ったウィットを微塵も感じられません。
shinwoodの思想を理解した、あなたが「同志」と呼べる人をリアルで5人集めてよ。そしたら5万円払ってやるよ。5人で「絶対善!」って叫んでいる異様な様を見るのに5万円くらいは払う価値は、、全くないけどご祝儀(?)って事で。

エキストラじゃだめだ。本気で絶対善のイデアを確信していて「絶対善のためなら死ねる!」と言える人間を集めよ。洗脳で構わないから、そういうメンバーを見つけなよ。話はそれからだ。
絶対善のイデアじゃなくて、善のイデア=絶対善だったっけ…というか、すごいどうでもいい(汗)
私達が善のイデアを理解できないバカである…というのは分かった。

じゃあ、善のイデアが分かるバカじゃない頭がいい賢い人はこの世のどこにいるの?

まさか、shinwoodさんだけじゃないですよねえ。

…この世に善のイデアが分かる賢い人が「shinwoodさんしかいなかった」となったら、びっくりだ。

どうやらこの世に本当に賢い人は自分しかいないようだ…ってなるんかいな。
わたしは自分について「何の?という部分がわかってないだけで、わたしは絶対に何かの天才だ!」と高校生くらいまで確信していたのだけど、あれの「なんの天才か僕わかっちゃった!」バージョンってことか。重症だなぁ。
自分だけが見えた神様に善のイデアと名付けた。

それは絶対にいたんだよと言われましても…
そもそも、こちらの発言の意図を理解しての反論ならともかく、分かっていないらしいから疲れて反論する人が消える(苦笑)
あなた達はプラトンの言う事なら信じるでしょう。ではそのプラトンの言葉を解説してみましょう・

プラトンは善とは「万物が自己の目標としてもっている元のもの、それによって何を選択すべきか決定する元のもの」と書いています。

万物とは目標を持っているのですから、あらゆる生物と言う事でしょう。そのあらゆる生物たちが目標とするものが善と言うことです。それによって・・・とは「あらゆる生物たちが目標とするものによって」何を選択すべきかを決定するものが善である、と書いているのです。

あらゆる生物が自己の目標とするものこそが「種族保存」であり、その種族保存によって何が善いか選択することが善だと言っているのです。

プラトンは「万物が自己の目標としてもっている元のもの」を示すことが出来ませんでしたが、私はそれを種族保存であり、それは「みんなが安心してそして幸せにくらせる事」と見つけたのです。
あらゆる生物たちが自分たちの目標、目的とするのが「安心・幸せ」なのです。それこそが一番群れ仲間が存続できる状態なのです。

私たちは「みんなが安心してそして幸せにくらせる事」つまり「みんなの為」を根拠、目的として何が善いかを選択するのです。
ですから私が言うように絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致することが常に「善い、正しい」と選択するのです。
私の言っていることはプラトンの言っている善と何ら変わりはないのです。私はプラトンの言う「万物が自己の目標としてもっている元のもの」を見つけただけなのです。
>>[448]

だれが「私はプラトンの言う事なら信じます」って言っているんだ?

前提からコケている。
>>[448]

その徹底した他者理解の無さは、いったいどこから生まれたの?どこからきたの?
倫理学的な歴史の観点から言えば、古代ギリシャのフィロソフィアが考えたことと、種の保存は関連付けられるということは関連づけされるものかもしれないが、それを「善のイデア」を私だけが見つけたというのがイタいです。
イデアは、

真実の現実(?) のようなものがあるのだろうという空想と、あるのならそれを知りたいという、
人間の知的欲望の泉から湧き出た架空の理想現実なのであろう。
そして、善悪や美醜やしあわせや平和といった
抽象概念にまで外延を広げて「イデア」を求めるとすれば、その“現実性” が問題となってくる。

真実の現実としての善。架空の理想現実としての善。それはいったい何だろうか?
という問いに書き換えて考えてみようと思う。
>>[453]

あんた、イデアと言うものが分かっていないのだよ。何度も言うようにイデアとはその言葉の本質、言葉の意味なのだ。だから言葉に数だけイデアはあるのだ。
「それ」があるから善と言えて「それ」がないならば善とは言えないもの、だ。あらゆる善と言うものに共通してあるもの、それが善のイデアだ。

分かり易いのは三角形のイデアだ。三角形のイデア、本質、意味とは「内角の和が180度」を言う。これはあらゆる、すべての三角形に共通してあるものだ。
犬と言う言葉があればあらゆる犬と言われるものに共通して存在するもの、内包しているものが犬のイデア、絶対犬だ。これはまだ見つかっていない。

善のイデアは私が見つけた「みんなの為」だ。これが絶対善だ。
その人権が「みんなの為」であればその人権は正しい。
その平等が「みんなの為」であればその平等は正しい。
その差別が「みんなの為」であればそれは正当な差別であり正しいのだ。

このようにあらゆる善いものは全て「みんなの為」になる、合致することを言う。つまり絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致することを「善、正しい」と言う。そして「みんなの為に反すること」を正しくないと言うのだ。これは真実、事実なのだ。何の矛盾もない。
私の言う絶対善である「みんなの為」を理解するためにはやはりイデアについてよく理解しなければならない。イデアとは言葉の意味と言うことだ。善と言えば何か善いものと言う感じがある、その感じるもの、概念、イデアを他の言葉で分かり易く示すことを「善を定義する」と言う。私は善を「みんなの為」と定義したのだ。だから善い政治とは「みんなの為」になる政治となる。善と言う言葉を「みんなの為」に変えても何の違和感もない。これはその定義が正しい事を示しているのだ。

そして分かり易いのが数学の定義だ。みんなが知っているのが三角形の定義だ。これは三角形のイデアを示している。三角形と言う言葉の意味を示しているのが三角形の定義だ。三角形の定義、イデアとは「内角の和が180度」と言うことだ。つまり三角形の意味とは「内角の和が180度」と言うことなのだ。いろんな形の三角形があるがそれらすべての三角形に共通して内包しているもの、それが三角形のイデアであり「内角の和が180度」と言うことなのだ。つまり「内角の和が180度」であるものがすべて三角形と言われるものだ。そしてその「内角の和が180度」と言うのは三角形だけにしかなく他の対する角形には絶対に無いもの、絶えているものであるから絶対と言えるのだ。

三角形とは「内角の和が180度」であるもの、内包しているものをすべて三角形と言う。これと同じで善とは「みんなの為」があるもの、内包しているものをすべて善、正しいと言うのだ。

>>[455]

>三角形とは「内角の和が180度」であるもの、内包しているものをすべて三角形と言う。

確かにそうなのですが・・・・それって「三角形の定義」ともいいませんか?
つまり、「善のイデア」とはちょっとずれていると思うんですよ!
そして「絶対善=みんなの為」も理解できますがこのみんなとは具体的に誰なのか?をあなたは定義していないのですよ!
さらに「みんなの為」の具体的な部分がころころ変わってしまうんですね!
ならば結局みんなの為=多数決ってことをあなたはただ回りくどくいっているだけのように私は感じるのですがその辺はいかがですか?

あっ、あとあなたは「のぶりんはバカだ」といいましたね(笑)
あなたが言うんだからそうなんでしょう!
そこで「のぶりんはバカ」のイデアを示してもらえませんか(笑)?
お願いします!

>>[456]
三角形の定義=三角形のイデア=内角の和が180度
内角の和が180度であるものをすべて三角形と言う。あらゆる三角形には「内角の和が180度」が内包している。

善のイデアを分かり易く説明することを善を定義する、と言う。善のイデアは絶対善=「みんなの為」 
そして善い、正しいとは選択すべき問題と関係している。ゆえに「みんな」とはその問題に関係している人たちを指す。みんなとは問題により変化する。家族の問題であればみんなとは家族みんなだ。国の問題なら国民みんなだ。いいかい、善、正しいとは選択すべき問題と密接な関係があるのだ。みんなとはその問題により変わるのが当たり目なのだ。

>そこで「のぶりんはバカ」のイデアを示してもらえませんか(笑)?
お願いします!

あんたはイデアの意味を分かっていない。イデアとは言葉の本質だ。のぶりんのイデア、馬鹿と言う言葉のイデアならあるのだ。しかしそんなものを考えている暇はない。そんなものより美のイデア、人のイデアなど考えなければならないイデアが多くあるのだよ。
>>[457]

>あらゆる三角形には「内角の和が180度」が内包している。

だからそれは「三角形の定義」ではないのですか?
と聞いているのです

>国の問題なら国民みんなだ。

日本だと一億人いるんですよ(笑)
そしてあなたも私も同じ国民ですよね?
私とあなたとだけでも合っていないと思うんですよ!

>のぶりんのイデア、馬鹿と言う言葉のイデアならあるのだ。しかしそんなものを考えている暇はない。

だってあなたは
「のぶりんはバカだ」と言いましたよね?
考える暇もなく適当に言ったのですか(笑)?
つまりはいいかげんなことをいったわけですね?
>>[457]

再掲
結局みんなの為=多数決ってことをあなたはただ回りくどくいっているだけのように私は感じるのですがその辺はいかがですか?
>>[459]

善を検索すれば(道徳的に)正しい事、またはそのような行為、と書いてある。それでは絶対善となれば絶対的に正しい事と絶対的に正しい行為があることになる。そして絶対的に正しい事は「みんなの安心幸せの為」であり絶対的に正しい行為は「私より公(みんな)を優先する行為」だ。そして「みんなの安心幸せの為」と「私より公(みんな)を優先する行為」に共通するのが「みんなの為」だ。ゆえに絶対善は「みんなの為」と言えるのだ。

あらゆる社会的問題において絶対善である「みんなの為」になる、適う、合致することがすべて正しい答えと言える。その答えが道理的な答えであればそれは普遍的に正しい答えと言えるし、道理的な答えが出ないならば最終的には多数決で決めるしかない。この社会はみんなが決めた事が「正しい」とするのが原則だ。しかし多数決をするにしても「私より公を優先する行為」つまり「私欲を抑えて国民の為」とみんなで考えた末の多数決でなければならないのだ。

ただの多数決ではないぞ。国民が絶対善が分かったうえでの多数決だ。だからね最もただしい答えを出したければ国民がまず絶対善を知ることが必要なのだ。
>>[460]

では絶対善は多数決で決まるということでいいですか?

そして
再掲
あなたは
「のぶりんはバカだ」と言いましたよね?
考える暇もなく適当に言ったのですか(笑)?
つまりはいいかげんなことをいったわけですね?

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